第5話 領都ヴァルシュタット②
夜が明け、アルトゥール公たちは負傷兵を乗せてきた馬車をそのまま彼らとともに宿場町リテスハイムに預け、代わりの荷馬車を借りて領都ヴァルシュタットへ向け出発した。
荷馬車に乗り込んだのは、昨夜あまり眠れなかったようでうつらうつらと舟を漕ぐイングリットと、血と泥で汚れた護衛兵の鎧を着込み、フードを目深に被ったアルトゥール公と光玄のみ。
そして、一体いつ休んでいるのか、早朝光玄が宿から出てきたときにも昨夜と変わらぬ様子で見回りを続けていたテオドールは、そのまま荷馬車の御者を務めた。
ガタゴトと騒がしい音を立て、街道を進む荷馬車。
その荷台で揺らされるイングリットは夢うつつ、今回の旅の目的でもあった――
王妃ルクレツィア主催の、アウレール王子と自分との婚約披露パーティの日のことを夢で見ていた。
◆
グラントリア王国の王都グラントローネ。
その王城の煌びやかなパーティ会場。
公爵令嬢イングリットとアウレール王子の婚約披露パーティ。
主役のはずのイングリットには、誰一人話しかけてこず、彼女は壁の花となっていた。
もう一人の主役であるアウレール王子には皆が慰めの言葉をかけ、彼は気丈に笑みを返す。
きらめくさらさらな金の髪、鮮やかな碧の瞳。はっきりした顔立ちにすらりと長い手足。
物語の王子様をそのまま具現化したような美しい少年。
しかしながら彼の様子は、まるで望まぬ婚約に苦しめられる哀れな悲劇の主人公のようだった。
実際、悲劇の主人公と言えなくもない。
――王妃ルクレツィアは、息子に興味がない。
社交界ではもうすっかり定着した噂で、それは箱入りのイングリットの耳にも届くほどであった。
アウレール王子はその噂を払拭しようと、そして母の気を引こうと無理をして失敗を繰り返し、ますます失望される――その悪循環。
ついには母のいる後宮への出入りまでも、男子禁制を理由に逐一許可を求められるようになったという。
そのせいで最近のアウレール王子はだいぶ荒れており、素行不良が目立つという。
今回のパーティだって、王妃は自らの名義で主催した息子の婚約披露パーティだというのに、多忙を理由に参加していない。
結局、王家の代理として宰相が参加し、必死に愛想を振りまいてどうにか王家としての面目を保っている始末であった。
いかに多忙とはいえ、さすがに息子の婚約披露パーティにまで顔を出さないのは行き過ぎている。
極まった母親の無関心。
それがアウレール王子には甚だしく腹に据えかねたようであった。
母への意趣返しのつもりだったのか、それとも母の気を引くため婚約者らしく振る舞いたかったのか。
パーティ会場の片隅で小さくなっていたイングリットを見つけたアウレール王子は、ダンスに誘う態で彼女を会場の中央に連れていき、大声で宣言した。
「貴き令嬢には皆、相応しき異名を贈られるのが通例! しかし、我が未来の妻にはまだそれがないと言うではないか!」
イングリットは悪い予感しかしなかった。
(やめて――)
「ここは、彼女の婚約者であるこのアウレール王子が手ずから最も相応しい異名をつけてあげよう!」
一斉に自分に注がれる悪意と嫌悪に満ちた視線。
イングリットは身が竦み、拒絶の言葉は出なかった。
アウレール王子は、更に小さくなるイングリットの黒髪を一房、無遠慮に摘まみ上げ――
「この混じり気のない黒! 何もかも飲み込む黒! まるで濡れ烏!
そう、彼女には――『濡れ烏の君』という名が相応しいと思う!!」
カラス。その全身に漆黒の羽を纏い、腐肉を食い漁る、この世で最も卑しい獣。
考え得る限りの、最大最悪の侮辱。
いかに忌み子とはいえ、婚約者に対してあまりに直接的で下品な侮辱。
さすがの王子寄りの貴族らでもこれには同調できず、パーティ会場は冷や水をかけられたような沈黙に包まれた。
王子の側に控えていた側近らしき小柄な少年が俄かに焦りだした。
藍色の髪に眼鏡をかけた、理知的な光を湛える金色の瞳を持つ、ともすれば女の子にも見える中性的な印象の彼は顔を青くして苦言を呈した。
「殿下、今のはさすがに……」
「なんだ、チェーリオ。我が未来の妻の美しさを表す、これ以上なくぴったりな異名ではないか」
驚いたことに、アウレール王子の表情に悪意などは微塵も見られなかった。本当に相応しい異名をつけてやったと言わんばかりの、自信あふれる表情。
アウレール王子の側近にして幼馴染のチェーリオは更に青ざめて周りの様子を窺った。
「ま、まだ遅くはありません、すぐに発言の撤回を――」
明らかに畏れの見えるチェーリオの反応。だが、時すでに遅し。
アウレール王子は失念していたのだ。このパーティ会場にイングリットの最大の庇護者も同行していたことを。
「おのれッ! 小僧!! 婚約者に対し、言うに事欠いて濡れ烏などと!!
次代の王たる自覚はないのかッ!!」
雷鳴のような怒声と共に、イングリットの最大の庇護者――アルトゥール公はアウレール王子を押しのけてイングリットを引き離した。
乱暴なアルトゥール公の振る舞いにアウレール王子は負けじと吠える。
「貴様! アルトゥール! 王子たる私に小僧などと! 王家を侮辱するか!」
「侮辱!? 侮辱だと! 貴様がついさっきなんと口にしたかもう一度思い返すがいい! 貴様が王子でなければ、今この場で斬り殺しておるわ!!」
濃密な殺気。アルトゥール公は本気だった。その覇気に対抗するにはアウレール王子はまだ未熟すぎる。
気圧され、後ずさるもアウレール王子は王家の権威に頼った。
「い、今のは王家に対し叛意あると見ていいのだな!? 貴様、王家を敵に回してただで済むと思うなよ! 覚悟しておけ!」
「――覚悟すべきは貴様の方だろう。ルクレツィア妃陛下がこの始末を知ったら……怒られる程度で済めば幸いだな?」
王妃の名を出された途端、アウレール王子は青ざめ、周りの様子をみた。
もはやパーティどころではない。諍いに巻き込まれまいと早々に場を辞する貴族らの姿もちらほら見えた。
アウレール王子はどうやら今更己のやらかした事の重大性に気が付いたようだった。
欠席はしたものの、今回のパーティは王妃主催のもの。
それを台無しにするような発言をしたのはアウレール王子の方だ。
王妃の顔に泥を塗ったも同然なのだ。
王子の側近チェーリオがアルトゥール公の前に膝をつき、首を垂れた。
「公、アルトゥール公! 何卒お許しを! 殿下も悪意あってのことではございません! 非があるとすれば、お諫めできなかったぼくにございます!」
烈火のごとく激怒していたアルトゥール公は、必死に懇願するまだ年若い少年を同情混じりの目で見下ろし、やがて平静を取り戻した。
「――ふん、よい友を持ったものだ。チェーリオと言ったか。お主に免じてこれまでにしておこう」
「ありがとうございます!」
アルトゥール公はチェーリオ少年の手を取って引き起こし、その肩を労うようにポンと叩くと、そのまま背を向けてイングリットと共にパーティ会場をあとにした。
その背中に向かってアウレール王子が喚いた。
「待て、貴様! どこへ行く!」
「――もうパーティどころではあるまい。今日の一件は妃陛下宛に正式に抗議させて頂く」
「なっ、は、母上は関係ないだろう!」
なおも喚くアウレール王子。だが、アルトゥール公はそれ以上話すべきことはないとばかりに、小さくなり震えるイングリットの手を引いてパーティ会場を後にした。
帰りの馬車に乗せられたその後のイングリットの記憶は曖昧――
◆
ドンッ
下から強い衝撃が突き上がってきた。その衝撃と共に眠気が吹き飛び、イングリットの意識が覚醒する。
粗末な作りの荷馬車は揺れが酷く、小石一つ踏んだだけでも車体は大きく揺れる。
クッションのない、木の板でできた座席に強かにお尻を打ったイングリットは顔をしかめた。
「っ……」
それでも、決して声をあげず、飲み込む。父アルトゥール公が大変な今、余計な気を使わせたくなかったからだ。
彼女の隣に座っていた光玄はそれに気が付いたのか、目深にかぶったフードの下から覗く黒い瞳をチラリとイングリットに向けたが、すぐに視線を街道脇に広がる民家と農民たちへ向けた。
なんの変哲もない、長閑な農村風景。
何がそんなに物珍しいのか、彼は何やら呟きながら周りの風景に夢中になっている。
荷馬車が進み、領都に近づくに連れ移り変わる風景を光玄は楽しんでいる様であった。
いよいよ向こうにそびえ立つ、石造りの城壁がその姿を薄っすらと現したその時、荷馬車がひときわ大きな石を踏み、大きく弾んだ。
しっかり鍛えられた男たちはまるで座席に根を張ったように微動だにしなかったが、華奢なイングリットはその衝撃に短く悲鳴をあげ、わずかに宙に浮かんだ。
「きゃあ」
浮遊感。続いて、重力で内臓が引っ張られるような不快感。
そして迫る堅い座席。
来るべき衝撃と痛みに備え、イングリットは目を閉じ身構えた。
しかし、衝撃に備えていた彼女の身体は何かに引き寄せられ、そっと柔らかく受け止められた。
「あ、あれ……
――っ!!」
彼女の隣で周りの風景に夢中になっていたはずの光玄が手を伸ばし、彼女の細い体を抱き寄せ衝撃を殺したのであった。
当然、イングリットは光玄の腕の中にすっぽり収まった形となっているわけで。
「いんぐりっと殿、大事ありませぬか」
低く、柔らかい男の声が耳朶を打つ。
「あ、えっ」
イングリットは驚きのあまり、返事の代わりに言葉になっていない声を漏らした。
自分と背丈の変わらぬ、細身の男と思っていた光玄の体に触れ、その鍛え上げられた頑強な体の硬さに心底驚いていたのである。
そして、男らしい力強い腕。なのに、その指先は女性のそれのように繊細。
どっどっどっどっ
イングリットは心臓が高鳴り、顔に熱がこもるのを感じた。そして、ふと視線を感じそちらを向くと――
いたずらっぽい笑みを浮かべる父アルトゥール公と目がばっちりと合った。
脱兎。
一瞬にして光玄の腕の中から抜け出し、座席の端にまで飛びのいたイングリットは耳まで顔を真っ赤に染め、その長い黒髪をいじりながら、父アルトゥール公を睨みつけるのだった。
その姿は、侮蔑されてきた忌み子でもなければ、高貴な公爵令嬢でもなく、ごく普通の年頃の女の子にしか見えなかった。
◆◇◆
荷馬車はグランスタイン領都、城塞都市ヴァルシュタットへ到着した。
無骨な石の山。
それが光玄が抱いた、この街の第一印象だった。
山の上に築城されたヴァルシュタットは、無駄な飾りなどなく、ただひたすら防衛力・機能性のみを追求した石造りの城塞都市だった。
はるか高くを仰ぎ見なければならぬほど高くそびえ立つ城壁。その外門へ辿り着いた一行はどこか落ち着きなくピリピリした様子の衛兵たちに出迎えられた。
その衛兵の一人が御者を務めるテオドールの姿を目に留めると、焦った様子ですぐさま駆け寄った。
「テオドール隊長! テオドール隊長じゃありませんかッ!」
どうやら知己であるようで、テオドールは頷くと重々しく口を開いた。
「ああ、報せは届いているか?」
「――ハッ。あの報せは本当でありますか?」
アルトゥール公死す――
その報せを聞いた衛兵たちは厳戒態勢を取っていたのだろう。
早朝、報せを受け取ってから未だ混乱が抜けきっていない様子だ。
それに反して、城門の奥に見えた領民たちに混乱は見られず、平穏な様子だった。
「ああ、無念ながら。ところで、城内は落ち着いているようだが、この件はまだ領民には伝わっていないのか?」
「ディートハルト様より、伏せているようにと。屋敷内にも執事長殿を除けばまだ。ところで、荷台のお方は……」
視線を荷台に移し、顔を伏せたイングリットの姿を見た衛兵の表情に苦々しいものが滲む。
まるで、「何故お前なんかが無事で、アルトゥール公が亡くなったんだ」と言いたげだった。
その視線に気付き、怒りが込みあがってきたテオドールだったが、それを飲み込み事前にアルトゥール公と打ち合わせした通りの偽りの被害状況を伝える。
「――リテスハイム近辺の森にて、魔物の襲撃に遭った。生存者は俺とお嬢様。そして一緒に乗ってきた、そこの護衛兵二名のみ。無念ながらアルトゥール公のご遺体は回収できなかった。
――すまないが、屋敷に先ぶれを頼む」
「ハッ、ただちに!」
命令を受け、衛兵は即座に繋がれていた馬に飛び乗って山頂――グランスタイン家の屋敷へ走り去った。
その後に続き一行を乗せた荷馬車はゆっくりと動き出し、屋敷へ向かう。
アルトゥール公は鋭い視線をその屋敷へ向けた。
嫡男ディートハルトの素早い対応。
代官が命令に忠実に従ったのならアルトゥール公の死の報せが届いたのはついさっきのはずだ。
にもかかわらず、領民や屋敷内に徹底的に情報封鎖を行い、平穏を維持している。
あとで上手いこと事故死や病死などに取り繕って衝撃を抑えるつもりなのか。
アルトゥール公が死ぬと『分かって』いなければ取れない、完璧な対応だ。だが、これで逆にアルトゥール公は確信に近い手ごたえを感じてしまった。
「くくっ、ディートハルトめ。対応する間など与えんつもりだったが。
――やはり、貴様だったか。してやられたわ」
最後の方の言葉には、拭えぬ息子への愛情と悲しみが滲み出ていた。
しかし、ふんっと鼻を鳴らしアルトゥール公はそれを誤魔化した。
山頂へゆっくりと向かう荷馬車。
民家は全体的に落ち着いた色合いで統一されており、朝を迎え生業に従事する領民の服装もまた、同じように素朴かつ機能を重視したものばかりだった。
荷台のイングリットの姿を見た領民たちはすぐさま目を背け、そそくさと去っていく。
まるで、朝っぱらから縁起の悪いものを目にしたと言わんばかりに。
伏し目がちのイングリットの顔にさらに深い影が落ち、身体はより小さく丸まった。
周りの視線から身を守るように。
そんな愛娘を見つめるアルトゥール公は表情こそ変えなかったが、公爵の身でありながらも変えようのない人々のイングリットへの偏見と侮蔑を目の当たりにし、その瞳は揺れていた。
権力を振りかざし、娘に対して侮蔑的な態度を取る輩を罰するのは簡単だ。
だが、アルトゥール公は一人の父親である以前に、広大なグランスタイン領の民の命と財産を守る義務がある身である。
それを娘可愛さで傷つけることなど、アルトゥール公自身の矜持が許さない。
顔に濃い影を落とし丸まる愛娘の姿を、改めて見つめる。
アルトゥール公は経験から知っている。こんな時、余計な慰めの言葉が娘をより深く傷つけることを。
故に何も言わず、見つめるだけだった。
そんな時――
「いやはや、あたり一面石畳とは! いんぐりっと殿! まこと、天晴れにございますな!」
相も変わらず周りの景色を眺めていた光玄が突然、隣のイングリットに話を振った。
「えっ?あっ、は、はい。我がグランスタイン領では良質な石材が多く取れまして……その恩恵あってのこと、です」
「おお、それは素晴らしきことかと存じまする!
――むむ?あそこに見えるは、御殿ですかな?」
光玄が遠く山頂を指さした先には、街全体と変わらぬ落ち着いた色合いの――
華美さはないが、どこか力強さを感じさせるグランスタイン公爵家の屋敷が見えていた。
「ゴテン……? あっ、お屋敷のことですね。はい、あれが我がグランスタイン家のお屋敷です」
光玄に釣られるように身を起こして荷馬車から乗り出し、屋敷を見つめるイングリット。
その丸まっていた背中は、本人も気づかぬうちに真っすぐ伸び、その顔は光玄が指さす先を真っすぐ見据えていた。
(ミツハル、こやつめ……
これを自然体でやっているとしたら大したものだ)
アルトゥール公は思わず苦笑いを浮かべてしまった。
長年娘を見てきた父親である自分にできなかったことを、突然現れたこの黒ずくめの男はいとも簡単にやってのける。
父親としての敗北感とわずかな嫉妬心が浮かびあがるも、それらは次の瞬間には掻き消え、代わりに愉快な気持ちがアルトゥール公の胸中に広がる。
「ははっ、では、イングリット。着いたら彼に屋敷を案内してはどうかな?」
「え、ええっ?わ、わたしがですか?」
「ああ、もちろん疲れているならメイドたちに頼んでもいいぞ」
イングリットは、また落ち着かぬ様子で髪の毛をいじりながら横目で光玄をちらちらと見ては、しばし思案し――
「いっ、いいえ、わたしがミツハル様のご案内をいたします」
「うむ、頼むぞ」
そんなやり取りをしている内にやがて荷馬車は屋敷へ到着した。
視界いっぱいに広がる庭園の奥には力強い輪郭を描く本邸がどっしりと構えている。
その庭園の入り口には、衛兵からの先ぶれを受けた屋敷の私兵たちが出迎えていた。
そして、それらを率いる一人の若者が荷馬車を見て駆け寄る。
銀髪碧眼。鋭く意志の強そうな眼差し。整った顔立ちは生来の性格からか、眉間にしわが寄り、神経質そうに見える。
しっかり鍛え上げられていることが一目で判る、力強い足運び。
アルトゥール公の若き頃が容易に想像できる、瓜二つのその姿。
彼こそがグランスタイン家の嫡男、ディートハルト・グランスタインその人であった。
今年二十四歳。結婚適齢期は過ぎているが未だ未婚だ。
忌み子とされ、社交界で敬遠される妹イングリットを受け入れ、真に家族になってくれる令嬢こそを伴侶として迎え入れる。
それが、彼が結婚相手に提示した最優先条件であった。しかしながら、それに応じる令嬢など皆無だった。
上手く取り繕おうとした者も中にはいたが、黒髪黒目への嫌悪感を隠し通すことはできず、誰一人婚約まで漕ぎつけなかったのである。
そのこだわりのせいで未だ彼は公爵家嫡男でありながら独り身だ。
当主であるアルトゥール公としては憂慮すべきことだったが、娘馬鹿であるアルトゥール公はこの点においては全面的に息子の意見に賛同したのであった。
もっとも、この二人の行き過ぎた愛情のせいでディートハルトを恋慕する社交界のご令嬢たちにイングリットは蛇蝎の如く嫌われ、ますます社交界で孤立していったのだが。
そんな、父親に負けず劣らず妹を溺愛するディートハルトは、荷台にちょこんと座るイングリットの姿を見て、心底安堵したようにその神経質な表情を緩め、彼女へ向け両手を伸ばした。
「ああ、イングリット! よく無事で! さぁ、兄さんにその顔をよく見せてくれ!」
イングリットがおずおずと身を起こそうとした瞬間――
両手を伸ばしたディートハルトの前に、イングリットと同乗していた負傷兵の一人が降り立ち、立ちふさがった。
「――? なんだ、貴様は。そこを――」
その負傷兵がゆっくりと、顔を隠していたフードを取ると――ディートハルトは、公爵家嫡男らしからぬ悲鳴を上げた。
「う、うわぁっ!?」
そこに立っていたのは、死んだはずの当主、アルトゥール公だったのである。
「――どうした、まるで幽霊でも見たような反応ではないか」
「ち、父上が何故!?」
混乱の極みに陥ったディートハルトは、目の前に立つアルトゥール公の圧に耐えきれず、思わず後ずさった。
「何故も何も、我が家に帰ってきただけだが?」
と、アルトゥール公は肩をすくめて見せた。
「し、しかし今朝方の代官からの報告では……! それに、先ぶれの報でもお亡くなりになったと……!」
先ぶれの衛兵を睨みつけるディートハルト。
哀れ、何も知らぬ衛兵は顔を真っ青にし、偽報を伝えたテオドールに助けを求めるような目を向け震えるのみ。
当のテオドールはふんと鼻を鳴らすと、涼し気な顔でそれを受け流した。先ほどのイングリットに対する不躾な視線への意趣返しなのだろう。
アルトゥール公は未だ混乱の坩堝に陥っている息子を煽るように、わざとらしくおどけて見せる。
「いやはや、大変だったぞ。クリッキング・ソーに襲われた上に、暗殺者共にまで命を狙われたのだ。儂自身、よく生きているものだと驚いているぞ。
――連中を倒せていなければ、間違いなく死んでおったわ」
「な、何ッ!? あ、あり得ない!!」
相次ぐ想定外の事態による動揺が、ディートハルトから正常な思考能力を奪ったのか。
彼は言ってはならない言葉を口にしてしまった。静寂が一瞬場を支配し、皆の視線がディートハルトに集まる。
アルトゥール公は目を細め、狼狽える息子の目をじっと見つめた。
「ほう? ――『あり得ない』か。ここは、父親の無事での生還を喜ぶべきではないのか、ディートハルトよ」
明らかなディートハルトの失言。
この反応から、アルトゥール公は実の息子が暗殺の教唆犯であることに、確信を得てしまった。
「あっ、いえ、決してそのようなことは……私もすっかり気が動転しておりまして。それにしても、あのクリッキング・ソーに狙われて、よくご無事で……」
遅れて己の失言に気づいたディートハルトは、顔を引きつらせながら必死に取り繕った。
そんな彼を静かに眺めていたアルトゥール公は、一拍置いてから手を叩き、その場の注目を自らに集めた。
「さぁ、彼こそが恐ろしい魔物と暗殺者共を屠り、我々を救ってくれた恩人だ。皆の者、失礼のないように」
アルトゥール公の手招きに、もう一人の負傷兵――光玄が荷馬車から降りてフードを取り、その姿が衆目に晒された。
彼の黒髪黒目を見た瞬間、私兵たちの表情に恐怖と嫌悪が浮かんだ。そして彼らは一斉に腰の剣に手を伸ばし――
「――失礼のないように、と言ったぞ! 痴れ者どもが!!」
一喝。
見えない圧力が、アルトゥール公を中心に広がるように、私兵たちは膝をつき、首を垂れる。
「「「も、申し訳ございませんッ!!」」」
彼らをしばし見下ろしていたアルトゥール公は、その一人に近寄りその肩を軽く叩いた。
「よい。皆の者、立て。
――ロタール」
「はい、旦那様。おかえりなさいませ」
ロタールと名を呼ばれた、白の礼装をきっちり着込んだ老人が、音もなくアルトゥール公の隣に進み出て優雅な一礼をした。
それを受け、頷いたアルトゥール公は光玄に振り向いた。
「ミツハルよ、イングリットを頼むぞ」
「御意」
頭を下げ、拝命する光玄。
彼を見て満足げに頷いたアルトゥール公は本邸に続く、庭園へ歩を進めた。その後を、ロタールとテオドールが追従する。
そして、ディートハルトの脇を、アルトゥール公は何も言わず通り過ぎた。
「!?」
父アルトゥール公の背中を目で追うディートハルト。
――何の追及もなかった。
息子の反応から確信を得ながらも、アルトゥール公は、彼には一瞥もくれず、本邸へ向かったのだ。
息子の側を通り過ぎたアルトゥール公は追従するロタールに声をかけた。
「執事長ロタールよ。儂の留守の間に変わりはなかったか?」
「はい、ディートハルト様が当主として振る舞われた以外は特に何も。私以外には旦那様の死は伝わらぬよう徹底されておりましたので、混乱などはありませんでした」
「ふん、それと――
テオドールよ。お主はいい加減休め」
襲撃時からまともな治療も受けず、一睡もしていなかった勤勉者のテオドールはまだまだ働く気満々で主の護衛を続けていたのだ。
「いえ、私はまだまだ――」
「くどい。命令だ、休め」
「ハッ――その前に、メヒティルト様に公のお帰りをお知らせいたします」
メヒティルトという名に、アルトゥール公のしかめっ面がふっと柔らかくなった。イングリットに向けるものと似た雰囲気の顔だ。
「うむ、頼むぞ。何があったかは差し障りのないように上手く伝えておくといい。後で折を見て儂からも赴こう」
そんなやり取りをしながら本邸の中へ消えていくアルトゥール公たちの後ろ姿を、ディートハルトは憎々しげに見つめていた。
しかし、すぐに恐ろしい体験をしたはずの妹のことを思い出し、振り返った。『あり得ないこと』だが、どこか怪我をしているかもしれない。
それに酷く疲れているはずだ。すぐにでも、あの粗末な荷馬車から降ろして、部屋で休ませるべきだろう。
そう思い立ったディートハルトは、イングリットへ手を貸そうとした黒ずくめの男、光玄を押しのけた。
「退け、私の妹に触れるな」
そして最愛の妹に手を差し伸べようとして――
妹の肩が小さくビクッと震えたのを見てしまった。
そしてその瞳に映る、恐怖の色も。
「……そうか」
短く、震える声がディートハルトの口を突いて出る。
悲しみ、怒り、愛しさ、切なさ。それらが絡み合った表情を一瞬浮かべた彼は、そのままイングリットに背を向けると屋敷の中へ入っていった。
「お兄様……」
イングリットはただその背中を見つめ、届かぬ声で呟いた。
今回の件があるまでは誰よりも大好きだった兄。
しかし、先ほどの父と彼のやり取りを見て、イングリットは一瞬彼のことが恐ろしい化け物のように見えてしまったのだ。
「いんぐりっと殿。お手を」
すっと光玄が手を差し伸べてくる。女性のような繊細な手ながら、ごつごつとした剣だこだらけの手。
イングリットの震える指先が彼の手に触れ――彼女はその熱さに心底驚いた。
否、イングリットの手の方が冷え込んでいたのだ。
熱した鉄に触れたかのように、思わず引こうとした彼女の手を光玄が逃すまいとぎゅっと握り、荷馬車から降りるよう導く。
力強く包み込む光玄の手から伝わる熱に、イングリットはどうしてか心が安らぐのを感じていた。




