第11話 訣別と継承②
コンコン
ノックの音。
ディートハルトは直感的に今夜の暗殺劇は失敗に終わったのだと悟った。
「――入れ」
「失礼いたします」
ドアを開けて入ってきたのは、ディートハルトの思っていた通りの人物、ロタールだった。
「お迎えに参りました」
「――ああ。すまないな、手間をかけた」
「いえ」
ディートハルトは重い腰を上げ、椅子から立ち上がった。
(これで良かったのかも知れん)
妙な安堵がディートハルトの胸中に広がる。
ロタールの後に続き、父アルトゥール公と皆が待つ執務室へ向かう。
ふと眺めた廊下の窓の外、東の空は薄っすらと明るんできていた。
◆◇◆
夜明け前の執務室――
アルトゥール公を始めとした、メヒティルト夫人、イングリットの公爵一家と、光玄、テオドール、ロタール、サーリアなどの主だった従者や使用人たちの前に、ディートハルトは立っていた。
嫡男、ディートハルトの顔を見たアルトゥール公は重々しく、そして静かに口を開いた。
「愚かな……愚かなことをしたものだ……何故待てぬ。
親は子より先に逝くものだ。わざわざ手にかけずとも、いずれは貴様が当主になれていたものを」
その声に怒りは感じられない。ただ虚しさと悲しみだけがこもっている。
「父上が王家に仇なさんとするのを、どうして見ていられるでしょう! 逆臣として父上の名が後の歴史に残る前に!
このグランスタイン家が逆賊の家として取り潰しになるのを、私は止めようとしたまでのこと!」
「知らぬな。先に仕掛けてきたのは王家だ。
儂はただ、降りかかる火の粉を振り払い続けてきただけにすぎん」
そう、これまでもグランスタイン家と王家は悪縁と言えるほど、裏では絶えず暗闘を続けてきたのだ。
「何故話し合わないのですか! 王弟閣下は仕方ないにせよ、妃陛下までも敵に回してどうなさるのです!?」
ディートハルトの言葉は正論だ。だが、話し合いの余地などない。
今は病に伏せている国王には先代が背負った借金で食い物にされ、王弟とはある事件によってかねてから不仲で、王妃には身に覚えのない一方的な恨みを抱かれている。
黙して答えないアルトゥール公に、ディートハルトは続けて詰め寄る。
「――ただでさえ、イングリットは忌み子などと呼ばれ蔑まれているのです!
王家を敵に回して、あの子の未来をどうなさるつもりですか!
私がイングリットと王子との婚約を成立させるのに、どれほど手を尽くしたと思うのですか!」
「王家……やはり王妃の差し金か。
――ふん、あの女狐に上手いこと飼いならされたものよ」
「なっ、国母に対して何たる無礼ッ! 侮辱ッ!」
ディートハルトのこの反応、王妃に随分と心酔している様子である。
アルトゥール公は呆れ混じりのため息を吐くと、息子を鋭い目で見つめた。
「貴様がイングリットとアウレール王子の婚約を熱心に推し進めたのも、あの女の入れ知恵だな?」
徐々に、アルトゥール公の表情に険しさが増していく。
「大方――王子の伴侶となり、やがて王妃となればイングリットは誰にも虐げられないとでも言われたのだろう?
貴様の体面を考え、婚約は受け入れたが、やはり間違いであった」
深い、深いため息を吐いたアルトゥール公は大きく息を吸い込み、溜め込んでいた怒りを吐き出した。
「……貴様は! 婚約披露パーティで何があったかわかるまいな!?
婚約者を守るべき王子が! 率先してイングリットに『濡れ烏の君』などと耐え難い蔑称をつけておったわ!!」
「なっ――そんなッ……」
イングリットを見つめ、青ざめるディートハルト。
最愛の妹の顔に濃く現れていた影は、ただ暗殺劇に巻き込まれた恐怖からできたものではなかったことに、彼はようやく気づいた。
「……お兄様」
か細いイングリットの声が、ディートハルトの耳にはやけに大きく響いた。
妹を守るため必死になって立てた策が悉く、彼女を傷つける刃となっていたのだ。
幼い頃からディートハルトに向けられていた、愛しい黒い瞳は今は淀み、下を向くばかり。
妹が味わったであろう絶望、苦痛、悲しみに直面したディートハルトはその場にへたり込んだ。
「――本来ならば、国法にある通り親殺しは未遂であろうと死罪。
しかし、おおやけにはできまい。
公爵家の嫡男による当主の暗殺未遂など前代未聞。それこそ家の存続が危うい。
よって、貴様は放逐とする」
項垂れ、言葉もないディートハルト。アルトゥール公は畳みかけるように彼に続けて告げた。
「――我が嫡男ディートハルトは死病に侵され病気療養のため、表には出られぬ事とし、イングリットの成人と共に闘病の末、死したことにする。
以後、貴様はディートハルト・グランスタインと名乗ることは許さぬ。名を変え、いち平民として生きろ」
放逐。アルトゥール公は甘いと思われても仕方のない選択をした。
「あなた……ありがとう、ございます」
涙ながらアルトゥール公へ頭を下げるメヒティルト夫人。
恐らくはディートハルトの助命嘆願をしたのだろう。
「義母上……」
涙を流すメヒティルト夫人を見つめ、ディートハルトは歯を食いしばる。
彼が今回の凶行に踏み切ったのは、もうすぐ危険な出産に臨もうとするメヒティルト夫人のためでもあった。
今回の暗殺計画の見返りの一つとして、メヒティルト夫人の出産の際、王妃抱えの司祭を派遣してもらえるよう約束を取りつけているのだ。
だがそれも暗殺失敗によってなかったことになるだろう。
そう、王家の庇護なしでは、イングリットはますます孤立し、メヒティルト夫人は出産と共に命を落とすかもしれない。
それに、産まれてくる弟か妹は誰が守ると言うのか。
アルトゥール公か?
――否、父アルトゥール公は王家と敵対する道を突き進むばかりでいるのだ。
ディートハルトが動くしかなかったのだ。
「――それでも、それでも……私は間違っておりません。
父上は栄えあるグランスタイン公爵家を滅びへと導くのでしょう」
負け惜しみであると、ディートハルト本人もわかってはいる。
だが、言わずにはいられなかった。
そうなってほしくないからこそ、己の言葉を父の胸に刻むため。
「そうか。それならそれで仕方なかろう。
――最後に、父として忠告しよう。間違っても、あの女狐に泣きつこうなどと思わぬことだ」
「……」
「――連れてゆけ!」
テオドールに助け起こされ、部屋を出るその瞬間までも、ディートハルトは父親から目を離さず、まっすぐ見据えていた。
一方のアルトゥール公はその姿を見ていられず、天井を仰ぎ見るばかりだった。
そのまま視線を移さず、アルトゥール公はロタールに静かに話しかける。
「ロタールよ、この屈辱、あの女狐めにも味わわせねばなるまいな?」
「おっしゃる通りでございます」
「手筈通りに事を進めよ」
「仰せのままに」
◆◇◆
ディートハルトが退室してからも、イングリットは嗚咽を抑えきれず、涙でぐしゃぐしゃになった顔を両手で覆って泣きじゃくっていた。
その隣に立ち、静かに家族の訣別を見つめていた光玄は、そっと彼女の肩に手を置き、静かに語りかけた。
「いんぐりっと殿。どのような言葉でも――恨み言でも構いませぬ。
きちんと、若様とお別れをされますよう」
イングリットは涙目のまま、ぼんやりと光玄を見つめた。
相変わらず、表情が良く読めない男だ。
しかし、光玄の漆黒の瞳の奥に、拭えぬ後悔の色を、イングリットは見てしまった。
いつも飄々として朗らかなこの男にも、後悔がある。
永遠に消すことのできない、別れの苦しみを抱いたまま生きている。
「――!!」
イングリットは悟ってしまった。
このまま何も言わずに兄を行かせてしまっては、一生の傷として残るのだと。
イングリットの胸の奥から、いくつもの言葉が湧き出てくる。
伝えたいこと、謝りたいこと、感謝の気持ち。どれを言えばいいかわからない。
それでも、身体は自然に動いた。
イングリットは涙に濡れた顔を拭うこともせず、ただ兄の背中を追って執務室を飛び出し、駆け出していった。
「お兄様!! 待って、お兄様ぁ!!」
廊下にイングリットの足音と涙声が響く。
後ろから響いてくる妹のその涙声に、ディートハルトは金槌で頭を殴られたような感覚を覚えた。
幼き日、お気に入りのウサギさんぬいぐるみを、意地悪なメイドに掃除の名目でゴミと一緒に捨てられて、自分に泣きすがっていたイングリットの姿を幻視してしまったからだ。
見よう見まねで、代わりのウサギさんらしき物体を作ってイングリットにあげた時の、あの笑顔が未だにありありと目に浮かぶ。
イングリットの大好きな童話の主人公、『ウサギ騎士ラッセル卿』の名前をその物体につけて、彼女の守護騎士に任命してあげたのが昨日のことのようだ。
(ああ……私はなんということをしたのだ。
――あの日から、私はお前を守ると誓ったはずなのに)
アルトゥール公が世の悪意からイングリットを守る城ならば、ディートハルトは身近な悪意から彼女を守護する騎士だった。
多忙な父アルトゥール公の目が届かないところで、ずっと妹を守ってきた。
――今回も、そのつもりだった。
父アルトゥール公こそが、妹の未来を閉ざす存在であると思い込んでしまったのだ。
だが、結果はどうだ。
ディートハルトこそがイングリットの未来を閉ざそうとしたのではなかったのか。
妹を直視できない。彼女の泣き顔を見たら、安心して去ることなどできない。
ディートハルトはそのまま背を向け歩みを速めた。
兄の背中がどんどん遠ざかっていく――イングリットは、胸が引き裂かれそうになる。
声を絞り出そうと必死に口を動かすが、出てくるのは言葉にならない嗚咽ばかり。それでも、どうしても伝えたくて、涙と共に懸命に叫び、走る。
――おそらく、これが兄妹の今生の別れとなるのだ。
かつてこれほど、全力で走ったことがあっただろうか。兄の背中が近づいてくる。
あんなに大きかった背中は、涙で視界が歪んで今は小さく、みすぼらしく見える。
息が詰まり、足がもつれ倒れそうになる。それでも、イングリットは止まらなかった。
イングリットは兄の背中に必死に追いすがり、その服の裾をどうにか掴み、その歩みを止めた。
――ディートハルトは振り向かない。
彼は背を向けたまま、絞り出すようにイングリットに語りかけた。
「――イングリット、愚かな兄さんを許してはいけないよ。
私はお前の幸せを考えるばかりで、お前の気持ちをないがしろにしたんだ」
「お兄様……イングリットはわかっています。いつも優しかったお兄様を覚えています。
なのに、わたしはお兄様を恐れて……」
今朝の、兄に対する無意識での拒絶に負い目を感じていたのだろう。
イングリットのその声は震える。
ディートハルトは、首を横に振って優しい声で話す。
「イングリットは何も悪くないよ。それだけのことを、私はしたんだ。
むしろ、お前をもっと傷つける前に――取り返しがつかなくなる前に早く気が付いてよかった」
そこまで言うと、ディートハルトはしばし沈黙し――
イングリットの隣に影のように寄り添う光玄の存在に気づいたのか、おもむろに声をかけた。
「――おい、そこの黒い男」
「某のことでござるか?」
「黒い男など、お前以外にいるものか。
……妹を、父上を守ってくれて感謝する。
どうか、これからも私の宝物――イングリットを守ってやってくれ」
「――御意。この命ある限り。
若殿におかれましても、ご健勝で在らせられますよう」
「ふっ、私はもう若様などではないよ。
――もう少し早く、お前が我が家に来ていればな。
もっと、色々なことが変わっていただろうに。残念だよ」
この黒い男はディートハルトの計画を何もかも台無しにし、破滅させた憎き敵だ。
だが、ディートハルトはこの奇妙な黒ずくめの男がどうしても嫌いにはなれなかった。
もっと早く出会っていたならば、次期当主たる自分によく仕える忠臣となっていたかもしれない。
イングリットの婿探しで意見が合わず喧嘩をしていたのかもしれない。もしかしたら、無二の友になれたのかもしれない。
それだけの親近感をこの得体の知れぬ男に覚えていた。
だが、所詮はもしもの話だ。
「――後を頼む」
そう言い残したディートハルトは、イングリットの手を優しくほどき、テオドールに連れられ去っていく。
その小さな背中に、イングリットは声の限りに叫んだ。
「お兄様!!
――大好きです! 愛しています!」
その声に、ようやくディートハルトは振り返り、イングリットと向き合った。
いつものその気難しい顔は、晴れやかな少年時代の兄の顔に戻っていた。
「――ああ、私もだよ。
愛しているよ、イングリット。いつまでも」
そう言って、ディートハルトは踵を返し今度こそ立ち去った。
イングリットは、兄の姿が見えなくなってもその場に立ち尽くし、静かに、涙をこぼし続けていた。




