第50話 めぐる、因果③
夜。ベルギッタは店じまいをして寝室へ戻ってきた。
有り難いことに、荒れ放題だった寝室はラッセル卿とサーリアが手伝ってくれたおかげで綺麗に片付いている。
寝巻きに着替え、寝支度を済ませる。
しかし、ベルギッタはベッドで眠る気にはなれなかった。
かつて夫と愛し合ったその場所は、もう心休まるところではない。
商会長に組み伏せられた、恐怖の場所となっている。
目を閉じれば、まだ欲望にまみれた商会長の歪んだ顔が映り、耳を塞いでも下劣な言葉と息遣いが聞こえてくるようだ。
ベルギッタは部屋のソファに腰を下ろして膝を抱えた。
一人の夜。途端に心細くなる。
何度も何度も戸締まりを確認した。それでも、心の中に不安が広がる。
寝室のドアを見つめる。
昼、商会長に押し倒され震えていたところに、ドアを蹴り開けて入ってきた黒ずくめの男の姿を思い出す。
ラッセル卿。
ミツハル・ラッセル・ゲールハイト。
騎士様で、一応は貴族。
ベルギッタも彼の噂は聞いたことがあった。
なんでも、戦場で敵兵たちを白教の聖印に括りつけ、馬に繋いで引きずり回したとか、兵たちの腹を一人一人切り裂いて回ったとか、敵将含めた大勢の兵の首を槍に掲げて走り回ったとか。
とにかく物騒な噂ばかりの恐ろしい男。
だが、あの時ドアの向こうから現れた彼を見て、ベルギッタは夫が帰ってきたのだと勘違いしてしまった。
背格好も、顔立ちもまるで夫とは違う。
当然、髪の色や目の色だって違う。
だというのに、ラッセル卿の纏う雰囲気は、夫のものと酷く似ていた。
纏う気配は緩いのに、妙に姿勢が良く、歩くとき足音を響かせず。
常に穏やかで落ち着いていて、時に何を考えているのか分からないところがあって、時に研ぎ澄まされたナイフのようであって。
その『在り方』が夫そっくりだったのだ。
だから、ラッセル卿のことをじっと見つめてしまった。
夫ではないことは分かっているのに。
夫との馴れ初めと近い状況だったのもあったからか。
どうしても夫とラッセル卿の姿が重なって見えた。
――夫とは、ならず者に襲われていたところを助けられ、何度も偶然の出会いを重ねて、運命のように結ばれた。
初めての出会いのあの時、ならず者を押さえつけていた夫に言われた言葉が、今でも鮮やかに耳に残っている。
『大変だろうけど、何か縛る物とかないかな』
同時に、ラッセル卿の低い声が綺麗に重なる。
『大変だとは存ずるが、何か縛る物をいただけぬか』
変な人たちだ。
普通、酷い目に遭ったばかりの女に、縛る物を探させるだろうか。
思わず苦笑してしまう。
ベルギッタは、改めて寝室を見回した。
綺麗に片付いてはいる。
だが、夫にプレゼントしてもらったガラス細工などの思い出の品々は粉々になって捨てるしかなかった。
机に飾られた転写晶には、ベルギッタとミラの姿しか残っていない。
夫は転写晶に写るのをひどく嫌がるような、古い価値観を持った男だった。
顔が写ると魂が抜けると言って、頑なに拒否していたのだ。
幼い頃のミラが描いた夫の似顔絵も、商会長に踏みつけられ、元の形が分からなくなってしまっている。
夫の痕跡が、思い出がもうほとんど残っていない。
「……こんなことなら、無理やりにでも転写晶で撮ればよかった」
そんな後悔が口を突いて出る。
膝をよりきつく抱き、ぼんやりとドアを見つめる。
ラッセル卿がベルギッタの顔を見て呟いた名前が妙に耳に残っている。
「……オシズ」
彼も、ベルギッタを通して誰かの面影を見たのだろうか。
大事な人なのだろうか。
ベルギッタを見つめていた彼の痛みを孕んだ表情。
もしかして、彼も悲しい別れを経験しているのだろうか。
「――また会いたい」
ラッセル卿に会って、もっと話がしてみたい。
もしかしたら、彼は自分と同じ痛みを抱く人かもしれない。
どうやったらその痛みを、悲しみを乗り越えられるか分かっている人なのかもしれない。
ベルギッタは膝を抱えたまま、ソファに背を預けた。
彼は、近いうちにまた来てくれると言っていた。
お茶をもっと用意しなければ。お茶請け菓子は?
好きなものは何だろうか。
――そんなことより、もう寝なくては。
明日も朝早くから店を開けなければならない。
ベルギッタは眠りにつくべく、目を閉じた。
ひどく疲れている。不安も残る。
だが――それと同じくらい、自分でも持て余すほどの名も無き感情が胸の奥に残っていた。
その感情の正体を、ベルギッタはまだ知らない。
ただ、それはどこか期待にも、胸騒ぎにも似ていた。
◆
学園都市某所。
『彫刻士』はある屋敷の中を歩いていた。
夜中でも目が痛いほど魔鉱灯が灯され、影が掻き消えた廊下を通って、奥の書斎へ向かう。
ゆっくり、音を立てず書斎の扉を開くと、そこは更に暴力的なほどの光で満たされていた。
書斎の中には、本の塔がいくつも高く積まれ、びっしりと何かが書かれた紙が散乱しており、足の置き場もない。
「『彫刻士』。何の用だ。ここには貴様が切り刻むようなものはないぞ」
『彫刻士』は完全に気配を絶っているつもりだったが、書斎の主は彼女の存在に即座に気づいた。
「やぁ、久しぶりですねぇ、ウィリアム先生」
書斎の奥、神経質な顔の初老の男が何かを書きながら、ぎろりと『彫刻士』を睨む。
「何の用かと聞いている。私の時間を無駄にするな」
「もう、余裕がないんですから。さては、行き詰ってますねぇ?」
「――死にたいのか?」
瞬間、床に散らばっていた紙切れが宙に浮かび、猛烈に回転し始めた。
それらは紙とは思えない恐ろしい硬度で、本棚や机を削り取りながら『彫刻士』に迫り、取り囲んだ。
「やだなぁ、お仕事の誘いですよぉ。あと、無詠唱魔術はやめてもらえます?
うっかり殺しそうになったじゃないですかぁ」
いつの間に投げつけたのか、初老の男の耳のすぐ横――椅子の背に、彫刻刀が突き刺さっていた。
「――フンッ」
初老の男が不機嫌に鼻を鳴らすと、刃と化していた紙切れは硬度を失い、ひらひらと床に落ちていった。
「それで? 仕事とはなんだ。
見ての通り私は忙しいのだ。手短にしろ」
「わたしたちの仕事と言えば、『暗殺の依頼』に決まってるじゃないですかぁ。
今回のターゲットはこちらの方です」
『彫刻士』は初老の男の前へ進み、懐から小指ほどの像を出して机の上に置いた。
鋭い目つきの、若い男だ。
「男か。貴様にしては珍しいな。
男では胸躍る素材にはならないのではなかったのか?」
男性の頭を彫ったその像をちらりと一瞥しながらも、初老の男の手は一瞬たりとも止まらず、手元の紙にびっしりと文字を書き連ねている。
「まぁ、そうなんですけどぉ、カール伯直々のご依頼ですし?
その像ではよくわからないですけどぉ、その人、黒髪に黒目なんですよねぇ」
ピタリ。
ようやく、初老の男の手が止まった。
「――ほう。それは不思議なことだな。この世に、黒髪黒目はイングリット・グランスタイン嬢、ただ一人ではなかったのか?」
「ふふっ、その人――ミツハル・ラッセル・ゲールハイトって言うんですけどぉ、ある日突然現れて、そのイングリット・グランスタイン嬢の従者になっちゃったんですよねぇ」
「な、に?」
初老の男はペンを取り落とした。
「この邂逅、偶然とは思えないですよねぇ。運命、感じちゃいません?」
初老の男は、今まで書いていた紙をズタズタに引き裂いてゴミ箱へ投げ捨てた。
「いい。いいぞ。良質な悲劇の着想が得られそうだ」
「うーん。また悲劇ですかぁ? 先生の書くお話ってすごく好きだし、面白いんですけどぉ、わたし、ハッピーエンディングの方が好きなんですよねぇ」
『彫刻士』のその言葉に、初老の男は鼻を鳴らして語り始めた。
「フン、貴様の趣向を否定はしない。だが、私は悲劇にこそ人間の本質が、魂が宿ると思っているのだ。
例えるなら――両家の対立で結ばれぬ運命の恋人たち。飢えを凌ぐため子を売り飛ばさねばならぬ親。同じ女性に恋をし、殺し合った双子。敬愛する人が死にゆく様を見ることしかできなかった少女。国を救いながらも、魔女として火あぶりにされた少女。憎い敵の妻を愛してしまった男。たった一つの誤解で、すべてを失う王妃。破滅の神託を避けようとして、かえって国を滅びへ導く王。父の妾に恋し、父に剣を向けてしまった息子。愛する者を救うために沈黙し、悪女として葬られた女。神を誰よりも愛しながらも神に見放された者。他人の言葉を鵜呑みにし、妻の貞操を疑って自らの手で殺めた男。愛してやまぬ者が側にいるのに、運命のいたずらで巡り合えぬ女。父王を殺め、母を奪った叔父への復讐に苦しむ王子。甘言に踊らされ娘を放逐し、他の子らに裏切られ狂気の中死んでいった父。離れ離れになった夫にたった一度だけ会おうと彷徨い、野垂れ死んだ女。魔女たちに唆され、主君を殺めた将軍。夫を殺めた仇とは知らず、惹かれゆく未亡人!」
「うわぁ……」
鼻息荒く、悲劇の数々を歌うように並べ立てた初老の男の鬼気迫る様子に、異常者『彫刻士』は思わず引いてしまった。
だが彼はまだまだ止まらない。
「市井では、悲劇よりも喜劇が好まれていると聞く!
喜劇は結構! その過程で葛藤や成長があるならば、大変結構!
だが、私が許せぬのは『白騎士物語』のような、葛藤も成長もない、ひたすら無敵の英雄の活躍を描く作品だ!
剣を振るえば空が、大地が、海が割れ! その甘い言葉一つで悪人が改心し! 仲間どもはその進む先に何の疑いも抱かず追従し! 目が合っただけで女どもが傅き! 世界を脅かす大魔王はその足元でみっともなく命乞いをする! これのどこに人の本質が、魂があるというのだ!」
「いやぁ、わたしは大好きなんですけどねぇ、『白騎士物語』。最高にスカッとするし」
「――そうか」
熱く語っていた初老の男は、突如としてスンと落ち着きを取り戻した。
「うわっ、いきなり落ち着かないでくださいよぉ」
『彫刻士』は初老の男を引き気味に見つめた。
初老の男の熱は完全に失われている。
彼は、自分と主義主張の異なる人間の考え方を無理に変えようとはしない。
――時間の無駄だからだ。
彼は『彫刻士』の反応など一切気にかけず、淡々と話した。
「貴様の趣味趣向は尊重しよう。だが、私は喜劇も、英雄譚も書くつもりはない」
「えーもったいないなぁ。ウィリアム先生なら絶対、すごく面白いの書けるのに」
「心が躍らぬ。貴様とて、そこらの凡骨ではやる気が起きぬだろう?」
「わかるぅ」
初老の男は分厚い外套を掴むと、外出の準備を始めた。
「あれ、どこか出かけるんですかぁ? 依頼のことはぁ?」
「良い着想が得られそうなのだ。依頼のことは保留だ。街へ出て、悲劇を『造って』考えをまとめたい」
「あっ、ちょっとぉ! ウィリアム先生! もうっ」
初老の男は『彫刻士』の制止にも、振り返ることなくそのまま外へ出て行ってしまった。
「はぁ。もう、『劇作家』先生はホント、芸術家肌なんだから」
ぼやきながら、『彫刻士』は床に散らばる『悲劇』を一つ拾い上げて読み始めた。
「はぁ。ホント、最高に面白いなぁ。ハッピーエンディングのお話書いてほしいけどなぁ」
彼女は読んでいた『悲劇』をポイッと投げ捨てた。
「さて、『劇作家』先生の次回作に乞うご期待! ってね」
ミツハル・ラッセル・ゲールハイトへの殺害依頼は特に期限は設けられていない。
『彫刻士』はいつも通り、『作品作り』ついでに依頼をこなすだけだ。
彼女は踊るような足取りで『劇作家』の屋敷を出て、暗闇に包まれた学園都市の街並みを眺めた。
今夜、この街のどこかで『悲劇』が起こる。
その『作品』はしばらくは脚光を浴びるかもしれない。
だが、それは所詮『劇作家』が『傑作』を書き上げるための練習作品に過ぎず。
すぐに人々の記憶から消え去っていくだろう。
まだ見ぬ『傑作』の予感に、『彫刻士』は鼻歌混じりで学園都市の闇の中へ溶け込んでいくのだった。




