第28話 不利な初稿
朝いちの戦務解析から戻って間もなく契約協議が始まった。月極重工の営業は一〇〇〇ちょうどに来艦した。営業スマイルの男が一人と無言の秘書が二人。会議室には艦長、副長、セリーナ(志願士官として)、そして名指しされたひろしが並んだ。
今日の商品は、ひろしだった。
会議室の茶はイヴイヴが淹れた。頼まれてもいないのに、である。営業は一口飲んで二秒黙り、それから資料を投影した。
「気を取り直して。まず、悪いお知らせから。〈グランドリーム〉の完全修理見積もり。提示いただきました予算のおよそ十一倍です」
副長が拗ねたように艦長を見た。
「だから、もっとバリア使いましょうって言ったじゃないですか」
「だが、バリアしたら主砲が撃てなくなるじゃないか」
「どうせ撃ってないじゃないですか」
「チャージはしている」
「チャージは、防御に入りません」
営業は続けた。
「次に、もっと悪いお知らせ。応急修理だけなら予算内ですが、その状態で実戦投入はかなり危険です。保険屋ですら賭けを受けません」
「だが、手はあるんだろう? 本題を頼む」と艦長。
「では、ご提案を三つ」営業は指を三本立てた。
「その一。ウオモイ本国から量産機と部品を待つ。所要、四か月。敵も同じ四か月で守りを固めます。それと、停船料が日割りで積もります」
「日割り、ですか」副長の声が細くなった。
「日割りです」
「その二」
「セリーナ・ポリン=レイジョー様のご実家に全額をご負担いただく。レイジョー家の資産なら可能なはずです。当社としては即金大歓迎。ただし──」
「お断りしますわ」
セリーナの声は、扇子より硬かった。
「あら、即答」
「家の金は、家の口を連れてきますの」セリーナは真っ直ぐ前を見ていた。「レイジョー家が艦隊の財布になれば、次の日から作戦目標に『家の意向』が混ざりますわ。おばあさまは、艦隊の指揮権を買ったおつもりになる。アテクシは家の名誉のために志願しましたのよ。家の玩具にする艦隊のためではありませんわ」
言い終えたセリーナの指が、左耳の白百合に一度だけ触れて離れた。家の金は断る。家から受け継いだ本物は断らない。
艦長が短く顎を引く。副長は口を開きかけてやめた。「それに、レイジョー家にはすでに充分な支援をいただいている」と言い直した。営業は「ですよねえ」と軽く流す。断られるところまでが営業の台本らしかった。
「そこで、その三。──当社が全額を持ちます。完全修理、最優先工程。加えて」
投影が切り替わる。会議室の照明が落ち、暗がりに一機の人型機の設計図が浮かび上がった。
飾りのない機体だった。ウオモイ機のロマン装飾も、青星機の無骨さも、ない。ただ、立ち姿の線が──静かだった。
「試作最新鋭機、一機。当社の名工ネジマキ・ガンコが設計した特注品です。これを、そちらの『彼』に」
営業の指が、ひろしを向いた。
「……俺?」
「あなたです、ひろし・ただの二等兵。いえ──『白き死神に敗れて生き残った、あの顔のいい新兵』」
「その呼び方、やめてもらえます?」
「無理です。もう商標出願しました」
「商標!?」
「審査、通りそうです」
営業は笑顔のまま契約書の束を机に置いた。厚さが辞書だった。
「対価は、あなたです。詳細は全部この中に。──で、ここからが本日のお願いなのですが」営業は束の最終頁だけを器用に抜き出し、署名欄を上にしてひろしの前へ滑らせた。「本日中にご署名いただけますと、修理の工程が三日早まります。要点は今ご説明したとおりですので、あとはお名前を」
ひろしはペンを受け取った。署名欄の白さだけが吸い込まれるように明るい。
眩しい、というところでひろしの思考が止まっているのがセリーナには見えた。こうなった者はたいてい値札を見ない。値札より機体の絵を見ている。あの機体にもう乗ってしまっている。
セリーナは契約書の束を手前に引いた。最初の数頁──目次だけを扇子の先でなぞる。
「……目次に『利用』の字が、七回」
なぞる先が、ぴたりと止まった。扇子が署名欄の上に、ぴしりと置かれた。
「お待ちになって、ひろし。──条文を、頭から読み上げなさいな」
「全文ですか? 百三十七条ありますが……」
「百三十七条ともですわ。アテクシの家では、読み上げられない契約書は契約書ではなく、罠と呼びますの」
営業は艦長を見た。軍には急ぐ理由がある。艦長は腕を組んだまま、それでも扇子のほうへ頷いた。
「読み上げてもらおう。軍だけでなく、うちの兵の個人の問題だ」
読み上げは長くかかった。気になる条には、誰かの手で付箋が挟まれていく。
第十四条で機体の名前は月極のものだと確定した。正式名も、決め台詞も、会社が決めて会社が持つ。ただし一行、妙な但し書きがあった。操縦者が機体を何と呼ぼうと、どう話しかけようと、その声は本人のもの──つまり、あだ名は自由、らしい。
「……あだ名は自由って、条文に書くことですか」
「書いてあるんです。私も初めて読みました」
「変なの残すんですね」
取り忘れなのか、値がつかないと踏んだのか。セリーナはその一条にだけ自分の手で付箋を挟んだ。
第二十二条、広告利用。戦闘のたび機体のカメラ映像は当社の宣伝素材になる。月例の販促イベントに出席。撮れ高によっては戦闘中に指定の台詞。
「『この加速、月極重工』。短いでしょう?」
「短さの問題じゃない!」
「では長い版も。『夢の推力、心の馬力、月で見つけたこの威──』」
「長い! あと戦闘中!」
「短さの問題ではない、とうかがったので」
「第四十条。お怪我をされても治療費は当社が持ちます」
「そこはいい会社なんですね」
「ただし、怪我の映像と回復の記録は、『物語』として資産化します」
「撮るのかよ!」
第五十五条、途中でやめる場合の違約金。数字は艦の修理費と同じ桁だった。逃げ道は最初から売っていない。
勝てば映像。負けても物語。
「第七十一条。契約者の死亡時──」営業はそこだけ少し早口になった。「契約者の死亡時、その肖像、記録映像、機体名および『物語』の利用権は、期限を定めず当社に帰属する。遺族による異議申し立ては、第五十五条の違約金条項を準用し──」
「待った」
ひろしが、自分で言った。
セリーナの扇子が、音もなく開いた。
「それ、俺が死んだあとも、俺は広告なんですか」
「英霊は」営業は言いかけて、初めて笑顔の角度を修正した。「……定型条項です。軍用契約では一般的な」
「一般的かどうかは聞いてません。俺が死んだら、俺の『物語』は誰のものになるんですか」
「……当社のものになります。この初稿では」
初稿では、と営業は言い、言い直さなかった。秘書が二人そろって手元に何か書き込んでいる。会議室の静けさの中でセリーナの扇子だけがゆっくり畳まれた。
肖像。名前。死んだあとの物語。身体と名前のいちばん奥、魂にまで値札がついている。それを、たったいまひろしが自分の声で見つけた。
「読み上げてよかったですわね、皆さん」
ひろしはペンを置いた。置いてから、最終頁を指一本で営業のほうへ押し戻した。
*
署名は、保留になった。
艦長は「軍としての回答は、追って」と締め、営業は「工程の三日は、まあ、なんとかします」と笑顔を戻した。契約書の束は封をされ一旦は艦の金庫へ。百三十七条のうち、付箋の挟まった条は数えて十一。
イヴイヴが茶を下げに来た。営業の湯呑みだけが、ほとんど減っていなかった。
会議室を出る廊下でひろしは投影で見た機体の立ち姿を思い出している。まだ名前を聞いていない機体。乗りたい、と顔に書いてある。契約の十一枚の付箋よりあの絵のほうがこの新兵には重いらしい。セリーナには、それが少し危うく見えた。
「なあ、セリーナ。契約って、全部ああなのか」
「あれは、契約自体は悪い契約ではありませんのよ」セリーナの答えは意外だったのだろう、ひろしがこちらを見た。「悪い契約は、読ませませんの。最初に急かされたみたいに。あの契約書は──不利な契約。不利は、交渉で直せますわ。直す係が要りますけれど」
直す係。ひろしはその言葉を口の中で一度繰り返した。
「……その直す係、どうやったら頼めるんだ」ひろしは前を向いたまま言った。「七十一条からでいい」
セリーナは答えなかった。扇子の先が廊下の壁を一度だけ叩いた。
*
同じ日の午後。月極重工の第九工房で、ネジマキ・ガンコは自分が設計した機体の膝関節の締め付けを、指の感触だけで確かめていた。締めすぎず、緩めず。あるがままに動く一点。
機体にはまだ正式な塗装がない。飾りのない、ただ静かな立ち姿。名前は、ネジマキが最初に付けた。設計の間じゅう、その名で呼んで組んできた。だが、正式な名前は会社が決める。商品だからだ。広報部が考えた長くて勇ましい正式名称が、もう書類の上で待っている。ネジマキの付けた名は、どこにも載らない。
だから胸の内側の板に、小さく刻んだ。他人には見えない場所に。それがネジマキにできる精いっぱいだった。
正式名は会社のもの。だが、誰かがこの機体をあの名で呼ぶとき──その一瞬だけは、名がこの機体に戻る気がした。
第十四条の隅の、あの妙な但し書き。あだ名は、自由。法務は「意味のない条項ですが」と首をひねっていた。ネジマキは、何も言わなかった。
工房の壁の備品台帳にはこう記してある。『試作機一号。所有、月極重工。管理区分、貸出予定』。所有者の欄にネジマキの名前はない。あるのは会社の名前だけだ。
「……大切に、扱ってくれるといいがな」
ネジマキは誰にともなくつぶやいた。締め終えた膝関節がひとりでにほんの少し揺れて止まった。この機体の締め付けの、正しい手応えだ。それが、この機体がネジマキに返せる唯一の返事だった。




