第29話 三十秒を止める人
翌日の午前、その人は判子だらけの鞄を提げて来艦した。
案内の兵は廊下の途中で何度も歩調を落として彼女を待った。彼女が掲示物を一枚ずつ読んでいたからだ。
「あの、会議室はまだ先でして」
「存じています」
「その、皆様お待ちで」
「待てる人たちなら、大丈夫です」
彼女は避難経路図を読み、『主砲発射時、洗濯物は各自回収』を読み、水耕トマトの世話当番表を読んだ。当番表の水やりの欄に「ひろし・ただの」の名がある。依頼人の名前だ。書類より先に、当番表で会った。
会議室に着くまで、通常の三倍かかった。
彼女にとってそれは必要なことだった。掲示物はその艦が何を大事にしているかをいちばん正直に語る。これからそういう艦の兵の代理を務める。急いでいいわけがない。
中年の女で銀縁の丸眼鏡をしていた。名刺には、名前と、月公証人組合の紋と、判子の意匠の三つ。
「月公証人組合の公証人で、独立代理人を務めます。シオリ・ショウノと申します」
会議室にはセリーナとひろしがいた。
「昨日付で、ひろし・ただの様を本人とする契約代理の選任申請がセリーナ・ポリン=レイジョー様のご紹介で組合に出されました。──紹介は紹介。依頼は依頼です」
シオリはそこをはっきり切って言った。それからセリーナのほうを見た。
「セリーナ様。恐れ入りますが、十分ほど席を。ご紹介くださった方が同席したままでは、ご本人の同意がご本人のものかどうか、私が確かめられませんので」
セリーナは素直に立った。扇子を畳んで、廊下へ出て、扉を静かに閉めた。閉まる寸前、扉の隙間から扇子の先だけがひろしを一瞬指して、消える。しっかりなさい、の意味らしかった。
二人きりになってシオリはひろしに向き直った。
「あらためて伺います。代理人が、必要ですか」
「はい。……七十一条ってやつから、お願いします」
「承りました。順番は、私が決めますが」
判子の一つがその場で選任届に捺された。鞄の中には大小の判子が仕切りごとに並んでいて、どれが何の判子なのかひろしには一つも分からなかった。
「費用は月の未成年者保護基金から出ます。成人してから二年以内の方も月ではこの基金の保護の対象です。──成人式の翌日から、人は一人前に騙されますので」
シオリはその一行を受任記録に自分の字で書いた。依頼者、ひろし・ただの。費用の出どころ、未成年者保護基金。守る相手と金を出す相手を別の欄に分けて書く。代理人の仕事はこの一行から始まる。
それから、契約書を読むより先に、シオリは質問をした。
「お歳は」
「十八です。一か月半くらい前に成人式でした」
「契約書に署名したことは」
「……回覧板の受領印なら」
「それは契約ではありません」シオリは手帳に何かを書いた。「軍で上官の希望を断ったことは」
「あります。というか、命令無視で観測対象になってます」
「それは頼もしい」
書く手が少し速くなった。頼もしい、で速くなる手帳らしい。
「最後の質問です。あの機体に、乗りたいですか」
「乗りたいです。すごく」
「どのくらい」
「昨日から、寝ても覚めてもあの立ち姿を思い出すくらい」
シオリは手帳を閉じ、眼鏡を直した。
「ひろし様。あなたは今、恋をしています。機体に」
「……え」
「脅された署名は、あとで必ず争われます」シオリは一度切った。「それはまだ、ましなんです。怖いのは、争われない署名です。恋をしている人の署名は、争われません。本人が、幸せに、文面を読まないからです。公証人がこの世でいちばん疑うのは、そちらの署名です」
「……名前も、まだ知らないんです」ひろしは言った。「立ち姿だけ見て」
「それを恋と申します」
シオリは手帳を仕舞った。
「いま自覚ができたなら、上出来です。では、参りましょう」
*
午後の会議室には前と同じメンバーにシオリが増えた。
営業の手元には投影の準備ができている。
「お名前をいただいてから、三十秒です」営業は投影の準備に手を置いた。「三十秒で、月じゅうの板が切り替わります。新鋭機発表、搭乗者はあの顔のいい新兵、賭け板の初戦オッズ。──速いでしょう」
「速いですね」
シオリは言って判子の鞄をゆっくり開けた。
だが──独立代理人が受任した案件は月域では公証の判が下りるまで執行力を持たない。顔を使う権利も、公証済みの契約にぶら下がっている。この判が捺されないかぎり、月極は新型機の広告にひろしの顔を一枚も使えない。光は走り出す前に、シオリの判を待っている。
だから、シオリはゆっくり言った。
「本日は、公証人として申し上げます。本契約の公証を──保留します」
営業の笑顔が一度だけ瞬く。準備した光が行き場を失った瞬きだった。
「理由を三つ」シオリは指を立てなかった。「一つ。契約者は成人後二か月に満たない十八歳で、契約実務の経験がありません。二つ。断れば艦が困る、という状況で書かれた署名を月の公証は『自由な意思』と数えません。三つ。違約金が、契約者個人の生涯収入を大きく超えます。これは縛りであって、交渉ではありません」
「……指、立てないんですね」
「立てるのは、急ぐ人のやり方ですので」
「……当社としましては」営業は笑顔を保った。「工程の遅れが日ごとに積もるとだけ。それに、公証人でしたら月にほかにもおられます。当社とお付き合いの長い方が、幾人か」
「おられます」シオリは頷いた。「ですが、組合の規定で、独立代理人のいる案件はほかの公証人が受けられません。この契約は、私の判か、私が退くか、二つに一つ。私は退きません」シオリは鞄の判子を指で軽く押さえた。「それに──貴社とお付き合いの長い公証人というのは、そもそも独立代理人ではありません。付き合いの長さは、公証では失格の別名ですので」
営業は二の句を探した。探しているあいだもシオリは急がなかった。
「積もるでしょう。保留とは、そういう値段のものです」シオリは動じなかった。「保留の解除の条件は、独立代理人同席のうえでの逐条交渉。それから、契約者本人の冷却期間。恋や脅しを疑う契約に月の公証が課す、最低の日数──五日です」
「……五日」副長の声がまた細くなった。「日割り、ですよね」
「日割りです」
営業とシオリが同時に答えた。
五日。営業の準備した光は、五日走れない。走り出す前なら、一枚の保留の判で止まる。走り出したあとでは、追いつけない。
「恋の熱は五日では冷めません。ですが、文面を読める程度には落ち着きます。──精査の重点は、ご本人から伺っています」
シオリはそこで口を閉じ、ひろしを見た。
「……第七十一条」ひろしは言った。「死んだあとの、俺の話です」
「私からは一か所足します。第四十条、負傷時の身体と映像の扱い。人の負傷と死は、工程の遅れと相殺できる品目ではありませんので」
会議室の視線がひろしに集まった。昨日と同じだ。昨日と違うのは、断る理由を並べてくれる大人が隣にいることだった。
それでも、言葉にするのは本人の仕事だ。シオリは代わりに言わなかった。ひろしが机の下で一度だけ拳を握って、開くのを待った。
「……お願いします。保留で」ひろしは言った。「乗りたいです。今すぐ、乗りたい。工程が遅れるのも、艦のみんなに悪いのも分かってます。でも──ちゃんと読んで、直して、それから乗ります。あの機体に、長く乗りたいので」
シオリはその言葉を聞いてから判を動かした。長く乗りたいから急がない。契約法務のどの教本にも載っていない。だが──朝、当番表で会った名前を思い出した。トマトに毎日水をやる人の言い分だ。載っているどれより、正しかった。
シオリが鞄から出したのは長方形のずっしりした判子だ。
『公証保留』の四文字が契約書の表紙に朱色で捺された。
「良いお答えでした」シオリは言った。「恋をしている自覚のある人の署名なら、公証人はいつか喜んで判を捺します」
営業は投影の準備を畳んだ。署名の三十秒で走り出すはずだった光が走らずに畳まれた。営業は肩をすくめ、手帳を開いた。さっぱりした顔ではない。
「では、逐条交渉の日程を。……工程の遅れはうちの工場長への説明資料にまとめます。殴られるのは私なので、せめて日程は詰めさせてください」
*
散会後シオリは金庫から出された契約書の原本を受け取った。じっくり読むのは、契約を止めてからでいい。挟まれた十一枚の付箋を一枚ずつ確かめた。
「では、この十一か所から始めましょう。それと」シオリは第七十一条の頁を開き、そこだけ付箋の代わりに栞を挟んだ。組合の紋の入った正式の栞だった。「ここは、付箋では足りません。頁ごと書き直させます」
死後利用の条文の上で栞の紐がまっすぐに垂れた。
光速の広告は、まだ電光板の裏で待機している。だが、あと五日は走れない。シオリは鞄を閉じ、留め金をゆっくり二つとも確かめた。急ぐ理由は、今日もどこにもなかった。




