第4話 二通ぶんの未来
ヒロミ・フトウの固有技能確認成人式はひろしの式の二週間前だった。
紋章盤は光らなかった。事務服の係員が「固有技能、確認できません」と告げたとき、ヒロミが最初に思ったのは「係員の靴が左だけすり減っている」ということだった。舞台のこちら側から見て左。つまりあの人はきっといつも同じ側から「確認できません」を言いに出てくるのだろう。
言われる側は一人ずつでも、言う側は毎回なんだな、と思った。悲しみより先にそれが来たことは誰にも言っていない。
*
式から三日後、第四学園の推薦面談があった。
「フトウさん。君の観察記録は、教師の私より正確だ」
担任は、ヒロミが二年間つけていた『教室の記録』の写しをめくった。誰がいつ席替えを望んでいるか、購買のパンが何分で売り切れるか、そういうことが書いてある帳面だ。観察し、記録することはヒロミの趣味であり日課であり癖だ。
「第四学園には観測科がある。君の目は、学問にできる」
「観測科?」
「星も、人も、社会も、観測だ。二年に一人の枠だよ。区の誇りだ」
推薦状はもう書いてあった。宛先も、封もしてあった。ヒロミが試験を受けると決める前に、大人たちの間で全部が済んでいた。
ありがとうございます、とヒロミは頭を下げた。頭を下げながら封筒の厚みを目で測った。(三枚。先生、三枚も書いてくれたんだ)
うれしかった。本当に、うれしかったのだ。それは記録しておく。
問題は、その晩の食卓だった。
「第四学園なら寮も安全だし、卒業すれば区役所にも学校にも入れる」と母が言った。
「フトウ家から学者が出るなあ」と父が言った。
「ヒロミちゃんは昔から、よう見とる子やった」と祖母が言った。
全員が賛成だった。反対する人がいれば戦えるのに、食卓は全会一致でなんだか味噌汁の湯気まで賛成しているような気がした。ヒロミは味噌汁を一口飲み、(安全。才能。誇り。ぜんぶ本当。ぜんぶ正しい)と胸の内で数えた。
その正しさの列のどこにも、自分の欲しいものが並んでいないことにも気づいていた。
ヒロミの欲しいものは単純だ。見たことのないものを見たい。ここじゃないところを、この目で観測したい。きっと第四学園の観測科は、それを教えてくれる場所だ。でも窓の外にあるのは、たぶん教わらなくても自分の目で見えるものだと思う。
*
そして十一日後──幼馴染のひろしの成人式の日、理由がもう一つ増えた。
(ひろちゃん、あの顔のまま行かせたら、だめだ)
ひろしの式を見に行った帰り、その足で商店街で買い物をしていると、礼服のまま一人で歩いているひろしの背中を見かけた。旗の一本も振られずに通路を歩いてきた幼馴染は、夕方ののぼりの前で足を止めていた。あの背中は、放っておくと無茶な方向に一人で歩いていく背中だ。五歳からの観測記録がヒロミにそう言っていた。
だからヒロミはそっとひろしのそばにまわった。ひろしが受付の長机から書類を取るのを確認し、深く息を吸い、日頃の観測成果を全部注ぎ込んだ「軍の勧誘員の声」を作った。
「おっ! 君は興味があるのかい!?」
我ながら似ていなかった。ひろしはバッと音が聞こえるような仕草で振り向き、世界でいちばん間の抜けた顔をした。落ち込んだ幼馴染が相手のときは、慰めるより先に間の抜けた顔をさせるに限る。これも観測結果だ。
「……ヒロミ。おまえ、その声なんだよ」
「三丁目の勧誘員さん。似てたでしょ。──私もそれもらったよ」
ひろしは目を丸くして自分の書類を見て、それから式の結果を聞いてきた。
「『確認できません』。ひろちゃんとおそろい」
笑って言えた。練習した甲斐があった。「おそろい」の一言でひろしの肩から力が抜けたのをヒロミは見逃さずに記録した。(効果あり。今後も使用)
その晩、帳面の新しいページに正直に書いた。
『理由: ①見たことのないところを見たい ②ひろちゃんの追跡観測 ③(未確認)』
③はまだ名前をつけないことにした。名前をつけると、確認されてしまう気がした。
*
翌朝。入隊手続きの窓口は区役所三階の、非常階段の隣にあった。フツー区に入ってくる人の窓口は一階の正面玄関横で観葉植物まで置いてあるのに、出ていく人の窓口は案内板にも載っていない。おまけに近隣三つの区のぶんまでここが合同で受け付ける。出ていく人は区ごとに窓口を置くほどいないのだ。
だから廊下の長椅子には、よその区の志願者が三人、書類を抱えて並んでいた。
一人は日焼けした大柄で、書類の間にどこかの漁協の入札日程表を挟み、順番待ちのあいだはそれだけを眺めていた。なにしているんだろうとヒロミが観察していると、目が合い、「目の保養だ」と言った。
一人は小柄な女子で、長椅子の上で操縦練習用の手袋を着けたり外したりしながら、「いちばん高い実を取るはしごの、いちばん上のその先に行くの」と言った。すぐには意味が分からなかったが、高いところほど果物は美味しいらしい。さらにその先はヒロミも観察したことがない。
一人は眼鏡の細身で、廊下の掲示『本日の受付見込み 12名』と長椅子の人数を見比べ、「一致していません。報告してきます」と席を立った。誰にも頼まれていなかった。
(漁協の目の保養。はしごの先。数える係。)ヒロミは三行書いた。欲しいものが具体的な人は、なんとなく強そうだとヒロミは感じた。
*
隣の席には、家で書き込んだ志願書を出してきたひろしが、そのまま手続きへ回されて座っていた。
「入隊関係書類、全二十八枚です」
窓口の職員がひろしの前に書類の束をどんと置いた。ひろしが上の一枚を取る。『住民食堂カレー当番の引継届』。
「あの、俺、軍に志願したんですけど」
「存じています。ですから、カレー当番を誰かに引き継いでいただかないと」
「軍隊に行く書類より、カレーの書類が先なんですか」
「カレーひとつで世界は変わりますから」
ひろしは反論できていなかった。ヒロミは自分の束に九枚目の判を押しながら、(カレーは世界を変える。名言)と記録した。
書類の山が崩れてきたところで、職員が端末に二人の区民証をかざした。古い機械らしく、換気扇みたいな音を立てて、たっぷり三十秒うなった。
画面に行が一つ増えた。
『ひろし・ただの──家系照会:対チート収容分類/継承世帯』
「……収容?」とひろしが画面をのぞきこんだ。
「ああ、これ。古い家系だとよく出るんですよ。昔のシステムの表示が残ってるだけです」
「収容って書いてありますけど。うち、夢の移住プランで来た側ですよね。歴史でそう習いました。すてきな計画だったって」
「ですね。私もそう教わりました」
「じゃあこの表示は」
「さあ? 古いので」
ヒロミの照会にも同じ行が出た。『ヒロミ・フトウ──家系照会:対チート収容分類/継承世帯』。教科書はあれを「すてきな計画」と書いていた。やった側の書類には「収容」と書いてある。どっちが本当ですか、と聞くまでもなかった。目の前の職員がなにも知らないことだけは、靴を見なくても分かった。
帳面に一行だけ書いた。『「収容」の二文字。誰も説明できない』。書いてから、違和感を閉じ込めるようにいつもと違うやり方で帳面をやさしく閉じた。
「ひろしさんの手続きは以上です。出発は九日後。前日に区の壮行会があります。広報が入って、生中継だそうです」
職員が番組進行表の写しを机に置いた。ヒロミは逆さまから読んだ。フツー区二名の壮行は、後半の三分。前半の十五分は『特集・レイジョー家令嬢セリーナ様、栄えある旗艦へ』とあった。名家のお嬢様の出仕は、ぜんぜん別の番組だった。
(同じ空へ行くのに、一緒じゃない。ひろちゃんの線、私の線、お嬢様の線。三本、並んで走るだけ)
*
「ヒロミ・フトウさんは──その前に、こちらの処理が必要です」
職員が新しい画面を開いた。うなる前に、赤い枠が出た。画面の下、『九月以降の在籍先』という欄だけが空白のまま残っている。
「志願書は受理済みですが、在学処理が保留のままになっています。第四学園の特別推薦──継続するなら『第四学園』、本当に入隊するなら『辞退』と記入してください」
そして職員は、良かれという顔で備考欄を指した。そこにはもう、几帳面な事務の字で理由が印字されていた。
『志願事由: 同区出身者ひろし・ただの氏の入隊に同行のため』
「……あの」ヒロミは自分の声が半音低くなるのを聞いた。「これ、誰が書いたんですか」
「事前照会の際、ご家族が『幼馴染について行くの』と仰っていたので、便宜上」
「消してください」
「は?」
「同行、じゃないです。私は、私のために行くんです。ひろし・ただのの観測はします。しますけど、それは私の目的の一つにすぎません。一番じゃない」
職員は少し面食らって、備考欄を空欄に戻した。ヒロミはそこに自分の字で書いた。『志願事由: 見たことのないものを観測するため』。二番と三番は書かなかった。書類に書くのは一番だけでいい。
書き終えた瞬間、ヒロミの目の焦点があらぬ方角へ飛び、小声が漏れ出した。
(推薦を捨てて軍服を選ぶ幼馴染。見送る家族。「行くのか……」「はい」──ハァハァ……何それ、ありよりのありの完璧な負けヒロイン…………)
「もれてる。全部もれてるからな」と隣でひろしが言った。
「はっ」
職員が無言で待っていた。関わり合いになりたくない顔だった。ヒロミには観測した事象から夢を描く癖があるのだ。
ヒロミは咳払いをして、鞄から封をしたままの第四学園の推薦状を取り出して、机の端に置いた。昨日から持ち歩いていた三枚入りの丈夫な封筒だ。置いてから、ペンを握り直し、在籍先の空欄に二文字、いつもの字で書いた。『辞退』。署名欄の前でだけ三秒止まった。それから、ふだん回覧板にサインするのと同じ速さで署名した。
「これは、学園へお返しください。開けないままで、すみませんって……書き添えて、もらえますか」
「受理しました。これでお二人とも、出発は九日後です」
職員は推薦状を受け取るときだけ事務の速度を落として、丁寧に預かり印を押した。入隊届と推薦状は、別々の箱に入った。同じ机の上で、二通の未来が別々の宛先へ仕分けられた。選ばなかった未来がどうなるのかは、もう誰も観測できない。
「これで一緒だね」と隣のひろしに言った。彼のカレー当番の引継届は束のいちばん上で少し曲がっていた。
一緒、と帳面に書きかけて、ヒロミはペンを止めた。少し考えて、こう直した。
『併走、開始』




