断章1 すり潰されていった女
西暦二〇〇〇年、ミレニアムバグなどと騒がれる中、一人の『女』が日本で生を受けた。
残念ながら、『女』は望まれてこの世に生まれた子ではなかった。
父も母も、親になる準備などできていなかった。
『女』の記憶にある父は、いつも怒鳴ってばかりいた。
些細な物音にもすぐ腹を立て、喚き散らすような神経質な男だった。
顔だけは非常に整っており、女性受けがよかった父は、堂々と浮気を重ね、愛人たちの家を転々とし、自宅に帰ってくるのは月に一度――妻の給料日くらいだった。
もはや、他人と呼んで差し支えのない人間だった。
だが、父のそのわずかな間の滞在ですら、幼い『女』には息の詰まる、苦痛の時間でしかなかった。
『女』が覚えている母は、いつもへらへらと愛想笑いを浮かべてばかりの女性だった。
それが彼女の唯一の取り柄であり、身を守る術でもあったのだ。
いつもすぐ喚き散らし暴力を振るっていた父も、彼女のその愛想笑いに自尊心が満たされるのか、すぐ魔法のように絆され機嫌を直していた。
『女』には、母と会話らしい会話をした記憶がなかった。
夜職の母は夜になれば娘から逃げるように仕事に出かけ、朝に帰宅すると冷凍食品を温めてよこしては、疲れを理由に娘とまともに対面することなく眠りについた。
故に『女』は一緒に暮らしていた母の声も顔も、よく覚えていなかった。
――その繰り返しだった。
一家の生計は、もっぱら母の収入に頼っていた。
そのわずかな稼ぎの半分以上は、母の給料日が近づくと決まって現れる父に持っていかれ、遊興費に消えていった。
生活は困窮を極め、『女』がそろそろ小学校に入ろうかという頃、とうとう母は姿を消した。
いつも通り金の無心に訪れた父は、母の蒸発にひとしきり喚き散らしたあと、娘を顧みることもなく置き去りにし――それきりだった。
そして数週間後、異臭がするとの隣家の通報を受けてやってきた警察は、ゴミの山に半ば埋もれ、自らの汚物にまみれた、餓死寸前の『女』を発見した。
どうにか一命を取り留めた『女』だったが、新たな問題が発生した。
呆れたことに、『女』の父と母は娘の出生届を提出しておらず、彼女は無戸籍者だったのだ。
当然、警察は二人の行方を追った。
だが、その足取りはまるで最初からこの世に存在しなかったかのように忽然と途絶え、とうとう最後まで見つからなかった。
親が見つからないのであれば、代わりとなる保護者を探す必要があった。
親に捨てられた無戸籍の子供。
おまけに長年にわたる育児放棄により、同年代の子供たちと比べ、『女』は身体が小さく言語能力が未発達であった。
そんな厄介な子供を、進んで受け入れようという親類縁者は皆無だった。
ただ一人、母方の祖父だけが名乗り出た。
祖父は『女』の親とは不仲で交流がなく、『女』の存在をこの事態になってようやく知ったが、それでも彼は『女』を孫娘として保護した。
祖父は無戸籍の彼女を引き取るため、持ちうる人脈を総動員し、面倒な手続きも厭わずに『女』を家族として迎え入れた。
これが『女』の人生における最大の幸運だった。
祖父は不愛想で礼儀作法に厳しい頑固な老人だったが、孫娘に決して不自由な暮らしはさせなかった。
学校にもちゃんと通わせ、欲しがるものは大抵買い与えた。
それでも、幼少期に損なわれた社会性はどうしても補えず、『女』はいじめられはしないものの、クラスで孤立気味になっていった。
同年代の子供たちの話題についていけず、内向的であったため常に独りだったのだ。
気を揉んだ祖父はあらゆる手を尽くした。
家庭教師なども考えた。だが、祖父は『子供は子供らしく』といった昔気質の老人だった。
学校の授業についていくのもやっとな孫娘に、更なる苦痛を与える気にはなれなかったのだ。
故に『遊び』を通じて『女』に足りないものを補おうとした。
スポーツ、漫画、アニメ、そしてゲームなど、様々な遊びを『女』に体験させた。
そして、ついに『女』はあるゲームに夢中になった。
『女』の人生のバイブルともいえる乙女ゲーム『光溢れる彼方へ君と共に』――略して『ひかあふ』との出会いだった。
このゲームのテーマは『どんな絶望に満ちた世界でも、きっとあなたを見てくれる人がいる』というものだった。
艱難辛苦、絶望に次ぐ絶望の中でも、個性豊かなヒーローたちが光溢れる彼方へ引っ張り上げてくれる――いわゆる『スパダリもの』の乙女ゲームである。
『女』はこのゲームの孤児出身である主人公と自分を重ねて深く没頭した。
そして、偶然にも攻略困難な隠しキャラ『ディートハルト』と初見で運命のように邂逅した。
厳しくも、力強く主人公を導く彼に、『女』は自分にとっての『スパダリ』である祖父を重ね、ますます『ディートハルト』に夢中になっていった。
やがて、学校でも『ひかあふ』を通じて共通の話題を持つ友人ができ、内向的ながらも徐々に『女』の社交性は育まれていった。
『女』は自分の人生を変えてくれた『ひかあふ』に、ますますハマっていった。
祖父のことを推しキャラであるディートハルトと重ね、そのあだ名『病み兄』で祖父を呼ぶなど、やや過剰な傾倒ぶりだった。
しかし祖父は「夢中になれるものがあればそれでいい」と、人前でなければ特に諫めるようなことはしなかった。
世間一般的に見れば、祖父は孫娘を溺愛したとも言えるだろう。
『女』もその愛情に応えるように、祖父にべったり甘える、おじいちゃん子になっていった。
――そして、これが『女』の人生における最大の不幸だった。
祖父は余命宣告を受けた、死を待つばかりの病人だったのだ。
孫娘を想うなら、たとえ苦しませるとしても厳しい社会を生き抜く術を時間の許す限り叩き込むべきだったのだろう。
しかし、祖父は親に捨てられ、独りぼっちになった孫娘を憐れみ、余命のすべてを愛に変え、孫娘に注ぎ込んだのだ。
――ほどなく、『女』はまた独りぼっちになった。
まだ幼く世情に疎い『女』は、言葉巧みに祖父の遺産をかすめ取ろうとする親戚らの間をたらい回しにされた。
やがて祖父の遺産が尽きると、『女』は施設に入れられた。
まるで味の抜けたガムを吐き捨てるように。
『女』の手元に残されたのは、亡き祖父に買ってもらった『ひかあふ』関連グッズのみ。
それらは祖父のイメージを重ねていた、推しキャラ『ディートハルト』のグッズばかりだった。
『女』はそれらを祖父の代わりに心の支えにして、成長していった。
そして、気がつけば十八歳の春、『女』は社会に放り出されていた。
ろくに生きる術を知らないくせに、妙に礼儀正しく、愛嬌のある女性が出来上がっていた。
『女』は、どういうわけか年上の男――いわゆる『パパ』と呼ばれる存在によく好かれた。
皮肉にも、『女』は父親譲りの整った美貌を受け継ぎ、誰もが振り返るような美人へと成長していたのだ。
そして亡き祖父に叩き込まれた行儀作法、さらに母親譲りの愛想笑い――つまり、外面を取り繕う類まれなる才能があった。
それが男たちの自尊心を高め、庇護欲をくすぐったのだろう。
父親ほど歳の離れた者も、ときには祖父に近い年齢の者もいた。
いわゆる『パパ』たちは、かつての祖父のように、欲しがるものは何でも与え、行きたいところに連れて行ってくれた。
『女』は定職に就くことなく、『パパ』たちの間を渡り歩き、生計を立てる、いわゆる『パパ活女子』となった。
若さと美貌という刹那の武器を手に、『女』は、儚くも鮮やかなひとときを謳歌した。
この時期に『光溢れる彼方へ君と共に』のリメイク版が発売され、無印版からガラッと変わったゲーム性に戸惑いながらも、独特の暗くも深みのある世界観にまたもや『女』はハマりにハマった。
無印の隠しキャラから正式攻略対象となったディートハルトの新しい魅力に惹かれ、幼い頃からのグッズに新作グッズを加え、コレクションは増えていった。
奇しくも、『女』にとっての幸せの絶頂期に、この物語は彼女の人生に再び顔を覗かせ、魂に深く刻まれたのだった。
『女』は自分の最大の武器――美貌がいずれは光を失うことは避けられないことと知っていた。
故に、その管理は徹底的に行った。
定期的に髪の手入れを行い、常に天使の輪が浮き出すよう保ち――
ジョギング、ヨガ、ジム通いなど時間が許す限り、ストイックなほどに体型管理に努め、常に最上のコンディションを保った。
そして安易に『パパ』たちに体を許すことはしなかった。彼らは『スパダリ』などではない。
中途半端な相手との間で万が一のことがあってはならなかったからだ。
こんな生活ができるのも、若くて綺麗なうちだけ。未来を見据えて『女』は相手を厳選した。
遊びなれておらず、真面目な仕事人間を。
やがて、『女』は一人の資産家に目を付けた。
実に面白みのない、真面目さだけが取り柄の理想的な仕事人間。
仕事ばかりで気が付けば独身のまま中年となったという彼は、あっという間に『女』の虜になった。
『女』は他の『パパ』たちとの関係を断ち、資産家との交際を始めた。
付き合い始めてすぐに、資産家は『女』のために豪華なタワーマンションの一室を用意し、二人は同棲を始めた。
資産家は『仕事の都合』で出張が多く、帰ってこない日の方が多かったが、『女』は気にしなかった。
むしろ満たされた気楽な時間が増えて満足していた。
『女』の人生はかつてないほど充実していた。あとはこのまま結婚、『ハッピーエンド』だ。
――だが、そうはならなかった。
資産家は実は既婚者だったのだ。特に夫婦仲も悪いわけではなく、ごく普通の家庭を営んでいた。
いわゆる倦怠期。単に、地味で愛想のない妻に飽きていただけ。
その事実は、『女』に知らされることはなかった。資産家が『女』に語ったのは彼女の魅力を称える甘い言葉だけ。
皮肉にも、『女』が選びに選んだ相手はかつての父のように、家庭を蔑ろにする最低の男だったのだ。
何も知らない『女』は婚約者のつもりで資産家と堂々と逢瀬を重ね――
ほどなく、資産家の不貞はその妻の知るところとなった。
家庭を守りたい資産家の妻は夫に『女』と別れるよう詰め寄った。そうするなら、不貞には目を瞑ると言ったのだ。
だが、資産家は『女』を選んだ。
慰謝料代わりに巨額の金を渡すと、そのまま資産家は家を出て『女』の元へ向かったのだ。
何の落ち度もないのに家庭を壊され、人生を台無しにされた資産家の妻が憎悪に駆られたのは無理もない話だっただろう。
その憎悪の矛先は不貞を働いた夫ではなく、平穏な日々を破壊した外敵――『女』へと向いた。
探偵を雇い、『女』の生活パターンを徹底的に調べ上げた資産家の妻は、ある夜、『女』が日課にしていたジョギングコース上の歩道橋で待ち伏せた。
夫の不倫相手がどんな人間なのか、直接会って恨み言の一つでも言うつもりで。
そしてやってきた『女』の、その憎たらしいほど整った顔。幸せの絶頂ですと言わんばかりの、のんきな表情。
何かのアニメかゲームのものらしい、上ずった鼻歌交じりの『女』の姿を見て、資産家の妻の中で何かが音を立てて切れた。
衝動に突き動かされるがまま、資産家の妻は『女』に体当たりして歩道橋から突き飛ばした。
あまりにも突然のことで反応などできず、『女』の体は柵を超え道路側へ落ちた。
宙に浮いた『女』の眼前に広がるのは冷たく、黒々としたアスファルト。
――その瞬間、その刹那。
『女』は時が無限に引き延ばされたように感じた。
その永劫のような刹那、『女』の視界の端に恐ろしい形相をした見知らぬ女性が見えた。
『女』は遅れて、その女性に並々ならぬ殺意をもって突き落とされたのだと気づいた。
しかし、『女』には誰かにそこまで恨まれる心当たりが何一つなかった。
褒められるような人生ではなかったのは自覚している。それでも、光を求め自分なりに必死に生きてきただけ。
それがそんなにいけないことだったのだろうか。
――向こうから、光が迫ってくる。
『女』はかつて夢中になった物語の『推し』がそうしたように、もがきながら、迫りくる光に向かって手を伸ばした。
だが、その光は、『女』の人生を終わらせるものであった。
まばゆいヘッドライト。
衝動的な行動故にただの偶然だったが、まるでそれは資産家の妻の狙いであったかのように――
ちょうど『女』の落下先には、トラックが通りがかっていたのだ。
長い刹那の終わりが訪れ――
突然、死角――真上から降ってきた『女』を認知できぬまま、トラックの運転手はそのまま減速することなく轢いてしまった。
伸ばしていた腕は砕け、千切れ飛び、『女』の身体はもはや人の形を成していなかった。
即死していてもおかしくはない状態だった。
しかし、『女』の不幸はまだまだ終わらなかった。こんな状態になってもまだ、『女』は死にきれなかったのだ。
もう命の終わりを待つだけだというのに、それでも『女』は生に縋りついた。
(いやだ――しにたくない。やっと、ちゃんと、いきていけるようになったのに)
もう、『女』の目は見えず、視界には際限なく闇が広がるだけだ。
(だれか、たすけて。おじいちゃん、ディートハルト)
その心の叫びに応えるように、闇が広がる世界の中、陽炎のようにぼんやりと浮かぶ影があった。
精悍で怜悧な顔立ち。綺麗に整えられた銀の髪。心を見透かすような冷たい碧眼。
家を守るため父殺しの罪を背負い、愛する妹さえ破滅へ導いてしまう、残酷で孤独な青年。
『女』の大好きな乙女ゲーム『光溢れる彼方へ君と共に』の推しキャラ、『病み兄』こと、『ディートハルト』の姿がそこにあった。
そんな彼が柔らかい笑顔を浮かべ、『女』に手を差し伸べている。
これは、死を目前にした『女』の脳が見せる都合のいい幻覚なのか。
だが、そんなことは関係ない。やっと――やっと来てくれた。
今、『女』の目の前で、ずっと心の支えになってくれていた、あのディートハルトが手招きしているのだ。
彼はゲームで聞き慣れた、厳しくも温かみのある声で激励してくる。
「さぁ立て、浩子。お前はそんなものではないのだろう?
共に、行こう。光溢れる彼方へ」
『女』――福田浩子は彼の手を取ろうと必死に手を伸ばす。
だが、伸ばすべき手はもう失われている。
届かない。
立ち上がるための脚の感覚もない。
立てない。
浩子の存在――魂が強い力に引っ張られ、ディートハルトから引き離される。浩子の命の終わりの瞬間が訪れたのだ。
大好きな病み兄――ディートハルトが遠のいてゆく。悲しみと失望の色が彼の顔に浮かんだ。
(だめ。じゃま、しないで)
浩子はその力に真っ向から逆らった。
世界の摂理とも呼べる大いなる力の奔流。ひ弱な人間ごときでは耐えきることなどできるはずもなく、浩子の存在を構成する因子が千切れ、分解された。
(あきらめない、ぜったい、ディートハルトに、あう)
だが、分解されてもなお、浩子の執念、情念は潰えることなく、留まるところを知らず際限なく拡散していった。
そして――
ここに、事故とも呼ぶべき、奇跡が起こった。
たった一人の人間――浩子の情念を核に、世界の集合無意識が絡みつき、新たな世界の卵が誕生したのだ。
次の瞬間、浩子の世界に溢れんばかりの光が満ちた。
その光の中、浩子は何者かに優しく撫でられた気がした。それが誰なのか確かめる間もなく、浩子の意識は光の奔流に流され――
新世界へ――光溢れる彼方へと旅立っていった。




