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第30話 ガーベラ①

 グランスタイン家屋敷の廊下。

 公爵令嬢イングリットは侍女サーリアと共に足早に進んでいた。

 その足取りは軽やかで、どこか楽しげである。

 普段の彼女からは考えられないことだ。

 向かう先は予定より早く謹慎を解かれた、彼女の従者、光玄の元。


「お嬢様、あまり急がれると転びますよ」


 普段から足早で忙しなく歩き回っているサーリアがそう注意するくらいには、今のイングリットは明らかに浮き足立っている。


「ごめんなさい、でも早くお伝えしたくて」


 イングリットには、光玄への大事な用事があった。

 ボルガルに預けていた、例の『なまくら』を打ち直し終えたとのことで、光玄を呼んでくるように頼まれているのだ。

 イングリットに贈られることになってはいるが、元は光玄のもの。

 彼に立ち会ってもらわねばならない。

 それと、彼に渡したいものもある。

 イングリットはサーリアの胸元、彼女が抱えている紙袋を一瞥する。


(気に入っていただけるかしら)


 期待、そして一抹の不安と共に、イングリットは廊下を進み、やがて光玄の客間へつく。

 早速、サーリアが遠慮のない手つきでドアをノックする。


 コンコン


「ミツハル様。いらっしゃいますか?」


 ――反応はない。


「どちらへ行かれたのかしら」


 そう残念そうに話すイングリットに、サーリアは表情を変えずにいつも通り早口で言う。


「図書室ではないでしょうか。ミツハル様は、旦那様から毎日の読書を欠かさぬようにと申しつけられておりますから、お部屋にいらっしゃらないならきっと本を借りに図書室へ向かわれたはずです」


「――図書室」


 イングリットは逡巡する。

 図書室は帳簿の整理などでよくメヒティルト夫人が利用している。

 鉢合わせする可能性は高い。

 イングリットの胸中を察したサーリアが、心配そうな顔で提案する。


「わたしが代わりにお伝えしてもいいのですよ。ボルガルさんの鍛冶場の方へ来られるように――」


「ううん、大丈夫。行きましょう」


 ほんのわずかな間の逡巡。イングリットはすぐに図書室へ足を向ける。

 あまり離れから本邸へ来ることのないイングリットの姿を見て、何人かの使用人たちが目を見開き、避けるように道を開ける。


 以前ならイングリットはそんな彼ら彼女らの様子に傷ついていただろうが、今の彼女の視界には使用人たちなど入っていない。

 本邸の中でもひと際人の出入りが少なく静かな図書室。

 そこに近づくにつれ、聞きなれた低い男の声が響いてきた。

 光玄が何やら独り言を言っているようである。


「――嗚呼、なにゆえに私は、斯様な過酷な運命に身を賭すことになったのか」


 思わず、イングリットとサーリアは同時に足を止めた。

 苦悩に満ちた、いつもよりずっと低い声。

 わずか数日の謹慎生活がそこまで堪えたのか。


 二人の少女は顔を見合わせる。

 ――あり得ない。そんな柔な精神の持ち主ではない。


「イン、グリット!」


 ビクッ


 急に名前を呼ばれたイングリットが肩を強張らせる。

 隣のサーリアも何事かと目を丸くしている。


「何故、そなたはイングリットなのか! この思いをどうやってそなたに伝えればよい! おお、イングリットぉ!」


 サーリアの頬が赤く染まり、笑みが耳元まで広がる。


(きた、きたきたきたわ~~! あの唐変木にしてはずいぶん、いいセンスしてるじゃないですか!)


 突然の愛の告白。直接想いを伝えること叶わず、人気のない図書室で独りああやって苦しんでいるのか。

 恋愛脳サーリアがこれを見逃すはずもなく。


「さぁさぁ、お嬢様行きますよ! 勝負の時、来たれり! ですよ!」


「えっ、ちょっと待って」


 対するイングリットの反応はどこか醒めており、胡乱気な視線を図書室の方へ向けている。

 確かに、光玄は普段からどこか芝居がかった喋り方をする男だが、今のあれは輪をかけている。

 それに、今の彼のセリフには聞き覚えがあり――


「行きますよ!!」


 半ば強引にサーリアに手を引かれ、イングリットは図書室へ足を踏み入れる。

 すると――


 パチパチパチ


 そこには、何かの紙束を食い入るように見る光玄と、彼に小さく拍手を送る、車いすに乗ったメヒティルト夫人、そして影のように傍に控えるロタールの姿があった。


「うふふ、素晴らしいですわ、ミツハル様! すごくいい発音をされていましたよ」


 弾む声で光玄に拍手を送るメヒティルト夫人。にこやかな顔で頷くロタール。

 やはり褒められ慣れていないのか、光玄は照れくさそうに頭をかく。


「さ、然様か」


「ええ、ええ! 自然にイングリットさんのお名前を言えるようになっていましたわ。

さぁ、もう一度最初から――」


 そして、そこでようやくイングリットとサーリアの視線を感じたのか、メヒティルト夫人が二人を見る。


「い、いつからそちらに……?」


 メヒティルト夫人の顔がほんのり赤く染まる。

 彼女のその質問に、紙束から二人の少女の方へ視線を移しながら光玄が答える。


「ふむ、少し前から来ておられた様子。

騒々しかったようで、申し訳ございませぬ」


 未だ状況が飲み込めぬサーリアが目を白黒させる。


「ど、どういうこと、です?」


「――『ロメオとユリア』の一節よ。サーリアの大好きな」


 苦笑いを浮かべて、イングリットはサーリアにそう説明する。

 『ロメオとユリア』。交わらぬ運命の星のもとで生まれた一組の男女の報われぬ悲恋を描く劇脚本。

 多くの作家たちの手によって翻案され、恋愛小説として市井でも広く読まれている。

 そして、サーリアの愛読書の一つでもある。


「な、なっ――」


 サーリアがあんぐりと口を開き、光玄を見つめる。

 つまり、光玄はメヒティルト夫人の指導のもと、彼独特の訛りを直すため、即席の台本を作って発音の練習をしていたのである。


「――イングリット殿。如何か」


「はい?」


 光玄の脈略のない質問の意味が解らず、イングリットは瞬きを繰り返すだけだ。


「むむ、まだ上手くできなんだか」


「いいえ、上手でしたわ! ほら、イングリットさんも気づかれていないではありませんか」


 イングリットはしばらく光玄とメヒティルト夫人を見つめ――


「――あっ、わたしの、名前」


 イングリットはようやく気が付いた。

 光玄が口にした、イングリットの名前。いつもの訛りがなくなり、はっきりした発音になっている。


「おお、上手くできたようで何より」


「急に、どうして……」


 困惑と共にそう問いかけるイングリットに、光玄は力強く頷くと、理由を話した。


「主の名もまともに言えぬのであれば、武士として名折れ! 学園なる場所でいんぐりっと殿に恥をかかせるわけには参りませぬ故」


「ミツハル様、また訛っておりますよ」


 老執事ロタールがそうやんわりと指摘すると、光玄はビシッと背筋を伸ばし気合を入れなおすように自分の頬を両手で叩いて言った。


「むっ、これは失礼をば。イン、グリット殿」


「――ふふっ」


 イングリットは小さく吹き出す。相変わらず真面目過ぎる男だと思ったのだろう。

 主のその様子に、光玄はまた発音に問題があったのかと思い込み、しきりに口を動かし、修正を試みる。

 ふと、視線を感じてイングリットがそちらを見ると、メヒティルト夫人と目が合い――

 無意識に目をそらした。

 そんなイングリットの様子に、メヒティルト夫人は悲しげに目を伏せる。


(このままじゃ、駄目)


 イングリットは唇を噛んだ。

 もうすぐ、イングリットは学園へ入学し、夏季休暇まではこの屋敷には戻ってこられない。

 次にメヒティルト夫人に会えるのは、もしかしたら彼女の命を懸けた出産の時になるかもしれない。もしかしたら――間に合わないかも知れない。

 ちゃんと向き合って、話し合わなければ。


「「あの」」


 イングリットと、メヒティルト夫人の声が綺麗に重なった。

 二人揃って、互いを見つめ目を丸くしている。

 メヒティルト夫人も全く同じことを考えていたのか。


「「……」」


 しかし、会話は続かない。

 メヒティルト夫人がふと肩に羽織った薄緑色のストールを撫でた。

 今ではこのストールの本来の贈り主がディートハルトではないことに、彼女は何となく気が付いている。

 恐らくは目の前で目を背けている、この黒髪黒目の少女が編んでくれたのだろうと。

 メヒティルト夫人は懐から一通の手紙を取り出した。

 いつ渡してもいいようにずっと持っていたのか、その角は潰れて丸くなり、わずかにしわが寄っている。


「――イングリットさん、こちらを」


「これは……?」


「て、手紙ですわ。その、お返事は結構ですから、読んでいただければ……」


 精一杯の勇気。手紙を差し出したメヒティルト夫人の手が震えている。

 イングリットはほぼ無意識のうちに手を伸ばし、それを受け取った。

 ずっと懐に入れていたせいか、手紙はほんのり暖かい。


「ありがとう、ございます」


 イングリットはそれを大事そうに胸に抱く。

 そしてほほ笑み、メヒティルト夫人に言った。


「――きっと、お返事をします」


「え、ええ! その、楽しみにしておりますわ」


 まだ、どうにもぎこちない。それでも、確かにこの不器用な継母と義娘が初めて心を通わせた瞬間でもあった。

 イングリットがメヒティルト夫人の手紙を大事そうに懐に仕舞い込み、ふと思い出したかのように光玄に話しかけた。


「そうだ、ミツハル様。ボルガルさんがお呼びです。『謹慎が解けたなら嬢ちゃんと一緒においで』とのことでして」


「もしや、あのなまくらの件でござるか?」


「は、はい」


「おお、それは是非ともご一緒させていただきたく!

――奥方殿、某のためにわざわざお時間を割いていただき、誠に忝のうござい申した」


 喜色を浮かべた光玄は、すぐにメヒティルト夫人へ頭を下げて礼を示した。

 メヒティルト夫人は、慌てて目元に浮かんでいた涙を拭い、答える。


「は、はい。もういい感じに発音できていらっしゃいましたから、その調子で学園でも頑張ってくださいね」


「はっ」


 イングリットもメヒティルト夫人に軽く頭を下げ、図書室を後にしようとして――

 サーリアが固まったままであることに気づいた。


「サーリア……? どうしたの? もう行くよ」


 メイド少女は、長い金髪を揺らしながら、肩をわなわな震わせている。

 その真っ青な瞳は光玄に向けられ――


「お――」


 震える声。二の句は紡がれず。


「いかがされた、サーリア殿。お加減がよろしくない様子。休まれれば如何か」


 光玄は真面目な表情で、心底心配とばかりにサーリアの顔を窺う。

 瞬間、サーリアの目がキッと吊り上がり――


「お、乙女の純情を弄んで! 紛らわしいんです! 許しません、許しませんよ! 唐変木! 頓珍漢! 女の敵ィ!」


「!?」


 訳も分からずサーリアの怒涛のような口撃に晒される光玄。

 イングリットとメヒティルト夫人が必死に宥め、最終的には執事長ロタールに『優しく』諭されるまで、サーリアの怒りは治まることはなかった。

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