第51話 密談①
学園の職員室。
そこでは明日の初授業の準備に向け、教員たちが忙殺されていた。
と言っても、それはクラスの担任を任されたごく一部の教員だけで、他の教員たちは手持ち無沙汰でそれを羨ましそうに眺めるだけだ。
学園の学則では、生徒間の身分による差別や区別は禁じられており、生徒は教員の出自に関わらず師として敬わなければならない。
が、教員の間ではその限りではない。
高位貴族家の出身者が学園内での要職に就き、各クラスの担任を務めることが多いのだ。
担任は仕事が増える上、高貴な生まれの令息令嬢らを管理せねばならない大変な立場にある。
それでも教員たちは我先にと担任になるべく手を尽くす。
何故なら、多額の手当がつき、担任を務めたクラスの生徒がのちに大成したならば、場合によってはその師として歴史書にも名が残るほど、大変栄誉ある役職だからだ。
そんな喧噪を、教員ベン・カスピリアーノはぼんやりと見つめていた。
男爵家の三男風情に過ぎず、不人気教科の社会科を担当する彼には縁のない話だ。
(今年も担任は侯爵家に、伯爵家のお偉方ばっかりだな)
面倒くさがりのベンとしては、そこまで必死になって担任をやりたいという欲はないのだが、手当は非常に魅力的だ。
何せ、担任手当を含めれば通常の給料の三倍にまで達するというのだ。
(羨ましいことだが、俺とは無縁な話だな)
ベンはお上にあまり評判のいい教員ではなく、お呼びではない。
ため息を一つ吐き、初授業の資料をまとめ、作成したカリキュラムを確認する。
そんな彼のもとに、コツコツとヒールを鳴らしながら一人の女性が近寄ってきた。
「失礼。カスピリアーノ先生でいらっしゃいますね?」
「ん? あっ、学園長」
新任の学園長、マリア・モンテ。
彼女は暗い紫色の髪を後ろでひとまとめにして垂らし、地味な灰色のスーツで身を包んでいる。
化粧は苦手なのか、どうにも野暮ったい雰囲気に仕上がっている。
一言でいえば、地味な女だ。
だが、このマリアはベンの好みのど真ん中に刺さる女性である。
地味な装いはしているものの、あの絶世の美女ルクレツィア妃の従妹だけあって、隠しきれぬ美を秘めているのだ。
――何より、お尻が大変愛らしく、ベンは彼女の後ろ姿に一目惚れしたほどだ。
ドギマギするベンに、マリアは薄く笑みを浮かべ、その薄紫の瞳でじっと見つめて話を始めた。
「実は先生にお願いしたいことがありまして」
「俺――いや、私にですか?」
「ええ。こちらを」
そう言って、マリアは一枚の書類を差し出してきた。
それに目を通したベンは自分の目を疑った。
「……マジ? あっ、いえ、本当ですか?」
「マジですよ」
マリアはにっこり笑い、ベンの粗野な物言いを真似て答えた。
書類の内容。
それは、ベンへの担任教員就任の依頼書であった。
「いかがでしょうか、ベン先生」
マリアに柔らかい笑みを向けられたベンはドギマギしながらも、即答はしない。
「し、しかし、何故私ですか? ご存じでないかもしれませんが、私は男爵家の三男で――」
「それは生徒たちを教えるのに重要なことですか?
わたしは、あの決闘の時見事に審判を務めてみせた貴男にならば、担任をお任せできると思っただけですよ」
人生、どう転ぶかわからないものだ。
たまたま決闘騒ぎに介入して、あの黒騎士卿によるアレッサンドロへの『指導』に見入っていただけだったのに、まさかそれを評価されるとは。
「や、やります! やらせてください!」
「まぁ、うれしい。では、書類に署名を」
多額の担任手当。欲に目が眩んだベンは早速ペンを手に取る。
そのまま逸る気持ちを抑え、ベンは担任教員受諾書類に署名を終えた。
「――確かに。それでは、先生には新一年生の第一クラスを担当していただきます。
こちらが生徒名簿です」
マリアに手渡された生徒名簿に目を通したベンの目が見開かれる。
「――マジ?」
「マジ」
ベンの顔がみるみる青ざめていく。
「え、えっと、ちなみに辞退は……」
「署名しましたよね?」
「い、いやぁ、よく考えてみたら、私では荷が重いかなぁって」
「――署名、しましたよね?」
マリアの表情は依然穏やかで、柔らかい笑みを湛えたまま。
だが、逆らえぬ凄まじい圧を感じる。
辞退なんてしたら、何をされるかわかったものではない。
「せ、誠心誠意、担任を務めさせていただきます」
「よろしい。一年間、生徒たちをお願いします。
では、わたしはこれから大事な話し合いがありますので、失礼させていただきますね」
ベンの答えに満足げに頷いたマリアは踵を返すと、上機嫌で去っていく。
ベンはその後ろ姿を恨めしげに睨みつけながらつぶやいた。
「……魔女め」
しかし、彼の視線はマリアの愛らしいお尻に釘付けになったままだった。
◆
学園長室の応接間。
マリアはソファに座る男性に対し、優雅に一礼をして向かいに座った。
「大変お待たせしまして申し訳ありません」
マリアの声に、銀髪の壮年の紳士が形のいい髭をいじりながら、柔らかい笑みを向けてくる。
「構わぬ。むしろ、グリフォンを貸してもらったこと、感謝しておる。
おかげで人目につかずここまで来ることができた」
「お役に立てて何よりです。アルトゥール様」
アルトゥール・グランスタイン公。
彼はある話し合いのため、マリアにグリフォンを借りて極秘裏に学園まで飛んできていた。
「『お姉様』は、これから参りますので少々お待ちを」
「構わん。儂が約束の時刻より早く着きすぎただけだ。
それよりも、驚いたぞ。まさか君が学園長になるとはな」
「ふふ、フェアティル侯に是非にと頼まれまして」
フェアティル侯の名を聞いて、アルトゥール公は渋面を作る。
「フェアティルか。あの者ももう八十六歳だったな。
学園創立から六十年。学園長の椅子にしがみつきすぎであったな」
「去年の冬に腰をやらなければ、未だに学園長をやっておられたはずですけれど」
アルトゥール公とマリアは二人して愉快そうに笑う。
「とはいえ、君が学園長ならば儂としても一安心だ。
君なら、我が娘を不当に扱いはせんだろうからな」
「当然です。他ならぬ、貴男様のご息女でいらっしゃるのですから」
「だからといって、贔屓などはせんことだ。いいな?」
「ええ。もちろんです」
アルトゥール公とマリアはかなり親しげな様子だ。
宿敵ルクレツィア妃の従妹なのにもかかわらず。
地味な装いこそしているが、ルクレツィア妃と顔立ちもよく似ていて、身にまとう雰囲気もどこかルクレツィア妃を彷彿とさせるものがある。
それでも、アルトゥール公は彼女に対して拒否感を示したりはしない。
「マリア。まだ善い相手はおらぬのか?」
「うふふ、貴男様ほどの殿方にはなかなか巡り合えず、未だに独り身なのです」
「儂になどこだわらず、そろそろ身を固めよ。若さなど、矢の如く過ぎ去っていくものだぞ」
マリアはかつて、アルトゥール公の再婚相手候補の一人であった。
縁談はまとまりかけたものの、当時、ルクレツィア妃が断固として反対したため、こじれにこじれた。
最終的にはアルトゥール公がメヒティルト夫人と再婚したことでマリアとの縁談の話は消えたが、その後も友人としての付き合いは続けてきたのだ。
「――独り身もなかなか気楽で楽しいものなのですよ。
それに、商人ギルドの取りまとめに加えて、学園長の役職まで任せられたのですから。しばらくは婚姻などは考えられません」
「そうか。君がそれでよいならば、儂からは言うべきことはないな」
「そういえば、イングリット嬢の従者の方――ラッセル卿のことですが」
ラッセル――光玄の名が出た途端、アルトゥール公は嫌な予感を覚えた。
「や、やつがどうした。決闘騒ぎは上手く収めたと聞き及んでおるが。
他にまた何かやらかしたのか?」
「いいえ、その決闘騒ぎのことで。
そのご様子ですと、結果だけ聞かされておられるのですね?
実は――」
マリアは光玄とアレッサンドロの決闘の際の『指導』のことをアルトゥール公に事細かく話した。
顛末をすべて聞いたアルトゥール公は呆れを隠せず、こめかみを押さえた。
「――何をやっておるのだ、やつは」
「実に素晴らしいご指導でございました。
卒業後は、当学園で剣術科の教員として教鞭を振るっていただきたく、お誘いしたのですが……」
「断ったのであろう?」
「ええ。グランスタイン家の家臣故、お受けできないと」
「ふん、やつらしいな。しかし、儂としては教員というのも有りだとは思うが」
「ですから、アルトゥール様の方からもそれとなくお話ししてくだされば」
「うむ。やつには当家の家臣としてまともな職に就き、所帯を持ってほしいのでな。協力はしよう」
「ありがとうございます」
「おそらくは、断られるであろうがな」
その時のことだった。
突如、凛とした、底冷えするような声が応接間に響いた。
「――楽しそうですこと」
コツコツと床を鳴らすヒールの音。
翼のようにはためく銀紫の髪。
いつの間に入ってきたのか。
国母ルクレツィア妃の姿がそこにあった。
彼女の姿を見たマリアは立ち上がり、一礼をしてルクレツィア妃をアルトゥール公の向かいに誘う。
「ようやくきたか」
対するアルトゥール公は国母に対する礼を尽くすこともなく、ソファに座ったままルクレツィア妃を迎えた。
だが、この場にそれをとがめる人間はいない。
非公式の話し合いの場であるが故に。
アルトゥール公の向かいに腰を下ろしたルクレツィア妃は、脚を組みソファに背中を預けると、気だるげに彼をねめつけた。
「老いましたね。アルトゥール」
「貴様は昔から何一つ変わらんな」
そう言って、アルトゥール公はルクレツィア妃とマリアを見つめた。
従姉妹同士。
今年二十八歳のマリアより年上であるはずのルクレツィア妃。
だが、彼女は従妹マリアより随分と若く見える。
下手をすれば、アルトゥール公の愛娘イングリットと同年代にも見える。
白き神の寵愛を受け、不老無病の加護を得た『聖女』。
その不自然な若々しさが逆に彼女の底知れぬ不気味さを際立たせている。
「それでは話し合いの前に、お二人には『絶対遵守の誓約』に署名をしていただきます」
そう言って、マリアはアルトゥール公とルクレツィア妃の前に一枚ずつ誓約書を置いた。
書かれている内容はきわめてシンプルだ。
この誓約書に署名した者は以下の条件を遵守することとする。
一つ、本日に限り、この誓約に署名した者へ危害を加えてはならない。
一つ、本日、この場における話し合いにおいては、嘘偽りを述べてはならない。
アルトゥール公は目を細めて誓約書の文面を読み解いた。
一つ目は悪くない。
『直接的な危害に限る』などとは書かれていないため、剣の達人であるルクレツィア妃自身による攻撃も、暗殺者を使っての攻撃も誓約に抵触する可能性が高い。
二つ目は微妙なところだ。
嘘偽りを述べてはいけないが、嘘さえ言わなければ、別に真実を語る必要はないし、黙秘してもいいことになる。
いくらでも曖昧にはぐらかすことができるのだ。
それでも、この狡猾で危険な女を相手にするなら十分な安全装置ではある。
アルトゥール公は慎重に誓約書に署名をし、ルクレツィア妃は、この文面を考えたであろうマリアに不満げな視線を向けてから、渋々といった様子で署名を終えた。
すると、誓約書は光の粒子となり、それぞれの胸の中に吸い込まれていった。
『絶対遵守の誓約』。名前の通り、誓約書に署名した者に、その内容を強制することができる『魔法』だ。
一般に出回る、商人たちが契約などに用いる魔術『命令』の原典であり、それを上回る強制力を持つ。
もしも、それに反する行為をしようものなら、耐え難い激痛に襲われ、それでもなお違反しようものなら命を落とすことになる。
そして、マリアは二人のものとは違う文面が記された誓約書を見せてきた。
立会人である自分に使うためのものだ。
この誓約書に署名した者は以下の条件を遵守することとする。
本日、学園長室の応接間にて見聞きした一切の事実・情報を口外してはならない。
文面は強いが、完璧な情報漏洩対策とはいかない。
いかに強力な『魔法』を用いても、情報を伝えようとする意志そのものを禁ずることは不可能なのだ。
その意志を封じられぬ限り、抜け道などいくらでもある。
人の扱う力で、それを捻じ曲げることなど叶わない。それこそ神の力でも使わぬ限りは。
それでも、アルトゥール公とルクレツィア妃は頷いて見せた。
この二人にはマリアが徹底的に第三者――立会人を貫くであろうという信頼があるのだ。
その決して裏切らない『信頼』こそが、このマリアを若くして複数の商人ギルドをまとめる立場にまで押し上げた力に他ならないのである。
そもそも、彼女には『絶対遵守の誓約』すら要らない。ただ立会人としての『誠意』を見せただけに過ぎないのだ。
二人の同意を得て、マリアは柔らかい笑みを浮かべ、それに署名した。
先ほどと同様に、誓約書は光の粒子となり、マリアの胸元に吸い込まれた。
「では、どうぞ」
マリアが一歩引き、いよいよアルトゥール公とルクレツィア妃の話し合いが始まる。
「――わたくしからは、お前に言うべきことなど何もなくてよ。可愛い従妹の頼みでなければ、この場に来ることもありませんでした」
そう話すルクレツィア妃はアルトゥール公を見つめ、まるで毛虫でも見るような渋面を浮かべている。
本当に、会話など一言も交わしたくない風である。
そして、それはアルトゥール公も同じであった。
「儂とてできることならば、貴様とは一秒たりとも一緒にいたくはない。
だが、確認すべきことがあるのだ」
「なんでしょう」
「レオナルドめの種無し疑惑の件だ。
あれを流したのは貴様だな?」
「うふふ、わたくしからのプレゼントはお気に召されて?
本気で探りを入れてきたお前の姿はなかなか滑稽でしたよ」
ルクレツィア妃はあの件についての真偽は明かさず、ただ問われたことにのみ答え、くすくすと笑って見せた。
「――一体、何を考えておる。
儂でなければ、踊らされるがまま愚かな真似をしておったかもしれぬぞ」
「その愚かな真似をしていただきたかったのですが?」
「なに……?」
王は種無し。ならばアウレール王子は一体、誰の子なのか。
その疑惑を短慮な者が真に受ければ、グラントリア王国はたちまち内戦の炎に飲み込まれかねない。
アルトゥール公は想像する。
その炎を起こす者としてまず考えられるのはクリスティアン大公だ。
彼本人は野心家というわけではないが、王弟派の貴族たちは嬉々として食いつくことだろう。
アウレール王子に正統性がないとなれば、病床のレオナルド王の後を継ぐ正統性を有する者は他ならぬ王の弟、クリスティアン大公なのだ。
王弟派の貴族共は大公本人か、その嫡男の公子ルカを担ぐことだろう。
ことはルクレツィア妃の不貞とも取れる故、白教もこれ幸いと介入してくるはず。
グラントリア王国内への影響力を強める絶好のチャンスと捉えるはずだ。
対する王妃派の貴族らはその混乱を機に、国内の経済を掌握しているルクレツィアを女王として擁立しようとするはずだ。
大義名分など、何とでもなる。
レオナルド王が種無しであることを故意に隠したとして、先に背信行為を働いたのは王家だと喧伝する。
そしてルクレツィア妃を、王家に尊厳を踏みにじられながらも善政を敷き、民の暮らしを守ってきた存在として担ぎ上げるのだ。
まさしく、国の母として。
『幸い』にも、ルクレツィア妃以外にも被害者は実在するのだ。
アルトゥール公の妹にして、石女として冷遇された末に命を落とした、先の王妃ヴィルヘルミーナである。
実際にヴィルヘルミーナを死に追いやったのはルクレツィア妃のはずだが、王妃派の貴族にとっては王家への格好の攻撃材料だ。
仮にアウレールが婚外子であり、それを王子として立てたのだとしても、王妃派は『王家に欺かれ、追い詰められたルクレツィア妃が、生き延びるために選ばざるを得なかった道だった』と訴えるだろう。
実際に命を落とした先の王妃が存在する以上、ルクレツィア妃に対して同情的な視線を送る者たちも少なからずいるはずだ。
黙したまま思考を巡らせるアルトゥール公をねめつけながら、ルクレツィア妃は薄く笑みを浮かべた。
「お前の反応を見て、確信が得られました。お前ほどの者でも、探らずにはいられない。疑わずにはいられない。
俗物共であれば、我慢などできずに飛びついてくれるでしょうね」
ルクレツィア妃の口ぶりからすると、いずれこの疑惑を広めるつもりでいるようだ。
「愚かな。内戦になるぞ」
「それこそが、わたくしの目的でしてよ」
「何を、言っている? 内戦を起こして、何が望みなのだ?」
ルクレツィア妃はその問いに、しばし瞑目した。
まるで『望み』を噛み締めるように。
「――グラントリア王国の、完全にして不可逆なる破滅」
「何っ!?」
動揺し、アルトゥール公は立ち上がりかけた。
マリアはルクレツィア妃の問題発言にも、依然として薄い笑みを浮かべたまま、静かに佇んでいる。
どこか、この状況を楽しんでいるようにも見える。
「貴様は仮にも国母であろう。何故、王国の破滅を望む!?」
「私怨でしてよ」
「私怨だと!? どんな事情があって、無関係な民を巻き込もうというのだ!」
「無関係? いいえ、いいえ。この国の人間であれば、等しく咎人。
『あの方』の苦しみを見て見ぬふりをした者ども全て! 地獄の業火に焼かれるべきなのです!」
「あの方? 誰のことを言っておる」
『あの方』。その呼び方に、アルトゥール公は違和感を覚えた。
この傲慢な女がそう呼ぶほどの人物とは何者なのか。
「――それが分からないのなら、やはりお前は生かしてはおけなくてよ」
粘つく殺気がルクレツィア妃から発せられる。
即座に『絶対遵守の誓約』が発動し、彼女は胸元を押さえてその端正な顔を歪めた。
おそらくこの『絶対遵守の誓約』の働きがなければ、アルトゥール公を殺害していたほどの強い怒り、そして憎しみがそこにあった。
「――何故、貴様はそれほどまでに儂を憎む。
儂が貴様を憎む理由はあれど、貴様が儂を憎む理由はないはずだ」
ルクレツィア妃はその問いには答えず、遠い昔の記憶を振り返るように目を閉じた。
しばらくして、彼女は静かに口を開く。
「逆に、一つお聞きしましょう。
何故、ヴィルヘルミーナ様に『あんな返事』を送ったのですか?」
「何? ヴィルヘルミーナに? 何の話だ。いつのことだ?」
アルトゥール公にはルクレツィア妃の言うことが全く分からない。
そもそも、妹――ヴィルヘルミーナの死には、この女が深く関わっているはずだ。
何故、そんなルクレツィア妃が妹の名を口にするのか。
「――なる、ほど、なるほどなるほど。『些事』と言うほどですもの。
もう覚えてもいないようですね?」
「一体、何を言っておる!」
いよいよ訳が分からず、アルトゥール公は怒りを乗せて怒鳴った。
「『わたしたち』は、ずっと『貴男』を待っていたのに」
震える声。
その声には、ルクレツィア妃の見た目相応の、どこか幼さを感じさせる響きがあった。
ルクレツィア妃はこれ以上は話すことなどないとばかりに、ソファから立ち上がった。
アルトゥール公を見下ろすその薄紫の瞳は憎しみと悲しみ、そして失望に揺れる。
そしてその肩は、溢れんばかりの何かの感情を堪えているように震えていた。
未だかつて見たことのないルクレツィア妃の様子に、アルトゥール公は怒気を飲み込んで彼女を窺う。
「……ルクレツィア?」
だが、それもほんの束の間。
すぐにルクレツィア妃は妖しい笑みを浮かべた。
「ああ、そうでした。黒騎士卿……『光玄』様のことですけれど」
突然話題を変えたルクレツィア妃は、やけに綺麗な発音で光玄の名を舌に乗せた。
アルトゥール公は警戒を強める。
基本的に男への関心が薄いこの女が、ただの従者のことにここまで興味を示すのは非常に珍しいことだ。
しかも、彼女は『ラッセル』ではなく、この大陸では馴染みのない『光玄』の方で彼を呼んでいる。
そんな彼女の声色にはどこか彼への親愛の感情すら窺える。
まるで直接会ってきたかのような。
(なんだ……? この女とミツハルめは接点などないはず)
アルトゥール公はルクレツィア妃の意図を測るべく、聞き返した。
「突然なんだ。ミツハルがどうした」
「わたくしにちょうだいな」
アルトゥール公は自分の耳を疑った。
一度引っ込めた怒気が再度顔を出す。
「何ィ!? 儂を愚弄するか!
冗談を言っている場合ではなかろう!」
「あら、『本気』でしてよ。わたくし、あの殿方が欲しくなりました。
わたくしに譲りなさいな」
少なくとも、嘘ではない。この話し合いの間は『絶対遵守の誓約』の効力が続いている。
ますます、この魔女じみた女の思考が読めないアルトゥール公。
このまま彼女のペースに嵌まるのは非常にまずいと思ったアルトゥール公は反撃に出る。
「ふん、貴様のような魔女が一目惚れでもしたというのか?」
「――だとしたら、なんだというのです?」
ルクレツィア妃は、頬を赤らめ――まるで恋を知ったばかりの乙女のような、恥じらいと切なさの交じった表情を浮かべていた。
さすがのアルトゥール公もこれにはたじろいだ。
「なっ、何!?」
そんな彼を見たルクレツィア妃は、次の瞬間には心底馬鹿にしたような表情を浮かべ、鼻を鳴らした。
「ふん、これしきの戯れに動揺するだなんて。
やはり老いましたね。みっともなくてよ」
ルクレツィア妃は目を白黒させるアルトゥール公の顔を見て、少し留飲が下がったと言わんばかりに、ととんっと床を鳴らして踊るような足取りで離れていき、ドアへと向かった。
「光玄様はいつかきっと、わたくしのものにしてみせますことよ」
そう語る彼女の頬はわずかに朱に染まっている。
そして、うふふと鈴が転がるような可憐な声でからかうように笑うと、ルクレツィア妃は応接間から出て行ってしまった。




