第30話 桃姫のメモ
冷却期間の二日目。セリーナは旅装の底から、布に包まれた薄い帳面を取り出した。
家の金は断った。家の玩具になる艦隊も拒んだ。それでも、この一冊は捨てる気にならない。初代様のものだからだ。嫌いなのは家の窮屈さで、初代様ではない。
それに──あの水やり係は今ごろ、辞書の厚さに埋もれている頃合いですわ。
帳面を持って、セリーナはひろしの宿舎の扉を叩いた。
「顔が、溺れていますわよ」
「溺れてる。甲は乙に対し、ツカの定めるところにより……って、誰だよ、ツカ」
「それ、丙と読みますのよ。ヘイ」
「ヘイ? ……ヘイヘーイ!」
「重症ですわね」
机の上には契約書の写しが開いていた。シオリ代理人の宿題──逐条交渉までに全条文を一度、自分の目でも読んでおくこと。辞書の厚さは写しになっても辞書の厚さだった。同室の兵は当直でいない。
「ですから、教材を持ってきましたの」
セリーナが布を解くと薄い帳面が出てきた。表紙に金泥で一語。『ポリン星メモ』。
「レイジョー家の当主教育は、家の金の使い方より先に、これの読み方から始まりますの。初代様の──百年前の『桃姫』の私物ですわ」
*
中身はルールの台帳だった。
『ポリン星の位置について。夜空の、いちばん桃色に見える星とする。観測に基づく質問には「愛の目には見える」と答える』
「観測に基づく質問って」
「望遠鏡を向けてくる無粋な方が、代々一定数いらっしゃいますのよ」
『アップルピーチ姫の好物について。林檎と桃の中間の味の何か、とする。実在の果物を挙げてはならない。実在は、夢の敵である』
「実在は、夢の敵……」
「うちの家訓でいちばん哲学的な一行ですわ」
『エレファント王の設定を追加する。理由、社交界で「お父君は」と問われ間が持たなかったため』
「間が持たなくて王様を作ったのか」
「社交界は戦場ですのよ」
『キリン星との外交関係について。国交は、あり。ただし親密ではない。理由、親密にすると先方の設定も増えるため』
「増えるのが嫌だったのか」
「三代目は、たいへん几帳面な方でしたの」
一ページごとにルールが増えていく。代替わりの筆跡も混じる。二代目は幾何学が得意で「ポリン星の公転周期」まで定めていた。真面目に、あまりにも真面目に、百年かけて夢が増築されていた。
「なにこれ、すごいな。教科書よりちゃんとしてる」
「ちゃんとしていますのよ。うちは百年ものの物語ですから」セリーナはページを繰る手を止めなかった。「そして、ここからが教材ですわ。よく読んで。これ、全部『条文』ですのよ。誰が書いたか、なぜ書いたか、書かれた下で誰がどう暮らすことになったか。──貴方のあの契約書と、作りは同じですの」
扇子の先が一つのページを指した。
『転倒について。姫は転ばない。ポリン星の重力は姫に優しいからである』
「三代目の字ですわ」セリーナの指がその一行をなぞった。「……ごらんなさい。ほかのルールは、楽しんで書いた字。この一行だけ違いますの。紙がへこむほど強く書いてある。楽しくないルールを、それでも書いた字ですわ。──この一行のせいで、アテクシの子供時代には、転倒が存在しませんでしたの」
転びかけると必ず誰かの手が入った。庭の敷石は毎朝点検され、階段には絨毯が張られる。七歳のセリーナが中庭で走って転んだときは、屋敷が半日火事場みたいになった。痛かったのは膝なのに、手当てされたのは「姫」のほうだった。
ひろしは紙のへこみを指でなぞる。
「ひどい話だと思いまして?」
「……ちょっと、思った」
「半分だけ正解ですわ」セリーナはページの上に手を置いた。「この一行はね、三代目が、階段から落ちて亡くなった妹君のあとに書いたものですの。だからこの筆圧ですのよ。二度と家の子を転ばせない、という愛。以来、家はアテクシたちを転ばせまいとし続けましたの。愛で膝が守られて、愛でアテクシは、転び方を知らない子になりかけた。──条文というのはそういうものですわ。愛で書かれて、抑圧として働く」
「……で、どうしたんだ。転び方」
「隠れて、練習しましたわ」
九歳のセリーナは誰にも見られず誰にも直されず、書庫の隅で見つけた古い護身術の本を教本に思う存分、正しく転んだ。守り手の技術体系の端っこ。誰も読まないページ。転がるたび体のどこにも痛みが残らないのが痛快だった。
「条文の届かないとこで転んでたんだな」
「そう。抵抗と呼ぶには、こそこそしていましたけれど」
セリーナは扇子を机に置いた。それから、部屋の床を目で測った。
「……ちょうどいいですわ。お立ちなさいな」
「え」
「教材の、実技ですわ」
セリーナは一度、扉のほうを見た。廊下に足音はない。
それから襟を直し、床に転がった。
音がしなかった。
丸めた背中が床を撫でて、縦ロールが一度だけ揺れて、乱れないまま、次の瞬間にはもう立っている。狭い宿舎の床で絹の反物を転がしたみたいだった。
「これが九歳のアテクシの独学ですわ。背骨の定規を外して、丸くなって、床に体重を順番に渡す。──はい、貴方の番」
「俺!?」
「転び方を知らないまま、あの契約書に乗るおつもり?」
ひろしは転がった。膝と肘とプライドを同時に床にぶつけた。
「痛った……」
「膝と肘は、そのうち慣れますわ。プライドは、慣れませんの」
ひろしはもう一度転がった。今度は、肘だけ守れた。
「……下手くそですわね」
「九歳から練習してる人と比べないでくれ」
ひろしは自分で立ち上がり、埃を払った。セリーナは手を出さなかった。それから机の扇子を取る。
「いいこと、ひろし。転ばないことは、強さではありませんのよ。転び方を知っていることが、強さですの」
扇子の先が机の契約書の写しをこつ、と叩いた。
「どこで手をつくか、どこを丸めるか、どこなら打っても平気か。それを知って乗るなら──」
扇子が写しの上で止まった。
「不利な契約は、ただの床ですわ」
「……消せない条文でも、ですか」
「消せないなら、書き手の愛だけ受け取って、抑圧のほうは床に逃がす。──消せるものなら、消させればいいのですわ」
*
帳面の最後の頁だけ字が違った。設定の字ではない。飾りのない、走り書きの素の字。初代様が亡くなる少し前に書いたと伝わっている。
『収容所の子どもらにポリン星の話をせがまれた。三回した。三回とも違う話になったが、子どもらは三回とも笑った。
わたしは、ほんとうのことをなにひとつ、持ってこられなかった。持ってこられたのは、つくりばなしだけだ。
つくりばなしでも、笑う。人は、笑うのだ。
なら、上等ではないか』
ひろしはそのページを長いこと見ていた。セリーナも何も言わずに見せていた。
初代様はとんだ法螺吹きだったという。ポリン星を名乗って周りを振り回して、この帳面一冊でウオモイへ来た。歴史の教科書は「はりきりすぎた人」の欄にこの人を入れている。家の教育は「悲劇の姫」の欄に入れている。
でも、最後のページの字はそのどちらでもなかった。ただ、人を幸せにした人の字だった。
残すのは、設定の百年ではない。この最後の一ページだ。
「……上等ですわね」
セリーナは帳面を閉じ、布に包み直した。それから指を左耳の白百合に触れた。一度だけ。
*
帰り際、扉のところでセリーナは一度振り返った。
ひろしはもう契約書の写しを開き直していた。溺れている顔ではもうない。机に覆いかぶさるようにして下手な字で付箋を書いている。書き終えて、余白に貼った。
ひろし自身の、一枚目。
セリーナは何も言わずに扉を閉めた。




