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第43話 運命変曲点②

 グランスタイン領、ヴァルシュタット。

 石の山のようにそびえ立つ、城塞都市。その頂上の屋敷。

 その主はつい先ほど学園から伝書鳩で届いた手紙を前に、頭を抱えていた。


「ミツハルめ、入学早々何をやっておる……

子供の安い挑発などに乗りおって。やつも気が短くてかなわん。

コルヴァンも何をしておるのか。ミツハルを止めねばならんだろうに」


 屋敷の主、アルトゥール公がそう愚痴をこぼすと、隣の車いすの女性が心配そうな顔で彼に尋ねた。


「あなた、何かあったのですか?」


「いや……メヒティルト、君が心配するようなことはないのだが……

まぁ、君も読んでみるといい」


 そう言って、アルトゥール公は車いす女性――メヒティルト夫人に問題の手紙を手渡した。

 手紙の内容を読んだメヒティルト夫人の薄緑色の瞳が揺れる。


「これは……あまりにも酷いですわ……

亡くなられたアマーリエ様のことをこんな風に侮辱するなんて……」


「儂としても憤りは感じるのだがな。それでもその場は引いて、後日ロヴェルチアーノ侯爵家へ謝罪を求める抗議文を送るべきだったのだ」


 アルトゥール公は淡々と自分の考えを話した。

 貴族として実に正しい対応と言える。

 しかし、メヒティルト夫人は真っすぐ夫の顔を見つめ尋ねた。


「こんなことを、面と向かって言われても我慢できるのですか?」


「……」


 アルトゥール公は黙り込んで、自分の形のいいひげを撫でつけ――


「――無理だな」


 そう答えた。

 メヒティルト夫人は困ったような笑みを浮かべ、改めて手紙の文面に目を通す。


「とても上手に書かれた手紙ですわ。客観的に、ありのままの事を書き記しているようで……」


 手紙の文面は、一歩引いた第三者の目を通した『記録』あるいは『報告書』に近い。

 愛娘と亡き妻を侮辱されて、あのアルトゥール公がすぐ激怒しなかったのは、この妙に淡々とした筆致のおかげだったのだろう。


「――妙だな。考えてみれば、ミツハルめに、こんな理路整然とした手紙など書けぬはずだ」


「それは――そうかもしれませんけども」


 一瞬、光玄を庇おうとしたメヒティルト夫人だったが、彼女も夫の意見に頷かざるを得なかった。

 もし、光玄が書いたのなら、主観的かつ感情的で極端な内容が書かれていたはず。

 その時、手紙をよく読んでいたメヒティルト夫人が何か妙なものを見つけた。


「あら? 手紙の隅の方に、小さく代筆者の方のお名前が――

チェーリオ・マルデーラ? あの、あなた? このお方って確か……」


 その名前を聞いたアルトゥール公は珍しく、その切れ長の鋭い目を丸くした。


「――?? チェーリオ・マルデーラ?

マルデーラ侯爵家の倅ではないか」


 その名前には覚えがあった。

 つい先月、イングリットとアウレール王子の婚約披露パーティにて、王子が働いた無礼に対し必死に謝罪して、彼を庇っていた側近の少年だ。

 しかも、マルデーラ侯爵家といえば、代々国王の側近を輩出してきた名家だ。

 それがどうして光玄のために手紙を代筆しているのか。

 夫妻は揃って首を傾げた。


「味方を作れとは言ったが、さすがに想定外に過ぎるぞ」


 困惑は残る。しかし、アルトゥール公の口元は愉快げに吊り上がっている。


「それでは、当家としてはロヴェルチアーノ家に対し、遺憾の意を示すに留めるとしよう。

決闘の件の判断はミツハルの義姉、アンゲリーカに委ねる」


 そう言って、アルトゥール公は手紙に封をし直して窓辺へ向かうと、それを伝書鳩に預けて南へ――ゲールハイト家へ送り出した。

 音を置き去りにし、飛び立ったそれの残光を目で追いながら、メヒティルト夫人は不安げに話す。


「よろしかったのですか? 酷いことになりそうな予感しかしませんわ」


「――思えば、先代の失政以来我がグランスタイン家は、ずっと落ち目の公爵家と呼ばれてきたのだ。

恐れられるくらいでちょうど良いかもしれぬと思ってな」


「……」


 メヒティルト夫人の瞳が不安に揺れる。

 彼女が嫁いでからグランスタイン家は多少持ち直してはいるものの、まだまだ盤石とはいえない。

 そんな最中、敵を増やすのは得策ではないと思ったのだろう。

 彼女の肩に、アルトゥール公は優しく手を置いた。


「心配するな。そのために『やつ』と話し合いの場を用意したのだ。

ミツハルに敵を作らず、味方を作れと言った手前、儂も動かねばならん。

正直、業腹ではあるがな」


 そう言うアルトゥール公の表情は心底嫌そうで、それほどに話し合いの相手は彼にとって苦手な人物なのだろう。


「本当に、お一人で行かれるのですか? お供も連れず、また前回のようなことになったら……」


「だからこそ、儂一人で赴くのだ。

儂が思うに、グランスタイン家にはネズミが紛れ込んでおる。

儂の動きを知る者は少ないほどいい」


 メヒティルト夫人もそれは察していたのか、静かに頷いて見せた。

 そして、執務室を見回した。

 いつもならば、執事長ロタールや護衛隊長テオドールが傍に控えているはずだが、現在は彼らに別任務を与え、屋敷から遠ざけている。

 彼らは信頼できる腹心ではあるが、今回ばかりは誰にもアルトゥール公の動きを悟らせるわけにはいかないのだ。

 本人は隠しているつもりでも、無自覚のうちに情報を漏らす可能性だってあるのだから。


「それでも不安なのです。

だって、あのお方、ルクレツィア様が何もしないとは思えないのです」


「確かに、やつからしたら儂を仕留める絶好の機会であろうな。

だが、やつにも心境の変化があるようなのだ。ミツハルの入学に口添えをするなど、以前のやつからは考えられん」


 アルトゥール公の知るルクレツィア妃なら、敵の有能な手駒を自由にはさせない。

 身動きできなくするか、排除するか。

 そして、アルトゥール公はもう一つの疑問を口にする。


「――それに、国王レオナルドの種無し疑惑が儂に漏れたこと自体不自然だ。

あの女狐がそんなくだらないミスを冒すとは思えん」


 この件については、アルトゥール公はこれまでも調査を続けていた。

 しかし、それ以上の情報はどこからも出てこない。最初に情報をもたらした元王宮医師も忽然と行方をくらましている。

 大陸随一の情報屋集団『深淵からの囁き』ですら、この件に関しては何一つ把握できていないのだ。

 彼らが出した結論では、この件は『偽り』で、『罠』ということだった。


「意図的……なのですね」


「ああ。やつめ、儂がこの件を喧伝し騒ぎ立てるとでも思ったのか?」


 ルクレツィア妃には何の得もない。反王妃派の貴族たちが同調して内戦にでもなっては目も当てられない。

 アルトゥール公はずっとこの件に関して、喉に棘が刺さったような違和感を覚えている。

 何故進んで不利になるようなことをするのか。目的がまるでわからない。


「確かに、不自然ですわ……」


「この件に関しても、やつを問い詰めてみるつもりだ」


「お答えになるでしょうか」


「それは、やつ次第だろうな」


 依然、メヒティルト夫人の不安は拭えない。

 夫は今、危険な賭けに出ようとしている。

 今度こそ帰ってこれないかもしれない。

 しかし、これ以上余計な口を挟むまいと心に決めた彼女は、黙って夫の手を強く握りしめるのだった。



◆◇◆



 学園内のアリーナ。

 普段は剣術の授業や生徒の自主訓練に使われる施設だ。

 それ以外には講演会などに使われることも多く、客席もしっかり用意されている。

 そして稀に、生徒同士による決闘の場として使われる。

 ちょうど、今のように。


 アリーナの中央。

 その決闘の主役、光玄とアレッサンドロが向かい合っており、その真ん中には教員ベンがげんなりした顔で立っていた。


(クソめんどくせぇ。どっちの家も即行で返事送ってきやがって)


 ベンが決闘開始時刻をわずか一時間後に決めたのには訳があった。

 彼の狙いは決闘不成立。

 伝書鳩を使っても、実家との手紙のやり取りにはどうしても時間がかかる。

 怪我や死のリスクがあるため、そう簡単には決められる問題でもなく、検討する時間が必要となる。

 形式を守りつつ、穏便に決闘を止め、さらには面倒な決闘見届け人の役目から逃げる。

 それがベンの狙いだったのだが――


 両家からの返信を携えた伝書鳩が、わずか三十分もしないうちに揃ってしまったのだ。

 特に、ロヴェルチアーノ侯爵家からの手紙――否、『豪華絢爛な巻物』は事前に準備してあったとしか思えないものだ。

 あんなもの、用意するだけでも数日かかるはず。

 そんなものが、アレッサンドロが手紙を送ってからほぼ間を置かずに届いたのだ。


(ちっ、最初から家の命令で決闘を申し込みやがったのか。用意周到なことだ)


 アレッサンドロというより、ロヴェルチアーノ侯爵家は、決闘の準備を全て整えたうえで、黒騎士卿と接触する機会を窺い、すぐさま挑発をして決闘に持ちこんだのである。

 確かに、大陸中で悪名が広まりつつある黒騎士卿を下せるなら、アレッサンドロにはこれ以上ない箔がつくことだろう。


(負けるかもしれないとは思わないのかねぇ)


 アレッサンドロは素行に問題はあるが、二年生の中では抜きんでている実力者ではある。

 おそらく、現役の騎士にも引けは取るまい。


 対する黒騎士卿の実力は未知数。

 戦場では、一騎駆けして降り注ぐ矢の雨を全て弾き返して弓兵を返り討ちにし、何十人もの敵兵を白教の聖印に括りつけて引きずりまわしたとのことだが、おそらくは全て嘘っぱちだ。

 さらには、一撃で十数人の敵兵を吹き飛ばし、その馬までもが敵兵を噛み殺していたというのだから、ますます嘘くさい。

 戦場で悪目立ちした人間には、そういったとんでもない武勇伝が付きまとうのが常だ。


(とはいえ、戦場を経験した人間はつぇえんだよな。

多少剣の腕が立つだけのぼんぼんには荷が重いと思うがな)


 観客席を見ると、かつてない盛況ぶりだ。

 空席はほぼ見当たらない。

 普通なら、決闘当事者の関係者や、荒事好きな一部の生徒が観戦するものだが、今回はあの悪名高い『黒騎士卿』が決闘を行うというのだ。

 新入生だけでなく、上級生まで詰めかけていて、さらにはベンの同僚――教員たちまでも専用席を設けて観戦に来ている始末であった。


(おい、お前ら、仕事はどうしたよ。って、新学園長までいやがるじゃねぇか!)


 教員席をよく見てみると、先ほど就任挨拶をしたばかりの学園長マリアまでもが優雅に足を組んで、うきうきした様子で決闘が始まるのを待っていた。


(こりゃあ、適当な進行なんかしたら査定に響きそうだな。しょうがねぇ、やるか)


 ベンは深いため息をついて、気持ちを切り替えた。

 関わってしまった以上、役目は果たさねばならない。


「では、まず、この場に集まった皆さまには、私ベンと共に、この決闘の見届け人となっていただきます。

その証となる、両家からの返信を開封し、読み上げます」


 まず、ベンはロヴェルチアーノ家からの返信を持った伝書鳩を呼び寄せた。

 無駄に金箔の縁取りが施され、煌めくソレを伝書鳩から受け取ったベンは、思わず眉間にしわを寄せた。


(重っ!)


 見た目以上にズシリと重く、分厚いその巻物を手に、ベンは猛烈に嫌な予感を覚えていた。

 震える手で封を切り、巻物を開いて中身を見た瞬間、ベンの顔から表情が消えた。


「……うわっ、なっっっがっ……」


 思わずそうつぶやいたベンを、アレッサンドロが睨みつける。

 さっさと読み上げろと言うのだろう。


(ちっ、分かってんだよ)


 ベンは覚悟を決め、ひとつ咳払いをして、巻物を読み上げ始めた。


「……我が家の誇りたる嫡男アレッサンドロ・ロヴェルチアーノは、高潔なる精神と気高き魂をもって悪名高き黒騎士との決闘に臨む所存である。

この決闘における義は、我がロヴェルチアーノにこそあることをここに主張する。

黒騎士は降伏し戦意無き者に自害を強い、無用に苦しめたのちその首を斬り落とすという、野蛮かつ残虐極まりない行いをしている。

これは、甚だしく騎士道精神に背いているものと言わざるを得ない。

我が嫡男アレッサンドロは、正義の心と正しき騎士道精神によって、この不義に異を唱え、決闘によって正すべく立ち上がった義ある若者である。

アレッサンドロは正義を示すがため、己の命と魂をかけ悪辣たる黒騎士を下し、己こそが騎士に相応しいということを世に知らしめることだろう。

更に……」


 語り出しだけでこの調子である。

 この後はアレッサンドロの幼少期からの武勇伝やらなにやら、とにかく彼を称える美辞麗句が延々と綴られている。



 ベンは、目を細めながら続きを読み上げる。

 額にはうっすらと汗が浮かぶ。

 途中、無意識に愚痴が口をついて出た。


「……だるっ……これ、全部読まなきゃダメなのか……?」


 観客席から微妙な笑い声が響き、美辞麗句に余計なノイズを混ぜた教師ベンをアレッサンドロが睨む。

 もう大体ロヴェルチアーノ家の言い分は出尽くしているはずなのに、巻物はまだまだ半分も読めていない。

 ベンは以下略と言いたい衝動をぐっと飲み込んだ。


 教員ベン・カスピリアーノはたかが男爵だが、それでも貴族の端くれ。

 決闘見届け人となったからには、その務めを途中で投げ出すことは許されない。

 彼はこの決闘騒ぎに介入したことを本気で後悔していた。


 ――かくして、実に二十数分かけてベンはその手紙――巻物を読み切った。


「――我がロヴェルチアーノ家は今回の決闘を受諾し、その結果が如何になろうと受け入れることをここに約定する次第である。

……以上が、ロヴェルチアーノ侯爵家からの正式回答です。

……ふぅ……」


 まだ決闘が始まってもいないのに、教師ベンの顔には疲労の色が濃く滲んでいた。

 それどころか、妙な達成感すら表情に現れている。

 観客席からは労うような、あるいは「やっと終わったか」と言わんばかりのまばらな拍手が響く。


「続いては、ゲールハイト家からの……ん?」


 ゲールハイト家からの手紙を手に取ったベンは妙に薄いその感触に眉をひそめた。

 内容は恐らく極めて短い。喜ばしいことだ。

 しかし、ベンは嫌な予感を覚えていた。

 震える手で開封し、内容を目にした途端、冷や汗がぶわっと全身に噴き出す。


「……これ、読まなきゃダメなのか……」


 ベンは汗を拭い、ゲールハイト家からの手紙をおそるおそる読み上げる。


「――殺しなさい。

以上。ゲールハイト家当主、アンゲリーカ・ゲールハイト子爵からの正式回答……です。

文面から、決闘受諾とその結果への同意はなされたとみなします。

えーと、異議のある方はどうぞ」


 ――アンゲリーカからの返事はたった一言。それだけだった。

 何一つ、光玄の正当性を主張せず、第三者への訴えなどもない。

 ただ、殺害命令が記されているのみである。


 沈黙。異議など出てこない。

 アレッサンドロを含め、観客たちは言葉を失い、しばし凍りついた。

 やがてざわざわと、ざわめきが場を満たし始める。


「な、なんという……」

「そ、それだけ?」

「さすがは、あのゲールハイト家か……」

「アンゲリーカ様、素敵ですわ……」


 一部、うっとりした声も混じっていたが、その多くの声は困惑と畏怖に支配されていた。


 光玄が一歩進み出て、ベンから義姉アンゲリーカの手紙を恭しく受け取り、静かに頭を下げる。

 そして短く、低い声で言った。


「――ご随意に、義姉上」


 その一言が、なぜかアリーナ内にひどく大きく響き渡った。

 ざわめいていた観客は静まり返り、当事者であるアレッサンドロは、理由もなく、首筋を冷たいものが這う感覚に身震いしたのだった。





 学園中庭。

 入学式を終え、寮へ戻る生徒たちの中に、白金の如く輝く一人の少女の姿があった。


 メルセデス・カルスタイン。

 カルスタイン帝国第十三皇女にして陸軍少佐。

 周りの生徒の多くが選りすぐりの貴族令息・令嬢だというのに、彼女の前では皆田舎の子供にしか見えない。

 皆、距離を置いて、憧れが込められた視線を向けてくるばかりだ。


(やれやれ。これでは気が休まらないな)


 軽く一つため息。そして彼女は寮へ向かって歩みを速め――


(ん?)


 メルセデスの視線の先、生徒たちはどこか浮ついた様子で、そのほとんどがアリーナへ向かっていた。


(入学式の後は、公式の予定は何もなかったはずだが)


 メルセデスはアリーナへ向かう、新入生らしき一人の男子生徒を呼び止めた。


「君、ちょっといいか」


 呼び止められた男子生徒は目を丸くし、すぐにメルセデスに媚びへつらうよう頭をペコペコ下げてくる。


「こ、これはメルセデス皇女殿下! 何か御用でも?」


 メルセデスは形のいい眉をひそめた。

 この生徒だっていいところの貴族令息だというのに、卑屈にすぎる。

 お近づきになりたい。そんな下心が透けて見える。

 しかも、彼の視線はメルセデスの豊かな胸元に向けられている。


(ふん、俗物が) 


 だが、メルセデスはその嫌悪感を飲み込み、尋ねた。


「本日の公式予定はもうないはずだが、何故皆アリーナへ向かっているのだ?」


「ああ、それは『決闘』があるからです」


「決闘? 入学早々か?」


「はい、あの黒騎士卿と上級生が決闘することになったそうで。

今、アリーナでその準備が進められているのです」


 メルセデスは小さくため息を漏らす。

 黒騎士、アレッサンドロ。どちらも有名人だ。

 黒騎士は戦場での残虐行為によって、今まさに大陸中で悪名が広まっており、アレッサンドロは文武両道で二年生では常に上位の成績をキープしている、大変優秀な生徒だと聞いている。

 何があったかはわからないが、きっとろくでもない理由で決闘に発展したのだろう。


(くだらない諍いを見世物にするなど)


 メルセデスは苛立ちを覚える。

 それに気づかず、男子生徒はメルセデスに手を差し伸べる。


「よろしければ、この私と共に決闘を見届けませんか?」


 早速、下心を出してきた男子生徒が差し伸べた手を眺め、メルセデスは苦笑いを浮かべる。


「――いや、せっかくだが遠慮しておこう。それより、もうすぐ始まるようだ。

これは急がないと席がなくなるのではないか?」


 見ると、もう周りには誰もいない。

 男子生徒はにわかに焦りだすと、メルセデスに頭を下げ、そそくさとアリーナへ走っていった。

 一人残されたメルセデスは改めて寮へ向かおうとして――奇妙なものを目にした。


 アリーナへ続く道の上にぼんやりと浮かぶ、白い人影。

 それはまるでおいでおいでと言わんばかりに、メルセデスに手招きをしている。

 その姿はまさしく幽霊そのものだ。

 普通の令嬢なら、悲鳴の一つでもあげているところだ。

 しかし、メルセデスの頬には深い笑みが刻まれている。


「――ほう。学園では真っ昼間から幽霊が出るのか」


 なおも手招きする白い影を、彼女は目を細めて見つめる。

 そして、恐れなど微塵もないしっかりした足取りで白い影に歩み寄り対面する。


「アリーナで面白いものが見られる。そう言いたいのだな?」


 白い影はメルセデスのその問いに、どこか嬉しそうにこくこくと頷く。


「いいだろう。君が何者かは知らないが、その思惑に乗ってやろう」


 メルセデスのその言葉に、白い影はまるで踊るようにアリーナの方へ向かい――

 その姿は掻き消えた。

 不気味ではある。だがそれ以上に、メルセデスはこの不思議な体験に心が躍るのを感じていた。


「さて、何が起こるのか。楽しみだな」


 先ほどの白い影同様、メルセデスも踊るような足取りでアリーナへ向かうのだった。

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