第1話 出会い①
「ぐぅっ……ここは、どこだ」
ふと目を覚ますと、光玄は見知らぬ森の中に独り倒れていた。
鼻腔を満たす、わずかに湿った土の匂いとほのかな花の香り。
それらが、覚醒したばかりの光玄の脳を暴力的なほど鮮烈に揺さぶる。
起き上がり、周りを見渡すと、積もった枯葉の隙間から芽吹いたばかりの若葉が顔を覗かせている。
頬を撫でる風はまだ冷たく、けれど確かな柔らかさを帯びていた。
木々の間から差し込む西日が、森全体を金色に染め上げている。
――春であった。
(――生きて、いる)
溺死し、神らしき奇怪な存在に出会ったことは未だ強烈な記憶として残っている。
改めてあの不思議な体験を思い返すが、あの神モドキを思い出すだけでたちまち酷い頭痛に苛まれる。
(やめだ、アレには触れてはならぬ。それより……)
身の回りを確かめる。怪我の有無――なし。手足不自由なところもなし。
持ち物――刀・衣・草履に至るまで何一つ失せ物もなし。
刀を引き抜き、検める。あれほど死に際に縋った刀の柄の感触はいつも通りのものだった。
名刀というわけでもなし。元は拾い物故、愛着もなく。はっきり言えば、なまくらの類である。
海水にやられた形跡はなく、当面の使用には耐えられそうだ。
刀を鞘に納め、懐を探る。
海に投げ出される直前まで懐に入れてあった干し芋の切れ端までもがそのままだ。
やはりこちらも、海水にやられた痕跡は見られなかった。
要するに、蘇生したのではなく、死そのものがなかったことにされ、死の直前の状態が再現されたのだろう。
まさに、死から生へと転じたのである。
自分の状態を確かめたところで軽い空腹感を覚え、光玄は干し芋の切れ端をかじった。
干し芋のほんのり甘い、淡白な味わいがなおさら彼に生の実感を与えてくれた。
光玄と共に奇跡的な転生を果たした干し芋は、あえなく彼の胃袋へと消えていった。
人心地ついたところで、光玄は状況把握に努めた。いきなり森の真ん中に放り出され、ここがどこか全くわからない。
(誰もいない。破滅の運命を背負う者とやらの元へ送ると言ったのは虚言だったか)
目標が見つからない以上、まずは安全確保が最優先だ。獣の類が近くにいるかもしれない。
息を整え、感覚を研ぎ澄ます。
すると、鳥の囀り、木々のさざめきに交じって悲痛な叫び、苦悶の声が聞こえてきた。
(人の声。諍い――否、何者かに襲われているか)
光玄はさらに息を潜め、姿勢を低くして音の出所へ慎重に進んでいく。音を頼りに進むと、すこしだけ視界が開けた。
すると獣道よりは幾分かマシな街道が見え、馬車を背にして守る十数名の一団が『何か』に襲われている場面を光玄は目の当たりにした。
(な、なんと……面妖な)
あまりにも異様な光景に光玄は思わず声を上げそうになった。
何枚もの羽根が生えた巨大なムカデの化け物が、宙を凄まじい速さで飛び回っていたのだ。
一団の兵たちがその空飛ぶムカデを倒そうと懸命に剣を振るうが、まるで届かない。
空飛ぶムカデは彼らをあざ笑うかのように目まぐるしく角度を変え、軌道を変えながら翻弄する。
そして兵たちがわずかな隙を晒せば、すれ違いざまにその体にびっしりと生えた刃で斬りつけていた。
抵抗らしい抵抗もできず、兵たちは一人、また一人倒されていった。
(妖怪の類か! なんとも悍ましいものよ! あの者たちは気の毒だが――
無策で飛び出るべきではあるまい)
緊張感とそれを上回る、おそらく好奇心と呼ぶべき感情が鎌首をもたげるも、光玄は冷静に状況を見定め、静観を決め込んだ。
突然見知らぬ場所へ飛ばされてきて、いきなり修羅場を目にしたのだ。
まずは状況把握に徹するべき――
冷酷なようだが、その判断は正しいと言えるだろう。
彼の視線の先で、兵がまた一人倒れる。
(……助太刀すべきか。しかし……)
その時――光玄は一瞬、何者かの視線を感じてそちらを振り向き、全身に鳥肌が立った。
揺らめく人型の白い影がぼんやりと、光玄のすぐ隣に浮いていたのだ。
思わず鯉口を切り、白い影を打ち払おうとしたときには既にソレは綺麗さっぱり消えてなくなっていた。
(い、今のは一体……)
ギチ、ギチチ
突如として金属を擦り合わせるような甲高い音が森に響いた。
今さっきわずかに立てた物音を聞きつけたのか、『妖怪』は光玄の存在を察知して、彼が身を潜めている方を見て威嚇音を立て始めたのだ。
「……見つかったとなれば、是非もなし」
完全に『妖怪』に敵として認識されている。こうなっては介入するほかなくなってしまった。
意を決した光玄は雑木林をばさりとかき分け、街道へ踏み出した。
そこだけ世界をくり抜いたかのような、黒髪黒衣の乱入者――光玄の登場に空飛ぶムカデは一層激しく威嚇音を立てると、まるで滑るように、馬車の一団からスッと離れた。
そして、光玄と空飛ぶムカデは対峙する。
(妖怪……某の剣は通用するのか。
――斬れるのか?)
西日に反射し黒光りする、刃がびっしり生えた鋸状の甲殻。馬二、三頭分はある体長。まさに空飛ぶ鋸だ。
光玄にとってはおとぎ話に出てくるような、あまりにも非現実的な存在だ。
馬車の周囲には、もはや人の形を保たない骸が散っていた。
ソレらは頑丈そうな金属鎧を纏ってはいたが、あのムカデの刃の前では意味をなさなかったようで、鎧は紙切れのように千切れ、中身ごと切り裂かれている。
恐ろしいほどの切削力、殺傷力だ。
あのムカデの攻撃に晒されれば鎧など纏わぬ、ほぼ生身の光玄などひとたまりもない。
「何をしておるか! 逃げろ!!」
馬車の一団を指揮していた、身なりの良い壮年の男が光玄を目に留め、鋭く警告した。
そして、まるでその警告の声が合図であったかのように、一度飛び立った空飛ぶムカデは鋭く、放たれた矢をも凌ぐ勢いで光玄に向けて音もなく飛びかかった。
光玄の首元目掛けて、空飛ぶムカデが目視も困難な速さで飛来する。瞬きひとつで届く距離――それでも、光玄は未だ動かず。
接触、そして――
カンッ!
およそ人体が出すとは思えぬ、堅い物同士がぶつかり合う音が響き、空飛ぶムカデが突然よろめきながら軌道を変え、光玄の側を通り抜けた。
「やはり堅いか。しかし――
存外、見た目よりは随分と軽いものだ」
直前まで何も手にしていなかったはずの光玄は、いつの間にか鞘に納められたままの刀を握っていた。
刀から伝わる感触に、光玄はわずかながら手ごたえを感じた。
「――妖怪にあらず。ただの獣の類か。ならば、やりようはある」
予想外の反撃を受けた空飛ぶムカデは、興奮した様子で木々が生い茂る森の中を泳ぐように目まぐるしく飛び回った。
◇
一連の動きを見ていた、馬車の一団を率いる壮年の男は唸るように声を上げた。
「し、信じられん……」
接触ギリギリの瞬間まで棒立ちだった黒髪黒衣の男は、ほんのわずかな足さばきで半身になり回避しつつ、腰元の剣を素早く振り上げ、空飛ぶムカデの顎を鋭く叩き上げていた。
目視も難しいあの突進を、完全に見切って対応している。鮮やかな黒髪黒衣の男の手並みに、壮年の男は思わず己の拳を強く握りしめた。
「公! アルトゥール公! お怪我はございませんかッ!」
あちこち傷だらけで青ざめた顔の護衛隊長が、わずかにできた隙に壮年の男――アルトゥール公に近寄り、無事を確かめる。
「大事ない。それより今のうちに立てぬ者を下げ、陣形を整えよ!」
「ハッ!」
命令を受け、部下たちに鋭く指示を飛ばす護衛隊長を横目に、アルトゥール公はムカデの化け物と対峙する謎の人物を目を凝らして観察した。
「黒い髪に……黒い目。黒衣の剣士……」
アルトゥール公の視線の先――正体不明の黒い剣士は再度突進して来たムカデの化け物に対して、先よりも一段と早く反応し滑るように脇へ回り込んで、そのまま下から蹴り上げた。
それほど強い衝撃ではなかったが、化け物は著しくバランスを崩し、ふらつくと木に衝突した。
ギチチチチッ!
化け物は一層甲高い摩擦音を立て威嚇し、木を削り取りながら再び宙へ飛び立つ。
その甲殻の凄まじい切削力に、削られた木は一瞬にして木片となって崩れ落ちる。
ムカデの化け物はそのまま隙を窺うように、黒い剣士の周りをゆっくりと弧を描いて飛行し始めた。
対する黒い剣士はその動きには反応せず、構えらしきものも見せず悠然と立つのみ。
やがて彼の背後を取った化け物は一気に加速し、襲い掛かる。
が、まるで波打つ水面に浮かぶ花びら――
黒い剣士はふわりとそのゆったりした袖を翻しながら、舞うように回転しつつ魔物の突進をいなした。
そして、そのまま体節の隙間を狙い鞘を叩きつけた。
カンッ
まるで中身のない金属鎧を叩いたような甲高い音。
体節までもが金属並みに硬いのか、黒い剣士が叩きつけた鞘は跳ね返される。
みしりと、どこか亀裂でも入ったのか、鞘が軋みをあげる。
だが、構わずムカデの化け物が体勢を整える前に再度叩きつける。
空を高速で飛び回るためなのか、ムカデの化け物は見た目よりずっと軽いらしく、続けざまに加えられた衝撃に、いよいよ地面に叩きつけられた。
追撃の好機にも見えたが、地面にひっくり返ってジタバタ暴れるムカデの化け物に近づかず、黒い剣士は距離を置いてじっと観察するのみに留めた。
誘いに乗らない黒い剣士にしびれを切らしたムカデの化け物は一転、弾かれるように再度突進を敢行するも、彼はさらに余裕をもってそれを避けつつ鞘の先端で突く。
奇妙な光景だった。
ムカデの化け物はあまりの速さにもはや黒い閃光と化しているというのに、対する黒い剣士はゆるりゆらりとその全てを回避しながら反撃を加えているのだ。
その光景にアルトゥール公が魅入られていると、護衛隊長が報告を上げた。
「公、重傷者の救護および防御態勢、整いました」
「うむ。だが、防御態勢はもう要らぬかもしれんな」
「はっ?」
「見よ。あの『空飛ぶ絶望』クリッキング・ソーを、一方的に弄んでおるぞ」
アルトゥール公が指さす方を見て、護衛隊長は唖然とした。
目視も困難な速さで飛びかかる空飛ぶムカデ――クリッキング・ソーを、相も変わらず涼し気な顔でいなし続ける男の姿がそこにあったからだ。
「あの素早い魔物を討つには、高威力の魔術で空間ごと焼き尽くすのがもっとも有効だな?」
「その通りです。先ほどまでご覧になった通り、我らではまぐれ当たりを狙うほかありませんでした」
アルトゥール公一行が今までこうも一方的にクリッキング・ソーに弄ばれたのは、ひとえに対抗策がなかったからであった。
唯一の対抗策。それは魔術だ。
あの魔物の明確な弱点は、魔術に対して極めて脆弱であるということだ。
だが、あいにく護衛隊には対抗手段となり得る魔術師団が同行していない。
護衛隊長が悔しそうに唇を噛む。
「――『お嬢様』の婚約披露パーティだからと言って、魔術師を連れてこなかったのは失敗でした。すべては護衛隊の編成をした私の落ち度でございます」
魔術師とは下法を扱う、邪な輩とされる。
特に貴人の婚姻に関わるパーティなどのめでたい場に、彼らを同行させるのは失礼にあたる。
「よい、お主一人の責でもあるまい。まさかパーティ帰りにあれほどの希少な魔物に出くわすとは想像などつくまい」
相手は別名『空飛ぶ絶望』と呼ばれるほどの大陸屈指の危険魔物の一角。有効な対抗手段をもってしても討伐は困難だ。
ましてや、剣だけで討伐するのはほぼ不可能だ。
記録に残る単独での討伐は、二千年前の大英雄『白騎士』のものが唯一無二であるほどだ。
「あれはどうだ。まぐれ当たりだと思うか?」
アルトゥール公が指差した先には――鞘の先端でクリッキング・ソーの眼と思しき箇所を突き、響いた金属音に首をかしげる黒い剣士の姿があった。
「し、信じられないことですが、完全に動きを見切った上で……
おそらく弱点を探っているのかと」
「で、あるか」
「それにしても、魔物の襲撃に続いて黒ずくめの男とは何とも不吉な……」
そう言いかけて護衛隊長は一瞬馬車の方をちらりと見やり、アルトゥール公に深々と頭を下げた。
「し、失礼いたしました! 決して『お嬢様』のことを言っているわけではございません!」
「――『黒』は不吉か。構わん、大いに結構」
アルトゥール公の目が大きく見開かれ、口元には笑みが浮かぶ。
そして彼は天を仰いだ。
「――これは天命か」
長年求めていた理想的な人材が、対処不可能な凶悪な魔物に襲われ死をも覚悟していた所にこうも都合よく現れるなど、神の思し召しとしか言いようがないだろう。
「どの神の思惑かは判らぬが、謹んでお受けしようではないか」
アルトゥール公の視線の先――
先ほどと比べ、目に見えて勢いが衰えたクリッキング・ソーと相対していた黒い剣士がついにその変わった形の剣を鞘から抜いた。
◇
光玄の抜刀の所作はまるで緊張感がなく、儀式めいていた。
解き放たれた刀身は、西日に燦然と輝く。伝説の聖剣もかくや。
誰がこの刀をなまくらだと思うだろうか。この場の誰もがその美しい輝きに目を奪われた。
「――さて、これにて斃す算段は整った」
何度も鞘でこのムカデの化け物を叩いたのは甲殻の強度を確かめるためでもあった。
いかにこの刀がなまくらとはいえ、替えの刀を入手できるか分からぬ状況で折るわけにはいかない。
故に、斬れるかどうかを確かめる必要があったのだ。
刃の輝きを目にしたクリッキング・ソーがより警戒を強め、渾身の力を振り絞り最速にて決死の突進を敢行する。
常人の目にはもはやその軌跡すら見えず。
が、その動きを今までじっくり確かめ見切った光玄にとっては、速さが増したところでもはや取るに足らぬ悪あがきでしかなかった。
凄まじいクリッキング・ソーの突進に対し、地面を滑るように突進の軸から身をずらした光玄は、クリッキング・ソーの顎下に刃をそっと添えた。
刃は図ったように顎下の柔らかな隙間にすっと入り込み、クリッキング・ソーは自らの勢いによって己の身を切り裂く。
そのままクリッキング・ソーは光玄の脇を通り過ぎ、地面を削りながら墜落――ジタバタともがいて体液をまき散らしたあと、動かなくなった。
光玄はしばし動かず、仕留めたクリッキング・ソーの様子を窺い――それが間違いなく絶命したと判断した。
彼は刀についた体液を振り払うと、抜いた時同様、美しく淀みのない所作で再び鞘に納めた。
その場の誰もが、息を呑み、彼の剣技と佇まいに魅入られていた。
「ふぅ――……」
光玄は深く息を吐く。
(未熟者。これしきで息を乱すとは)
そして自分に集まる視線に気づく。
畏怖、警戒、嫌悪の混じる、決して好意的とは言い難いものである。
傷つき、ボロボロの護衛兵らは依然警戒を緩めず、一糸乱れぬ見事な動きで主を守らんと、正体不明の男に対して防御態勢を取る。
(……ほう)
光玄は思わず感心する。
だが、その誰もが疲労と出血で青ざめており、いつ倒れてもおかしくない状態であることが見て取れた。
彼らが万全ならともかく、今なら光玄の腕をもってすれば脱出も殲滅も容易い。
立てぬほどの重傷を負った者も何人かいる。
捥げかけた腕を雑に縛って止血だけした者、元の顔の形が判らぬほど切り裂かれた者、足を失い剣を支えにどうにか立とうとしている者、腸が見えている者すらいる。
だが、それほどの重傷を負った者たちでさえ、意志の強い目で真っすぐ正体不明の男を射抜いている。
見上げた忠義、尋常ならざる精神力である。
(これは如何する。逃げるか)
一瞬逃走へ舵を取ろうとした光玄だったが、不意に神モドキの言葉を思い出した。
破滅の運命を背負う者のもとへ送る――と。
神モドキの言が虚言ではなかったとすれば、光玄が救い導くべき相手は、あの一団の中にいるかもしれない。
そう考えると、成り行きとはいえ介入したことは正解だったのかもしれない。
しかしながら、危機を救ってくれた恩人に対しての相手方の警戒の仕方はやや過剰である。
光玄の出方次第では彼らとも戦うことになるかもしれない。
(致し方なかろう。あの者たちからすれば、某が味方であると決まったわけではない)
なんにせよ、彼らを下手に刺激して無用な殺し合いをするのは光玄の望むところではない。
(うーむ、弱ったな。なんと言えばよいか)
神モドキの言葉を思い出した今、彼らから離れる選択肢は消えた。
あの存在は今一つ信用ならないが、それでももう一度生き直す機会を与えてくれたのだ。
何ができるかは今の光玄には皆目見当もつかないが、神モドキの期待にも応えねばならない。
光玄が対応を決めかねていると、不意に一団の長らしき壮年の男と目が合った。
端正に整えられた、銀の髪と髭。
姿勢よく立つその姿は大木のようにどっしりとしていて、切れ長の鮮やかな碧眼が鋭く光玄を射抜いてくる。
一団の中では、唯一敵意が感じられず、整えられた銀色の口髭から覗く口元は愉快げに吊り上がり、まるでいたずら小僧のようであった。
壮年の男は未だ距離を置いて立ち尽くす光玄に、ちょいちょいと手招きをした。悪いようにはせぬと、その少年のような曇りなき碧き瞳が物語っている。
光玄はその瞳に誘われるがまま歩を進め、壮年の男のもとへ赴いた。
彼我の距離が縮まると、護衛兵たちが剣と盾を構え、光玄の接近を妨げようとした。
「そこで止まれ! 何者――」
「やめよ。恩人に対して無礼であろう」
壮年の男は護衛兵たちを制すると自ら歩み寄り、光玄と向かい合った。
「加勢に感謝する。貴公、名は何という」
はきはきとした、非常に聞き取りやすい口調の、澄んだ声が光玄の耳朶を打つ。
「信州浪人、桐間光玄と申しまする」
名を告げ、深々と頭を下げ礼を示す。その様子に、壮年の男は思わず顎髭をひと撫でし、感心した。
「キリマ・ミツハル…… 珍しい響きの名よ。それに、変わった作法だが誠意の感じられる、良い一礼であるな」
壮年の男はなお愉快げに微笑み、自己紹介をする。
「――儂はアルトゥール・グランスタインである。このグラントリア王国において公爵位を賜っておる」
(公爵…… 異人の大名のようなもの……か?
ええい、あの神モドキめ! 知らぬはずのことが理解できるとは気色悪いことこの上ない!)
突如として脳裏に浮かび出てきた穴だらけの知識に、光玄は強い不快感を覚えた。恐怖と言い換えてもいいだろう。
だが、おかげでこの壮年の男がただ者ではないということははっきりしている。
(ならば、それに相応しい態度で相対すべし)
光玄は誠心誠意をもって、再度アルトゥール公へ頭を下げた。
「ははっ、お目にかかれて恐悦至極に存じまする」
「その言葉遣いといい、妙に品のある立ち居振る舞いといい……
貴公、どこかの貴族の出か?」
「某はただの浪人、さすらいの武辺者にござれば。大した者ではございませぬ」
「ローニン……とはなんなのだ? いくつか儂の理解の及ばぬ言葉があるな」
アルトゥール公のその言葉に、光玄は強い違和感を覚えた。
(そういえば、なぜ言葉が通じる? 異人の言葉などまったく知らぬはず……
――おのれ、神モドキめ。これもまたやつの仕業に違いあるまい)
光玄はまた苛立ちを募らせた。自分の身体だというのに、まるで理屈の判らぬ力で作り直されたような、そんな感覚を覚えたからだ。
(――まぁ、よいか。言葉が通じず、斬りかかられるよりは良し)
光玄は、もはや自分の身に起きている理屈の判らないことはすべて、神モドキの仕業だと断じることに決め込み、深い息を吐くとそれ以上考えることをやめた。
「信州とは某の出身地。浪人とは、仕える主を持たず放浪する武士でございまする」
光玄のその答えに、アルトゥール公は目を細め、考えを張り巡らせた。
(ローニン、モノノフ…… やはりいくつかは聞き覚えのない単語だ。
それにやつの口の動きからすると、大陸共通語を喋っているわけではない。なのに、耳に届く言葉は大陸共通語か。不思議なものよ)
髭を撫で、アルトゥール公は光玄を鋭い目で見つめた。
それなりに読唇術を嗜むアルトゥール公でなければ、この違和感に気づくことはなかっただろう。
普通なら警戒し、不気味がるところだが、逆にアルトゥール公は光玄に強く興味を惹かれた。
「武辺者、と言ったな。傭兵或いは放浪騎士のようなものか。
ならば、貴公の剣の腕を見込んで頼みが――おっと」
ふと何かを思い出したように、アルトゥール公は言葉を切る。
「その前に、恩人たる貴公には『娘』からも直接礼を言ってもらわねばな」
そう言って背後の馬車の扉をノックすると、彼はまるで別人のような柔らかい声で呼びかけた。
「イングリット、ひとまず安全は確保されたよ。出ておいで」
今まで皆が必死に守っていた馬車の扉が、遠慮がちにそっと開く。そして中から一人の娘が恐る恐る馬車から出てきた。
彼女が姿を現した瞬間、兵たちの体が一瞬こわばり――すぐに彼らはバツの悪そうな表情を浮かべた。
(――?)
光玄は彼らのその反応に首を傾げる。アルトゥール公の『娘』というなら、仕えるべき家の姫君のはず。
それに対して思わず嫌悪の混じる不躾な目を向けてしまい、罪悪感を覚えた。そういう反応だった。
何かしら事情があるのだろうと光玄が思案していると、アルトゥール公の手を借りて、目を見張るほどの麗しい娘が降りてきた。
黒檀のように混じり気なく、濡れ烏のような艶やかな長い黒髪。
前髪は眉の辺りで綺麗に一文字で切り揃え、清潔感があった。
白磁のような線の細い顔には、長く豊かな睫毛で縁取られた切れ長の目がある。
その中には黒曜石のような品のよい輝きを宿す瞳があり、伏し目がちでありながらも確かに光を湛えていた。
病的と言っていいほどに白い肌はそれに劣らぬ純白のドレスに包まれ、死に装束のようにも見える。
異人とはあまりいい思い出がない光玄の目にも、大変美しい少女と映った。
アルトゥール公はどこか自慢げに、光玄に彼女を紹介した。
「我が娘のイングリットである」
(なんというべきか――もったいない)
それが、光玄のイングリットへの第一印象だった。
彼女の端正な顔立ちも、うつむきがちで陰りがあり、やせ型ながらも女性らしい起伏に富んだ体つきは萎縮して丸まり、どこか貧相に映った。
対面した光玄の目を直視することもできず、ちらりと見てはすぐに目を伏せていた。
良家の姫君らしい慎ましさと言えばそうだが、慎ましさと自信の無さは全くの別物である。
光玄は彼女のその姿に何か思う所があったのか、無意識のうちに自分の刀の柄を指先でいじっていた。
(うーむ、もしやこのおなごこそが件の破滅の運命を背負う者か?)
幸薄さという概念の擬人化とも言えるほど彼女は弱々しく、他者の庇護なしではまっとうに生きるのは難しそうに見える。
確かに守りがいのある人物ではあるのだろう。
(なんにせよ、貴き方のご息女なれば礼を尽くすべきであろう)
光玄はイングリットに向かって、アルトゥール公へのそれと同様深々と頭を下げ、礼を示した。
「某は、桐間光玄と申しまする。光玄とお呼びくだされ」
が、当のイングリットは困惑し、あたふたしてはどうしてよいか父親のアルトゥール公を窺うばかりだ。
アルトゥール公がにっこり笑い頷いて見せると、イングリットはおどおどしながらもスカートの裾を軽く摘まみ、膝を折って綺麗な一礼をしてみせた。
「お助けいただき、あ、ありがとうございます。
イングリット・グランスタイン……と、申します……」
鈴の転がるような清涼なる声は、残念ながら消え入りそうなほど小さく、最後の方はほぼ聞き取れない始末だった。
(――やはり、もったいない)
光玄は異人の作法に通じているわけではないが、その所作が気品に満ちた美しいものであることは一目でわかった。
だからこそ、萎縮し、縮こまった姿勢が、気品ある所作の美しさを台無しにしてしまっている。
それが、どうにももったいなく思えた。
先ほどより少しばかり機嫌良さげに、アルトゥール公が話しかけてきた。
「さて、挨拶が済んだところで、改めて貴公に頼みがある」
「なんなりと」
アルトゥール公と言葉を交わし、人となりを知ったことで敬意を示すに足る人物だと感じたのだろう。
まるで主君に対するような真摯な態度で、光玄は詳細も聞かずアルトゥール公の要請に二つ返事で答えた。
「これから森を抜け、安全な場所へ行かねばならんが……
遺憾ながら、我が私兵団はご覧の有様でな。ついては、当面の護衛を貴公に頼みたい」
「御意」
短くアルトゥール公の要請に肯定を示した光玄。
だが、それと同時に――瞬き一つの間に光玄は音もなく抜刀し、アルトゥール公に刃を突き出していた。
まるで手から刃が生えたような早業。誰一人、光玄のこの凶行に反応できていない。
「な――」
アルトゥール公が突然目に入った刃の煌めきに驚き、口を開きかけた瞬間――
キィン!!
アルトゥール公の目の前で火花が散った。
恐らく暗器――しかも黒塗りの上、艶消しを施され、目視は困難。光玄の突然の抜刀は凶行などではなかった。
彼は会話のさなか、アルトゥール公を狙って全くの無音で飛来したソレに反応し、アルトゥール公の眼前で弾いたのである。
襲撃はまだ終わっていない。
――二段構えだったのだ。




