第2話 出会い②
いち早く事態を把握した護衛隊長が声を張り上げる。
「敵襲ッ!! 公とお嬢様をお守りせよ!!」
その命令を受け、護衛兵たちは深手を負い瀕死状態にもかかわらず、一糸乱れぬ動きでアルトゥール公とイングリットの周りに盾を構え、人間の壁を築いた。
(見事。この者たちならば、しばらくは暗器にも対応できよう)
極めて練度の高い兵であると、光玄は感銘を受けた。
だが、すぐに彼らを背にし、次なる攻撃に油断なく備える。
(乱波の類か。間違いなく、飛び道具には毒が塗られていよう)
その瞬間、光玄の思考を遮るかのように、兵たちの隙間を狙い、アルトゥール公へ向かって再度投げナイフが飛来した。
陽の当たらぬ木陰を通って飛んできたそれを、光玄は今度も難なく弾いた。
おそらく、今回の一投は光玄の技量を測るためのものだったのだろう。
最初のナイフを弾いたのが実力か偶然か。
そして、今回の光玄の動きを確認し、それが実力によるものだと認めたのか、今度は息つく間もなく投げナイフが次々と飛んできた。
だが、光玄はそれでもなお自然体のまま、それらを一本たりとも漏らさず、右手の刀と左手の鞘にて流し、いなし、叩き落とす。
森の影の中、ナイフを投げてきた暗殺者の焦りが色濃く滲み出し始めた。
いよいよ光玄の脅威度を高く見積もったのか、アルトゥール公から標的を変え、計三本のナイフがそれぞれ別方向から光玄に向けて一斉に放たれた。
(複数人――三人か。多くとも四人とみた)
素早く敵の人数と位置を把握した光玄は、わずかな時間差を置いて左右から飛来したナイフを捌き、正面からのナイフにも対応し、楽々と弾いた。
(むっ)
光玄の動きが一瞬固まってしまう。
彼が弾いたナイフの影に重ねられた本命のナイフが迫ってきていたのだ。
その一瞬の硬直が命取りだったのか、対応が間に合わず本命のナイフが光玄の脇に吸い込まれた。
そして、追い打ちとばかりに続いて数本ものナイフが同じ箇所へ撃ち込まれ――
光玄の体は力なく崩れ落ちた。
「ああっ」
その様を目にし、黒髪の令嬢イングリットが小さく悲鳴をあげた。
「――!」
続いて護衛兵たちに動揺が広がる。
よく訓練された兵たちは声こそ上げないものの、ようやくクリッキング・ソーという最大の脅威から脱したところに、立て続けの襲撃で彼らは心身ともに限界を迎えつつあったのだ。
「狼狽えるな!! 警戒せよ!!」
彼らの状態を瞬時に察知した護衛隊長が檄を飛ばし、注意を促す。
直後、次々とナイフが飛来して護衛兵たちが構える盾に弾かれる。
護衛兵たちも経験豊富で厳しい訓練を受けてきた精兵ばかりだ。
不意打ちでさえなければ、仮に目視が難しい暗器だとしても難なく対応できる。万全の状態であれば、暗殺者にはそうそう簡単に後れを取ることはない。
だが、今の彼らはクリッキング・ソーに蹂躙され酷く疲弊している。
皆一様に出血が酷く、気力だけで立っている状況だ。
暗殺者共の暗器が尽きるのが先か、護衛兵たちが力尽きるのが先か。
「……」
すぐ目の前で火花が散る修羅場。
アルトゥール公は咄嗟にイングリットを守るために、彼女の身体を自分のマントで覆い、抱き寄せた。
「お、お父様っ」
「よい、心配するな。儂が一緒だ」
――絶望的な状況だ。
こうなっては比較的安全な馬車の中へイングリットを避難させる隙も無い。
だが、どういう訳か、アルトゥール公がイングリットを腕に抱き寄せた瞬間、突如として敵の勢いが精彩を欠き始めた。
躊躇い、そして焦りのような感情が透けて見える。
(――ほう? さては、こやつら……
イングリットを害さぬよう命じられておるな?)
愛娘を守るために抱き寄せたつもりが、思いがけず敵の優先順位の一つをアルトゥール公は見つけた。
彼はよりイングリットをきつく抱きしめ、その震える背中をぽんぽんと叩き続けた。
すると、更に飛来してくるナイフの数が減ってきて、愛娘の震えも治まってくる。
当然、彼は娘を思ってこそ庇ってはいるつもりだが、策略家アルトゥール公は本能的にこの状況を最大限利用していた。
未だ状況は厳しいがアルトゥール公は一先ず安堵の息を吐いて、倒れたままの光玄を静かに見つめた。
ナイフには即効性の麻痺毒の類が塗られていたのだろう。それをまともに受けた光玄はうずくまって動けないようだ。
暗殺者たちも同様に、相手の最大戦力である光玄の様子を観察していたのか、その沈黙を確認し、いよいよ身を隠していた茂みから躍り出た。
三人。それぞれ濃紺、灰色、緑と統一性のない服装ながら、隙間なく顔を隠し身を包んでいる。
暗器投擲では護衛兵たちの防御を確実に抜くことは難しいと判断し、直接攻勢に出たのだろう。
左右から灰色と緑色の暗殺者が、それぞれショートソードを手にアルトゥール公たちに迫り、正面からは濃紺の暗殺者が飛び出しつつ新たな投げナイフを手に取る。
陽動を仕掛け防御態勢を揺さぶるつもりだろう。
暗殺者たちの狙い通り、左右の灰と緑の暗殺者に対応すべく護衛兵たちが動き、ほんのわずかにアルトゥール公への射線が通った。
必中の軌跡。正確に標的の頭を狙える好機。濃紺の暗殺者はその隙間を見逃さない。
彼はそのままアルトゥール公を仕留めるべく投擲体勢に入り――
すぐ目の前に、見覚えのある形のナイフが迫ってきているのに気づき、目を見開いた。
「――!?」
濃紺の暗殺者は一瞬混乱に陥るも、身体は反射的に動く。常人なら不可能な可動域で首が横に倒れ、飛来したナイフを回避した。
「むっ、やはり乱波のようにはいかぬか。一人ぐらいは仕留められると思ったが」
小さくぼやく男の声。
それは毒ナイフを受け、動けなかったはずの光玄のものだった。
彼は何事もなかったように涼しげな顔で、すくっと立ち上がった。その身には傷一つなく、黒色のゆったりとした末広の袖の一部が少し破れているのみ。
この男、あろうことか暗器が身体に触れる刹那、袖で包み込み勢いを殺してその柄を手に取ったのだ。
そして手に持つ鞘にも3本ものナイフが突き立っている。追い打ちで投げつけられたものまでも、見事鞘で受け止めている。
光玄はあの刹那にそれだけのことをして、やられたふりをして暗殺者たちの隙を窺っていたのである。
彼は鞘を地面にとんとんと叩きつけ、刺さったナイフを叩き落とす。まるで土汚れでも落とすような緊張感のかけらもない仕草だ。
その自然体で悠然と立つ姿を確認した暗殺者たちは互いに目配せをし、仕切り直しとばかりに再度アルトゥール公一行から距離を取った。
彼らは、この正体不明の黒ずくめの男に対する認識をさらに改めたのだ。
この男は暗殺を生業とする暗殺者たちを欺くしたたかさを持ち、飛び道具への対応、扱いも心得ているのだと。同業者に近い匂いを嗅ぎ取ったのである。
投げナイフとて無限に持っているわけでもなく、瀕死とは言え武装した精鋭の護衛兵らがこのあと控えているのだ。
この黒衣の謎の剣士相手に、飛び道具の応酬を続けて手札を減らすのは愚策でしかないと暗殺者たちは判断した。
故に暗殺者たちは標的のアルトゥール公を仕留める前に、最大の脅威である黒衣の剣士――光玄を確実に排除するという選択をしたのだ。
彼らは初春の乾燥した落ち葉が積もった地面を音もなく、影が伸びるようにじりじりと不気味に距離を詰め、光玄を取り囲み対峙した。
その様に、光玄は眉をひそめる。
(面妖なり。いかに乱波とて枯葉を踏んでなんの音もせぬとは)
何か、光玄の理解の及ばぬ『理』が働いている。
(ただの乱波として見ると、どうしても侮りが出てしまうか。油断大敵)
彼はより全神経を暗殺者たちの動きに集中させた。それは暗殺者たちも同様で、双方動かずにらみ合いが始まった。
◇
アルトゥール公は腕の中にイングリットを抱きしめたまま、暗殺者たちと対峙する光玄の背中を眺め、つぶやく。
「中々どうして頭の回るやつよ。自分を餌にして連中を引きずり出しおったわ」
そのつぶやきに答えるように「助かるかもしれない」と、兵の誰かが思わず口にした。
それでも相手は恐らく精鋭の暗殺者たち。光玄一人では数的不利は否めない。
「公、こ、これは、あの黒い男に加勢すべきでは……」
緊張のあまり口の中が乾いたのか、しゃがれ声の護衛隊長が主に指示を仰ぐ。しかし、アルトゥール公は首を縦には振らない。
「要らぬな。儂の経験からすると、もはやこれは負け戦ではない。逆に、疲弊した我々では加勢したところで、足手まといになろう」
「し、しかし……賊どもの身のこなしも尋常ではありません。勝ち目があるとはとても……」
「うむ、あの身のこなし……
彼奴等は『凡俗の者ども』であろうな」
「――実在、するのですか?」
「そうとも。先ほどのクリッキング・ソーも、連中が嗾けてきたに違いあるまい。魔物を飼いならし、事故を装っての暗殺は連中の常套手段よ」
『凡俗の者ども』――
古よりその存在が語り継がれる、伝説的な暗殺者集団である。
彼らは普段は善良なる一般市民として街で生活し、家庭を営み、生業に従事する『普通の人』である。『凡俗の者ども』と呼ばれる所以である。
組織でのそれぞれの呼び名もまた普段の稼業に因んでつけられている。
今回のように、彼らは普段暗殺に魔物を用いるなど搦め手を得意とするが、それぞれの戦闘技量も一流の戦士に勝るとも劣らない。
一対一でも難敵。それが三人である。
だが、アルトゥール公はこれまでの光玄の戦いぶりから、彼一人でも十分勝機があると判断し、光玄への援護は不要と断じていた。
「お主らには今しばらく防御を固めてもらう。異存あるまいな?」
光玄の邪魔にならないこと。アルトゥール公は自分の役割をそう定めていた。対して、やけに悲壮感溢れる表情の護衛隊長が一礼をし、主の命に応えた。
「仰せの通りに。我ら一同、命絶える瞬間まで壁となりましょう」
「くくっ、そうとも――暗殺者どもが命絶える、その瞬間までな」
全滅を覚悟している護衛隊長とは違い、アルトゥール公は光玄による勝利を確信しているようだった。
出会ったばかりの、しかも黒ずくめの怪しい男へのアルトゥール公の信頼に護衛隊長は軽い嫉妬心のようなものを感じた。
(確かに、あの黒衣の剣士は卓越した剣の腕を持っている。だが、いくらなんでも相手が悪すぎる……
公は何故それほどまでにやつを信じられるのだ?)
護衛隊長は主アルトゥール公の真意を測りかね、その顔を窺った。そして、アルトゥール公の腕の中で震える黒髪黒目の令嬢、イングリットの姿を捉え、納得した。
(なるほど、『黒髪黒目』を持っておられるお嬢様と同じ『黒髪黒目』。
唯一、真に寄り添える人物であるということか。信じられるかどうかではなく、信じたいと。いかにも公らしい)
苦笑い。だが、護衛隊長は力強く頷く。
(――何にせよ、公がそうおっしゃるのであれば、我らも信じるのみ)
揺らぐ身体に力を入れ、盾をしっかり構え直した護衛隊長は唾を飲み込むと声を張り上げた。
「総員! 気を抜くなッ!! 飛び道具に常に警戒ッ!!」
「「「ハッ!!」」」
◇
それが合図となったのか。
護衛兵らが参戦しないと見た凡俗の者どもが一斉に、ショートソードを手に三方向から光玄に迫る。
だが、脇腹を狙った突きは鞘に受け止められ、足払いの一撃は届く前に踏みつけられ、首元への斬り払いは刀身で巧みに流された。
単独行動が主でチームを組むことは稀とは言え、凡俗の者どもの即席での連携は完璧に呼吸が合っており、非の打ちどころがなかった。
それでも、この黒い男にはまるで届かない。
ならば、さらなる連携で打ち崩すのみと、三人は互いに目配せし、一瞬にして作戦を練った。
緑装束の『八百屋』が自分の剣を踏んでいた光玄の足を蹴りつけた。
光玄はそれを僅かに跳ねて後退し回避する。
その着地の瞬間を狙い、濃紺装束の『雑貨屋』が至近距離から投げナイフを放った。
だが、そこに投げられると予見していたと言わんばかりに、『雑貨屋』の手からナイフが放たれた瞬間には既に鞘が差し込まれており、それはあえなく弾かれた。
しかも、ナイフが弾かれた軌道のその先――
ちょうど光玄の死角に回り込もうとしていた灰装束の『油屋』の左腕に、弾かれたナイフが突き刺さった。
光玄が睨んだ通り、ナイフには麻痺毒の類が塗られていたのか、『油屋』の左腕はたちまち痺れ、力なく垂れ下がった。
自分たちで使用する毒である故、最低限の耐性はつけているようで『油屋』の動きは完全には止まらない。
それでも確かに効果はあったようで、『油屋』の動きは目に見えて鈍る。
『八百屋』が即座に『油屋』を庇って鋭い突きを光玄の顔面に向け放った。
だが、それは光玄の刀身に絡めとられて、まるで手で掴まれたように引っ張り込まれ、『八百屋』は体勢を崩した。
光玄の背後の『油屋』は『八百屋』を守るため、痺れる身体をおして光玄の背中を狙い距離を詰めた。
しかし、この黒い剣士にはまるで後ろにも目がついているようで、その動きまでもが筒抜けであった。
突きをいなされ、たたらを踏む『八百屋』の腹部に、光玄は強烈な前蹴りをお見舞いし、その反動で後ろに飛んで背面に迫る『油屋』へ体当たりをした。
麻痺毒が回り始めた身体を支えきれず、『油屋』が大きく体勢を崩し倒れこむ。
当然、自らぶつかりに行った光玄も同じく体勢を崩すのは必定。
この好機を逃す『雑貨屋』ではない。
倒れこむ『油屋』の影から音もなく出てきた『雑貨屋』は、体勢を崩し無防備になった光玄の脇腹を狙った。
――刹那、強烈な光が『雑貨屋』の目を襲う。
「!?」
またしても死角からの『雑貨屋』の動きを察知した光玄が、鏡面のように磨かれた刀身で西日を返し、『雑貨屋』の視界を白く塗りつぶしたのだ。
『雑貨屋』は視界を奪われ混乱しながらも、反射的に飛び退きながら光玄の頭に向け、ナイフを正確に放ってきた。
(なんとッ)
光玄は全力で身体をひねり、回避に努めた。ナイフは光玄の眼球のスレスレを通り、切られた黒い髪の毛が何本も風に舞う。
(目つぶしを喰らって、あれほど正確に放ってくるか。尋常ではござらん)
内心冷や汗をかいた光玄だったが、その頬には深い笑みが刻まれる。
今まで人喰い狗として斬り捨ててきた有象無象とは違う。間違いなく、今までの彼の人生において最強の敵だ。
長年求めてきた死合いに、やっと恵まれた。
光玄の動きは更に勢いを増し、流水の如く一瞬たりとも止まらない。
身体の捻りから生じた回転にさらなる勢いをつけ、起き上がって反撃に転じかけた『油屋』の喉元を一閃――
大きく斬り開かれた『油屋』の喉から遅れて血が溢れ出る。
彼は命が零れるのを止めようと、立ち尽くし喉を押さえ藻掻くが――既に致命傷であった。もはや己の血で溺死する定めである。
未だ回転の勢い止まらぬ光玄。
さすがにその状態で回避は不可能。その背中は大きく開いている。
蹴りつけられ、のけぞっていた『八百屋』が、地面を強く蹴って一気に距離を詰めて光玄の背中を斬りつけた。
確かな手ごたえ。深々と刃が肉に食い込み、骨を断ち、内臓にまで達する。
――しかし『八百屋』が目にしたのは灰色の――『油屋』の装束がじわじわと赤黒く染まりゆく光景だった。
光玄は回転の勢いを殺さずに、立ち尽くす『油屋』の身体を掴むと、そのまま彼を『八百屋』へ押し付けて入れ替わりつつ、盾としたのだ。
喉から流血し、さらに確実に命に届くほどの斬撃を受けて尚、未だ命尽き果てぬ『油屋』には既に意識はない。
しかしガクガクと痙攣しながらも反射的な行動なのか、彼は己を斬りつけてきた『八百屋』に掴みかかった。
『八百屋』は慌てて振り払おうとするが――その致命的な隙を光玄は逃してはくれない。
『油屋』の背後から、光玄の鋭い刃が突き出され、そのまま『八百屋』の喉を貫き、掻き切った。
――やがて、視界が回復した『雑貨屋』が目にしたのは、斃れ折り重なる『八百屋』と『油屋』、そして――
その前にただひとり、静かに佇む黒衣の男――光玄だった。
◇
『雑貨屋』は思わず呻き声を出しそうになった。
(なんだ……なんなんだ……この男は!?)
彼が目つぶしされていたのは、わずか数秒に満たない。
長年の研鑽によって身に着いた超人的な反射によって、カウンターでナイフを投げつつ、後退して二、三回瞬きをしただけ。
そのわずかな間に、数的優位は完全に消えてしまった。
黒い男が一歩、また一歩、歩み寄ってくる。
高揚も、恐れも、慢心もなく――ただ悠然と。
散歩にでも出かけるような軽やかな足取りで。
――殺しに来る。
(――邪神、ヴァイル・ウィルテス……)
『雑貨屋』はお伽話の邪神を幻視してしまった。
黒髪黒衣に、森の木陰の中、やけに白く見える顔。彼が手にしている緩やかに湾曲している刃はまるで、かの邪神が使うという大鎌の如く。
黒髪黒衣白面の邪神。伝承そのものの姿だ。
『雑貨屋』に決断の時が迫りつつあった。
(逃げるか、依頼達成のため抗うか)
逃げれば、自分の命はひとまず助かるだろう。だが、何の事情も知らぬ彼の家族は見せしめに消される。
そう、家族は彼を組織に繋ぎとめるための人質だ。ならばこのまま任務を続行し、敗れ命を落としたのなら。
支援は打ち切られ、遺される家族は苦境に立たされるだろうが、命を脅かされることはない。
家族たちは何も知らぬ一般人だ。組織としてもわざわざ手にかけて面倒ごとを増やすこともない。そういう契約なのだ。
――互いの間合いはもう僅かで刃が届く距離。
心を決めた『雑貨屋』の動きに迷いはなかった。
次の瞬間、『雑貨屋』が懐から取り出した煙玉が爆ぜ、たちまち辺り一面が煙で満たされ鼻先すら見えなくなった。
任務続行を選んだのである。
しかし、突如広がった煙にも、アルトゥール公たちにそれほど動揺はなかった。
経験からか、訓練の賜物か。それとも、ある程度予測は出来ていたのだろうか。
『雑貨屋』は内心舌打ちをしながら、最後にアルトゥール公が立っていた所へもう残りが少なくなってきたナイフの一本を投げるも、金属音だけが空しく響く。
恐らく護衛兵の盾に当たっているのだろう。
「ひっ」
アルトゥール公の娘、イングリットの息を呑む声が小さく響く。
続いて兵たちの、注意を促す声が木霊するが、肝心のアルトゥール公の声は拾えない。
声を、反応を頼りに標的にナイフを当てるつもりが――アルトゥール公に意図を読まれている。
イングリットの声を頼りに攻めれば、一緒にいるアルトゥール公を仕留められるかもしれないが、彼女はアルトゥール公の腕の中だ。
『雑貨屋』は己の投擲技術に絶対的な自信を持っているが、さすがにこの濃煙の中では確実とはいかない。
依頼主からは彼女を決して傷つけるな、と厳命されている。故に、より慎重にならざるを得ない。
だが、あまり悠長にはしてはいられない。
風が吹けば、煙はすぐに晴れる。
もはや黒衣の剣士の打倒は諦めて護衛を掻い潜り、標的を至近距離で仕留めるほかないと『雑貨屋』は判断した。
標的が護衛の兵の側から離れることはない。なら、兵たちの音を拾えばいい。
濃煙の中、『雑貨屋』の姿を見失ったのか、黒衣の剣士は動きを見せない。
『雑貨屋』は音を立てず、その脇を抜けて駆け出す。
兵たちの緊張した息遣い、鎖帷子の立てる僅かな音が近づいてくる。
あと少し――
「つまらぬ小細工を。所詮は乱波であったか」
やけに低く底冷えする、失望の混じる声が真後ろで響いた瞬間――
突如右脚に激痛が走り、『雑貨屋』は足を止めてしまった。
振り返り、右脚を見ると――黒い影が纏わりついて、そこからは無数の刃が突き出ている。
ぎょっとして瞬きをし、目を凝らす。
――どこにもそんなものはいない。
ふくらはぎが深々と斬り開かれ、どくどくと、脈動に合わせて血が吹き出ているだけだ。
(なっ、なんだ……この煙の中、一体どうやって――)
悪夢のように、黒い影が鼻先すらろくに見えない濃煙の中、『雑貨屋』の真後ろに立ち、見下ろしていた。
深々と斬りつけられた右足から、止めどなく血があふれてくる。
黒い影が脚から『雑貨屋』の身体を這い登り首へ――
恐怖が見せる、あまりにも悍ましい幻覚に、傷を負った右脚から力が抜け、『雑貨屋』は倒れ込んだ。
同時に、風を裂く音と共に、刃が彼の首元をかすめていき、顔を覆っていた覆面がはらりと落ちた。
見上げた先――その斬撃の軌道をなぞるように、煙が揺れている。
その揺らめき――空気の流れを見た『雑貨屋』は、今の今までこの黒衣の男がまるで後ろにも目が付いているかのように、こちらの動きを悉く察知していたカラクリに気づいた。
この黒衣の男は、空気の乱れを読み取る能力に長けているのだと。
恐らくは、生まれ持った才能に長年の鍛錬と経験が合わさってできた『剣士の勘』というべきものだろう。
この大陸にわずか数人しかいない、剣の極みに達した『剣聖』という者たちは空気の流れを読み、数手先の未来を視るという。
この黒衣の男がその剣聖に準ずる技量の持ち主であれば、視界を奪い、音を殺したところで、まるで意味をなさないのだ。
(――よりによって、こんな化け物が何故こんなところに……!)
クリッキング・ソーなど、可愛く見えるほどの化け物だ。
普通なら、どこかの大国で重用されてしかるべき人間が、どうしてこんな人気のない森の中を一人彷徨っていたのか。
動揺、絶望に『雑貨屋』の呼吸が乱れる。
だが、『雑貨屋』は即座に思考を切り替え、乱れた息を整えた。
偶然とはいえ、今の一撃を躱せたのはまたとない好機。
倒れ込んだ体勢そのままに、白い濃煙の中やけに目立つ黒い影へと『雑貨屋』は残されたすべてのナイフを投げつけた。
はっきりは見えないものの、黒い影の頭部と胴体と思わしき箇所へとナイフは吸い込まれる。
――だが、手ごたえはない。
それらはただ虚しく、その影の一部となって掻き消えただけだ。
黒い影が、じわりと、視界いっぱいに広がる。その闇の中、無数の刃が蠢いている。
(ああ、ベルギッタ……ミラ……! 俺が、俺がいなくなったらお前たちは……!
俺は、まだ死ねない……! 必ずお前たちのもとへ――戻るッ!)
『雑貨屋』の頭に愛する妻、娘の顔がよぎる。体の奥底から力が湧き上がり、彼は己の恐怖ごと黒い影を全力で斬り払った。
――が、それは届かない。
黒い影が手に持つ、死神の鎌のように湾曲した刃の上を、『雑貨屋』のショートソードは火花を散らしながら滑り、彼の身体は流され宙を泳ぐ。
その火花の中、たおやかな妻の笑顔が、娘の悪戯っぽい笑みが掻き消え、まるで蛇の顎のように伸びてきた死神の刃が『雑貨屋』の首に喰らいつき――
――それで、終わりだった。
◇
初春のまだ冷たい風が、静かに煙をさらっていく。
光玄は地面に転がる、先ほどまで命のやり取りをしていた濃紺の装束の男を静かに見下ろす。
血の気の失せた顔は天を仰ぎ、大きくその目を見開いている。
光玄が長年求めていた、強者との死合い。
だが、彼は胸の中に何か苦いものがこみ上げてくるのを感じた。それを何と呼ぶべきか、光玄はまだ、答えを持たない。
斃れた男の濁った瞳は、かつて光玄が大義の名のもとに殺めた、とある家族を愛していた『悪徳商人』のそれとそっくりだった。




