case18
車のテールランプを瞳に映して晃は夜の街を歩いていた。都心に程近いそこは時間に関係なくガヤガヤとした喧騒を保っている。
耳を澄ませば昼間に起きた異能力者による地下鉄での殺傷事件の噂話が飛び交っているのが分かる。異捜の制服に身を包む晃に対し、嫌悪をむき出しにしている人々はきっと無能力者だろう。
そんな状況の中、普段は異能力の有無による溝を人一倍気にする晃は珍しく辺りの雰囲気に気づくことも無く、無表情のまま淡々と足を運んでいた。
(……名取圭也)
暗い瞳の裏で篝が語った彼の過去を何度も何度も反芻し、唇を引き締める。
(篝さんのあんな顔、初めて見た)
切島を警官に引き渡した後、篝は護送車で庁舎に戻る道中を利用して、自らの身に起こった事をゆっくりと口にした。表情こそ変わらないが、真っ白になる程に握りしめられた拳は微かに震えていて、彼の中にある激情に口を挟む事などできなかった。
事件は数年前、篝が高校二年生の時に起きた。
「お兄ちゃん! 今日は早く帰って来てよね!」
学ランに身を包み学校へ行こうと靴を履く篝の元へ鈴の音を響かせてやってきた少女が弾んだ声をかける。
(あー、そういや芽伊今日は振替休日って言ってたな)
靴を履き終えた篝は、普段はこの時間帯で聞くことのない声に一人納得した様に頷いた。
小学生らしい鈴のついたリボンで結んだおさげ髪の少女は、くりっとした丸い瞳で篝を見上げている。あどけないが、よくよく見れば篝に似て整った容姿であることがわかる。
「早くったって、お前……俺、今日普通に部活あるし」
「だーめ! 今日はお兄ちゃんの誕生日なんだよ? みんなでお祝いするんだから、絶対早く帰って来て!」
困った様に眉を下げる篝に芽伊は駄目押しをする様に小首を傾げてニッコリと笑う。
「お母さんとケーキ作って待ってるから!」
屈託のない笑顔に、うっと言葉を詰まらせた篝はため息と共に妹の頭に手を置いた。綺麗な丸い形をしたそこをぽんぽんと軽く撫でる。
「分かった。流石に部活は休めねぇけど、終わったら急いで帰ってくる」
「うん!」
嬉しそうな妹の様子にそっと口元を綻ばせると、篝は玄関扉に手をかけた。
「じゃあ、行ってくるな」
「うん、行ってらっしゃい!」
「伊織! 寄り道しちゃ駄目よー!」
「わ、わかってるっつの!」
手を振り家を出た篝を追いかける様に母親の声が飛んでくる。相変わらずの大声に、周りの視線に刺される前に、とそそくさと足早にその場を去った。
母親の愛情も、残念ながら思春期の少年にとってはありがた迷惑なのだ。しかし、どんなに邪険に扱ったとしても、きっと家に帰ればそんな事は気にしていない笑顔の母親が迎えてくれる。ごく普通の日常だろう。
しかし、そんなありきたりな団欒の時間はもう二度、篝伊織という少年には訪れなかった。
「……なんだよ、これ」
芽伊との約束通り部活を終えた篝が足早に帰宅すると、玄関は開け放され意識を失った両親が廊下に倒れていた。明らかに呼吸をしていない様子にバクバクと心臓が暴れ出す。
考えた事もなかった光景に呆然と立ち尽くす篝は、ハッと気がついた様に辺りを見回した。
「……芽伊? 芽伊は、芽伊はどこだ?!」
無音の空間に、不自然に妹の姿が無い。
靴を継ぐこともなく勢い良く駆け込んだ篝は荒らされた部屋に飛び込み、物を踏みつけるのも構わず妹の姿を捜した。
部屋という部屋を覗き、妹の姿を捜す。
しかし、どこにもその姿はなかった。一抹の希望に縋る様に、篝はスマホを耳に当てた。
(頼む、買い出しにでも出ててくれ……!)
祈る様な願いも虚しく、その瞬間にリビングの方から芽伊が最近お気に入りだと言っていた番組の主題歌が流れ出した。
音を聞いた篝は、キッチン側の扉に勢いよく飛び込むと、床に落ちて原型を留めていないホールケーキを踏み越えて音の出所へ向かう。
「芽伊!!」
どうやら音はキャビネットから聞こえている様だ。リビング備え付けられたそれに駆け寄って勢いよく扉を開け放つ。
「ひっ?! あ、お、お兄ちゃん……?」
ガタガタと震え、怯えきった表情の芽伊は篝の姿を見た瞬間、大きな瞳からぼろぼろと涙を零し、不安や恐怖を吐き出す様に小さな体を震わせて声を上げた。聞いている側が喉の痛みを感じる程に大声で泣く妹を篝はしっかりと抱き締める。
「遅くなって悪かった、無事でよかった……!」
「っう、ん!!」
抱きしめ合う兄妹の束の間の再会の時間は、腕の中にある妹の温もりを噛みしめる篝の背後から響く拍手によって終わりを迎えた。
「素晴らしい兄妹愛だな」
「っ?!」
身体の中の芯の部分が凍りつく様な冷たく棘のある声に篝は弾かれる様に振り返った。芽伊を隠す様にして声の主に対峙する。
恐怖と混乱で見開いた先にいる男は、濃紺のスーツに身を包み、糸の様に細い目を眼鏡で隠していた。口元にどこか馬鹿にしたような笑みを浮かべ篝達兄妹を見下ろしている。
「なんだよ、お前! 父さんと母さんに何をした?!」
怯える自分を奮い立たせ、篝は噛み付くように男を睨みつける。
「ほう、威勢がいいな。俺はただ珍しい火炎使いの子供がいると聞いて会いに来たしがないスカウトマンだ。そこに転がっている無能力者共に仕事を邪魔をされたから殺した。それだけだ」
「は、何言って……」
妖しげに笑う男は、ゆっくりと目を開いた。男が表情を変えるのに合わせて、瞳に刻まれた天秤の模様がぐっと潰れる。
「まあ、騒ぐな。俺は面倒なのが嫌いだからな、能力者を連れて帰れるならもう一人はどうだって良い。この意味、わかるな?」
「っ!」
心底楽しそうな厭らしい笑みを浮かべた男は、見定める様に篝と芽伊を順番に視線で撫でた。
篝はちらりと自分の背に隠れる妹を見て、生唾を飲み込む。可哀想なほど真っ白になった芽伊の顔をひと撫でし、ゆっくりと立ち上がった。
「お兄ちゃ、」
「……俺だ。俺がお前の探していた火炎の異能力者だ」
「ふん、いい覚悟だな」
毅然とした態度で薄ら笑いを浮かべる男に向き合う。時が止まったかの様な静寂の後、篝は掠れた声を発した。
「……待てよ。まず聞かせろ。お前らは何者だ、俺に何をさせる気だ」
「あぁ説明がまだだったな、これは申し訳ない。我々の目的は無能力者の排除。優れた新人類である我々異能力者が虐げられるのはおかしいと思わないか? このご時世だ、迫害された事がないとは言わせない」
「…………っ?!」
「劣等種を闇に葬り、別の無い平和な社会を作る。これからは我々新人類の時代だ」
驚きに言葉を発する事もできない篝に気づくこともなく、男は酔いしれる様に語った。その凶悪な顔に直面している篝だけでなく、背後に隠された芽伊すらも息を飲んだ。
「俺にテロリストになれって事か」
「……その呼び方は好きでは無いな。我々は旧約聖書に記された大洪水を再び起こそうとしているに過ぎない。いわば神の代行者だ」
「……じゃあ聞くが、ここで俺がお前について行ったとして、妹はどうなる。こいつは無能力者だ、どっちにしろ殺されるんじゃないのかよ」
悦に浸っていた男は、ピシャリと投げつけられた篝の言葉に気分を害した様に表情を消す。そのままちらりと床に座る芽伊に視線を落とした。
「……言ったろう? どうでも良いと。劣等種に興味はない。ここで死のうが後々審判の日に死のうが、どっちでも良い」
ひやりとした空気を前に、篝は歯を噛みしめる。
(……たとえ未来で命の危機にあったとしても、守ってやりたい)
握り込んだ手は汗でびしょびしょになっていた。いくら強がっても篝はただ特殊な能力を持つだけの高校生だ。
「……分かった。俺の事は好きにしろ」
「え、お兄ちゃん……!」
悩んだ末にぽつりと諦めた様に頷いた兄の言葉に、芽伊は驚いた様に声を発した。篝がちらりと振り向けば、妹が悲痛な面持ちで涙を零しながら見上げている。
それを見て篝は、涙を流す芽伊を安心させる様に笑った。引き攣って情け無い笑顔だったが、それが兄としての最後のプライドだった。
「……生きてくれよ、芽伊」
「おにぃ、ちゃ……」
「利口だな」
薄ら笑いを浮かべ男は引き寄せる様に篝の肩を抱く。俯く篝の表情を伺う事はできないが、唯一見える口元は悔しげに食いしばられていた。
「さぁ、行こうか」
「……ああ」
妹に背を向け歩き出す篝と男がリビングを出る、という瞬間だった。チリリ、という軽やかな鈴の音が辺りに響く。
聞き覚えのある音に驚いて振り返った篝の目に、駆け寄ってくる小さな体躯が映った。振りかぶられた小さな手にはキラリと光るケーキナイフが握られている。
「イヤだ! お兄ちゃんを、返せぇえ!!!」
「っ?! 馬鹿、やめろ! 芽伊!!」
「……目障りだな」
「おい! やめッ!!!」
止める間は無かった。
男の手が芽伊の頭に触れた瞬間、兄を取り戻そうと果敢にも立ち上がった少女は一瞬で地に伏せた。
篝は男の腕を払いのけ、瞬きをする間も無く倒れた妹に駆け寄りぐったりとした身体を抱き起こす。
「おい芽伊! 芽伊!」
反応はないが、か細く聞こえる呼吸音にほっと胸をなで下ろし、篝はギロリと男を睨み付けた。
「妹には手を出さない約束だっただろ?」
「正当防衛だろう? 先に手を出したのはその子供だ」
男はさも可笑しそうに顔を歪め言葉を続ける。
「野蛮だな。やはり、劣等種か」
メラリ、篝の周りに炎が立ち上がった。
「……ふざけんなよ」
ゆっくりと芽伊を床に寝かせると、篝は男に対峙する。その顔は先程までの怯えを忘れ、怒りに染まっていた。
「……許さねぇ、お前だけは、絶対に!」
歓楽街を通り抜け、閑静な住宅街の一角で晃は足を止めた。目の前には雑草だらけの空き地が広がっている。ここは昔、篝が住んでいた場所だ。
(……ここで)
篝は、夕陽に照らされた護送車に揺られながら淡々と語った。
ぼろぼろになりながらも無謀にも名取に挑み、逃げられた事。少しでも名取の情報を得る為に異捜の扉を叩いた事。そこで血反吐を吐く程心身共に鍛えた事。
そして、あの時自分はどうするべきだったのか。妹の言う通り早く帰れば、誰も傷つかなかったのでは無いかと終わりの無い問い掛けに未だ答えられない事実。
伏せられた篝の瞳は無力感に包まれ、まるで救いを求める子供のようだった。
「名取圭也、」
晃は伏せていた顔を上げて、空を見上げた。
その顔は決意に満ちて引き締められている。
「必ず、見つけてやる」
それは、差別をなくすと言う漠然とした夢の為に異能犯罪を追っていた晃が、初めて明確な意思を持って犯人を追いかける事を決めた瞬間だった。