第2章プロローグ 過ぎ去りしものと訪れるもの
「……もう行くのか」
桜色の小袖を翻し、一人去ってゆく『彼女』の背に問いかける。
『彼女』はゆっくりと振り返り、寂しそうな笑みを向けてくる。
「うん。――みっちゃんは?」
「俺もじき、発つ」
もう少し、気の利いた言葉をかけてはやれぬものか。
物心ついてより共に過ごし、祝言をあげ一緒になり、子まで成していたというのに、これではまるで他人だ。
――否、既に他人か。離縁をしたのだから。
「もう、行くね」
『彼女』が背を向け、逃げるように去ってゆく。
最後に一つだけでも、何か言わなければ。
だが、何を言えばいい?
こういうことになったのは俺の責だというのに。
――この、俺が不甲斐なかったばかりに。
「すまない」
それが、精一杯だった。
届いたかどうか分からぬ、消え入りそうな声だった。
それでも『彼女』は立ち止まった。
そして、涙に濡れた顔で振り向いた。
――嗚呼、そうか。俺はまた、間違えたのか。
「みっちゃんには、謝ってなんか欲しくなかったの。
そんなことは、言わせたくなかったのに」
他に、何を、どう言えばよかったのだ。
俺には分からない。
そうか、分からないからこそ、こういうことになったのか。
今度こそ、『彼女』は去っていった。
振り返ることなく。
◆◇◆
ガタン、と枕代わりにしていた腕が机から滑って、光玄は目が覚めた。
「ぬぅ……ここは」
グランスタイン家屋敷の客間だ。
どうやら夜通し本を読んでいて、うっかり寝入ってしまったのか。
普段は夢など見ないたちだと言うのに、昔の夢を見てしまったらしい。
それも最も思い返したくない記憶を。
――もっとも、懐かしい記憶を。
「弛んでおるな」
昔の夢などを見て、感傷に浸るなど、弛んでいると言わざるを得ないだろう。
「――いかんな、御屋形様への本の感想をまとめねば」
戦場から戻るなり光玄とアンゲリーカを呼びつけたアルトゥール公は、大変ご立腹だった。
もちろん、問い詰められたのはルノー子爵切腹事件の件。
幸いその件に関しては、光玄の信じる武士道を説き、一定の理解は得られた。
意外と、やらかしそのものに関しては、アルトゥール公はそこまで怒っている訳ではなかった。
アルトゥール公としても、ゲールハイト家を長年苦しめてきたルノー子爵をいずれは討ち取りたいと思っていたのだ。
本音を言えば、光玄のことを褒めたいところなのだろう。
だが、規範を無視したのはさすがによろしくなかった。
伝書鳩にて学園側へ光玄の入学を申し込んだところ、難色を示されたという。
――人間性に難あり。
危うく不合格になるところだったそうだ。
そこに、被害者であるはずのリーロンド家の新当主ライル子爵からの推薦と、更にはどういう訳か、王妃ルクレツィアからも推薦があり、一転して合格となったらしく。
『あの女狐に貸しを作ってしまった』と。それが、アルトゥール公としては腹に据えかねたらしい。
おまけに、戦場帰りで浮ついたアンゲリーカが出頭の際、嬉々としてアルトゥール公の待つ執務室へ向かい、またしてもドアを破壊したのが何よりまずかった。
その結果、光玄は罰として学園への出発前日までの謹慎を言い渡され、世間一般の常識を育むべしと、山のような礼儀作法やら規範の本の数々を渡されたのである。
アンゲリーカも罰として何やら困難な任を命じられたようだったが、狂喜乱舞しながら飛び出していったらしく、全く罰になっていなかったらしい。
光玄に課された罰にしても、罰にはなっていない。
実際は、休養と自省の時間を与えてくれているだけに過ぎないのだ。
ともあれ、命令は命令。光玄は粛々と従い、本の山に埋もれて過ごすことになったのだった。
そして、それらを数日かけて読み込んだ結果、光玄は自分がとんでもないことをやらかしたと知った。
しかし、知ったところで、彼は自分が間違っていたとは思っていない。今でも、正しい行いをしたのだと、胸を張って言える。
が、主アルトゥール公の考えも理解できているつもりだ。
「俺――某が常識知らずのままでは、いんぐりっと殿に累が及ぼう」
今更、生き方を変えることは出来ない。
だが、主に迷惑をかけては本末転倒。
今の光玄は、もうグランスタイン家の次期当主の従者で、ゲールハイト家当主の義弟だ。
そして、騎士――武士でもある。
「相応しい人間にならねばなるまい。もはや百姓でもなければ、浪人でもない」
そう呟き、光玄は窓の外を見た。
東の山から、朝日が昇ってきている。
世界は変わっても、かつて故郷の山奥の寒村で見ていた風景とそれほど変わりはない。
酷く懐かしい気持ちが胸の奥からこみ上がってきて、光玄は唇を噛んだ。
夢が叶いつつある今、どうして今更になってあの寒村での暮らしを懐かしく思ってしまうのか。
「――お前は、幸せに生きて、穏やかに逝けたのだろうか」
『彼女』は恐らくもう生きてはいないだろう。
あの時の神モドキの口ぶりからすれば、光玄が死してから、随分と時が過ぎている。それこそ百年以上は。
息を吸い込み、ため息と共に、光玄はある名前を吐き出した。
「――お静」
光玄は首を振って雑念を振り払う。
済んだことをうじうじ考えても仕方のないことだ。
「さて、続きを読み、御屋形様へしかと報告せねば」
大事なのは、これからのこと。
自分の恥はそのまま主の恥となるのだ。
礼儀作法の本を広げ、光玄は集中して読み始めた。
◆◇◆
応接間。
アルトゥール公は来客の応対をしていた。
「珍しいな。お主の方から訪れるとは」
アルトゥール公のその声色にはどこか警戒の色がにじみ出ている。
相手の老紳士はその警戒を気にもせず、にっこりと人のよさそうな笑みを浮かべて答える。
「ほっほ、近くを通っておりましてのう。ご挨拶に伺わねば、失礼というもの」
依然、アルトゥール公は警戒を解かず、相手を油断なく見つめる。
旅装ながらもその着こなしに乱れはなく、髭は綺麗に整え清潔感があり、その鋭い目には老齢とは思えぬ力強さがある。
「近くを通ったとて、用向きがなければお主はわざわざ寄らぬだろう。何用か」
明らかに歓迎されていないが、老紳士は余裕を崩さず、我が家のように寛ぐ。
「そろそろ、お返事をいただきたいと思いましてのう」
その言葉に、アルトゥール公の警戒が一層強まる。
「カール。お主……知らぬとは言わせぬぞ。イングリットはアウレール王子と婚約したばかりだぞ」
老紳士、カール・ロートシア。
ロートシア伯爵家の現当主の叔父にあたる人物で、いくつもの鉱山を所有する大富豪でもある。
七十を超えても気ままな独身の身を貫き、世の中の珍しいものを掻き集める変わり者で、蒐集家としても有名だ。
カールはその鋭い目を細め、まっすぐアルトゥール公を見つめる。
「ほっほ、御戯れを。王子がパーティ会場であれほどの無礼を働いたのですじゃ。当然、黙って見過ごすつもりはありますまい?」
「……」
やはり、この男も『濡れ烏の君』命名の件を知っている。
そして、アルトゥール公の性格ならば婚約破棄へ動くだろうと考えている。
「それに、もうご嫡男がおられぬのじゃ。必然的に、イングリット嬢には婿を迎え入れねばなりますまいて」
「……なんのことかな」
嫡男ディートハルトは現状は表向き長期の任にて不在となっていて、その放逐を知る人間は限られる。それこそ、数えられる程度だ。
一体、どこから漏れたのか。
だが、アルトゥール公は動揺を表に出さず、平静を保ってとぼけて見せた。
「ほっほ、ワシが蒐集するのは『もの』に限りませぬぞ。『情報』も、大好物ですじゃ。嫡男による当主の暗殺未遂とは、大変でしたのう?」
「――貴様」
アルトゥール公もこの男の情報収集能力は身を以てよく知っている。
二十年ほど前の蛮族討滅戦争にて肩を並べて共に戦った際、カールからもたらされた数々の情報に、アルトゥール公は幾度となく命を救われているのだ。
今回も手段は不明だが、カールはディートハルト失脚の情報を手に入れ、望みを叶えるため、こうしてやってきたのである。
「イングリット嬢をいただきたい。もちろん、グランスタイン家の王家への借金を全て肩代わりし、ワシ所有の全ての鉱山の採掘権も譲渡しますぞ」
カールの望み。それは世にも珍しい、唯一無二の黒髪黒目の令嬢、イングリットだ。
単に髪の色と目の色が黒いだけなら、カールは彼女に興味は示さなかっただろう。
彼がイングリットを欲したのは、彼女が銀の髪の父と、琥珀の髪の母の間で生まれた、あり得ざる奇跡的な存在だからだ。
カールがこの歳になるまで独身だったのは、彼の『蒐集物』として相応しい女性がいなかっただけだ。
カールは彼女こそは自分に相応しい女性として尋常ならないほどの興味を向け、イングリットが結婚適齢期となるや否や求婚をしてきたのである。
「それは以前にも断ったはずだ。借金返済は当家の力だけで十分。
何より貴様とイングリットでは歳が離れすぎていよう」
アルトゥール公が、王家と不仲でありながらイングリットとアウレール王子との婚約を受け入れた理由。
その最たる原因がこの老人、カールだった。
カールは家柄もよく、財力は言うまでもなくグラントリア随一。悪い噂もなく、紳士として名高い。
欠点があるとしたら、珍しいものに目がないところくらいか。
高齢であることも欠点と言えばそうだが、政略的に考えればむしろ好ましい。
彼は高齢ゆえ、長生きしたところで十年か二十年。その死後を考えれば、他に遺産を相続する人間はおらず、彼の莫大な財産の相続者は自然にその配偶者やその子供となる。
普通の貴族家なら、諸手を挙げて娘を嫁にと差し出すだろう。
実際、カールの元には国内外の貴族家から縁談の申し込みが絶えないのだ。
だが、アルトゥール公はそれを断った。この男は、イングリットを珍しい蒐集物としか見ていないからだ。
手に入れたが最後、興味を失い、ぞんざいに扱うかもしれない。
実際、カールの屋敷の倉庫には大陸中から集めた、ありとあらゆる名品珍品の数々が埃を被っているという。
「――それで? ワシを避けようと王家を選ばれた結果、イングリット嬢に『濡れ烏の君』などという、聞くに堪えぬ蔑称がついただけなのでは?」
そう言って、アルトゥール公を見つめるカールの目には、咎めるような色が見て取れる。
大切な蒐集物にケチをつけられたとでも言いたげだ。
「……」
これを言われれば、アルトゥール公は弱い。
息子の提案に乗って、虫よけのつもりでカールよりはマシだろうと選んだ相手、王子のせいで恐らく一生ついて回る蔑称が愛娘に纏わりつくことになったからだ。
「――娘はもうすぐ、学園入学を控えておる」
「おお、そうでしたな。学園で婿を探されると?」
「そうだ」
「あるいは、あの黒騎士卿をお相手として考えておりますかな?」
アルトゥール公は、改めて目の前のこの男が油断ならない存在だと再認識する。
今のところは、まだ光玄は無名騎士。
そのやらかしと悪名は広まりつつあるものの、まだ知る人ぞ知る程度の噂といったものだ。
確度と鮮度の高い情報を常に仕入れられる、優れた情報員を抱えているのだ。
「――何にせよ、儂が生きている限り、イングリットを貴様の嫁にやることはない。諦めることだな」
「ほっほ、左様で。仕方ありませんのう。日を改めますわい」
「何度来ても無駄だ」
アルトゥール公の意志は固い。それでも、カールは余裕を崩さず、機嫌よく笑うと、ソファから立ち上がった。
「それは、どうですかな。この世界広しといえど、イングリット嬢を欲するような者はワシ以外にはおりませんぞ。
――貴方様はまだ、この世の悪意というものを、よくご存じではいらっしゃらないのじゃ」
そして、カールは優雅に一礼をし、顔を上げて続けて言う。
「貴方様の庇護から離れ、学園へ行けばその全ての悪意はイングリット嬢へ襲い掛かるのですぞ。
多少剣の腕が立つ従者如きで、その悪意からイングリット嬢を守れると?」
その表情からは今までの柔和な色が抜け落ち、その鋭い目だけが底冷えするような冷たさを帯びている。
「……客がお帰りだ」
アルトゥール公はもうカールと問答を続けるつもりはない。
控えていた執事長ロタールが応接間のドアを開けると、カールは一転して柔らかな笑みを浮かべて言った。
「それでは、また」
◆
グランスタイン屋敷を辞したカールは、待っていた馬車へ乗り込み、すぐに出発させた。
「――早かったですねぇ。さては、断られましたね?」
馬車の中、膝を立ててシートに座っていた、灰色の髪の若い女性がカールに話しかけてきた。
ガリガリッ
その手には小指よりも小さい、白い何かの塊を持っており、彫刻刀を巧みに操って少しずつ削り取っている。
「ほう、相変わらず、よい腕じゃな」
それを見たカールは豪奢なシートが削りカスで汚れるのも気にせず、賞賛の声をかける。
女はその細い塊に、信じられないほど精緻な白教の聖母像を彫刻していたのだ。
「ふっふ、素材がいいのですよぉ。それよりもぉ、やっぱりわたしの言った通りだったでしょ?」
「そうじゃな。『儂が生きている限り』だそうじゃぞ」
ガリガリ
女が、聖母像の顔を整えながら訊ねる。
「どうしますぅ?」
「『前回は』上手くいかなかったが、もう一度王妃か大公を焚きつけてみるかのう。
邪魔者にはいい加減ご退場してもらわねば」
カールのその言葉に、女は手元から目を離さず、真面目な声色で話した。
「妃陛下はもうやめておいた方がいいですよぉ。あの方を利用するのは、リスクが大きすぎますって。大公閣下はアルトゥール公の死は望まないはずですしぃ」
「……そうじゃな。今のところは待つとしようかのう。その代わり、一つ依頼をしてよいか?」
完成間近の聖母像の形を整えながら、女は軽い調子で答える。
「内容次第ですねぇ」
「来る新学期、学園都市に潜入し、機会を見て黒騎士卿を排除してほしいのじゃ」
ようやく、手を止め、女はまっすぐカールを見つめる。
その真っ赤な瞳は意外とばかりに見開かれている。
「意外ですねぇ。彼もずいぶん珍しい人間だから、てっきり手駒として欲しがるかと」
「イングリットを手に入れるのに邪魔なのでのう」
「そうですかぁ? っと、できたぁ。
――あげましょうか?」
女は、小指よりも小さい聖母像をカールに差し出す。
「いらんのう。そんなありふれた素材では心が踊らないわい」
「えぇ――これでも、いいところの『お嬢様だった』のにぃ」
女は、残念そうに聖母像を眺める。
「それで? どうじゃ、受けてはくれまいか。『彫刻士』よ」
女――『彫刻士』は馬車の窓を開けると、出来上がったばかりの聖母像を、惜しげもなく投げ捨てた。
価値を認められなかったものなど、ゴミだと言わんばかりに。
「――いいですよぉ。途中で色々遊べそうですしぃ。情報も、これまで通り必要ですよねぇ?」
「ほっほ、お前たち『職人組』の情報ならいくらでも金を出そうぞ。イングリットのことは逐一ワシに伝えるように」
「はぁい」
そう、間延びした声で返事した『彫刻士』は、懐から新しい『お嬢様だったもの』を取り出し、再び無心に彫り始める。
瞬く間に、それは形を変えていき――
次のターゲット、黒騎士卿の顔になった。




