第13話 動き出す運命②
昼下がりの公爵家の屋敷。
その食堂。
思いのほか話が長くなり、アルトゥール公とメヒティルト夫人はそのまま光玄を食事に誘っていた。
食事は昨日とさほど変わらぬ質素なものであったが、やはり光玄にとっては何もかもが新鮮で美味だったらしく、その素直な反応をメヒティルト夫人は大変喜ばしく思ったようだ。
それ故お節介を焼きたくなったのか、テーブルマナーを彼女自らが堅苦しくならないほどににこやかに指導すると、光玄はぎこちないものの、すぐにそれを自分のものにしていた。
「ミツハル様。ゴブレットは手のひらで包むように持ち上げるのです」
「うぅむ、こう、でございまするか」
「ええ、上手ですわ」
メヒティルト夫人の教え通り、光玄は慎重にゴブレットを持ち上げ、口元に運んでワインを飲む。
強い酸味に一瞬眉間にしわが寄るも、続いて鼻を抜ける芳醇な香りと爽やかな後味に光玄の顔は緩む。
どうやら、前回出されたワインとはまた別の銘柄のものらしく、その風味は全く別のものであった。
意外と良い光玄の飲みっぷりに、アルトゥール公が上機嫌で話しかける。
「ほう、ミツハルよ。お主、中々飲めるではないか。しかし、つまみにチーズばかり食べおって。そんなに気に入ったのか?」
「め、面目ございませぬ。この程よい塩気、濃厚な匂いに病みつきになった次第で」
咎められていると思ったのか、光玄はチーズへ伸ばしていたフォークを引っ込める。
「いいや、責めているわけではない。好物があるのはよいことだ。好きなだけ食べるとよい。
――そんなことより、お主の話の途中だったな」
メヒティルト夫人はほほ笑みながらチーズの盛られた皿を光玄の前に置くと、口を開いた。
「ええ、お名前の話でしたわね。『ミツハル』は本来のお名前ではないと」
光玄は軽く頭を下げメヒティルト夫人に礼をすると、チーズを一切れ食べ、答えた。
「――別段、面白きことではございませぬが。
某の元の名前は光でございまする。光という意味で、ありふれた名前にございまする」
光玄曰く、面白くない話に、メヒティルト夫人は目を輝かせる。
「光、なのですね。素敵なお名前ですわ。では『ハル』は?」
「某が幼き頃から憧れていた、『新免武蔵守藤原玄信』という剣豪の名から『玄』の字を拝借致し申した」
静かに耳を傾けていたアルトゥール公が口を挟む。
「ふむ、憧れか」
「然り。百姓の『みつ』では武士の名としては軟弱。極まりし者でありたいという想いから玄の字を頂いた次第でござれば」
そう話す光玄の顔には、どこか見せたくない恥部を晒したような気恥ずかしさが浮かんでいる。
そんな彼を、アルトゥール公はじっと見つめる。
(要するに箔付けか。恥ずべきことではなかろうに。
それにしても、名前か。名前……)
名前の話題でアルトゥール公は何かを思いついたのか、自分の髭を撫でながら思索に浸る。
ややして彼はばつの悪そうな顔で言葉を選ぶように口を開いた。
「その、なんだ、ミツハルとは、珍しくも良い響きの名ではあるとは思うのだが……
何と言うべきか、社交の場や公的な場では少々馴染みがない気がしてな」
珍しく言い淀むアルトゥール公。彼は光玄をしばし、じっと見つめたあと、重々しく口を開いた。
「――こちらに馴染みやすいよう、お主に名を与えようと思うのだが……構わぬか?」
ミツハルという名前に問題があるわけではないが、貴族社会では『見栄え』や『らしさ』はなによりも大事である。
イングリットの従者を務める以上、今後貴族らと交流することも増えていくはず。
今のうちに、いかにもな騎士の名前を名乗らせた方がいい。
その判断からアルトゥール公は光玄に新たな名前を与えることにしたのだ。
しかし、名とは基本的に親から、あるいは神から授けられるとされる唯一無二のものだ。
それを己の都合で勝手に名づけようとするアルトゥール公としては気がとがめたのであった。
「も、もしや……な、名を頂けるので?」
申し訳なさそうなアルトゥール公とは対照的に、光玄は歓喜に打ち震えた。
武士として、主に名を頂くは至上の誉なのである。
予想した反応とまるで違う反応を示す光玄にアルトゥール公は困惑する。
「そ、その通りだが」
「なんという誉れ! 謹んでお受けいたしまする!」
「ほ、誉れ? よ、喜んでもらえてなによりだ。
しかしながら、どういった名がよかろうか……」
実はアルトゥール公はネーミングセンスがいい方ではない。
ネーミングセンスに留まらず、芸術的センスは総じて壊滅的だ。
グランスタイン家が絢爛さを嫌い、質実剛健を貫くのはそういう家風なのもあるが、当主自身が無頓着であるせいでもあるのだ。
故に、息子と娘の名は、かつての亡き妻アマーリエ夫人による命名であった。
彼が悩んでいると、それまで静かに主従のやり取りを見つめていたメヒティルト夫人が助け舟を出してきた。
「あなた、『ラッセル』というお名前はどうですか?」
彼女の言葉に、アルトゥール公は目を丸くし――普段の厳めしい顔からは想像もできぬほど優しい笑みを浮かべ目を細めた。
「なるほど、名案だな。どうだ、ミツハルよ。
お主にとっても馴染みのある名前ではないか?」
童話『ゆけ! ウサギきしラッセルきょう』。
光玄が図書室から借りて読んだ絵本の一つだ。
運命に虐げられる呪われた醜いウサギ姫を身命を賭して守り、導く守護騎士ラッセル卿の物語。
幼き日のディートハルトがイングリットに読み聞かせていた物語。
イングリットが大好きだった、心の拠り所の一つ。
――娘にとっての絶対的な守護者であってほしい。
これは、夫妻のその想いが込められた名前なのだ。
「お主さえ厭わぬのであれば、儂から『ラッセル』の名を与えたい」
「――!」
光玄は席から立ち、アルトゥール公の前に平伏した。
光玄もまた、昨日読んだあの童話から色々と感じるものがあったのだ。
姫――主君のため、燃え盛る炎の山の中を、底なしの毒沼を躊躇なく突き進む忠義の士。
ウサギ騎士ラッセル卿。
それだけの忠義を求められている。光玄の胸の中、熱くこみ上げる何かがあった。
「御意。らっせるの名、ありがたく頂戴いたしまする。未来永劫、粉骨砕身の覚悟にてお仕え致しまする」
アルトゥール公は呆れたように笑う。どうにも極端な物言いをする男だと思ったのだ。
それに、微妙に主従の、互いに対して抱く想いがすれ違っていることにも何となく勘づいている。
しかし、これでこそこの男らしいと思ったアルトゥール公は、それを指摘することはせず、静かに語る。
「もちろん、お主の元の名を捨てさせるつもりはない。
公的な場でなければ今までのようにミツハルで通すがよい。儂らもそのつもりで接するつもりだ」
あくまでも、本来の名を大事にせよと、光玄の主はそう言っている。
最高の主君に巡り合えた幸運に打ち震え、光玄は額を床に擦り付け、答える。
「はっ!」
光玄のこの平伏――土下座にも既に慣れてきたアルトゥール公は満足げに自分の髭を撫でるのだった。
その一方で、彼の土下座を初めて見たメヒティルト夫人は狼狽えていた。
「あ、あの、ミツハル様? そんなことされたらお召し物が汚れてしまいますよ?」
「なんとお優しいことか。奥方様にもこの光玄、御屋形様と変わらぬ忠義を捧げ奉る」
「え、えぇと」
困り果てるメヒティルト夫人。
その隣で、ロタールは笑みを崩さず言う。
「奥様。食堂のお掃除は十分行き届いておりますので問題ございませんよ」
「もう、ロタールさんってば、そういうことではありません。
さぁ、ミツハル様。立ってくださいね、そのままじゃお話ししづらいわ」
「ハハッ」
ようやく満足した光玄は、驚くほど機敏な動きで立ち上がると、素早く音もたてずに元の席に座った。
「うむ、では、続けて――
お主をイングリットの従者として学園に入学させるにあたって必要なものがある。
まずはちゃんとした身分、次に入学権利だ」
「然り。某は今のところ、只のさすらい人。何者でもありませぬ」
「平民としても学園に入学自体はできるが、さすがに公爵令嬢の従者が身元不明の流民では何かと不都合でな。
ついては、お主には騎士爵が与えられるよう働きかけるつもりだ」
先日図書室から借りた子供向け絵本で目にした、『騎士』という言葉に光玄は目を輝かせる。
「騎士とは、主君に仕え、騎士道なるものに殉ずるというあの?」
童話『ゆけ! ウサギきしラッセルきょう』や『しろきしものがたり』で目にした騎士とは、細かいところでは違いはあるものの、『武士道』に近いものを規範とする存在。
光玄は騎士という存在に憧れるようになっていたのだ。
「そうだな。かつて、まだ騎兵が一般的でなかった時代、馬を駆る高等技術を持つ者を貴族として扱ったのが騎士爵なのだ。
今では一代限りの名ばかりの爵位故、公爵である儂の権限をもってすれば、無理なく授与できよう」
光玄は喜びに打ち震える。
「そ、そのような栄誉を某などに……ありがたき幸せ!」
既に光玄の頭の中では騎士=武士となっていた。
長年の夢、真に武士となることがついに叶おうとしているのだ。
「もちろん、何の後ろ盾もない平民は騎士にはなれぬ。
まず、お主は貴族家の一員として籍を置くべきだろうな」
静かに話を聞いていたメヒティルト夫人が小さく手を叩くとアルトゥール公に話しかける。
「でしたら、彼を我がグランスタイン家の養子として迎え入れてはどうですか?」
「ふむ、儂もそれは考えてみたが……
嫡男が姿を見せなくなった途端、新たに身元不明の男をグランスタイン家の養子として迎え入れては、さすがに王家や他家からの攻撃材料となりかねん。
それに――」
一度言葉を切ったアルトゥール公は、光玄の黒髪をじっと見つめ、何かに思いを馳せた。
そんな夫の横顔を見つめ、やがてその意を汲み取ったメヒティルト夫人は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「うふふ、わたくしは賛成ですよ」
「むっ、な、何がかな」
明らかに狼狽えるアルトゥール公。
「だって、イングリットさんのお婿さん候補にするなら、我が家の養子には――」
「ち、違うぞ! 断じて違う!」
図星だったのか、アルトゥール公は珍しく慌てふためき、必死にメヒティルト夫人の言葉を遮る。
そんな夫にメヒティルト夫人は柔らかい笑みを向けた。
「ふふ、そういうことにしておきましょう」
「違うというに……
とにかくだ。ミツハルよ、お主の養子入りは必然的に他家を頼む事となろう」
光玄は粛々と頭を下げる。
「はっ、この光玄、御屋形様の仰せの通りにいたしまする」
「では、古来より我がグランスタイン家と親交の深い、ゲールハイト子爵家を頼ろうと思う」
アルトゥール公の口から『ゲールハイト』という言葉が出た瞬間、給仕をしていたロタールが小さくため息を吐いた。
それに気づいた光玄が尋ねる。
「いかがなされた、ろたぁる殿」
「いえ、些事でございますので」
いつもの余裕は鳴りをひそめ、珍しく頭痛でも堪えるよう、ロタールは眉をひそめている。
「無理もなかろうな。アンゲリーカめが絡むと、いつもろくなことにならぬのでな」
「――あんげりぃかとは?」
「ゲールハイト子爵家の現当主、アンゲリーカ・ゲールハイト子爵。
グラントリア王国始まって以来、最初で唯一の女騎士でもあるのだ」
「なんと、おなごの身で武将とは。まさに女傑ですな!」
女傑という言葉に、アルトゥール公は微妙な表情を浮かべる。
「――女傑、か。確かに、それ以外にやつを正しく言い表せる言葉はないな」
「どのようなお方で?」
「――ゲールハイト家は家格こそ高くはないが、グラントリア随一の武門の家でな。代々優れた将を輩出してきた家だ。
その武門の中でも異常と呼べるほど武の才に恵まれたのが、件のアンゲリーカよ」
武の才。その言葉に、光玄は少年のように目を輝かせ前のめりになる。
「ほほう!」
「二十年ほど前の蛮族討滅戦争にも、わずか十五歳にして我がグランスタイン家麾下の将として参戦してな。
――文字通り大暴れしておったわ」
何か、思い出したくない記憶に触れたように、アルトゥール公は顔を手で覆い、続ける。
「当時、たった十五歳の小娘が戦場にお供すると申すのでな、断るつもりで『敵の陣地の一つでも潰して見せるなら考えよう』と言ってやったのだ」
「なるほど、武門の子と言えど、戦に不慣れなおなごでは困難でありましょうな」
「――ところがだ、奴はその足でたった一人で敵陣へ向かい――素手で敵将の首を引き抜いて儂の前に持ってきたのだ。まったく、あんな女は他にはおるまい」
そう語るアルトゥール公の顔はやや青ざめている。
相当なトラウマとして残る光景だったのだろう。
これこそが、アルトゥール公が見てきた、光玄の仕官願いの上をいく一番ユニークな仕官願いであった。
身震いまでするアルトゥール公とは対照的に、光玄は今の話を聞いて目を輝かせる。
「天晴れなり! まるで『巴御前』のような戦ぶりにござる!」
「――待て、そんな芸当ができる女が他にもいるというのか?」
「然り。某の国にはかつて『巴御前』なるおなごがおりましてな、そのお人も敵将の首を素手でねじ切ったと――」
件のアンゲリーカなる人物が二人並んで――敵将の首を手に持つ姿でも幻視したのか。
アルトゥール公の顔は青を通り越して真っ白になっている。
「ええい、冗談ではない! そんな女が何人もいてたまるか!
ともかくだ! お主にはゲールハイト家の養子に入り、やつの義弟になってもらう!」
「御意、楽しみにございまする!」
「――悪い予感しかせんがな。
ロタール。話は聞いていたな?」
「はい、旦那様。
アンゲリーカ様への、ミツハル様の養子入りの件の草案はただいま、こちらにご用意させて頂きました」
驚いたことに、今までの会話から必要な内容を即座に引き出して、ロタールは既にゲールハイト家への手紙の草案を書き出していた。
「うむ、相変わらず迅速かつ良い仕事ぶりである。
しかし、いきなり『汝に命ずる』と、命令調で始まるのは少し気になるな。
もう少し、柔らかい語調で頼めるか?」
「――よろしいので?」
初めて、この完璧な執事長が戸惑いを見せた。
「さすがに、こちらから頼む立場ではな。
しかも身元不明の人間を養子として迎え入れよというのだ。これほど困難極まりない要請であってはな。
いかに気安い関係なれど、礼儀は必要であろう」
「本当に、よろしいのですか?」
「ん? どうした、ロタール。お主らしくないな」
この老執事長はこうやって主の意を何度も確かめるようなことはまずしない。
つまりは、何か懸念点があるのだ。
だが、しばし考え込んだロタールは頭を振ると、恭しい一礼と共に拝命した。
「――いいえ、些事にございます。問題はないでしょう。
旦那様の仰せのままにいたします」
そして、ロタールは新しい羊皮紙を取り出すと、恐ろしく綺麗な字で手紙の文面を整え、アルトゥール公へそれを差し出した。
「――うむ、完璧だ。
早速、これを『伝書鳩』にて送るように」
「はい、旦那様」
ロタールが指を鳴らすと、しばらくして何かが窓を開けて執務室に入ってきた。
それは中型犬ほどの大きさの、翼の生えた双頭の獅子の姿をした珍妙な生き物だった。
その姿を見た光玄は首を傾げた。
「――鳩?」
伝書《《鳩》》とはあまりにもかけ離れた姿。
その姿は、グランスタイン家の至る所に描かれた紋章の生き物に酷似していたが、それが実際動く姿は光玄からすれば奇怪極まりなかった。
光玄の困惑の視線を一身に受けながら『伝書鳩』は、呼び出したロタールの前に降り立つと、口を開いた。
ロタールがその口の中にアンゲリーカへの手紙を入れ、その額に指を当てて何かの呪文を詠唱した。
すると、『伝書鳩』は明らかに飛行には向かないその構造とは裏腹に、まるで重力を感じさせない滑らかな動きでふわりと宙に浮くと、入ってきた窓から外へ出た。
――そして、どうやってか後ろ足で器用に窓を閉めると、南の空へ向かって一条の光となって飛び去り、あっという間にその姿は見えなくなった。
ソレが飛び去ってからやや遅れてゴォォと、空気が破られる音が響く。
音を置き去りにする速さ。
それはあきらかに『鳩』ごときに出来る芸当ではなかった。
それを見届けたロタールは、一同に優雅に一礼をすると足早で食堂から出ていった。
何やらアルトゥール公から授かった『特命』があるらしく、大変忙しない様子であった。
ロタールを見送った光玄は、再び『伝書鳩』が飛び去った方角を難しい顔をして見つめ続ける。
「――鳩とは、一体」
そんな彼に気づいたメヒティルト夫人が柔らかく笑いながら説明する。
「ミツハル様は『伝書鳩』をご覧になったのは初めてですね?
――あれは、離れた場所へ書物や物品を迅速に運ぶための使い魔――魔術道具ですわ」
「ほう、あれが魔術道具でございまするか」
子供向けの絵本で何度か出ていた摩訶不思議な道具。
見た限りだとアレは生き物に見えたが、生き物ではないらしい。
「はい、昔は本物の『鳩』が書物を運んでいたのですが、度々飛行型の魔物に襲われて大事な書物の紛失が相次ぎまして。
それで、近年用いられるようになったのが、あの『伝書鳩』なのです」
「し、しかし、どう見てもアレは『鳩』には見えませぬが……」
困惑する光玄の顔を見て、メヒティルト夫人は柔らかく微笑んで答える。
「そうですね、正式な名称はちゃんとあるにはあるのですけれど、一般的には当時の名残でそのまま『伝書鳩』と呼ばれているのです」
「然様で。ご説明痛み入りまする」
メヒティルト夫人の説明を聞き、光玄は改めて自分が完全に異なる理に支配される、『異世界』に来ていることに実感が湧いていた。
(某はあまりにもこの世の常識に疎い。このままではいずれ、無知が命取りとなろう。
幸い、神モドキの神通力やらで言葉は通じ、読むことに関しても問題はなし。できる限り、知識を蓄えねば)
光玄は危機感を覚えた。
そして、この日から彼は図書室に籠ることとなったのだった。
◆◇◆
翌日。グランスタイン領南部のある街道。
大量の荷物を詰め込んだ馬車がゆっくりと走っている。
その中に、つい先日放逐されたディートハルトがいた。
彼は現在、南方のフランカイス王国よりも更に遥か南方の小国へ向かっている。
やけに大きめの荷物をいくつも乗せてくれたのは、継母メヒティルト夫人の親心か、それとも気の利く老執事ロタールなのか。
ともあれ、新天地にて苦労はすまい。
「……」
だが、当のディートハルトの頭は暗澹たる思いに支配されていた。
(せめて、せめて義母上への支援だけでも、妃陛下に求められないだろうか)
あれだけお膳立てしてもらって、アルトゥール公への暗殺が失敗した今となっては虫のいいお願いごとであることは百も承知だ。
だが、メヒティルト夫人にはあまり時間がないのだ。
(私の命と引き換えになっても構わん。
いかにみっともなくとも乞う他ない。それが私の残る人生の使い方なのだ)
意を決したディートハルトは御者席への小窓を開いた。
「進路を王都グラントローネへ。『裏口』へ向かう。徽章の用意をしろ」
「……」
だが、御者は答えない。どこか一点を見つめ固まり、震えている。
「おい、何があった――っ!?」
尋常ならざる御者の様子をディートハルトが確認しようとした瞬間――
馬車が軽く揺れると同時に、扉が開け放たれ何者かが入ってきた。
「何っ!? 馬鹿な、走っている馬車に――き、貴様は!
ま、待て! 何をする、やめろッ!!――――――」
馬車がわずかに揺れ――やがてゆっくりと止まった。
続いて、御者は何か恐ろしいものにでも出くわしたかの様に、一目散に逃げ出す。
馬車を襲撃した者はその後ろ姿を見送ると、さも当たり前のように御者席に悠然と座り、何かをつぶやく。
すると、その顔はつい先ほど逃げ出した御者のものに変化した。
御者に成りすましたその人物は手綱を手に取り――馬車は再び緩やかに走り出すのだった。




