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第25話 黒騎士、誕生⑥

「おい、アンゲリーカはまだか! さっさと交渉を始めるぞ!」


 急ごしらえの天幕の中、ルノー子爵が喚いている。

 

 光玄やイングリット、サーリアの姿は見えるが、ゲールハイト家の当主アンゲリーカはまだ姿を見せておらず、一向に交渉が始まらないからである。

 そして、戦前交渉時とは違い、今回は両家の主だった家臣団も揃っており、互いに向かい合って交渉が始まるのを待っている。


 その天幕の中央。一人の男が椅子にふんぞり返っている。


 未だ喚き散らかす、ルノー・リーロンド子爵だ。

 敗戦の将とは思えない態度である。


 その態度に、光玄の後ろに控えるゲールハイト家臣団は唸り、威嚇しており、その反対側――


 ルノー子爵の後ろに控える、リーロンド家臣団と思われる者たちは皆一様に疲れ果てた顔で何やら囁き合っている。


「あぁ、賠償金は一体いくらになることやら……」


「借金することになるやも知れませんぞ」


 ゲールハイト側に並ぶ光玄は、それが不思議で仕方がなかった。


(何故金の心配ばかりしている? 首の心配をした方がよかろうに)


「えぇい、いつまで待たせるつもりだ!」


(――何故、敗戦の将がああも偉そうなのか)


 光玄の胸中、苛立ちが募る。


 その時、天幕を開け、艶やかなドレスに着替え、鮮やかな深紅のケープを羽織ったアンゲリーカが入ってきた。


「ごめんあそばせ、乙女は支度に色々時間がかかりますの」


 その深窓の令嬢然とした麗しい姿に、ルノー子爵は一瞬目を奪われ、惚けた。

 どうやら、惚れていたのは本当らしい。

 だがすぐに表情を取り繕うと、照れ隠しなのか、鼻を鳴らし彼女を睨みつける。


「ふん、乙女と言える歳ではないだろう。

さぁ、アンゲリーカ。さっさと戦後処理交渉に入るぞ」


「……」


 アンゲリーカは、黙したままルノー子爵を見つめる。

 彼は未だふんぞり返り、傲慢な態度を崩さない。

 彼がこのような態度を取れるのには、理由があった。


 この大陸に古くから根付く慣習。身代金交渉である。


 捕虜を必要としない蛮族相手ならともかく、貴族同士の戦いにおいて、その将の身柄は非常に高い価値を持つ。

 交渉次第ではあるが、場合によっては中堅貴族の所領の税収一年分の金銭が動くこともある。


 戦にて降伏し、捕われた人物が当主か嫡男であれば、その価値はますます高まる。

 下手に殺してしまっては損なのだ。

 そもそも、戦意を失い降伏した者を殺害する行為そのものが騎士道に悖る、唾棄すべき悪行とされている。


 今回の場合はリーロンド子爵家が当主、ルノー・リーロンド本人の身柄を確保している。

 長年に渡り、ゲールハイト領に出血を強いてきた張本人である。

 更に、王家は戦後交渉にてゲールハイト家を支持すると宣言している。

 一年分の税収どころか、五年分は搾り取れるはずである。


 なんにせよ、リーロンド家としては再起不能に近い損害を被ることになるだろう。

 ただ、交渉が済めばルノー子爵本人は五体満足で帰ることになるだろうが。


 しかし――


「――何を、勘違いしておりますの?」


 骨の髄まで凍りそうな、冷たい声が天幕に響いた。

 途端に、囁き合っていたリーロンド家臣団も、唸り声をあげ威嚇していたゲールハイト家臣団も沈黙した。

 天幕の中の全員の視線が、声を発した人物に集まっている。


 アンゲリーカだ。

 表情はにこやか。なのに、その体から発せられる圧に皆圧倒されている。

 それは、椅子にふんぞり返ったままのルノー子爵も同様で。


「な、なんだ、勘違いとは」


「貴方の交渉相手はわたくしではありませんわ。

今回の戦は我が義弟、騎士ラッセルの初陣。総大将はわたくしではなく、彼ですわ」


 アンゲリーカが光玄を指して見せると、ルノー子爵は喚き始めた。


「ふざけるな、総大将は貴様だろう! 戦前の交渉では――あっ」


「うふふ、わたくしはあの時、何一つお話などしておりませんわ。

――ねぇ? 記録官様?」


 アンゲリーカは、静かに成り行きを見守っていた記録官アイシャに話を振った。

 記録官アイシャは、手元の記録を捲っては目を通して答える。


「はい。戦前交渉においては、確かに終始そちらのラッセル卿が対応されておりました。アンゲリーカ子爵の発言は確認できません」


 実は、アンゲリーカは総大将ではなかったのだ。

 単に総大将らしく振る舞い、本陣で構えていただけ。


 今回の総大将はあくまでも左翼に布陣していた光玄。

 ――総大将が必ず本陣にいなければならないという道理はないのである。


「馬鹿な、そんな暴論が!」


 実際、ゲールハイト側の家臣らも、「え? そうだったの?」という表情を浮かべている。

 だが、記録官アイシャは、アンゲリーカを支持した。


「――従って、この場合はラッセル卿を総大将として扱い、戦後処理交渉の権利があるとみなします」


「――ふん、まぁいい。むしろ好都合だ」


 ルノー子爵からみた光玄は、交渉に向いた人物には思えない。

 上手い事言いくるめて、賠償金を引き下げる腹積もりなのだ。


 アンゲリーカは、正式に交渉人となった光玄の肩に手を置き、その耳元で囁く。


「貴男の好きなようになさい。どんな結末でも、責任は当主であるわたくしが取るわ」


 光玄は彼女に力強く頷いて見せると、ルノー子爵の前に進み出て、重々しく口を開いた。


「では、此度の戦を預かる将として――敗戦の将たる、るのぉ・りぃろんど殿に沙汰を言い渡す」


「ん?」


 沙汰とは。まるで死刑宣告――


 次の瞬間、ルノー子爵の世界がぐるりと回った。

 ルノー子爵がふんぞり返っていた椅子を、光玄が蹴り飛ばしたのである。

 ルノー子爵は顔から地面に落ち、奇しくも光玄の前に平伏した姿勢となった。


 光玄のその凶行を制止すべき立場にある記録官アイシャは、彼の空虚な漆黒の瞳を見つめ、静観を決め込んでいる。

 鼻頭をさすり、まだ状況が飲めずにいるルノー子爵に、光玄はいつもよりずっと低い声で告げた。


「腹を切られよ」


 そして、彼は腰元のナイフを外すと、ルノー子爵の目の前に投げてよこした。


「き、貴様! 腹を切れ、とはどういうことだ!

降伏した者にこのような仕打ち! 騎士の風上にも置けんぞ!」


「ふざけるな。兵を、民ばかりを死なせて己の命惜しさに降伏とな? まともに矛も交えぬうちにか?」


 光玄の低い声が、しんと静まり返った天幕の中、やけに大きく響く。

 反論の言葉を探すルノー子爵に、光玄は畳みかける。


「――敗戦の責任を負い兵と家臣の助命の代わりに己の腹を切る……それが敗戦の将が持つべき覚悟であろう!

その程度の覚悟もない者が人の上に立つなど、笑止千万!」


 光玄は無銘を引き抜き、上段に構えてルノー子爵の横に立つ。


「――重ねて申す。腹を切られよ」


「き、記録官殿! 何をしておられる! こんなことがまかり通っていいのか!?」


 ルノー子爵は記録官アイシャに助けを求める。

 しかし――


「問題がないとは申しませんが、騎士道は規範であって、法律ではありません。ラッセル卿は勝者の権利を行使しているだけだと判断します」


 そう淡々と話す記録官アイシャの表情からは完全に感情が抜け落ちているのに、瞳はどうしてか妖しい光を湛えている。


 カチり、と光玄が無銘を握りなおし――


「は、腹を切ればいいのだね? わ、分かった、切ろう!」


 光玄から発せられる粘つく殺気に、彼が本気であることを察したルノー子爵は、慌ててそのでっぷりと肥えた腹を晒した。


 ルノー子爵は、これが何らかの『謎の儀式』なのだと思い込んだ。

 腹を自ら切るほどの覚悟を見せれば見逃してもらえると。ちゃんとやり遂げれば当然治療もしてもらえるのだと思い込んだのである。


 ナイフの震える切っ先が、腹の皮に突き立てられる。


「――――――! いっ―――!」


 偏執狂的に磨き上げられた刃はほとんど抵抗もなく皮膚を貫き、容易く皮下脂肪にまで達した。


 薄皮一枚でも背筋が痺れるような、想像を超える痛みが走る。

 呻き声をあげながら隣に立つ光玄をチラリと見るも、微動だにせず。

 ただ、目線でそれでは足りぬと。続けろと促すばかりだ。


 ルノー子爵は、いよいよこの蛮族じみた謎の儀式を終えないことには、『解放』してもらえないと悟り、ナイフを握る手に力を込めた。


 切っ先がより深く潜り込み、肉を断つ嫌な感触と、先のものとは比べるべくもない激痛に、目の前にチカチカと星が見え、全身に冷や汗が湧き出る。


 天幕の中は静まり返り、ルノー子爵のうめき声だけが響く。


 リーロンド家の者たちも、ゲールハイト家の者たちも、固唾を飲んでただ見守るだけだ。


 目の前の恐ろしい光景に、イングリットが顔を真っ青にしていると、この先の展開を目ざとく察したサーリアが彼女を天幕から連れ出そうとした。


 しかし、イングリットは首を横に振って見せ、そのまま留まった。


「わたしはグランスタイン家の名代なの。

お父様の、お兄様の代わりとしてこの場にいるの。だから、最後まで見届けさせて」


「お嬢様……」


 以前のイングリットなら、サーリアが連れ出すまでもなく逃げ出していたはずだ。

 そもそも、今回の名代の話だって断っていたはず。


 サーリアは、無表情のまま刀を上段に構えたまま立つ、光玄を睨みつける。

 イングリットが強くなったのは嬉しい。けれど、イングリットが普通の令嬢として生きる道が潰えていく。そんな気がしてならなかったのだ。


(わたしの可愛いお嬢様を変えてしまった責任、ちゃんと取ってもらいますから)


 サーリアはイングリットの震える手をぎゅっと握り、主同様、目の前の光景から目を離さない。 


 一方のルノー子爵は脂汗を流しながら、改めて光玄を見上げた。

 しかし、彼は尚動かず。

 そう、刺せと言ったのではない。切れと言ったのだ。


(む、むむむ無理だ! し、死ぬ! し、しかし―――)


 光玄が上段に構えた刀をより高々に構える。

 今にも振り下ろさんばかりに。

 焦ったルノー子爵は歯を食いしばり、そのまま自ら腹を切った。


「……う――――! う――――ッ!」


 余りの激痛に気を失いそうになって、更なる激痛で覚醒する。

 吐き気がこみあげてくるも、喉が詰まって吐くこともできず、呼吸もままならない。

 さすがにここまでしたのなら見逃してもらえるだろう。

 ルノー子爵には、もう光玄の方を窺う余裕すらなくなっていた。


 一方の光玄は困惑していた。


(――なんと見苦しいか。こんな者に介錯など贅沢ではなかろうか)


 苦痛を終わらせるための『慈悲』を与えるべきか、彼は悩んでいたのだ。

 だが、無用に苦しめても、主であるイングリットの評判が悪くなるだろうと判断した光玄は自嘲と共に肩から力を抜いた。


(某も甘いな。すまぬな、『無銘』よ。初めての獲物がこのような小物で)


 光玄は、ルノーに『慈悲』を与えることにした。

 ――介錯という名の。


 苦しみを与えぬよう、一息で命を絶つべく、光玄は力を抜き切っ先に意識を集中させる。


 隣の光玄から一瞬ふっと力が抜ける気配を辛うじて感じ取ったルノー子爵。

 ようやく許された。そう思い込んだのだろうか。

 彼の心中、安堵と共に怒りが沸々と湧いてくる。


(や、野蛮人め! ゆ、許さん許さんぞ……絶対――――――)


 ルノー子爵の、その暗い想いが綴られることはなかった。

 閃光が走り、続いて重たいモノが地面を転がる音が天幕に響いた。


 ――長年、ゲールハイト家を苦しめてきた男の最期だった。


 一連の異様な光景に皆が息を呑んでいた。

 リーロンドの家臣団はもちろんのこと、長年、ルノー子爵の死を望んできたゲールハイトの家臣らも状況が飲み込めず、目を丸くしている。


 光玄の主、イングリットの顔色は青を通り越して真っ白になってはいるが、彼女は最後まで目を背けなかった。

 彼女でも騎士道は知っている。降伏したものを殺害するのは唾棄すべき邪悪な行い。


 けれど、彼女は光玄の行いが正しいと思った。

 兵たちは元はというと民だ。

 戦をすれば、彼らは傷つき死んでいく。そんな彼らの献身に、どうやって報いればいいのか。金銭などでは到底贖いきれない。

 命を以て責任を取る。極端ではあるが、それくらいの覚悟は持つべきだ。

 イングリットはそう思った。故に、目をそらさなかった。


 アンゲリーカもまた、ルノー子爵の最期をしっかり見届けた。

 長年の悪縁だったとはいえ、その死に対してどこか思うところがあるらしく、そのエメラルドグリーンの瞳は揺れ、わずかに潤んでいた。


 なんだかんだで、ルノー子爵を憎からず思っていたのだろう。

 もし出会い方が違っていたなら。ルノー子爵が下らないプライドを捨てていれば。結末は違っていたのかもしれない。

 だが、所詮それもまた、もしも(IF)の話。

 現実はどちらかが折れるまで相争う他なくなっていたのだ。


 アンゲリーカは、ルノー子爵の亡骸の前へ進み、静かに立つ。

 亡骸を確かめていたリーロンド家の家臣たちは、彼女の顔を見て何やら感じ取ったのか、一歩引いて控えた。


「――さようなら、ルノー。嫌いではなかったわ」


 アンゲリーカは、自分の深紅のケープを脱いでルノー子爵の亡骸にかけ、別れの言葉を口にし、目を閉じて黙とうを捧げた。

 次の瞬間には気持ちの整理がついた様子で、目を開け顔を上げた彼女の様子はいつも通りであった。

 アンゲリーカは、リーロンド家の家臣たちに一礼をして見せると、踵を返し元の位置へ戻る。

 そして彼女は薄く笑みを浮かべると、隣に立つ記録官アイシャに声をかけた。


「記録官様? 大変なことになりましたわ。

まさか、リーロンド子爵殿が『ご自害』なさるなんて」


「そうですね。大変ですね」


 酷く空々しい。それに表情を取り繕ってはいるが、記録官アイシャは愉悦の気配を隠しきれず、どこか楽しげだ。


「――ルノー・リーロンド子爵は交渉中、自害なさいました。

つきましては、次席の責任者でいらっしゃる、ライル・リーロンド殿に交渉を引き継いでいただきます」


 記録官アイシャの宣言のあと、名を呼ばれた、疲れた顔の青年が進み出た。


「リーロンド家の家令にして、ルノー・リーロンドの弟である、ライル・リーロンドです。

当家はゲールハイト側の要求を全面的に受け入れます。いかようにも。

私の命を差し出せと仰せならばご随意に」


 諦念か覚悟か。その疲れ果てた顔からははっきりと読むことはできない。

 だが、ルノー子爵と比べれば、このライルは光玄としては好ましい人物だった。


 ルノー子爵の弟、ライル。

 彼はずっと兄の尻拭いばかりをさせられてきたのだろうか。

 兄の死に対する怒りも、悲しむ様子もなく、むしろどこかホッとしている様子である。


「――既に当主たる、るのぉ殿がその命を以って責を果たしておりまする。

これ以上の話し合いは無用にて」


 何も求めない。光玄はきっぱりとそう告げた。


 途端に、両家の家臣団がざわめく。

 先ほどのルノー・リーロンドの処刑は長年の嫌がらせに対する単なる報復と、場を恐怖で支配して、これからの交渉を有利に進めるためだと思い込んでいたからだ。


「は? しかし、まだ賠償金の問題が」


「否。戦はこれにて終わりにござる」


 本来なら巨額の賠償金が動く案件だ。


 下手すると、リーロンド子爵家は巨額の借金を抱え、没落まっしぐらだというのに、たった一人の命でそれを不問にするというのだ。


 無用な戦を続けて自領をも疲弊させてばかりだった当主を排除してくれただけでなく、賠償金も要らぬという。


 ライルからすれば、光玄はまさに神の使いだった。


「このご恩はいずれ必ずお返しします、ラッセル卿」


「そのようなものは要りませぬ。ただ、今後永久に当家への敵対行動を控えるよう、お願い申し上げる」


「ご随意に、ラッセル卿。

――ああ、これでようやく我がリーロンド家は前へ進める」


 そう言って、リーロンド家臣団の元へ戻るライルの背中からは、依然として濃い疲労感は拭えなかったが、その足取りは力強いものだった。


 一方の記録官アイシャは眼前で繰り広げられた凶行を、当たり障りのない文面でまとめ、記録を終える。


「当主ルノー・リーロンド殿の『降伏』、そして『自害』により、此度の会戦はリーロンド子爵家側の敗北。

勝利側である、ゲールハイト子爵家の総大将ラッセル卿からのご厚意により、賠償金は求めず、代わりに今後永久にリーロンド子爵家との不可侵の約定を結ぶこととする」


 これでいいですか? と言わんばかりに、彼女はアンゲリーカを見つめる。

 その視線を受け、アンゲリーカはゆっくり頷いた。


「ええ、よろしいかと」


 ――記録上は記録官アイシャの記したとおりになるだろう。


 だが、現場で一部始終を見ていた者たちすべての口に鍵をかけることはできない。


 悪夢のような恐怖体験として、或いは、勝利の興奮混じりの土産話で――

 あることないこと肉付けされた噂という形で、新たなる伝説が生まれる。


 降伏した者に対して自らの腹を切らせ、腸を引きずり出すという惨い拷問をした上に、首を斬り落として生き血を啜った――


 そんな悍ましい真似をした恐ろしい騎士の噂が社交界をめぐり、グラントリア国内だけに留まらず、大陸全域に衝撃をもたらした。


 この日を境に、黒ずくめで黒馬を駆るその姿から光玄は――『黒騎士卿』と呼ばれるようになったのであった。




◆◇◆




 記録官アイシャは一人、丘の上に戻ってきていた。

 そこでは着々と撤収の準備が進められている。


 一仕事終えた記録官アイシャは、大きく伸びをする。


「んん~~!」


 その後ろで、豪奢な王家の馬車の扉が開き、何者かが下りてくる。

 ――今まさに伸びをし、凝った身体をほぐす、『アイシャ』と瓜二つの女性が。


「――御戯れもほどほどになさってください」


 『アイシャ』と瓜二つのその女性は、咎めるような目を彼女に向け、その本当の名を呼んだ。


「――ルクレツィア様」


「うふふ」


 機嫌のよい笑い声と共に、『アイシャ』の顔が揺らめき、本来の顔が露になる。

 寒気のするほどに整ったかんばせ、澄み切った薄紫の瞳。


 彼女――ルクレツィア妃が髪留めを解くと、髪色が元の銀紫へと変じ、翼のようにはためき、腰元に広がる。


 側に控えたそばかすの侍女が、ルクレツィア妃が脱ぎだした堅苦しい礼服を受け取り、軽めの旅装を彼女に着せる。


「ありがとう、ニーナ」


 そばかすの侍女――ニーナは人懐っこい笑みを浮かべると、慣れた手つきでルクレツィア妃のお化粧を直した。


 本物の記録官――女官アイシャは眉をひそめ、ルクレツィア妃に苦言を呈する。


「わざわざ御身がこんなところまで来られなくてもよろしかったのでは?

あの『小火騒ぎ』があったばかりで、近衛騎士団長殿に睨まれておりますのに」


 後宮内どころか、このグラントリア王国でルクレツィア妃に意見できる人物は限られる。

 それが許されているアイシャは、まさしくルクレツィア妃の右腕と呼ぶべき人物なのだろう。


「ふふ、ごめんなさいね」


 アイシャの苦言に対し、そう謝罪の言葉を口にするルクレツィア妃だが、その悪びれない愉快な表情からは反省の色が全く見られない。

 女官アイシャは小さくため息をついて、苦笑いを浮かべる。いつものことだと言わんばかりに。

 ルクレツィア妃が何か好き勝手をする度に、フォローをし、最良の結果へ導いているのは彼女なのだ。


「仕方がありませんね。それで、収穫はございましたか?」


「実に得難い一日でした。おかげで気持ちが固まりましてよ」


「――イングリット嬢のことですね?」


「ええ、折を見て、グランスタイン家に婚約破棄を申し込むつもりです。

あの子はアウレールには過ぎたご令嬢ですもの。もったいなくてよ」


 女官アイシャは眉間にしわを寄せる。


「現段階で婚約破棄へ進むのは多少性急かと思われますが……」


「すぐに、という訳ではなくてよ。アウレールに、もう一度機会を与えたいと思うのです」


 息子に無関心と噂が立つ割には、ルクレツィア妃の彼への愛情は殊の外、深い。


「機会ですか?」


「ええ。学園にて、イングリットの婚約者として正しく振る舞えるか。あのご令嬢に相応しい殿方になれるのか」


 婚約者として試されるのは、もうイングリットの方ではない。

 アウレール王子の方だ。


「――難しいかと。そもそも、それが出来ていれば、『濡れ烏の君』命名の事件も起きなかったはずですので」


「ふふ、若者は成長するものでしてよ。あのイングリットのように」


 可憐な少女の容姿で、そんな年寄りじみたセリフを吐くルクレツィア妃を、女官アイシャは胡乱げな目で見つめる。


「――もう少し親子同士でよく話し合われては?

殿下がルクレツィア様のご愛情に気づかぬままというのはお気の毒で」


「アウレールを甘やかすつもりはなくてよ。

あの子にはいずれ、独り立ちせねばならない日が来ます。

今の甘えん坊のままでは困りますの」


「――左様で」


 馬車の方から、侍女ニーナがぶんぶんと手を振りながら駆け寄ってくる。


「妃陛下ぁ! お帰りの準備が整ったみたいですよ!」


 あまりにもくだけたニーナの態度に、アイシャが注意をする。


「こら、ニーナ! 後宮入りしてもう七年目でしょう! いい加減、言葉遣いに気をつけなさい!」


 しかし、後宮の女(むすめ)たちに限りなく寛大なルクレツィア妃(はは)は、大らかに笑って見せると、それを許した。


「ふふ、よろしくてよ。わたくしの可愛いニーナはこうでなくては」


 無作法を許されたニーナは、注意をしてくれたアイシャに人懐っこい笑みを浮かべて見せる。謝罪代わりのつもりか。

 何か小言を重ねるつもりでいたアイシャは、その笑みに毒気を抜かれ、肩をすくめると、それ以上問い詰めることはしなかった。

 ニーナは依然明るく笑い、ルクレツィア妃の旅装を整えながら訊ねる。


「えへへ、妃陛下、楽しそうですね?」


「ええ。イングリットの成長した姿を見られたうえに、『お邪魔虫さん』にも出会えたもの」


 それを聞いたアイシャが、鋭い眼差しを遠く土煙を上げて去っていくゲールハイト勢の方へ向ける。


「ラッセル卿……ミツハル・ラッセル・ゲールハイト卿ですか」


「そう、ミツハル、みつはる、みつ、はる」


 何度も何度も、ルクレツィア妃はその変わった響きのある名前を呟く。

 正確な音色を探るように。


「みつはる、んん、確か、こうだったかしら。

――光、玄、光玄。うふふ、面白いお名前だこと」


 やがて、彼女は正確な音色を探り当て、それを舌の上にのせて転がす。

 その表情は、見た目通りの少女らしい、たおやかさを帯びている。

 だが、その薄紫の瞳の妖しく光は、彼女の年相応の色気を帯びている。


「わたくし、あの御方……光玄様が欲しくなったわ」


 その言葉に、アイシャは意外とばかりに目を見開き、主を見つめる。


「まぁ、珍しい。ルクレツィア様が殿方をお気に召すなんて」


「――そうですね。わたくし自身驚いていましてよ」


 ルクレツィア妃は、ゲールハイト勢が立ち去った方を見つめ、口元に手をやり、くすくすと笑った。


「――いいことを思いつきました。後宮に戻ったら、早速準備を始めなければ」


 何か愉快な『遊び』でも思いついたのか、ルクレツィア妃はニーナの頭をわしわしとやや乱暴に撫でまわしたあと、小躍りしながら馬車へ向かった。


 その後ろ姿を見つめ、アイシャは苦笑いを浮かべる。

 彼女は予感していた。きっと、主はろくでもないことを思いついたのだと。

 そして、これから自分はいつものように、その後始末をすることになるのだと。


 けれど、いつも退屈に苛まれる後宮の母があんなに嬉しそうにしているのは珍しい事。

 女官アイシャは全力を以て、ルクレツィア妃が思いついた、『ろくでもない計画』をサポートするつもりでいる。

 彼女が最も憎むのは、敬愛する主の退屈なのだから。

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