第4話 領都ヴァルシュタット①
光玄の加勢で暗殺者たちを斃したアルトゥール公一行が森を抜けたのは、すっかり夜の帳が落ちた頃だった。
一行が行き着いた先は、領都ヴァルシュタット近辺の宿場町――リテスハイムである。
宿場町リテスハイム――
主に行商人たちがグランスタイン領都ヴァルシュタットへ入城する前に、商品の点検や旅の疲れを癒すために利用する町である。
リテスハイムは、町の家屋の多くを宿屋が占めており、そのほとんどが酒場を兼ねている。
宿屋の前では行商人同士による取引も盛んで、すっかり暗くなった今も松明の明かりを頼りに、なにやら交渉に興じる商人らしき者たちの姿が多く見られる。
酒場からは、商人たちに雇われた傭兵や冒険者たちのものだろうか――陽気な歌と笑い声、時に怒声が響き、大変賑やかな様子であった。
だが、アルトゥール公一行は宿屋を尻目に、リテスハイムに到着するなり衛兵詰所へ向かった。
テオドールと護衛兵たちを伴い、電撃的に衛兵詰所を掌握すると、アルトゥール公が真っ先にやったことは情報封鎖だった。
早速リテスハイムを預かる代官と衛兵隊長たちが内々に呼び出されているところに、アルトゥール公はよく通る声で命を下す。
「グランスタイン家当主として命じる!
速やかに情報統制を敷くのだ。儂の存在をこのリテスハイムの外へ漏らしてはならぬ。直ちに関所の全衛兵たちに徹底させよ!」
「「「はっ!!」」」
傭兵などの荒くれどもに日頃揉まれているリテスハイムの衛兵隊長たちは、アルトゥール公たちが纏うただならぬ気配に、非常事態であると瞬時に判断した。
衛兵隊長たちは、その命令を速やかに全衛兵へ周知させるべく、蜘蛛の子を散らすように慌ただしく走り去っていった。
一方の代官は、アルトゥール公からの急な呼び出しに顔を青くして――寝支度をしていたのか、寝間着の上にどうにか礼服を羽織っている始末だった。
いかにここが領都ヴァルシュタット近辺の町とはいえ、アルトゥール公本人が直接やってくるような事態など想像もできまい。
彼は代官とはいえ貴族ではない。
町の皆からの推薦で選ばれた平民の『町長』だ。
そんな彼からすれば、大貴族・アルトゥール公爵はまさに雲の上の存在だ。
「あ、アルトゥール公爵閣下におかれましては――」
「緊急時である。そういったものは不要だ。早速だがお主に命じよう。
領都ヴァルシュタットへ手紙を一通書いてもらうぞ」
無駄な礼儀作法を嫌う。
そんな噂通り、アルトゥール公は代官の挨拶をぴしゃりと切ると早口で命令を出してきた。
「は、はい、直ちに。手紙の内容はどういたしましょう?」
「内容は――『アルトゥール公、魔物に襲われ死す。ご息女は無事につき、領都へ帰還す。迎え入れの用意をされたし』――これでよい」
「へ、へっ?」
代官は途端に生きた心地がしなくなった。途轍もなく恐ろしい陰謀劇に巻き込まれたのだと思い、足が震える。
その心情を慮ったアルトゥール公は代官の肩に手を乗せ、柔らかい声で諭した。
「心配は無用だ。悪しきようにはならぬ。
――頼めるな?」
優しい声。だが、肩に乗せた手に力を籠め、しっかりと圧をかける。
「は、はいぃ」
震える手で、代官はアルトゥール公の注文通り――酷く乱れた筆跡で、アルトゥール公の死を告げる内容の手紙を書き終えた。
「うむ、見事なものだ。この乱れた字面がなおさら真に迫っておる」
「あっ、ありがとうございます」
手紙の出来栄えに大満足のアルトゥール公だったが、彼は更に細かい注文を付ける。
「すぐには届けず、明日の早朝――儂らが領都に到着する直前に届くようにせよ」
「はっ、はいっ、仰せの通りにいたしますっ」
未だ生きた心地のしない代官は手紙に封をすると、配下を呼んで神経質なほどに手紙の到着時間を細かく指定し、送り出した。
「そ、それでは私はこれにて……」
「うむ、ご苦労」
退室していく代官の後ろ姿を見送り、いち早くアルトゥール公の意図に気づいたテオドールが頷く。
「――なるほど、公を罠に嵌めた者をあぶり出し、その反応を見るためですな」
「その通りだ。手紙を受け取り、混乱しているところを突く。対応する間など与えん」
今までのやり取りを眺めていた光玄は感心していた。
(このお方は知略にも秀でておられるのか)
光玄の尊敬の眼差しを受けながら、アルトゥール公は続けてテオドールに命じた。
「さて、テオドールよ。儂の命令がしかと守られているか、見回りをせよ。緊急時故、判断はお主に任せる。怪しき者は全て検めよ」
「ハハッ!」
アルトゥール公の命令に応じ、テオドールは疲れなど欠片ほども見せず、慌ただしく走り去っていった。
光玄は、ふと隣に立つイングリットを見た。
純白だったドレスは土と埃で汚れ、見る影もないが、彼女はそれを気にするそぶりは見せず、静かに立っている。
しかしながら、痩せぎすのこの少女には慣れぬ徒歩での移動は厳しいものであったのは確かで、その顔には疲労の色が濃く現れていた。
それに、所在なさげに周囲を見回し――不安を隠せずにいた。光玄はそっとアルトゥール公へ耳打ちをした。
「御屋形様、そろそろいんぐりっと殿を休ませるべきかと」
イングリットの話になると目の色が変わるアルトゥール公。老獪な策士の顔から一瞬にして父親の顔へと変じる。
「おお、そうだった。イングリット、先に宿にお行き。話は通してあるよ」
「で、ですが……」
イングリットは、満足に休息も取れぬまま走り回る護衛兵たちを見つめていた。
自分も何かするべきかと一瞬逡巡した様子だったが、やがて自分がいたところで邪魔になるだけだと思ったのだろう。
「……っ」
落ち込んだ様子で肩を落とすと、彼女は父親の言葉に従い手配された宿屋へと向かった。
気丈に振る舞ってはいたが、まだ年若い少女には色々と堪える、大変な一日だったのだろう。
疲れを訴えることもなく弱音の一つも吐かずにいたが、とっくに限界は超えていたはずなのだ。
その後ろ姿を見遣り、アルトゥール公は光玄の肩を軽く叩いた。
「貴公は儂らの命の恩人よ。本来ならば、客人として当家へ迎え入れるべきだが――本当に我が家臣として仕えてよいのか?」
「は。武士たるもの、吐いた言葉を違えることはございませぬ」
「……うむ。ならば、これ以上は問わぬ。当家に――
イングリットにしっかり仕えるように」
「ハハッ!」
アルトゥール公は、頭を深く下げる光玄を満足げに眺めては、再度その肩を軽く叩くと、背を向け宿屋へ向かった。
「明日は早朝より動く。貴公――お主もしっかり休むとよい」
そして、そのまま光玄の返事を聞くことなく、彼はイングリットに続いて宿へ向かっていった。
◆◇◆
その晩――
光玄は眠れず、宿屋の外で風にあたっていた。
今さら、化け物と暗殺者たちとの戦いを思い返し、落ち着かなくなっていたのだ。
(今にして思えば――危うかった)
結果だけを見れば、無傷での勝利だが、軽率に過ぎた。
化け物ばかりに気を取られ、暗殺者たちが潜んでいることに、最初は気が付いていなかった。
(もし、彼奴等があのムカデとの一戦にて、横やりを入れてきていたならば――
おそらく屍を晒したのは某になっていたはず)
目を閉じ、その光景を想像する。
背中に麻痺毒たっぷりの暗器を受け、動けない所を化け物に八つ裂きにされる、自分の姿が容易く脳裏に浮かぶ。
(冷静なつもりで、黄泉帰りに浮ついていたか。
――未熟。あまりにも未熟なり)
刀を鞘から抜き、眺める。当面の使用には問題はないが、わずかな歪みが見られる。刃こぼれも確認できた。
かつて、光玄が江戸の下町で刃傷沙汰を治めた際、下手人から取り上げて以来使っている刀だ。
おそらくは安物のなまくらだ。
上等な刀を拵えるような経済的な余裕など、貧乏浪人だった光玄にはなかった。
故に、拾い物の刀を使いつぶし、またならず者から奪い取って使う。その繰り返しだった。
刀に頓着はない。斬れれば何でもよかったのだ。
――だというのに。
(こんな頼りのないなまくらに、某は死に際、何故あれほど縋ったのか)
改めてじっくり刀を眺める。
やはり粗悪ななまくらだ。死に際に真っ先に捨てるべきものに何故あれほど執着したのか。
今もって光玄は不思議でならなかった。
(何にせよ、早急に代わりの刀を手に入れねばならぬ。しかし、この『新世界』とやらで、果たして見つかるものだろうか?)
刀を眺め、思案していると、光玄はふと後ろから近づく気配を感じ取った。
「――綺麗なものだな」
グランスタイン家の護衛隊長、テオドールだった。
短く切りそろえた茶の髪に、黄色の瞳。太めの眉と垂れさがった眦がどこか気さくな印象を与える。
そして野外活動の多い兵士らしく日焼けした肌に、整える暇などなかったのか、無精髭が目立つ。
筋骨隆々とまではいかないものの、相当鍛え上げられた肉体が身にまとう鎧を押し上げている。
歳の頃は三十代後半から四十代前半か。
彼は自分で光玄に声をかけておいて、どこか気まずそうな表情を浮かべている。
テオドールは見回りの最中、光玄が手にした刀が街灯の光に反射しきらめく様に魅入られ、思わず声をかけてしまったのだ。
「これは、ておどぉる殿」
光玄は急いで刀を鞘に納め、居住まいを正した。
起伏に乏しい少年のような顔立ちに似合わぬ、低い声で返事をした光玄を見て、テオドールは首を傾げた。
(見た限りだとまだまだ少年のように見えるが、声を聴くと俺とさほど歳が離れているようには思えんな……)
黒髪黒目、黒ずくめ。見た目に反したやけに渋い声。あまり気乗りはしないが、テオドールは光玄と会話を続けてみることにした。
「その、なんだ。俺に対してそう畏まるのはやめてくれないか? 一応、同じ主を頂く者同士だ。気楽に頼む」
「おお、確かにその通りでござるな。ておどぉる殿、改めてよろしくお願い申し上げる」
「いや、そういうのをなぁ……まぁいいか。
それで、どうだ。何か不安やわからないことはないか?」
根が善良で世話焼きなのだろう。テオドールは未だ正体の判らぬ光玄のことを同じ主に仕えることになった新参者として見ているようだった。
光玄はテオドールのその問いに対し、彼らに会ってからずっと気になっていたことを聞くことにした。
「兵らが某に対して少々過剰に警戒していたのが多少気になっただけでござる」
「まぁそれは仕方ないかもしれんな。お前はいかにも怪しすぎたのでな」
自覚があったのか、光玄は頷いて見せた。しかし、すぐに眉を顰めながら話した。
「しかしながら、正体不明の某だけならいざ知らず、主家の姫たるいんぐりっと殿にまで、某へ向けるものと同じ不躾な目を一瞬でも向けていたのはいかがなものかと」
「――それが分からないということは、今までずっと僻地の山の中にでもいたのか? なら、その『ナリ』で平然としているのにも合点がいったぞ」
テオドールは光玄の黒い装いを指差し、ため息を一つ吐くと、重々しく口を開いた。
「いいか、よく聞け。
かつて、この大陸全土を二度に渡って『黒き神の呪詛』という死の病が席巻したんだ。
全身が黒く染まっていき――最後には全身から血を噴き出して息絶える、恐ろしい病だ」
「なんと……そのような恐ろしい病が。寡聞にして存じませぬ」
「――本当に、何も知らないのだな。この病のことは直接経験していない世代の俺でも知っているぞ。それに、未だ完全に根絶できてはいないんだ」
「然様か」
やはり何もわかっていない様子の光玄をやや呆れの混じる表情で見つめながらも、生来の真面目さからか、テオドールは懇切丁寧に説明を続けた。
「――で、だ。
最初にこの病が蔓延していた二百年前――黒髪黒目の一族を中核とする、黒ずくめの集団、『黒き神への聖餐』という連中が奇行を繰り返したのさ」
「奇行というと?」
「ネズミや小動物を捕らえては妙な祈りの言葉と共に燃やしたり、糞尿や汚物を集め回っていたというのだ」
「むむ、確かにそれは奇行と言わざるを得ませぬな」
その様を想像した光玄が顔をしかめる。
同時に、妙な引っかかりを覚える。単なる奇行ではないと、神モドキに植え付けられた穴だらけの知識がなにやら訴えている。
だが、光玄は一旦それには蓋をしてテオドールの話に集中した。
「――で、それがこの大陸中の人族から最も強い信仰を集める『白教』に目をつけられたんだ」
「白教、でござるか?」
そんなことも知らないのかと言わんばかりに、テオドールの目が大きく見開かれる。おそらく、この世界においては常識なのだろう。
だが残念ながら、光玄は神モドキによる二度目の情報注入は拒否している。この世界のことは何一つ知らない。
一方のテオドールは、ぼんやりしている光玄の反応から本当にこの世界の常識を何一つ知らぬ赤子のようなものだと判断した。
彼は、できるだけわかりやすく、かいつまんで白教のことを光玄に話し始めた。
「――『白教』というのは、創造神にして至高神『白き神』を絶対的な存在として信仰する宗教だ」
「『しろきかみ』……」
テオドールのその説明だけで、光玄はその白教の排他性を嗅ぎ取り思わず顔をしかめた。
テオドールは光玄の黒髪を見つめ、説明を続けた。
「それに相反する神敵『黒き神』を信奉する集団が現れたというだけでもその存在そのものが許せなかっただろうさ」
「――だというのに、病が蔓延する地域でそんな奇行を繰り返されたんじゃたまったものではなかったのでしょうな」
ある程度事情を飲み込んだ光玄がそう答えると、テオドールは静かに頷いて説明を続けた。
「――ああ、それからは徹底的な弾圧が始まったのさ。恐怖に駆られた民衆も白教に同調して積極的に『黒き神への聖餐』共と、黒髪黒目を持つ人間を狩り続けたらしい」
思わず、光玄は自分の黒髪に触れた。テオドールは今度は光玄の黒い瞳を見つめながら言葉を繋ぐ。
「……それが実に苛烈なもので、白教の勢力圏外にまで出張って徹底的に狩り尽くしたらしいからな」
そこまで言って、一度話を切ったテオドールは周りの様子を伺い、一段と声量を抑えて囁くように続けた。
「――大きな声では言えんが、その騒動を利用して白教は政敵を『黒き神への聖餐』と仕立て上げて排除しつつ、財産を巻き上げて今の盤石な地位を得たらしい」
この説明に光玄の胸には、苦い思いが去来した。
(違う世へ来ても、人の性というものは変わらぬな)
やや沈んだ様子の光玄を気に留めず、テオドールは続ける。
「そうやって、大陸中から『黒き神への聖餐』という集団は一人残らず消え去ったというわけだ。だから、黒髪や黒目を持つ人間はとにかく珍しいんだ」
そこまで聞いて光玄は大体の事情を察した。
「ふむ……だというのに、いんぐりっと殿はその珍しい黒髪黒目を持っておられる。もしや奥方殿も黒髪黒目であらせられるので?」
光玄のその質問に、テオドールは目を閉じ、頭を振った。
「いや、お嬢様のご生母でいらっしゃるアマーリエ様は、『琥珀の君』と呼ばれるほど大変美しいお方でな、目の覚めるような輝かしい琥珀色の髪をお持ちだった」
「……だった、ということは」
「アマーリエ様は、お嬢様がまだ乳飲み子だった頃、先代ご当主への見舞いの帰りに落盤事故に巻き込まれ、帰らぬ身となられたのだ。
――最後までご遺体は見つかっていない」
絞り出したような震える声から、テオドールの亡きアマーリエ夫人への並々ならぬ想いを感じ取り、光玄は深々と頭を下げた。
「――それは……申し訳ござらぬ、失礼仕った」
「いや、お前が気にすることではない。
とにかくだ、銀色の髪の公と琥珀色の髪を持つアマーリエ様の間では決して生まれようのない、黒髪黒目のご息女がお生まれになったわけでな」
光玄の常識でも、子は親の特質を引き継いで生まれるもの。親のそれとは全く異なる特質を持つ子が生まれたのなら、当然疑いの目は――
「――黒髪黒目の子はその母の不貞の証だの、白き神への不信心の証だのと言う迷信があってな、アマーリエ様は謂れのない中傷に晒された。
だが! 断じてそのようなことはない!」
一瞬、激情に駆られ声を荒げたテオドールだったが、すぐにため息をつき、静かに語り続けた。
「――あのお方は正しく太陽のような方だったんだ。我々のような下々の者たちにも手作りの料理を差し入れてくださったり……」
光玄はここにきて初めてこの護衛隊長テオドールの素顔が見えた気がした。
光玄は余計な口を挟まず静かにテオドールの話に耳を傾ける。
「――怪我をしている者はいないか、生活に困っている者はいないか、常日頃気にかけてくださったものだ」
そうイングリットの生母、アマーリエ夫人を語るテオドールの声には、敬愛の他に、恋慕に似た色が交じっていた。
「さぞ、ご立派な方だったであろうな」
その光玄の言葉に、テオドールは力強く頷いて見せた。
「ああ。それに、アマーリエ様は白き神に愛されし『聖女』であらせられたのだ」
『聖女』。また光玄に分からない言葉が出てきたが、真摯なテオドールの様子を見て、光玄は話の腰を折らず黙ってその言葉に耳を傾けた。
「あの方は雨の日も、雪の日も一日たりとも欠かさず神殿にて祈りをささげられ、白き神もまたその信仰心にお応えになり、その身に加護を授けられたのだ」
そして、テオドールは首を軽く振り断言する。
「そのアマーリエ様に限って不貞など、決してあり得ない」
光玄は、思わず眉間にしわを寄せ、瞑目した。
(聖女やら加護やらが何なのかはわからぬが――いんぐりっと殿への兵らの不躾な視線の理由には合点がいった。
あまぁりえ殿にも、いんぐりっと殿にも何一つ不手際はなかろうに……なんと不憫なことか)
おどおどと人の顔色ばかり窺うイングリットの様子を思い出し、長年嫌悪と恐怖の混じった目に晒され続けてきたであろう少女の心情を慮り、光玄は心を痛めた。
「だというのに、白教の連中め、言うに事欠いてあの事故は忌み子を産み落とした天罰だとッ……!」
ギリギリと、テオドールの歯ぎしりの音が聞こえてくる。よほど腹に据えかねたのだろう。
(図ったかのように斯様な事故があったならば、そう言われるのも無理はなかろうが……)
光玄は思わずため息を漏らしていた。
ずっとそれを心無い者たちに言われ続けてきた、幼いイングリットが感じたであろう罪悪感は計り知れないものがあったからだ。
それでも、イングリット本人が境遇に腐らず真っすぐ育ったのは、父親である絶対的庇護者、アルトゥール公の愛情があったからだろう。
もし、彼がいなかったなら、今の善き心を持つイングリットもいなかったに違いない。
「――それからは、お嬢様の乳母を探すのにとにかく骨を折ったものだ。
忌み子に乳を与えては二度と乳が出なくなるだの、乳が穢れ毒になるだのと、皆避けるばかりだったさ」
「解せませぬ、ただ髪が黒く、目が黒いというだけで、乳飲み子に咎はなかろうに」
光玄がテオドールに同調し、己の膝を叩いて憤慨する。
その様子に、テオドールは光玄の見た目では推し量れないその性根の真っすぐさ、人間らしさに徐々に親近感を覚え始めていた。
テオドールは親切心から光玄に忠告する。
「それほどまでに、この大陸における『黒』とは根源的な恐怖なんだ。わかったなら、今後はせめてその黒い服はやめたほうがいい」
そう言いながら、テオドールは光玄の黒い衣のゆったりとした袖を手に取って続ける。
「――この大陸中に白教の目が届かぬ場所はない。悪目立ちしていいことなんて何一つないぞ」
「汚れが目立たず便利でござるが?」
そんな光玄の呑気な答えに、テオドールは軽く頭痛を覚えた。
「――今の話を聞いても、何とも思わないのか?」
「ふむ……面倒ではあるかと存ずるが……」
そこで一旦言葉を切った光玄は、柔らかく微笑むとどこか遠くを見つめながら言葉を紡いだ。
「――昔、黒がよく似合うと言ってくれた者がおりましてな。それ以来、ずっと黒ばかりを身に着けている次第でござる。他の色の衣はどうにも落ち着かぬ故」
そう言って、光玄はこの場にいない何者かに思いを馳せるように遠い目をした。彼のその声には隠しきれない痛みのようなものが混じっている。
だからなのか、彼はそれ以上は語るまいという雰囲気を醸し出していた。
そんな光玄の様子を見たテオドールは、彼が完全に自分たちとは別の常識に生きてきた異物であることを確信した。
黒が似合うなどと、テオドールの常識では侮辱にすら使われぬ、あまりにも酷いセリフである。
その言葉を嬉しそうに受け取って、進んで黒を身にまとうというのはまともな感性をしていれば決して出てこない発言だ。
だが、テオドールはますます光玄に親近感を覚えていた。かつて自分がアマーリエ夫人に抱いていた秘めたる想いと似たものを、この男の言葉から読み取ったからだ。
(この人間離れした男にも大切な何者かがいたのか。
――よほど大事に思っていたのだろうな。なら、あれこれ俺から言うのは無粋だろう)
そう考えたテオドールは苦笑いを浮かべた。
もしも、かつてのアマーリエ夫人がテオドールに黒が似合うなどと言ったのなら、間違いなく彼は生涯黒い衣を纏い、鎧も黒く染めていたに違いない。
人のことは言えないと自覚したテオドールは軽く光玄の肩を叩いた。
「まぁ、好きにするといい。さて、朝早くから動くぞ。お前も早めに休むといい」
「かたじけない。ておどぉる殿もごゆるりとお休みくだされ」
深々と頭を下げる光玄を一瞥したテオドールはにっと笑って見せると、手を振って見回りに戻った。




