第16話 女傑たち①
「ラッセル……ですか?」
朝の庭園の東屋。
グランスタイン公爵家令嬢、イングリットはティーカップを手に、目を丸くしている。
対面して座る黒ずくめの男、光玄は誇らしげな顔で鷹揚に頷き、答えた。
「然り! この度、新たにらっせるの名を賜り申した!」
イングリットの隣に控えるサーリアが、光玄の空いたティーカップに紅茶を注ぎながら、胡乱気な視線を送る。
「へぇ。驚きですね、旦那様がそんな気の利いたお名前を付けてくださるなんて」
主に対して、実に失礼な物言いだが、アルトゥール公のネーミングセンスの無さは自他公認である。
娘イングリットすらサーリアの言葉に何も言わない所を見ると、だいぶ酷いものなのだろう。
そんな二人に、光玄はゆっくり首を横に振ると、答えた。
「否、この名は奥方殿が付けてくださったものにござれば」
思わず、イングリットはティーカップをテーブルにおいて、光玄をじっと見つめた。
「メヒティルト様が……? ラッセルと?」
「然り」
イングリットは祈るように胸の前に手を重ね、目を伏せ何かに思いをはせる様子だった。
そんな彼女を、隣のサーリアは微笑ましいとばかりに優しげな顔で見つめては、光玄の視線に気づき、いつもの気難しい表情を取り繕う。
「おっと、そろそろいかねば」
突然、光玄はそう言って、ぐいっと紅茶を飲み干すと、テーブルに積み上げていた数冊の本を抱えて立ち上がった。
「えっ、どちらへ?」
「御屋形様に呼ばれていたのでございまする。
こちらの本の感想を述べよと言われておりましてな」
光玄は抱えていた本をイングリットに見せてくる。
『魔術の起源』
『神敵・黒き神への聖餐』
『大英雄・霹靂帝の光と影』
その本の内容はわずか数日の間に、子供向けの絵本から、専門的な学術書へと変わっていた。
それをじっと見つめていたイングリットはしばし逡巡し、やがて意を決したように話した。
「あの、ミツハル様。わたしもご一緒しても?」
「もちろん、構いませぬ」
イングリットの声がわずかに上ずっていたことを耳聡く感じ取ったサーリアは、にんまりと笑い、わざとらしく話し始める。
「あぁ、そういえばわたしはエントランスのお掃除があるのでした。
ミツハル様、お嬢様をしっかりお願いしますね」
基本的にサーリアはイングリットの専属で、付きっ切りで彼女の世話をするのが役目だ。
他の使用人との共同作業などはあまりしないし、したところで彼ら彼女らと反目しているせいで、はっきり言って仕事にならないのである。
サーリアは敢えてイングリットを、光玄に任せてみようと考えたのだ。
彼女なりに、光玄のことをイングリットの従者として認めているのだろう。
同時に、サーリアは初心な主がこの黒ずくめの男に向ける視線、僅かな仕草から、まだ形になっていない『何か』を嗅ぎ取っていた。
あの白いガーベラの花の件以来か。
イングリットは、光玄が庭園に出ている時、よく顔を出すようになっていた。
今日も、朝早くから彼が東屋で読書をしていたところに、イングリットがやってきてこうして一緒にお茶をしていたのである。
サーリアはこう見えて意外と恋愛脳であり、愛読書のほとんどは恋愛小説だ。
こういう男女の機微には人一倍敏感である。
だが――
「そう? 珍しいね? あまり、他の使用人たちと喧嘩しないようにね」
イングリットからは、そんな気の抜けた答えが返ってきた。
(――あら? もしかして脈なし? このわたしが読み違えたというのですか?)
光玄を意識して、赤くなったりする様子を揶揄うつもりが、手ごたえなし。
男女の機微には人一倍敏感なつもりではあるが、所詮サーリアも十六歳の恋愛経験のない、初心な少女でしかない。
そもそも、屋敷内ではサーリアが求めるような恋愛模様など生じるはずもなく。
せいぜいが、たまに見られる、アルトゥール公とメヒティルト夫人の仲睦まじい様子くらいか。
謎の敗北感に、サーリアは肩を落とした。
「――ええ、いってらっしゃいませ。お嬢様」
◆◇◆
光玄がイングリットと共に執務室へ行くと、どこか上機嫌なアルトゥール公が出迎えた。
「おや、イングリットも一緒だったのか。ちょうどよいか。
どうだ、久々に儂とチェスでもどうかな?」
どうやら光玄と一局楽しむつもりだったのか、アルトゥール公はチェス盤を用意しているところだった。
イングリットは思わず一歩引く。この負けず嫌いの父は、愛娘イングリットが相手でも一切手を抜かないのだ。
イングリットはそれなりにチェスには造詣が深く、兄ディートハルトや執事長ロタールにも引けを取らないくらいには上級者である。
それでも彼女は一度たりとも父相手に白星を挙げたことはない。
イングリットはチラリと隣に立つ光玄を見る。おそらくは初心者。
なのに、その表情には勝負への強い期待がにじみ出ている。
「ええと、わたしは遠慮しておきます。
その代わり、ミツハル様に助言をしてもいいでしょうか?」
愛娘のその答えに、アルトゥール公は目を細め、笑う。
「ははっ、二人がかりというわけか。よかろう!」
◆
「――つまり某が思うに、『黒き神への聖餐』なる集団が行っていた、ネズミを捕獲し燃やすなどの奇行は、病のもとを断つための行動だったかと」
光玄は盤面を眺めながら、アルトゥール公に本の感想を語っている。
満足げに深く頷くアルトゥール公の手は止まらず――
「ほう。――王手だ」
ぱちっ
「――ぐっ」
相変わらず圧倒的な実力差だ。
対局が始まって早々、あっさりと窮地に立たされた光玄が唸る。
そこにイングリットがそっと助け舟を出した。
「ミツハル様、そこはクイーンを動かしては?」
「ん? おぉ、なるほど!」
ぱちっ
イングリットの助言に良い手が閃いた光玄は即座に反撃に出る。
その鋭い返しに、アルトゥール公は眉をひそめた。
「何……? 中々良い手を打ってきたではないか。
――で? ミツハルよ。続きを申してみよ」
「は。今から七十年ほど前、再度『黒き神の呪詛』がこの大陸に流行り出した際も、『霹靂帝』なる者がネズミなどを捕らえた者に報奨金を出していたそうで。
その直後から病の発生は著しく減少しておりまする」
アルトゥール公は盤面を眺めながら、光玄の出した見解に驚きと共に深い満足感を示し、大仰に頷いて見せた。
「うむ、素晴らしいな。その通りだ。しかし、間違っても表立って言うべきことではないぞ」
長考の末、アルトゥール公が一手を返す。
「――白教は未だにネズミと『黒き神の呪詛』との間に、因果関係はないと主張しておるのだ。
神敵認定されれば、この大陸で生きていくのは難しくなるのでな。肝に銘じよ」
光玄の隣でイングリットが何やら囁き、彼は一つ頷くと一手を返し、答えた。
「ハハッ、肝に銘じまする」
アルトゥール公は、光玄が剣術一辺倒ではなく、知識を得ることに貪欲であり、思いのほか柔軟な思考をすることに驚いていた。
(やつが我がグランスタイン家へ来たのは、やはり神の思し召しであろうな。
――一体、どの神へ感謝の祈りを捧げたものやら)
追い風が吹いている。
アルトゥール公はそう思わずにはいられず、その口元が吊り上がる。
パチッ
彼が愉快な気持ちを乗せて力強く一手を返すと、光玄とイングリットは二人揃って目を丸くし、焦り始める。
アルトゥール公は改めて目の前の黒髪黒目の男女を見つめる。
二人は顔を突き合わせて、今のアルトゥール公の一手に対する対策を真剣に囁き合っている。
無自覚なのか、イングリットは光玄の方へ身体を寄せて肩が触れ合っている。
それを指摘して揶揄いたい欲に駆られる。きっと初心な愛娘は顔を真っ赤に染めて飛び上がることだろう。
だが、せっかくあの引っ込み思案なイングリットが家族以外の男性にここまで心を開いているのだ。
(うむ、実によい)
この空気を壊したくない。そんな親心がアルトゥール公の胸中を支配し、彼はかつてないほどやさしい目で二人を眺めていた。
――その時のことだった。にわかに、執務室のドアの向こうが騒がしくなった。
そして、何か――まるで大型の獣が押し寄せるような気配。
珍しく慌てた様子のサーリアの声が木霊する。
「アンゲリーカ様!! 困ります!! あーっ!!」
サーリアの悲鳴。そして、次の瞬間――
バァン! と、蝶番ごと執務室のドアがはじけ飛び、何者かが腰にしがみつくサーリアを引きずったまま飛び込んできた。
「きゃあ!」
イングリットが悲鳴をあげ、光玄は彼女を背に庇って突然の侵入者に備えた。
「アルトゥール様ァ!! このアンゲリーカ・ゲールハイト!!
お呼びに応じ、参上致しましたわァ!!」
名乗りと共に乱入した者。それはつい先日話題に挙がっていた、女傑アンゲリーカだった。
彼女の姿を見たアルトゥール公はあんぐりと口を開いている。
何故本人が直接乗り込んできているのか。返事なら、伝書鳩か使者で十分だったはず。
しかも、物理的にあり得ないことが起きている。
「馬鹿な……お主の領からは、馬を飛ばしても四日はかかるであろう?
まだ伝書鳩を送って二日しか経っておらぬぞ……?」
そう言って、アルトゥール公はアンゲリーカの足元を見る。
泥まみれの『裸足』。
彼女はどうやら馬も使わず、馬をも凌ぐ速さで走ってきているようで。
「アルトゥール様直々に『頼みたいこと』があるとのこと! ならばこのアンゲリーカ、仮に槍の雨が降ろうとも、即座に駆けつけましょう!」
「そ、そうか。し、しかしだな、その前に……」
アルトゥール公は片手で顔を覆い、瞑目した。
「ちゃんとした服を着るがいい」
アンゲリーカは、アルトゥール公からの『頼みごと』が書かれた手紙を受け取ってそのまま飛び出し、道なき道を爆走してきたのだろう。
ぐしゃぐしゃになった亜麻色の髪には木の枝が何本も巻き取られており、身にまとった泥まみれの襤褸はかろうじて元は寝間着だったことが見て取れる。
つまり――彼女はほぼ下着という際どい恰好で、その可憐でありながら豊満な、美しいプロポーションを惜しげなく見せつけながら、仁王立ちしていたのだ。
アルトゥール公の指摘にアンゲリーカの顔がみるみる真っ赤に染まる。
「こ、これは、お見苦しいものを……」
そして、入ってきた時とは打って変わって、静々と執務室から退室したのだった。
腰に、白目をむいたサーリアをぶら下げたまま。
その場に残されたのは、吹き飛んだドアの残骸と、呆然とする一同だけだった。
「大惨状でござるな」
光玄だけがぼんやりと、そう短くつぶやいたのだった。




