第31話 機械が困る方
冷却期間の四日目。
月極重工の第九工房は街の喧騒から一枚壁を隔てた静かな場所だった。
その真ん中に設計図で見た機体が立っていた。飾りのない静かな立ち姿。近くで見ると、装甲の継ぎ目の一本一本が、作り手の気持ちで追い込まれているのが伝わってくる。
機体の足元に小さい年寄りがあぐらをかいていた。
「……あ」
「来たね、機械が困る方」
ネジマキ・ガンコは工具を置きもせずに言った。輸送船で説教されてからひと月あまり。向こうは一目で覚えていたようだ。
「あんた、あれからドリーマーさんをずいぶん困らせたそうだね。記録は全部読んだよ。踊らせて、無茶させて、挙句に敵のエースと殴り合った」
「すみません」
「褒めてんだよ」ガンコは立ち上がった。「ドリーマーさんには悪いが、あの方は三十年落ちの年寄りだ。年寄りをあそこまで走らせる奴を、あたしは他に知らない。めちゃくちゃで、無礼で、機械が困る奴だ。──だから、困らない機体に仕上げたよ」
ガンコは機体の脚部装甲をコンコンと拳で軽く叩いた。
「派手な武装は積んでない。最大出力もエリートの高機動機には届かない。でも、この方はあんたのめちゃくちゃを、めちゃくちゃのまま受け止められる」
「あの、この機体の名前って」
「正式名は聞いてないのかい」
「えっと、確か……写しの頭に、グロリアス・ルナ・なんとか」
「〈グロリアス・ルナ・インペリアル・ドリームフォース〉。広報部が三日徹夜で考えたそうだよ。ドリームだの何だの、どこの広報も好きだねえ」
「途中で息継ぎが要りますね」
「あたしは一度も呼んだことがない」ガンコはあぐらを組み直した。「あたしが呼んでるのは、〈ノーマン〉。譲らなかった名前だ。──どこにも載らない名前だがね」
「……載せなくていいですよ」ひろしは言った。「あだ名は自由って、契約書に書いてあったんで」
ガンコの手が、初めて工具から離れた。
「──呼んでみな」
「ノーマン」
ひろしはこのとき初めて、その機体を名前で呼んだ。
機体は答えない。答えないのに、なんだか納得したように立っていた。
「まあ、乗ってみな。口で言っても、始まらない」
*
ガンコの提案で、契約前にも関わらず、試乗はその日のうちに行われることになった。会社は惚れ込ませたい。ひろしは惚れ込んでいる。誰も、断らなかった。
コクピットに入った瞬間から違いが分かる。ドリーマーは「乗る」機体だった。ノーマンは──迎えに来る機体だった。同調シートが背中に馴染み、操縦桿を握る前から機体の重心がひろしの重心に寄りそってくる。
「よろしくお願いします。……ノーマン、でいいのか? ノーマンさん?」
『音声了解。呼称は、自由に』と表示が出た。機械の返事は素っ気なく、素っ気なさがなんだか頼もしい。
試験空域での結果はガンコの言葉どおりだった。
思ったとおりに、飛ぶ。それだけのことがこんなに気持ちいいとは知らなかった。ドリーマーのときは、無茶を通すたびに内臓が後ろに置いていかれて、口の中が酸っぱくなった。ノーマンは置いていかない。ひろしの体を迷子にしない。ドリーマーで「ごめんごめん」と謝りながら通していた無茶が、ノーマンでは無茶にならずに通る。回避、切り返し、例のヤミノ分類『有効』の変な機動。同調率は九十台で暴れているのに、機体は息も切らさず全部ついてきた。
着陸するとガンコが待っていた。
「どうだった」
「……思ったとおりに、飛びました」
「そうだろう」ガンコは満足そうだった。「この方は、あんたが『こう』と思った半端な気持ちを、半端なまま、形にする。決めれば、決めたとおりに、飛ぶ。迷えば、迷ったとおりに、転ぶ」
問題は、そのあとだった。
「では次、広告用の撮影もさせてください! 使用は契約後です!」営業が拡声器で言った。「台本どおり、着地して、右腕を、高く! 決めポーズです! 『この加速、月極重工』!」
ノーマンが着地する。右腕を、上げる。上げる途中で、ひろしは「これ、恥ずかしいな」と思った。ノーマンの右腕が迷う。迷った右腕は、高く掲げるでも降ろすでもない、中途半端な角度で「よっ」みたいに止まった。近所のおじさんの挨拶だった。
「カット! もう一回!」
三回目は、下がりすぎて脇を掻いた。五回目は、招き猫みたいに指先だけこそばゆそうに丸まる。七回やって、七回決まらなかった。無茶な機動は一発で決まる機体が、決めポーズだけ決まらない。計測員が笑いを噛み殺し、営業が頭を抱え、ガンコだけが満足そうに頷いていた。
「見たかい。この方は正直なんだ。乗り手が恥ずかしいと思ってる動作は、恥ずかしそうに動く」
「直せないんですか、それ」
「直さないよ。──広告屋の都合で、機体を嘘つきにはしない。嫌なら契約書に書きな。『決めポーズは、要練習』とでもな」
営業とガンコの交渉は三十分に及び、契約書の特記事項に一行増えた。『操縦者は、必要に応じて当社の演技指導を受けること』。機体は直さず、俺が直されるのか。
*
工房を出る前にひろしはもう一度ノーマンを見上げた。
特別になりたくて、ここまで来た。固有技能、軍隊向き、英雄候補生、旗艦配属。欲しかった「特別」は、いつも誰かの都合とセットで、腕章か、絵か、商標の形をしていた。
この機体も広告のおまけだ。それは分かっている。分かっているが──さっきの飛行の、あの「思ったとおりに飛ぶ」だけは誰の都合でもない。あれは、俺と機体の間にしかないものだ。
だから乗る。乗るために、あの重い紙を、乗れる紙に直す。
*
冷却期間の五日が明けた。逐条交渉は静かで陰惨な三時間になった。刃を交えるのはシオリ代理人と営業。ひろしは当事者席で自分の名前が条文の中を行き来するのを聞いている。
ルイはセリーナの名代として同席していた。家の金は出さない。だが、家の契約を二十年見てきた目だけは貸す。
「お嬢様からの伝言でございます。──『転ばないように、ではなく、転んでもよいように』」
「……それ、伝言ですか」
「本日は、それだけでございます」
シオリは、ひろしが冷却期間の内側で会社の日程で試乗を済ませたことを知っていた。惚れさせてから交渉に着かせる。古い手だ。惚れさせれば安くつく。だから交渉の前にシオリはひろしに一言だけ釘を刺していた。「乗ったことは、この三時間だけ忘れなさい。まだ乗っていない顔で、座っていること」。ひろしは忘れられていなかった。だが、忘れた顔だけはしてみせた。
結果は一枚の紙ではなく四枚。
「……四枚も、あるんですね」
「分けました」シオリ代理人は四枚を扇のように広げた。「混ざった紙は、揉めたときに全部が一度に燃えます。分けた紙は、一枚ずつ交渉できます」
所有は会社、運用は軍──初稿のまま。ひろしが覚えたのはあとの二枚だった。三枚目、呼称・塗装・肖像・広告利用は本人とチームの同意制で、広告には停止権。四枚目、操縦判断と身体は操縦者本人のもの。
「それと、月極さんが買えるのは顔と物語だけです。この方の行動の記録は、軍が観測対象の登録ですでに全部持っていますので、最初から売り物になりません」
そして、問題の死亡後の話になった。
「第七十一条について、伺います」営業が頁を開いた。「死亡時の物語の帰属。当社案では、期間を区切る形の修正を──」
「消してください」
ひろしは自分で言った。第七十一条の頁には、組合の栞と並んで、下手な字の付箋が一枚。写しから剥がして、自分で貼り直したものだ。あの夜の、一枚目。
「期間の問題じゃないんです。俺が死んだら、俺の映像と名前は、うちのばあちゃんに。ばあちゃんは、物語なんか要らないんです。たぶん、顔が見たいだけなので。……会社の物語にする権利は、生きてる間のぶんまでで勘弁してください」
会議室が少しのあいだ静かになる。営業は秘書と目を合わせない。手元の条文に自分のペンで線を引く。
営業はすぐには折れなかった。死亡時条項は当社の資産計画の根幹で、収入の見込みが──と粘った。シオリ代理人が粘りを一つずつ崩していく。争えば負ける条項に資産価値はつかない。売れない資産を根幹と呼ばない。
「……分かりました。第七十一条は、削除」営業はペンを置きかけて、止めた。「ただし、こちらも一つ。作戦後の最初の販促イベント。あれだけは確定枠にさせてください。二回目以降は、条項どおり三十日前の通知で撤回いただいて構いません。ですが、最初の一回だけは逃げられない枠に。それなら呑みます」
「妥当です」シオリ代理人が頷いた。配信をいつでも止める権利は残る。二回目からの出演撤回権も残る。取られたのは作戦後の一度、顔を出すこと。それだけだ。
「では」営業は言った。「代替条項。『操縦者死亡時、映像・肖像・記録の使用権は、本人が生前に指定した相手へ移る。会社の裁量による使用は、認めない』。……うちの法務が卒倒しますが、卒倒は補償対象外なので構いません」
「では」シオリ代理人が判子に手を掛けた。「指定のお相手は、様式で登録します。お相手のフルネームを」
一拍、母の顔が浮かんだが、台所の湯気の向こうへ引っ込んだ。あの人はこういう紙からいちばん遠い場所で味噌汁を作っている人だ。遠いままにしておこうと思った。
「ただの・きぬ。フツー区在住。──俺の、ばあちゃんです」
誰も笑わなかった。書記役の秘書が様式の指定欄にその名を几帳面に書き取った。
*
最後に金の紙が来た。
機体はタダではない。貸与で、乗るたび──会社が借用の枠を一つ開くたびに、借用書が一枚起きる。訓練調整で一枚、出撃でまた一枚。整備は月極持ちで、ひろしの首に掛かるのは機体の借り賃だけ。それも、戦時報酬と広告収益の範囲まで、と上限が引かれた。
「軍から取れるのは、お金だけですので」シオリ代理人は淡々と言った。「ひろしさんからは、顔が取れます。だから、先方が呑みました」
「慰めですか、それ」
「事実です」
「確認します」シオリ代理人が営業に向き直った。「ひろしさんが署名なさらなくても、艦の修理契約は止まりませんね」
「止まりません。完全修理の分は、軍と月極の勘定にしました」
断れば艦が困る、というあの日の圧力はそれで契約から切り離された。艦の修理とひろしの署名は別の紙になった。
「つまり」ひろしは要約を試みた。「俺は、乗るたびに借金して、顔で返すと」
「はい」シオリ代理人は頷いた。「重さの見える契約には、判が捺せます」
署名そのものは三十秒で終わった。
四枚の紙と、条件の細目と、借用書の一枚目。ひろしの署名は合計六回で、六回目には字が少し様になっていた。書き終えて、ひろしは癖で、上着のいちばん浅いポケットの上を一度だけ押さえた。中身は確かめない。シオリ代理人の公証印が最後に捺され、朱色が乾くのを、全員が黙って待った。
「発表は」営業が手帳を閉じた。「作戦の後です。それまで広告は準備だけ。撮って、磨いて、金庫にしまっておきます」
嘘のできない機体で借金を返す。おかしな話だ、とひろしは思った。だが、あの『よっ』を直さないと決めた機体なら、たぶん俺の顔も俺のままでしか売れない。恥ずかしがりの機体は嘘の広告に向いていない。向いていない機体で広告代を返すのだから、返し方まで正直になる。それでいい気がした。
*
散会のあとひろしの手元には借用書の控えが一枚残った。一枚目、と右肩に印字してある。借り賃の欄と、広告の稼ぎで相殺する欄。読み方はシオリに教わったばかりだ。これから乗るたびにこの紙が増えていく。増えた紙の束の厚さがいつか辞書を超える日のことを想像しながら、ひろしは格納庫に向かった。
格納庫に運ばれたノーマンの足元でガンコが工具箱を開けていた。技術顧問として出航に同行するという。
「出航してからが勝負だってね」ガンコはレンチを選びながら言った。修理は明後日には終わる。艦の契約は先に動いていたから、部品も人手も、保留の五日のあいだに揃っていた。そこから月を出て、戦場まで航行五日。その五日が、まるごとノーマンの調整期間だ。飛びながら直す。「五日で、全部は無理だ。だから決めな。何を伸ばす? 速さか、頑丈さか。それとも別の何かか──一つだけだよ」
ひろしは、ほとんど迷わなかった。
「……この機体の、思ったとおりに飛ぶところ。あれを、もっと」
「──名前をつけるなら?」
「素直さ、ですかね」
「本気かい」ガンコはレンチを止めた。「素直さを伸ばすってことはね、あんたの迷いをもっと正確に映すってことだ。あんたが迷った回数だけ、この方は戦場で転ぶ。速さも頑丈さも捨ててだ。──生き残りにくくなるかもしれないよ。それでも素直さかい?」
ひろしは、今度は少し迷ってから言った。
「……はい。速さで勝った試しが、俺、ないんです。頑丈さで守った試しも。俺がうまくいったと思えた時は、いつも、思ったとおりに動けた時だけでした。だから、そこを伸ばしたい。──転ぶのはいいんです。転び方なら、習ったばかりなので」
ガンコは手を止めて、ひろしをじろりと見た。それから、ふん、と鼻を鳴らす。輸送船の夜と同じだったが、意味はたぶん逆だった。
ガンコは作業中いつでも見えるように、工具箱に一つだけメモをした。
『素直さ』




