断章2 破滅の世界の断片:悪食烏
婚約披露パーティの帰り。
突然の魔物の襲撃、父アルトゥール公は指揮を執るため馬車から飛び出していき、奮戦むなしく護衛兵たちと共に命を落とした。
生き残ったのは、魔物が去るまで馬車の中で息を殺していたイングリット唯一人。
たまたま通りがかった三人組の行商人がいなければ、誰にも気づいてもらえず死んでいたかもしれない。
屋敷に着くと、来るのが分かっていたかのように待っていた兄ディートハルトが出迎え、何も言わず抱きしめてくれた。
イングリットの世界はこの日を境に何もかもがもろくも崩れ去った。
継母メヒティルト夫人はアルトゥール公の死の報せに衝撃を受け、流産し子を亡くした。
子を残すことなく未亡人となった彼女は、実家であるレンドゥーワ伯爵家へ連れ戻されることとなった。
すでにとある豪商との再婚が成立したというのだ。
その後の彼女の消息はイングリットには知る由もなかった。
新当主となったディートハルトは必死に家を立て直さんと、昼夜を問わず働きづめで憔悴していった。
しかし、グランスタイン家を支えていた大黒柱であるメヒティルト夫人が去ってからはますますグランスタイン家の財政は悪化の一路を辿るだけだった。
イングリットにはもはや選択肢などなかった。
何としても、王子との婚姻を成立させ、苦境に立たされたグランスタイン家を救う。それしかなかった。
王妃が提示した婚姻の条件。
それは王子が学園にて知と武を磨き、国王に相応しき者として成長できるよう側で支え、共に卒業の日を迎えることだった。
父の死から立ち直る間もなく、イングリットの学園への入学の日がやってきた。
イングリットは家のため、兄のために己の役目に殉じようとした。
王妃の計らいと支援のもと、兄ディートハルトは学園長として就任しイングリットが動きやすいよう力添えした。
しかし、社交界の嫌われ者、『濡れ烏の君』イングリットは皆から王子の婚約者とは認められていなかった。
数多くの令嬢たちは実家からの指令に従って王子へ積極的にアピールをし、イングリットの学園生活はその対応に追われてばかりだった。
イングリットは、特に秀でていた才であった呪術を駆使し、王子に近づく令嬢たちにささやかな不幸を呼び寄せてやった。
やがて、王子に近づけば濡れ烏の君の祟りを受けると言われ、ますますイングリットは学園で孤立していった。
――何はともあれ、イングリットの努力は功を奏して、令嬢たちは皆王子から離れていった。
ただ一人だけ除いて。
珍しい薄紅色の髪の子爵家の令嬢。確か、名前はリリアーレ・カンバネーリ。
リリアーレは、王妃の無関心で荒れていた王子の孤独に寄り添った心優しき乙女だった。
彼女はささやかな不幸など、すべて甘んじて受け、跳ね除けてものともしなかった。
一方のイングリットは邪魔者の排除に躍起になって、王子と向き合う暇などなかった。
すでに、王妃から提示された婚姻の条件――側で王子を支えることなどできていなかった。
もはや傍から見ればアウレール王子はリリアーレと恋仲で、イングリットとは赤の他人にしか見えない始末だった。
学園では、早くも王子とイングリットの婚約は破談になるのではないかという噂が立ち始めていた。
兄ディートハルトはそのことで決してイングリットを責めはしなかったが、その顔の失望の色と憔悴は隠せず。
イングリットは焦った。
ささやかな不幸などではどうにもならない。人を傷つけずに未来は守れない。
いよいよ後がなくなったと感じたイングリットは、禁術に手を出した。
禁術の詳細は知らない。とにかく、すぐにでも相手を排除する手段が必要だった。
学園内の使われない廃倉庫の中。
サーリアを助手に、イングリットは困難なその呪術の行使に臨んだ。
だが、禁術には禁術と呼ばれるだけの理由があるのだ。
イングリットが詳細も知らずに行使しようとしたのは『魔物化』の呪術。対象を血肉に飢えた魔物へと変じさせる、不可逆の呪い。
通常、才ある者が長い年月をかけてようやく習得でき、行使できるその禁術を、イングリットは未熟な知識で無理やり行使し――
人を呪わば穴二つ。呪術は術者であるイングリットに跳ね返った。
イングリットの存在が、内側から裏返った。
骨が皮膚を突き出し、肉が盛り上がり、漆黒の羽根が全身に生えてくる。
助手を務めていたサーリアが焦って駆け寄ってくるが、みるみる質量の増したイングリットの肉に押しつぶされ――
忠実なメイドは、哀れにも悲鳴一つ上げられず息絶えた。
やがて限界を超えた廃倉庫は倒壊し、その中から巨大な影が瓦礫を押しのけて出てきた。
小屋一つ分よりも大きい体躯。全身を覆う、光を飲み込む漆黒の羽根。
異常に発達した脚部。そして何よりも目を引く、鮮血のような深紅の嘴。
悪食烏クリムゾンビークの姿がそこにあった。
◆◇◆
酷い飢餓感。他の生あるものへの強烈な憎悪。そして際限なく湧き出す強者としての優越感。
学園の中庭へ躍り出る。
呑気な顔で、昼休みの穏やかなひと時を過ごしていた猿どもと目が合う。
ギィイイイイイイェエエエエエエ――!!
自分の喉から出たとは信じられない奇声。食事にありつける喜び、期待。
あれだけ自分を蔑み、馬鹿にしていた猿どものなんと矮小なことか。
まだ状況が飲み込めていない愚か者の一団に飛びかかった。
恐ろしく鋭い爪に触れただけで、脆弱な猿どもは紙くずのようにバラバラになっていく。
もったいない!ごちそうを粗末にしてしまった!
お父様に、お兄様に叱られてしまう!
辺り一面を彩る鮮血の赤より鮮烈な真紅のくちばしで、散らばるそれらをついばみ、飲み込む。
拾い食いなんて、はしたない。
サーリアに見られたらきっとあきれられる。
でもなんて美味なのだろう。
足りない、飢餓感がもっと酷くなっただけ。
ようやく事態を把握した猿どもがぎゃあぎゃあと、耳障りな悲鳴をあげて散り散りに逃げていく。
だめ、逃がさない。
大きな漆黒の翼を広げ、強く羽ばたくと、嵐が吹き荒ぶ。
矮小たる猿どもの身体は面白いくらい吹き飛んでいき、学園の白い壁に激突し赤い染みを作る。
ピクリとも動かないそれらをついばみ、飲み込む。
ああ、どうしよう、止められない。まだまだ足りない。
まだ、ごちそうはいっぱいある。
それらを追いかけようとして、足が止まる。
視界に、ピンクの髪が入ってきた。
王子殿下を誑かした、雌猿。
ソレが、たった一人でわたしの前に立ちふさがっている。
澄み切った、意志の強そうな薄紅色の瞳がわたしを真っすぐ見据えてくる。
他の猿共を逃がそうとしているの?
また、わたしのことを邪魔するの?
あなたさえいなかったら、わたしは!
激情のまま、翼を振るう。
荒れ狂う風が刃となってピンク髪の雌猿を切り刻む。
でも、動かない。血まみれになっても、腕を広げてわたしの前に立っている。
他の者たちのため身を挺して、命を懸けて立ち向かう。まるで物語の中の主人公のようだ。
その表情には打算も恐怖もなく、ただ他者への慈しみと揺るがぬ覚悟だけが浮かんでいる。
真っすぐこちらを見つめてくる、その薄紅色の瞳は身震いするほど美しい。
わかった、ならあなたが主人公のその物語はここで――
突然、脚に鋭い痛みが走る。
振り返ってみると、何匹かの猿が武器をこちらに向けている。
どこか、他の猿どもとは身にまとう空気が違う。
白金のごとく輝く長い髪の毛を翻し、一匹の白い雌猿が再度斬りつけてくる。
また、鋭い痛みが走る。
どうして、こんな酷いことをするのだろう。
悲しみと怒りがこみあげてきて、白い雌猿を蹴り飛ばす。
しかし、他の猿どもとは違い、この白い雌猿はそれを受け流すと更に一撃を加える。
痛い。痛い、痛い――でも無駄なの。斬りつけられた傷はたちまち塞がる。
離れたところから、ひと際小さい雄猿が火球をぶつけてくる。
大剣を持つ筋肉質の雄猿がそれに呼応して突っ込んでくる。
金髪の猿がレイピアを手に――あれ、王子殿下だ。なんでこんなところにいるんだろう。
――どうでもいいか。
翼を振るい、全員一緒くたに薙ぎ払ってやる。その一撃で、全員が風に舞う落ち葉のように吹き飛ばされていく。
それでも、皆満身創痍だというのに立ち上がる。
なんでそんなことをするのだろう。無駄なのに。
白い司祭服に身を包んだ水色の髪の雌猿が手をかざすと、猿どもの傷がみるみる癒えていく。
ちょっと面倒かな。まずはあれから食べちゃおう。
――ふと、またピンクの髪がまた視界に映る。
よろめく王子殿下を、薄紅の雌猿が支えている。
お前だ、お前さえいなければ!
強烈な憎悪に突き動かされ、そのふざけた薄紅頭を真っ赤に染めるべく爪を振り下ろす。
――が、何故か世界が突然傾いた。
切断された巨大なカラスの足があらぬ方向へ飛んでいくのが見える。
銀色の髪をなびかせ、青の礼服に身を包む一人の青年が剣を手に、地面に倒れ伏すわたしの隣に立っている。
その、目の覚めるような碧い瞳。気難しそうだけれど大好きな顔。
――お兄様。どうして、わたしの脚を斬り落としたの?
酷い。わたしはお兄様のために――
更に一閃。目に焼けるような痛みと共に光が消える。どうにか翼をはためかせ、逃れようとする。
でも、先ほどまで無様に転がっていた猿どもが群がり、邪魔をする。傷が増えていく。再生が追い付かない。
喉元に、硬く冷たいものが突き刺さる。
ドクンドクンと、心拍と共に命が流れ出ていく。
途端に身体から力が抜ける。飢餓感も、憎悪も、優越感も何もかもなくなっていく。
代わりに酷い眠気が押し寄せてきた。お兄様の声も、どこか遠く。
「イングリットは! イングリットはどこだ! 誰か見た者はいないのか!」
わたしはここです。お兄様。
「……どこにもいないようだ。
残念ながら、この魔物の餌食となったのだろう」
女の人の声だ。軍人さんみたいな言葉使い……かっこいいなぁ。
「そんなっ……駄目だ、あぁ、神様、駄目だ駄目だ!
どうしてイングリットを! イングリットばかりにこんな!!
あの優しい子が何をしたと言うんだ!! ああああああ!!」
身体に、何度も何度も、衝撃が走る。でも痛みは、もうない。
「学園長――ディートハルト公、やめるんだ。この魔物はもう死んでいる」
「構うものか! 私の妹を返せ! 返せぇ!!」
駄目ですよ、お兄様。
どうしてそんなに取り乱しているのかはわからないけれど、お兄さまはもう当主様なのですから、いつも毅然としないと。
誰かに引きずられて行くのか、お兄様の声が遠のいていく。
大丈夫かな。心配だなぁ。
「――この魔物の死骸はどうするんだ、アウレール」
先ほどの軍人さんみたいなしゃべり方をする女の人の声が響く。食い気味に興奮した様子の王子殿下が騒ぎ立てる。
「決まっている! 腹を開き、犠牲者の遺体をできる限り回収するんだ!
その後は、こいつをバラバラにして獣の餌にでもくれてやる!」
「しかし、突如として学園内にこんな希少な魔物が湧いて出たのは腑に落ちない。
もっとよく調べるべきではないのか?」
「うるさい! こいつはリリアーレを傷つけたんだぞ! ただではおけない!」
「――君の婚約者も犠牲になったのだ。他の女性のことは今は――」
女の人が王子殿下を咎めるけれど、殿下はなお怒りを抑えられないみたい。
「だからこそだろう! 婚約者をみすみす殺され、学園を魔物に荒らされるなど!
私は生徒会長として、母上にこの学園の管理を任されているんだ!
この不始末を一体どうすればいい!」
「君は――まだ母君に囚われているのか。幼き日の君はそんなものではなかったはずだ、アウレール」
「余計なお世話だ、メルセデス。昔の話を持ち出すな。
勝手に今の私を評価して否定するんじゃない」
「どこへ行く」
「決まっている。この魔物を解体するための人員を集めなければいけないだろう」
荒々しい足音が遠のいていく。冷え込んだ体に優しく、何者かの手が触れる。
「――ああ、犠牲になった皆の者に安らぎがあらんことを。
哀れなイングリットの魂にどうか、救いあらんことを切に願う」
わたしはここにいるのに、なんでみんなわたしが死んだなんて言うのだろう。
――わずかに、光が戻る。
酷くぼやけているが、白金色の女性が悲痛な面持ちで目の前に立っている。
わたしのために悲しんでほしくなくて、必死に声をかける。
「ワ、タシ、ハ、ココ、デス」
酷い声だ。鉄板を刃物でひっかくような、酷く耳障りな声。それも、喉に空いた穴から出る泡立つ音で酷く聞き取りづらい。
ちゃんと、わたしの言葉、伝わるかな。
「ッ――! まだ生きて!?
いや、人の言葉を……お前は何者だ!」
「イ、イィィ、イン、グリット」
「なっ――」
わらわらと、大勢の人間がやってくる気配を感じる。
王子殿下が、人を集めてきたみたい。
皆、鋸や鉈みたいな物騒なものを手にしている。
「さっそく始めるぞ」
「待て! アウレール、その魔物は――」
「いい加減にしろ!! 邪魔だ、どけ!!」
「待て、待つんだ! お願いだから!」
「ちぃっ! おい! メルセデス皇女殿下はどうやらお疲れのようだぞ。お部屋へお連れしろ!」
「やめろ、やめてくれ――!」
悲痛な女性の声が遠ざかる。
王子殿下が、信じられないほど冷たい目でわたしを見下ろす。
「始めろ」
鋸を手にした男の人がわたしに近づき――
◆◇◆
「いやぁああああああああああ――!!」
悲鳴と共にイングリットは目を覚ました。
イングリットの尋常ならざる悲鳴を聞きつけて、隣のメイド部屋で控えていたサーリアが即座に駆け付ける。
ノックもなく、主の了承も得ず、急ぎイングリットの部屋の中へサーリアは転がり込むように入った。
ベッドの上――そこではイングリットが自分のお腹をかきむしりながら、耳をつんざくような悲鳴を上げている。
「ああ! あぁあ!! 痛い、痛い痛い痛い!!」
サーリアは急ぎイングリットの元へ走り寄り、錯乱した主をどうにか落ち着かせようと努めた。
「お嬢様、お嬢様ッ、うっ」
イングリットが出鱈目に振り回した手が、サーリアの顔を強く打つ。
だが、サーリアはひるまない。
寝汗でびっしょり濡れ、まるで桶の水をぶちまけられたような有様のイングリットを優しく、けれど強く抱きしめ、その背中をさする。
「さぁ、お嬢様。わたしに続けて。夢。これは夢」
いつもの刺々しい早口からは想像もできない、まるで赤子をあやすような緩慢で優しい声だ。
「はぁっ、かはっ! ゆ、ゆめ、はぁっ、はぁっ、これは、うくっ、けほっ」
ひとまず錯乱は治まったようだが、過呼吸を起こしている。
サーリアはすぐさま、ベッド脇から綿の塊のようなものを手に取ると、イングリットの胸に抱かせた。
「さぁお嬢様、こちらを。『ラッセル卿』ですよ」
サーリアが手渡した綿の塊――辛うじてぬいぐるみとわかるそれは、実に不格好な姿をしている。
頭の上には長めのよれよれの耳が一対。おそらくはうさ耳だ。
目と思しきものはどちらもあらぬ方を向いており、奇怪でさえある。
その身体は年季を感じさせるものがあり、ほとんど綿が抜け落ちているのか、しなしなになっている。手足などは全て長さがまちまちだ。
ひどくみすぼらしいぬいぐるみ――ラッセル卿。
彼こそは頼もしいウサギ騎士、ラッセル卿。イングリットを幼少期から守ってきた守護騎士だ。
幼き日の兄ディートハルトが作ってくれた、思い出の品。
不思議なことに、それを胸に抱いた途端、イングリットの呼吸が徐々に落ち着きを取り戻していく。
彼を胸に抱き、だいぶ落ち着いた様子のイングリットだったが、その目からは大粒の涙が溢れ出している。
「うっ、うう、ごめん、なさい」
サーリアの頬――さっき、イングリットに殴られたところが赤く腫れている。
それを目にしたイングリットは、たまらず泣き出してしまったのだ。
だが、サーリアはより強くイングリットを抱きしめ、その背中を優しくとんとんと叩く。
「ううん、サーリアは大丈夫ですよ。大丈夫、お嬢様は何も悪くないんです。
――ただ、酷い『夢』を見ただけなんですから」
物心ついてから、イングリットが見る『夢』とは決まって悪夢だった。
そして目が覚めれば、発作を起こしたかのように、酷く取り乱すことがままあった。
屋敷の使用人たちがイングリットを避ける最たる原因がここにあった。
何も黒髪黒目ということだけで、当主と嫡男が溺愛する彼女を厭っているわけではない。
――これだけの騒ぎがあっても、サーリア以外誰もやってこない。
それもそのはず。自分のこの『発作』のことを気にしたイングリットが、自ら屋敷の離れの部屋を希望したからだ。
使用人たちよりも、父や兄、そしてメヒティルト夫人に知られて心配されたくなかったのだ。
いつもなら、ここまで取り乱すことはない。
サーリアにも気づかせぬよう、一人でじっと耐えられる。
だが、今回の夢はあまりにも酷いものだったようだ。
幸いか、落ち着きを取り戻すにつれ、夢の内容のほとんどが頭の中から抜け落ちていった。
今では夢の中で何があったのか、誰が出てきていたのかさえももう曖昧だ。
ただ、恐怖と不安、不快感ばかりが脳裏にべったりとこびりついて離れてくれない。
サーリアはハンカチを取り出すと、イングリットの涙と涎、そして鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を綺麗に拭ってあげた。
「うん。大丈夫、いつもの可愛いお嬢様ですね。
――たくさん汗をかかれています。身体を冷やす前に、お風呂に入りましょうね」
サーリアはテキパキとイングリットの着替えを用意し、入浴の準備を整えると、彼女の手を引いてゆっくりと大風呂場へ向かった。
◆◇◆
イングリットを風呂に入れて、サーリアは部屋に戻ると、すぐさま窓を開けて換気をして、大変なことになっているベッドのシーツと枕を手際よく交換し、ベッドメイクをした。
あっという間に、部屋は何事もなかったかのように、元の様相を取り戻していた。
サーリアが作業を終えると、部屋の前にはイングリットが所在なさげにラッセル卿を胸に抱いて立ち尽くしている。
その顔を見ると俯いていて、今にもまた泣き出しそうだ。
(これじゃお休みになっても、また『夢』を見てしまいますね)
サーリアはシーツの形をきっちりと整えると手を叩き言った。
「さてお嬢様。庭園に行ってみませんか。わたし、少しお日様に当たりたい気分なんです」
「えっ、う、うん」
わたしがしたいから、あんたもついてきなさいよ。
こういう誘い方をすればイングリットは遠慮などせず、素直についてくるということを、長年の付き合いでサーリアは熟知している。
もう決定事項であったかのように、ティーセットとお茶請け菓子はばっちり用意済みであった。
屋敷の離れから出て、二人して庭園に出る。
遠く、西の空へ日が傾いていくのが見える。
確か眠りにつく前、兄と別れた時は朝だったはず。
(ああ、わたし、そんなに長く眠っていたのですね)
大好きな兄との別れは、それほどまでにイングリットにはショックだったのだろう。
隣のサーリアを見ると、その目はわずかに充血し、疲労感が窺える。
イングリットが気絶するように眠りについてから何度も様子を見にきて、いつ主が目覚めてもすぐ対応できるよう、隣のメイド部屋でずっと控えていたのだろう。
疲れているはずなのに、サーリアはそれをおくびにも出さず、イングリットの手を優しく引いてくれる。
夕方の庭園、冷たい風が吹いてイングリットの頬を撫でていった。
風呂に入り、火照った身体には心地よく、ようやくイングリットは人心地がついていた。
庭園の東屋へ向かう途中、イングリットの目に妙なものが見えた。
「土嚢が歩いている……」
否、正確にはそれは土嚢を背負った――光玄だった。
「ミツハル様、何をなさっていますか」
いぶかしげな顔のサーリアが、イングリットの疑問を代わりに問いかける。
「おお、これはいんぐりっと殿にさぁりあ殿!
いやなに、お庭に散歩に出たところ、あんとん殿にまた出会いましてな。
こうやって仕事を手伝っているだけにござるよ」
その答えを聞いたサーリアは途端に頭痛がした。
(本決まりではないにしても、お嬢様の従者候補の方が下男の仕事をされるなんて。自覚が、自覚が足りません!)
「あんとん殿! 土はこちらでよろしいか!」
「アントン!」
庭園木を整えるアントンが、土を運んできてくれた光玄に嬉しそうな、申し訳なさそうな表情を浮かべ返事をし、遅れてイングリットに気が付くと慌ててぺこりと頭を下げ礼を示した。
どこか浮ついた様子の光玄を、サーリアはジトッと睨みつける。
(朝と比べてミツハル様ってばどこか上機嫌ですね。あぁ、昼食の時お酒でも飲まれましたか)
よく見れば光玄の顔はわずかに上気している。
どれくらい飲んでいるかはわからないが、理想的な酔い方ではあったため、サーリアは説教したい気持ちをぐっと抑え込んだ。
早速アントンと並んでしゃがみ込み、土を取りかえる光玄。
意外にも手際はよく、土いじりもかなり手慣れている様子だ。
「おおっ、良い土でござるな! ミミズがぷりぷりと肥えておりまする!」
「アントン!」
そんな調子で、光玄とアントンは庭園の手入れに熱中する。
「――ふふ」
屈託のない二人の姿を見て、イングリットはようやく微笑んだ。
(ふぅん。下男のお仕事を手伝うなんてどうかと思いましたけれど。
まぁ良しとしましょうか)
光玄の背中を眺め、小さくため息を吐いたサーリアはイングリットと共に東屋へ向かい、紅茶を淹れ主に差し出した。
イングリットは淹れたての紅茶を口にする。
熱過ぎず、ぬる過ぎず。
丁度いい淹れ具合の紅茶が体の芯から温めてくれる。
イングリットがホッと一息ついていると、光玄の浮ついた声が響いた。
「なんと、これは狂い咲きですかな? 花が咲いておりまする!」
その声に導かれるように、イングリットは光玄の元へ赴いた。
「いんぐりっと殿、さぁりあ殿! ご覧あれ、まだまだ肌寒いというのに、健気なものでござるな!」
天を向いて力強く咲き誇る、大輪の白い花が光玄の指さす先にあった。
イングリットはぼんやりとその白い花の名前を思い出していた。
(白い、ガーベラ……)
ガーベラ。
春に咲く花ではあるが、まだ三月に入ったばかりで開花時期はまだまだ先。
というより、そもそもこの庭園には植えたことのない花だ。
イングリットにとって『白』とは、この『世界』。
彼女を縛り付ける枷であり、抑圧する恐怖の象徴だ。
イングリットの一番好きな場所である庭園に白い花などが生えているはずがない。
なぜなら、兄ディートハルトが手ずから庭園から『白』を排除し尽くしたからだ。
それが、咲くはずのない白いガーベラが見つかったのだ。
いつもなら、イングリットも不気味に思っただろう。
しかしイングリットは今、ガーベラの白を目にして何故か、冷え込んだ心にじんわりと熱が広がる気がしていた。
光玄に手渡された白い花の香りを胸いっぱい吸い込む。
ガーベラは、もとより香りなどほとんどしない花だ。
だが、今のイングリットにとってはどんな花よりも芳しい香りのする花だった。
自然にイングリットの頬が緩み、その顔に笑みが浮かんだ。
「アントン!」
不意にアントンが、向こう側を指さす。
光玄ではないが、不思議とイングリットにも彼が言わんとすることがわかった。
「アントン、他にも見つけたの?」
「アントン、アントン」
イングリットが己の意を酌んでくれたことがよほど嬉しかったのか、アントンは首が外れそうな勢いでこくこくと頷いては、イングリットを案内していった。
走り去っていく二人の後ろ姿を眺めながら光玄が汗を拭い、サーリアの隣に立つ。
「さぁりあ殿、その顔は如何された」
サーリアは舌打ちしそうになった。
イングリットのケアを優先して自分の手当てを疎かにしたせいで、自分の頬の腫れにまでは気が回らず、一番見られたくない男に気づかれたからだ。
「別にこれは――いえ、貴男がお嬢様の従者になるのでしたら、知っておくべきことですね」
一瞬誤魔化そうとしたが、サーリアはイングリットの『発作』のことをややぼかして伝えた。
「――というわけで、うちのお嬢様はよく悪夢を見るせいで少しばかり寝相が悪いんです。
まぁ、ろくに覚えてもいない悪夢におびえて錯乱までする令嬢なんて、使用人たちからしたら不気味そのものだそうですが」
「そういうさぁりあ殿は、いんぐりっと殿に大変親身に接している風にお見受けする」
よく見ている。と思い、サーリアは形のいい眉をひそめる。
ため息を一つ。そしてサーリアはぶっきらぼうに続ける。
「はぁ。わたしとお嬢様のお顔を見ればお判りでしょう。
いざという時、お嬢様の身代わりになって死ぬことがわたしの役目ですから。
だから、お嬢様とは良好な関係を築いておく必要があるんです。お仕事ですよ」
(つまりは影武者か)
サーリアの多少無礼な言動が黙認されている理由に光玄は合点がいった。
『いざという時』公爵令嬢として振る舞う必要があるからだ。
「それだけではありますまい?」
出会ったばかりではあったが、サーリアのイングリットへの想いに仕事以上のものがあることを、光玄は見抜いていた。
「まったく、鈍いのか鋭いのかよくわからない方ですね。
――だって、自分と同じ顔をした女の子がずっと暗い顔をして泣いていたら、ムカつくじゃありませんか」
決して同情などではない。始まりは苛立ちだった。実にサーリアらしい理由だ。
「それにせっかく世界一可愛いお顔なんですからどうせなら笑ってるお顔が見たくなりまして」
イングリットを褒めているようで、彼女と瓜二つの顔を持つ自分の顔が世界一可愛いと言っている。
そのあたり、サーリアは大した自信家である。
しかし、きっかけがどうであれ、サーリアにとってイングリットは主従を超えた姉妹のようなものだ。
(言動はどうあれ、さぁりあ殿も善き心を持つおなごでござるな。善き哉)
自分に優しい笑みを向ける光玄を見て、サーリアはまたもや眉をひそめ、ぷいと顔をそむけた。
(やっぱりこの方は苦手ですね。言わなくてもいいことを言ってしまいました)
そして、横目でこっそり光玄の顔を覗き見る。
夕日に照らされ輝く黒の瞳。サーリアの主と同じ、美しい黒曜の光。
「……」
サーリアがそれに見惚れぼーっとしていると、イングリットの弾んだ声が聞こえてきた。
「サーリア! 見て! すごく綺麗なお花よ!」
向こうからもう悪夢のことなど綺麗さっぱり忘れた様子のイングリットが大輪の花を手に駆け寄ってくる。
ひと際大きいそのガーベラの花は、夕日に照らされ、燦然と輝いていた。
その輝きに負けじときらめくイングリットの黒い瞳に、サーリアは魅入られたようにつぶやく。
「ええ。お部屋に飾りましょうね。とびっきり可愛い花瓶に」




