第29話 烏(Corvus)
グランスタイン家屋敷。
その執務室。先日のアンゲリーカによる、三度に渡る破壊の痕跡はもう残されていない。
いつも通りの質素かつ清潔な執務室だ。
だが、普段とは雰囲気が違う。
いつも灯している魔鉱灯の明かりは消され、窓のカーテンは閉められ外の光は入ってこない。
薄暗い執務室を照らすのは、執務机の上のランプの明かりだけ。
ドアはしっかり施錠され、周りに人の気配はない。
いかにも密談が行われている現場だ。
執務机に肘を乗せて椅子に座る当主アルトゥール公と、その隣には車いすに座ったメヒティルト夫人の姿がある。
その向かいに、老執事長ロタールと全身鎧姿の護衛兵が直立不動の姿勢で立っていた。
ロタールの隣に立つ護衛兵は完全武装状態であり、顔を全て覆う、フルフェイスの兜まで被っている。
彼の鎧の形は他のグランスタイン家の護衛兵たちに支給されるそれと全く同形状のものだが、決定的に違うところがある。
通常、白と青を基調に塗装された制式のものとは異なり、この護衛兵が身に纏う鎧は全てが黒に塗装されている。
その頭に被っている兜にも、どこか鳥類の嘴を連想させるフェイスガードがついており、飾りにまで漆黒の羽根飾りが施されている。
まるで一羽の烏といった出で立ちである。
アルトゥール公は護衛兵のその姿を見つめ、重々しく口を開く。
「して、コルヴァンよ。わざわざその姿で我が前に立ったということは、相応の覚悟があってのことだと考えるが――貴様は本当にそれでいいのだな?」
名を呼ばれた護衛兵コルヴァンは、室内――しかも貴き方々の御前であるにも関わらず、兜を取るどころか、フェイスガードを開けてその顔すら見せない。
彼はただ胸の前で拳を作り、兵士としての礼を示すだけだ。
末端の護衛兵にあるまじき明らかな無礼な行いだが、礼儀作法に厳しいロタールが何も言わない辺り、何か特別な事情があるのだろう。
「もう一度確認しておく。貴様にはこれより、イングリットの護衛兵として学園へ同行してもらう。ミツハルの実力に疑いはないが、一人では護衛にも限界はある」
「――はっ、仰る通りでございます」
黙していたコルヴァンが兜の奥でくぐもった声で答えた。
「それに、やつはただの無名騎士で終わるような男ではない。
奴にもしっかり学園で学び、交友関係を築き、将来、グランスタイン家を支える家臣になってもらわねばならぬ」
「同意いたします」
ガチャリと、音を立てながらコルヴァンの兜が上下する。
「儂とメヒティルトは、ミツハルをイングリットの婿候補の一人として見ているが……貴様はやはり反対なのだな?」
ちらりと、アルトゥール公がメヒティルト夫人を見てそう言うと、彼女は嬉しそうな、悪戯っぽい笑みを浮かべて夫を見つめたが、すぐに真面目な表情を取り繕った。
「――反対とまでは申しません。ただ、時期尚早です。
学園には比較的『黒』への嫌悪や恐怖の薄い、カルスタイン帝国やフランカイス王国からの生徒も多く入学してくるはず。
お嬢様のお相手はその中から探し、尚見つからなければその後で考えても良いかと愚考します」
夫妻に対して、くぐもった平坦な声でそう意見を述べるコルヴァン。
その会話内容は、一介の護衛兵如きが口にすべきものではない。
だが、この部屋の誰もそれを咎めはしなかった。
「ふむ、そうだな。そしてそれはミツハルめにも当てはまることだ。
奴にもできれば、在学中に良き伴侶に巡り合ってほしいと思っておる」
アルトゥール公のその言葉に、隣のメヒティルト夫人が優しい笑みを浮かべて夫を見つめる。
これでは主君と言うよりは、まるで父親のようだと。そう言いたいのだろう。
それは向かいに立つロタールも同じ想いのようで、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべて主アルトゥール公を見つめている。
唯一、フェイスガードに隠され表情が分からないコルヴァンは、やはり感情が窺えない声でアルトゥール公に答えた。
「は。ミツハル殿をお嬢様の婿に迎えるのも悪くはございませんが、あの方には他家との懸け橋になっていただくのが最もよいかと存じます。
必ずや、我がグランスタイン家をより強固にできましょう」
アルトゥール公はコルヴァンの答えを聞き、髭をいじりながら頷いた。
「もちろん、良い家柄の令嬢であればそれが最もよいが、どうもあやつはどこか危ういのでな。
平民でも構わん。身分は問わず、奴を支えてやれる善き女性がいたら、積極的に仲を取り持つように」
「――はっ、お任せを」
再び兵士としての礼を示し拝命するコルヴァンを、心配そうな目で見つめながらメヒティルト夫人が訊ねた。
「でも、それではあまりにもコルヴァンさんに負担がかかるのではありませんか?」
これまで沈黙を守っていた執事長ロタールも口を挟む。
「はい、僭越ながら、私から見てもあまり向いていらっしゃるようには見えないのですが」
純粋に心配そうな夫人とは違い、ロタールの言葉はやや辛辣で、心配する方向性がどうも異なっているようである。
珍しく顔をしかめたこの老執事の表情には、拭えぬ不信感が浮かび上がっている。
「負担だろうと、向いていなかろうと、命じられた以上は全うせよ。それが一度死して蘇った貴様の命の使い方であろう」
無茶な命令であることはアルトゥール公も承知の上である。
令嬢の護衛をしながら、その従者の面倒まで見ろというのだ。一介の護衛兵に出来る領分を明らかに逸している。
「重責であることは百も承知でございます。不向きであろうと、このコルヴァンは皆様に救われ、人生を正していただいた身。全力で任を果たすことを誓います」
真摯な態度を崩さずそう答えるコルヴァンに、ロタールは小さくため息をつくと、柔らかく微笑みかけた。
「何にせよ、これは貴方様がお選びになった道です。後悔だけはなさいませんように」
「感謝いたします、執事長殿。
今の私がいるのは貴方のおかげです」
ロタールはコルヴァンの謝意を、優雅な一礼をもって返すと、彼が被っている兜を指しながら注意を促す。
「一つ注意事項をお伝えします。くれぐれも、その兜は失くさない様にお願いいたします」
「もちろんです。私自身の生命線でもあります、絶対に手放しはしませんとも」
「兜を外しても、一日くらいならば『機能』は保たれますが、それ以上は保証できかねます。念のため、予備もご用意させていただきましたが、くれぐれもご注意を」
「はっ」
まだ心配そうな目でコルヴァンを見つめていたメヒティルト夫人は、彼に手招きをした。
「コルヴァンさん、ちょっとこちらへ」
「はっ」
護衛兵コルヴァンは騎士然とした淀みない所作で、貴婦人たるメヒティルト夫人の前に片膝をつき、目線を合わせる。
メヒティルト夫人はコルヴァンの兜に触り、ズレを直しながら囁くように言った。
「――お身体には気を付けるのですよ」
コルヴァンの兜のフェイスガードの下、暗いスリットの中で鮮やかな碧の瞳が揺れる。
「――はっ、ご心配なく。お嬢様のことは私にお任せを。この命に変えてでもお守りいたします」
そういうことではないのにと、メヒティルト夫人は困ったような笑みを浮かべたが、それ以上は言わなかった。
立ち上がり、敬礼をするコルヴァンを見上げるメヒティルト夫人の目元は潤んでいた。
アルトゥール公は席を立つと、コルヴァンに歩み寄りその肩を強めに叩く。
「――ゆけ。烏よ。もう、間違えるな」
コルヴァンは静かに頷き、公爵夫妻に深く一礼をすると、背を向け執務室から出ていった。
その背中をじっと見つめたアルトゥール公は深くため息を吐くと、どこか疲れた様子で目元を揉み解した。
「ロタール」
「はい、旦那様」
「ミツハルは?」
「今朝は図書室にいらっしゃいました。奥様をお待ちでいらっしゃるはずです」
「ふっ、やつめ。謹慎を解かれても随分と勉強熱心なことだ」
苦笑い。つい先日、光玄の謹慎を解いてやったばかりだが、相変わらず彼は図書室の住人になって本の虫になっている。
自然と、図書室で帳簿の整理などをやっているメヒティルト夫人と顔を合わせることが多く、メヒティルト夫人は光玄の勉強の面倒を見てあげているのだ。
「大変、もうこんな時間ですわ。ミツハル様、まだ待ってくださっているかしら」
「ははっ、早く行ってあげなさい。ロタール、頼んだぞ」
「はい、旦那様」
老執事ロタールがメヒティルト夫人の車いすを押してゆっくりと執務室から出ていき、やがてアルトゥール公は一人になった。
「さて」
彼は机の鍵を開け、引き出しから数枚の書類を取り出す。
アルトゥール公が独自に集めた様々な情報の数々。
すでにロタールという優れた諜報員がいるが、今回は頼らないことにした。
先日訪問した老貴族カールが、グランスタイン家の内情を正確に把握していたこと。
一流の諜報員ロタールが敷いた情報統制を潜り抜け、何らかの手段で情報を抜き取っている。
「毒には毒をか。この儂が『深淵からの囁き』などの輩に頼る日が来ようとはな」
代償は高くついたが、大陸一の情報屋集団の呼び名の高い『深淵からの囁き』がもたらした情報の数々は確かに精度が高く、信頼できるものだった。
「カールめ、儂を亡き者にしてまでイングリットを欲するか。『凡俗の者ども』の『職人組』まで動かすなど、常軌を逸しておる」
調査報告書の内容。
それは、先日のアルトゥール公暗殺未遂事件の裏で動いていた組織についてのものだった。
『凡俗の者ども』。実行役の『市場組』だけではなく、その上位の『職人組』も暗躍していたようである。
「ルクレツィアめ、焚きつけられたか。それとも、知っていて乗ったのか。
連中の恐ろしさを知らぬわけではあるまいが」
『凡俗の者ども』も一枚岩ではない。
『凡俗の者ども』の組織員のほとんどを占める『市場組』と、幹部級の『職人組』。
『市場組』は家庭を営み、普通の人として生きるため、暗殺者の裏家業に身をやつしている。依頼が絡まない限りは無害だ。
しかし、『職人組』はまるで違う。彼らは快楽殺人者の集まりだ。
彼らは人を殺めるためだけに、家庭を営み、普通の人を演じているのだ。
あの悪辣な『職人組』がこれで諦めてくれるとは思えない。
今後もアルトゥール公やその家族、そしてカールが欲するイングリットの側を守る光玄が標的となるだろう。
「ミツハルが連中にそうそう遅れを取るとは思えぬが……
取れる手段は全て取るべきであろうな。業腹だが、『奴』と一度腹を割って話し合ってみるか」
アルトゥール公は、手紙を一通書いて、『深淵からの囁き』から得られた情報を同封すると、窓を開けた。
すると、双頭の翼のついた獅子――伝書鳩が寄ってきた。
その口に手紙を入れ、宛先を念じて送り出す。
一条の閃光となり、北へ――王都へ向かう伝書鳩の軌跡を目で追いながら、アルトゥール公は深いため息を吐きだすのだった。




