第52話 密談②
ルクレツィア妃が出ていき、応接間にはアルトゥール公とマリアの二人だけが残された。
アルトゥール公は未だ燻る胸中の不快感を隠しきれず、渋面のままマリアに尋ねた。
「マリアよ。やはり君でもやつの事情はわからぬのだな?」
「ええ。お姉様はいつもお一人で抱えがちですので。
それに――仮に知っていてもお話はできません。フェアではありませんもの」
マリアのその言葉に、アルトゥール公は苦笑いを浮かべる。
間違いなく、アルトゥール公の知るマリアなら、何かしらの事情を知っていても絶対に話すことはないのだと理解しているからだ。
だからこそ、彼女のことは信頼に値するのだ。
「今回のお話し合い、収穫はありましたか?」
どう見ても大荒れの決裂した話し合いだ。
むしろ、アルトゥール公とルクレツィア妃の間に根付く憎しみだけを確認したとも言える。
だが、アルトゥール公は力強く頷いて見せた。
「ああ。あったとも。あの女のことについて、『分からないことがある』ということがよくわかった」
分からないこと。あの女が心に秘めているもの。
ルクレツィア妃とアルトゥール公の間に存在する憎しみの根源。
それは『あの方』――ヴィルヘルミーナのことに違いない。
違和感。食い違い。
それに気づいただけでも危険を冒してここへ来た甲斐があったと、アルトゥール公はある種の手ごたえを感じていたのだ。
「ヴィルヘルミーナ、か」
ヴィルヘルミーナの死は二十年ほど前の、『蛮族討滅戦争』の最中のことだ。
長らく戦場を駆け巡り、妹の死を知らされたのは戦争を終え、凱旋する最中のことであった。
ヴィルヘルミーナ妃が、側妃ルクレツィアに追い詰められ命を落としたのだと。そう聞かされた。
アルトゥール公は妹の死に目にも立ち会えず、彼が目にしたのは冷たい墓石だけだ。
そう、見たのは――それだけだ。他には、ただ他人に聞かされたことだけだ。
瞬間、アルトゥール公は強烈な違和感を覚えた。
(……誰が、そんなことを言った?
――愚かな、何故鵜呑みにした?)
アルトゥール公は愕然とした。
何故疑いなく、そんなことを信じたのか。
いつ、誰にそんなことを聞かされたのか。
――思い出せない。
(ヴィルヘルミーナ……同じ人物を巡って、儂とあの女が互いに恨み合うというのはいささか不自然である)
どかっと応接間のソファに再度乱暴に座り込む。
マリアは何事かと目を丸くしたが、余計な口は挟まなかった。
いつしか、ルクレツィア妃に対する怒りは、胸中の奥へ押しやられていた。
代わりに浮かび上がったのは、冷たい疑念だった。
(儂とあの女を争わせて得をするのは誰だ。
――どうやら、最初から洗い直さねばならんな)
今、この場にいるのは、ただの怒りに駆られた男ではない。
いつにもまして冷徹にして老獪な、グランスタイン公爵家の当主であった。
彼はゆっくり腰を上げ、立とうとして――新たな疑問が湧き出て再びソファに身を沈める。
(それにしても、何故あの女はミツハルめを欲しがる?
子飼いの凡俗の者どもに加え、後宮の私兵団。それに本人は大陸最強の剣士の一人でもある。
今更、戦力が欲しいわけではあるまい。
ならば、我がグランスタイン家側の戦力を削ぐことが目的か?)
顎髭を撫でながら思案を続ける。
(――違うな。戦力を削ぐことが目的ならば、わざわざ儂に欲しいなどと言うまい。
うーむ、分からぬ。やはりあの女に関しては理解の及ばぬことばかりだ。
よもや、本当に一目惚れだとでも?)
こればかりは当人にしか分からないことだ。
いずれ『また』聞き出せる時がくるだろう。
喝を入れるように、アルトゥール公は己の膝を叩き、勢いよく立ち上がった。
「マリア。今回の話し合いの場を設けてくれたこと、感謝するぞ」
「いえ。わたしとしても大好きなお二人には憎み合わず、仲良くしていただきたいのですから」
どこかつかみどころのないマリアだが、この言葉だけは本心なのか、その瞳は真っすぐアルトゥール公を見つめている。
対するアルトゥール公はそんな彼女を見て、やや申し訳なさそうな表情を浮かべると、やがて首を横に振った。
「ふっ、やつと儂がか? それだけはあり得んな。
どちらかが死なねば出来ぬ相談だ」
一瞬、マリアの瞳が寂しげに揺れたが、瞬き一つでそれは綺麗さっぱり消えていた。
「――そうですか。
ところで、せっかく学園に来てくださったのです。
イングリット嬢に会って行かれますか?」
「いいや。言ったはずだぞ。贔屓はするなと。
――フェアではないのだろう?」
アルトゥール公が口にした『フェア』という言葉に、マリアは悪戯っぽく口を歪める。
「『だからこそ』、ご提案させていただいたのですが」
「――? どういう意味だ」
「それはわたしの口からは言えませんね」
そう言うとマリアは、口元に人差し指を立ててウィンクをして見せた。
要するに、彼女はルクレツィア妃に何らかの便宜を図っていると言うことだ。
しかし、その詳細は決して明かさない。
どんな些細なことでも、この女は軽々しく秘密を漏らすことはしないのだ。
思わずアルトゥール公はくくっと喉を鳴らして笑ってしまった。
「くくっ、やはり君はいい女だな」
「あら、今からでも側室にしていただいてもいいのですよ?」
「魅力的な提案だが、今の儂の妻はメヒティルト一人だけだ。
それに、そんなことをすれば、今度こそあの女が儂を殺しにかかるであろう」
マリアは同意見とばかりに、肩をすくめて見せた。
かつて、憎い男に可愛い従妹を嫁がせまいとあれほど邪魔をしてきたルクレツィア妃だ。
もしも正室ですらない、側室入りするとでも言った日には、ルクレツィア妃は全力を以ってアルトゥール公を殺しにかかるはずだ。
「残念。では、お帰りのグリフォンのご用意をいたします」
「うむ。いずれ『また』、君を頼ることになるやもしれん。その時は頼むぞ」
マリアを頼るということは、アルトゥール公には『また』ルクレツィア妃と話し合いをする意思があるということだ。
マリアは嬉しそうに顔をほころばせた。
「ええ。いつでもどうぞ」
◆
学園の一室。清潔に保たれた寝室。
ルクレツィア妃がそこへ入ると、二人の少女が彼女を出迎えた。
「お帰りなさいませ! 妃陛下!」
「お、おかえりなさいませ、きさきへいか」
そばかす顔の純朴な侍女ニーナと、琥珀色の髪の幼い侍女リュイスだ。
「ただいま戻りました」
そう侍女たちに告げると、ルクレツィア妃は近くのソファに身を投げ出すようにして座り込んだ。
そして、思いっきり脱力し柔らかなソファに身をゆだねた。
まるで我が家のようなくつろぎっぷりだ。
「お話し合い、上手くいきませんでしたか?」
侍女ニーナは人の機微に敏感な娘だ。
ルクレツィア妃はいつもと変わらぬ様子を装っているつもりだったが、ニーナは彼女の仕草からわずかな苛立ちを見抜いたらしい。
「ええ。実に腹立たしく、無駄なひと時でした」
「はい、そんな時は――リュイスちゃん!」
「は、はい」
ニーナに名を呼ばれたリュイスが急ぎ足で湯気の立ち昇るティーカップを持ってきて、ルクレツィア妃に差し出した。
「ど、どうぞ。ハーブティーです」
それを受け取り、一口飲む。
湯はぬるく、香りが死んでいる。
ルクレツィア妃はニーナをじっと見つめた。
要領が良く、何でもそつなくこなすあの娘がこんなお粗末な仕事をするとは思えない。
「うふふ、このお茶はリュイスが淹れましたのね?」
怒られると思ったのか、リュイスは身を竦め、震える。
「も、ももも、もうしわけありません、きさきへいか」
「あら、どうして謝るのですか? ――大変おいしくてよ」
もう一口飲んで、サイドテーブルにティーカップを置いたルクレツィア妃は、リュイスに手招きをして見せた。
意図が分からぬまま、リュイスはルクレツィア妃のもとへ恐る恐る歩み寄った。
小動物のように自分を窺ってくるリュイスを、ルクレツィア妃は手を伸ばし絡めとると、ぎゅっと抱きしめた。
「き、きさきへいか?」
子供特有の高い体温に、ルクレツィア妃の荒んだ心が甘やかに溶かされていく。
鮮やかで柔らかな琥珀色の髪を、彼女は優しく指で梳く。
戸惑いながら、リュイスは上司であるニーナを見る。
ニーナはいつものように、にこやかな笑みを絶やさず、頷いて見せた。
『甘えてもいいんだよ』
と言わんばかりに。
リュイスは恐る恐るルクレツィア妃の胸に身を預けてみた。
柔らかな感触、温もり。仄かな優しい香り。
母というものはこういうものなのだろうか。
生まれてすぐ母親から引き離されて、侍女として育てられたリュイスには母という存在がよくわからない。
『父』によって徹底的に距離を置かれ、母には抱いてもらったことがなかった。
リュイスに優しくしてくれる姉たちと腹違いの兄もいたが、『父』には、彼らをそう呼んではならないときつく言い聞かされ、やはり距離を置かれた。
家族は確かに存在するのに、リュイスはずっと一人ぼっちだった。
そんな彼女を、後宮の母ルクレツィア妃が優しく包み込んだ。
――どれほどそうしていたのだろうか。
ゆっくり頭を撫でられているうちに、幼いリュイスは眠りに落ちてしまっていた。
「あらあら。お疲れのようですね」
「妃陛下、こちらで寝かせてあげましょ」
「ええ」
ルクレツィア妃はリュイスを起こさぬよう、慎重に抱き上げてベッドに降ろしてはその額に貼りついた琥珀色の髪を優しく梳いてあげた。
ニーナがにこやかにリュイスの靴を脱がせながら話す。
「ここ数日、慣れない環境で頑張ってたんですからね」
「そう」
「――アイシャさん、今頃文句言ってそうですよね」
ニーナは、ルクレツィア妃の不在を預かり、彼女に成りすまして政務を代行している女官アイシャの話を振った。
ルクレツィア妃は人差し指を顎に押し当て、アイシャの様子を想像しては、肩を震わせ笑った。
「ふふふ、どうかしら。むしろ、わたくしがいなくて、のびのびとやっているのではなくて?」
「あはは、かもしれませんねっ」
からからと笑うニーナを見つめ、微笑んだルクレツィア妃は彼女に訊ねた。
「それで、明日からの用意はできていまして?」
「教科書も、制服も用意できてますよ。
学籍も、マリア様が用意してくれました。第一クラスになるそうですよ」
「ふふ」
ルクレツィア妃の新しい『お遊び』。
息子アウレール王子の成長を見守り、『お邪魔虫』光玄というイレギュラーを見極め、大陸の外交の縮図である学園で新たな火種を探す。
従妹である新学園長マリアは、そのお遊びにかなり乗り気で、大変協力的であった。
「最終確認してみます?」
「お願いね」
頷くと、ニーナはルクレツィア妃を姿見の前へ導き、着替えさせ始める。
国宝級のドレスを脱がせ、白と青を基調とした新品のブレザータイプの制服をルクレツィア妃に着せていく。
そして、金色の不定形の液体で満たされた小瓶を開け、その中身――染色スライムをルクレツィア妃の銀紫の髪へ塗り込んだ。
すると、たちまちルクレツィア妃の髪色が金髪へと変じていった。
次に、化粧台の前に座ったルクレツィア妃に施された濃いめの化粧をニーナは丁寧に落とし、地味なメイクを施していく。
そのメイクは実に見事なもので、しばらくすると、華美なルクレツィア妃の面影は完全に消えて、純朴な顔立ちの少女の顔になっていた。
更に、ニーナはルクレツィア妃に、大きな丸眼鏡をかける。
すると、彼女の特徴的な薄紫の瞳の色が凡庸な青色に変わっていった。
その身に纏うのは、学園指定の新品の制服。
そしてメイクによって作り上げられた、あどけない顔。
鏡に映る彼女の姿は、どこから見ても、垢ぬけない新入生にしか見えない。
誰も、彼女がルクレツィア妃だとは思わないだろう。
おそらくは息子アウレール王子でさえも。
「明日からが楽しみですね、妃陛下――いいえ、レイラお嬢様」
レイラ・ヘリステラ。
地方男爵家の病弱な末娘。
社交界に一度も出たことがなく、親族以外に顔を知る者はいない、箱入り娘。
――ルクレツィア妃がいくつも持つ、別の顔のうちの一つだ。
彼女は、純朴な田舎貴族の娘の顔で、たおやかな笑みを作って見せる。
「うん。よろしくね、ニーナちゃん」
その完璧な変貌ぶりに、ニーナは一瞬目を白黒させると、ビシッと親指を立ててにんまりと笑った。
それを見たルクレツィア妃改め、『地方男爵家の令嬢レイラ』はくすくすと可憐に笑うのだった。




