第24話 助けた一人、逃がした一機
広報士官が満面の笑みで企画書を持ってきた。
表紙にひろしの名前が今まで見たどの文字より大きく刷ってあった。『英雄候補生、敵最強格を退ける』。主演、ひろし。
「……これ、俺が出るんですか」
「主演です。戦意は補給物資なんですよ。あなたの『退けた』が他の艦の百人を支えるかもしれない」
ひろしが欲しかった文章だ。壮行会の拍手が胸の奥で少し戻ってきた。成人式の日からずっと欲しかった種類の文章が表紙に印刷されている。
そのとき、整備区画の通路からヒロミが顔を出した。油で汚れた作業着で、切り離された自分の機体の右腕を載せた台車を押している。定規で切ったかのような鈍色の断面にひろしの顔が歪んで映った。
「私ね、あと半秒遅かったら腕じゃなくて胴だったって」
責める声ではない。事実を伝える声だった。しかしひろしには事実にそっぽ向かれる音に聞こえた。
「──企画なしで」ひろしは広報士官に向き直る。「その腕を画面から消して、勝ったことにするなら俺は出ません。勝ってない。退けてないものは退けてないです」
「素材が正直すぎる……」広報士官は本気で悔しがり、それから何かを思いついたように目を輝かせた。「では、『敗北から立ち上がる英雄候補生』の路線で」
「どうやっても記事にするんですね」
「広報ですので」
*
巡回任務から二日目、第二格納庫でひろしたちは集まった。
言い出したのはヒロミだった。修理中のドリーマー二機の足元に工具箱を椅子代わりに並べ、戦闘記録を小さな投影機で流す。集まったのは、ひろし、ヒロミ、セリーナ、観測手として同席するルイ、そして、頼んでもいないのに紅茶を配り始めたイヴイヴ。
「反省会ですの? 軍には査問という制度がありましてよ」
「査問は『誰が悪いか』を決める会でしょ。これは『次どうするか』の会。別物だよ」ヒロミは映像を止めた。白銀の機体がセリーナの三射目の射線を閉じた瞬間だった。「まずここ。セリーナさんの一射目と二射目、無駄じゃない」
「……慰めなら、結構ですわ」
「慰めじゃなくて、記録。一射目、敵は回避に全推力の……ルイさん、数字」
「六割。二射目は、七割を使っています」ルイが引き取った。「お嬢様の狙撃は、当てられませんでしたが、敵の機動力を削り続けました。あの二射がなければ、もっと早く詰んでました」
セリーナの縦ロールが少し持ち上がった。
映像が巻き戻って最初の一撃になる。マストが飛んだ直後、ひろしのドリーマーだけが反撃を出していた。当たっていない。だが、出ている。
「反応が異常に早いです」とルイが投影の数字を指した。「ヒロミ様の言葉を信じて、先に準備していたのですね」
「勘っていうか……来るなら来い、とは思ってた」とひろし。「そのあとは、見えてる、いけると思ったんだけど。……いま映像で見ると、俺、避けるように、構えるように、誘導されてたんだな。気付いたら両腕なかった。──次は、いけるって思ったときほど、一拍だけ考える。相手が俺に、何をさせたがってるか」
「艇にも、次があります」ルイが映像の隅を指した。片腕になったヒロミの機体を拾いに動き、推進部を斬られる哨戒艇が映っている。「動けない艇は盾になれず、動いた艇は推進を失いました。あの位置に艇がいた時点で、正解がありません。次は、艇の位置から決め直します」
「今日の結論」ヒロミが映像を消した。「全員の分が一個でも欠けてたら、誰かが、帰ってきてない」
工具箱の輪が静かになる。数字と映像で並べられると、反論の余地がなかった。二機と一艇は、ばらばらのまま、辛うじて一つの仕事をしていた。ばらばらのままで。
「──次は、最初から役を決めますわよ」セリーナが扇子で投影を指した。「索敵と早期警報は、ヒロミさんとイヴイヴ。アテクシは後衛から敵の機動を削る。前衛で無茶をするのは、そこの水やり係。異論は?」
「──一つ、抜けてる」
工具箱の輪の外から声がした。
軍服を着崩した女が立っていた。四十前後。上着の前を開け、袖を肘までまくり、重心は最初から片足にある。気だるげで、目つきは悪く、口の端だけで笑う。立ち姿のどこにも力が入っていないのに、隙がどこにも見当たらなかった。階級章は軍曹。左手に、塗装の剥げた真鍮の数取器。
カチ、カチ、カチ。女は三人を順に指すかわりに親指で三度鳴らした。
「前に三人並べて、後ろが空だ。誰が数える」
「数える?」とひろし。
「帰りをだよ。出るときの数と、帰るときの数」女は数取器を手の中で一度回した。「合わなくなったとき、いつどこで合わなくなったかを言えるのが、後ろの者の仕事だ」
「……あなた、どちらさま」
「セッテイ区出身、リー・シンガ軍曹。今日づけで、あんたら三人と私で一個小隊だ。あんたたちの隊長さ、番号は第七。辞令はもう出てる。読んでないだろ」
「読んでません」と三人が揃った。
「読め」
リーはその場の三人に紙をまわす。待っている間低い声で四小節ばかり鼻歌をやっていた。どこかで聞いたような、聞いたことのない節だ。数取器が拍子を取るように鳴った。
「哨戒は退屈だ。二十年やった。退屈は人を殺す。数え忘れるからな」
「そのように歌わないとだめですの?」とセリーナが本気で嫌そうな顔をした。
「歌えとは言ってない。数えろと言ってる。──四拍で、四人だ。覚えとけ」
「セッテイ区の奴らはやたら数えたがるよな、訓練の時のモリバンがそうだった」
「数は大切なことだからな」
「大切です」とイヴイヴも同意した。
「艇の二人は数えませんの?」
「艇の勘定は艇長の仕事。私は私の四つを数える」
解散間際、ヒロミが「あのね」と言った。言ってから、長い間があった。投影機はもう消えていて、格納庫の非常灯だけが六人の顔を薄く照らしている。
「私、戦闘中に……妙な気持ちになる瞬間があるの。撃墜判定が出た的とか、逃げる敵とか。もういいのに、今じゃないのに、まだ! って」ヒロミは自分の右手を見た。「その瞬間だけ、その方が正しい気がしちゃうの。怖いのは、そこ。だから、もし私が、追う側の機動に入っちゃったら──止めて。通信で名前を呼んでくれたら、たぶんそこで踏みとどまれるから」
ひろしは白銀との戦いを思い出した。ヒロミの機体が逃げる軌道でなく追う軌道に入りかけ、『だめ』と自分に言って、戻った、あの半秒。あれは癖ではなかった。ヒロミが自分で自分を止めた半秒だ。
「承知しましたわ」と意外にもセリーナがあっさり言った。「自分の危ない癖を自分で調べて、対策まで用意して、口に出して頼む。アテクシの家庭教師なら『それを教養と言います』と申しますわ。制御できない人間は嫌いですけれど、制御しようとしている人間は、別ですもの」
「いい報告だ」とリーが最後に言った。「癖は、隊で持つ物だ」
それだけ言って、リー隊長は回れ右をした。重心を片足に預けた、軍人らしくない立ち姿に回れ右は妙に似合っていた。
「イヴイヴより、連絡事項があります」紅茶を回収しながらメイドが言う。「本艦隊の次の寄港地は、中立月面都市ドッチモールです。──なお、同じ通達によると、青星軍は、テッテ・イテキ大佐の艦隊を中核とする追撃部隊を編成した模様。会敵予想は、月面到達の、少し前です」
*
会敵警報は月まであと半日の宙域で鳴った。
『テッテ・イテキ艦隊、後方より接近。数、巡洋艦三、駆逐艦六、艦載機多数。──規約どおりの追撃陣形です』
「規約どおりって、分かりますの?」
『向こうが通告してきましたので。「青星航宙規約第四章に基づく追撃を開始する。陣形は同章別表二の三」だそうです。別表まで教えてくれる敵、真面目ですね』
几帳面を絵に描いたような布陣だ。そして几帳面は強かった。別表二の三は逃げる艦隊の選択肢を一つずつ潰しながら距離を詰める減点方式の網だった。
〈グランドリーム〉は艦載機を上げる。修理と再装填を終えたドリーマー二機と哨戒艇もその中にいる。先頭は第七小隊長リー・シンガの機体。訓練機ではない。月の実戦部隊が使う量産機で、候補生たちはまだ型の名前も知らない。本人は『拍子木』と呼んでいる。
『前衛、ひろし』
「……で、俺は何をすれば」
『敵がこちらの想定外を撃ってきたときに対応してください。遊撃ですね』イヴイヴが前日の打ち合わせを読み上げた。『それまでしてはいけないことを一つ。単独深追い禁止。──貴方が深追いをすると、リー様の数が合わなくなりますので』
「……規則より効くな、それ」
『それと──ヒロミ様が追う側の機動に入ったら名前を呼ぶ。これは、昨夜、皆様が決めたことです。私は確認しているだけです』
カチ、カチ、カチ、カチ。回線の後ろで数取器が四度鳴った。
『第七、四。行きの数だ』
戦闘は削り合いになった。
テッテ隊の艦載機は三機一組の教本編隊で、正確に、執拗に、ウオモイ側の護衛網を剥がしにくる。ヒロミの警告が二度、包囲の芽を摘んだ。セリーナの狙撃は宣言どおり当たり始めた。遠距離から敵編隊の要の位置だけを撃ち抜くので、敵は組み直しのたびに足が止まる。
『右上、三機! 五秒でセリーナさんの死角に入る!』
ヒロミの声にひろしは敵編隊の先頭へだけ機首を差し込み、深追いせずに反転した。割り込みを避けた二機が同じ方向へ重なる。重なった二機の間をセリーナの一射が抜いた。三機が三方向へ散る。
「順調、順調」
ひろしが言いかけたところでヒロミの声が跳ねた。
『左舷後方、味方機被弾! 二番艦の護衛機──推進をやられて、機体ごと流されてる!』
見えた。煙を引いて急速に流れていく味方の機体。その先に、もう一つ見えたものがある。混戦を抜けて、単機で月方向へ加速していく敵の小型機。艦隊の隊列にも戻らず、戦闘にも加わらず、ただ、速い。
『先遣偵察機だな』とリー隊長。セリーナの声が硬くなった。『こちらの損傷状況と航路を、持ち帰る気ですわ。アテクシは届かない。撃てる位置にいるのは──前衛、貴方だけ』
ひろしは計器を見た。今は撃てる距離じゃないが、追えば届く。単独深追いに入らないぎりぎりの線で、撃てる。ただし追えば、救助は捨てることになる。──撃ちたいと思った。速い光点が逃げていく。逃がすな、と体の芯が言った。追え。追えば間に合う。喉の奥で、短い息が笑いかけた。
漂流する味方の軌道を見た。推進は全損、姿勢制御も応えていない。機体は煙を引いたまま、戦域の外へまっすぐ流れていく。外へ出れば、この混戦では誰も追えない。見失えば、宇宙で見失うということだ。中に人が一人。まだ生きている。だが、このまま流れれば確実に死ぬ一人。
偵察機は、まだ誰も殺そうとしていない。持ち帰ったデータで、いつか誰かが撃たれる、かもしれない。かもしれない、だ。片方は、いま確実に死ぬ。片方は、あとで、たぶん、誰かが。──二つを載せる目盛りが、なかった。
両方は、できない。
「……くそ」
追え! 撃て! という心の声を、ひろしは自分で止めた。名前を呼ぶ者はいなかった。だから、自分で呼んだ。ドリーマーを偵察機と反対へ向けた。いま確実に死ぬ一人を、あとで撃たれるかもしれない誰かより先に取る。それが正しいのかは分からない。分からないまま、ワイヤーの照準を漂流機に合わせた。
「第七小隊、前衛は味方機を牽引する! 偵察機は──誰か、頼む!」
『届かん』リーの声は即答だった。『だが──牽引、続けろ』
分かってはいた。誰も、間に合わない。
『偵察機から、送信の兆候』ヒロミが報告した。『中身は読めない。方角だけ』
偵察機の光点は月の陰へ消えた。今日うまくいった戦い方が次に会う敵の教本へ書き足されていく。それが分かっていて、ひろしはワイヤーを撃ち味方の命を掴んだ。煙を吹く味方機に間近まで寄る。風防の内側、計器の脇に子供の写真が貼ってあるのが見えた。
『こちら護衛機……すまん、恩に着る! あんた、どこの隊だ』
「第七小隊。水やり係」
『は?』
牽引したまま戦域を横切るドリーマーをセリーナの射線が黙って見守った。
*
偵察機が月の陰に消えてから二時間ほど後のことだった。
追撃はまだ続いていた。テッテの網は数字どおりに縮み、〈グランドリーム〉は月中立圏へ向けて逃げ足の計算を続けている。その最中に別方向から合流予定だった補給部隊の悲鳴が艦隊通信に飛び込んできた。
『こちら第三補給小隊! 合流点手前で、迎撃を受けている! 敵は──なんで、ここが分かった!?』
旗艦に戻り待機しているひろしの共有表示に新しい赤点が灯った。合流航路のど真ん中。知らなければ敵がそこへ先回りできるはずがなかった。
「なんで、って……」
ひろしは訓練機の待機席で答えの候補を一つだけ思いついてしまっていた。二時間ほど前、月の陰へ消えた光点。こちらの針路や速度から目標地点は計算で出る。推測ではなく確証を与えてしまっていた。
『第七小隊、発進。第三補給小隊の離脱を支援』
『第七、四』リーの声が最後に乗った。殿の位置からだった。『出る』
現場は嫌な戦場だ。
敵は多くなかった。多くないが、迷いがなかった。合流点に先に着いて、待っていた戦い方だ。どの機が護衛で、どれが輸送艇か、確かめる素振りもなく、初撃から要所だけを撃ってくる。ヒロミが三度警報を出し、三度とも、敵は警報の裏を、かいた。
『……観測記録に、嫌な一致があります』ヒロミの声は硬かった。『敵は、今日の合流点も、時刻も、こちらの編成も、先に持っています。だから、迷わない。──さっきの偵察機の、答え合わせです』
ひろしは前衛の仕事をした。想定外を、想定外で返す仕事だ。敵が知っているのは、偵察機が見たときのこちらだ。そのとおりに動くと見せて釣り、釣れたところをセリーナが抜いた。網に穴が開き第三補給小隊は輸送艇を庇いながら離脱に成功する。
成功した。が、収支は隠しようがなかった。護衛機三機が撃たれ(乗員は三人とも脱出、うち二人が重傷)、輸送艇は通信区画に直撃を受けている。外部コンテナは半分が宙に散り、中身は、艦隊の交換部品と、二週間ぶんの生鮮食料だった。
『第三補給小隊より各隊。輸送艇の通信区画被弾により、通信士一名負傷。以後の中継は、予備系で行う』
帰りの隊列でリーがまた数えた。『第七、四。帰った』。淡々とした、行きと同じ調子だ。そのあと少し間があって、『第三補給、』と言いかけて、やめた。数えるのは自分の隊だけだ、と決めているらしい。決めていても、口は動きかける。
それきり回線は静かになった。静かになった回線に低い鼻歌が流れはじめる。四拍の、あの節だ。誰かに聞かせる声量ではない。誰も指摘せず、誰も回線を切らなかった。旗艦の灯りが見えるまで、それは続いた。
*
帰艦した空気は前の戦闘のあととは質が違った。
誰も、ひろしに直接は言わなかった。直接は。だが、食堂の列で背中に届く声量の会話はあった。
「──偵察機、撃てたらしいぜ。前衛の位置からなら」
「救助を選んだんだろ。目の前の一人と引き換えに」
「その一人はうちの隊員だ。文句あるのか」
「ないよ。ただ第三補給小隊はあの偵察のデータで先回りされたって話だろ。負傷者も出てる。それも本当なんだろ?」
「確定した話じゃない。……まだ、な」
まだ、が付いた。本当かもしれないこと同士がぶつかる音をひろしはトレイを持ったまま聞いていた。
列の前の方から大柄な男がのそりと歩いてくる。昼間、ひろしが牽引した護衛機のパイロットだ。コクピットに子供の写真を貼っていた年かさの伍長。
「おい、新兵。名前聞いてなかったな」
「ひろし・ただの、です」
「エル・イエニカ。伍長だ」
「ありがとうな、オレからはそれだけだ」
それだけ言って、伍長は自分のトレイに大盛りの飯を積んで行ってしまった。コクピットに子供の写真を貼る男の、背中だった。
*
その夜、ひろしはヤミノへの定期データ便に、今日のログを添えて短い文を書いた。
『問題。目の前の一人と、あとで撃たれるかもしれない誰か。前衛はどっちを取るべきか』
返信は翌朝までに来ていた。左手の読みにくい字をわざわざ画像で送ってきていた。
『解なし。あるのは、選択のみ』
ひろしは端末を閉じて寝台に転がった。助けた一人の名前はイエニカ。逃がした一機の名前は知らないままだ。撃たれた通信士の名前も知らない。考えはそこで止めた。
*
月に着いて三日目の朝、第七小隊は副長に呼ばれた。
艦を降りた先の、ウオモイ軍が借りている事務区画だった。机の上に、綴じられた書類が一部。副長はそれをまずリーへ渡した。リーは表紙だけ確かめて、三人の前へ置き直した。
「戦務解析の結果だ。公式報告には、まだ『調査中』としか載らない。確定していない扱いだからだ。だが、解析班の数字は、もう出ている」
書類は解析結果だった。偵察機が月の陰へ消えてから、敵側宙域に赤い点が灯り、第三補給小隊が撃たれ始めるまで。並んだ時刻は、読む者の希望をどこにも挟めない間隔で、一本につながっていた。敵は合流の位置と時刻を先に知り、待っていた。その位置と時刻を割り出せる数字を持ち帰れたのは、近くで現物を見た者だけだ。
「つまり」ひろしは言いかけて、考えて、言葉を選び直すのをやめた。「俺のせいで、第三補給小隊が先回りされた」
「書類の言い方では『偵察機が高い確度で寄与した』だ」副長は訂正しただけで否定はしなかった。「言っておくが、これを見せるのは処分のためではない。救助の判断は戦術上適正、と艦は既に結論している。偵察機を阻止できた位置にいたのは前衛一機だけで、その前衛は救助を選んだ。両方できた者はどこにもいない。それも結論している」
「じゃあ、なんで見せるんですか」
副長は書類を指で叩いた。「公式の紙には確定したことだけが載る。現場の記録には、現場が知るべきことが載る。おまえたち第七小隊は、この因果の現場だ。持っておけ」
沈黙のあとヒロミが小さく手を挙げた。
「あの。負傷した通信士の方は、いま、どこに?」
「月の共同医療棟だ。面会は、規定の申請が要る。行けとは言わん。行くなとも、言わん」
*
面会申請の書式は一枚だった。
氏名、所属、面会相手、そして、理由の欄。ひろしは詰め所の机で理由の欄の前に五分、座っていた。
謝罪、と書きかけてやめる。書きかけの一文字を線で消して、消したところで隣から扇子が伸びてきて書式を取り上げられた。
「貸しなさいな。……謝罪と書いて行くのは、楽をしに行くのと同じですわよ。謝って、許されて、軽くなって帰ってくる。それは見舞いではなくて、ただの貴方の心の洗濯ですわ」
「じゃあ、何て書けばいいんだよ」
「知りませんわ。アテクシは自分のぶんを書きますの」
セリーナは自分の書式の理由欄に迷いのない字で『交戦記録の事実確認のため』と書いた。ヒロミは『観測記録の照合とお見舞い』と書いた。ひろしはもう五分座ってからこう書いた。
『救助を選んだ本人として』
受付の下士官は三枚の書式を眺め、ひろしの一枚だけ二度読み、何も言わずに受理印を捺した。
*
共同医療棟の廊下で、一人すれ違った。第三補給小隊の袖章をつけた若い兵だった。腕に、脱出のときのものらしい火傷が赤く残っている。相手はひろしたちの第七小隊の袖章を見た。見て、それだけ。非難も、挨拶もなにもなかった。ただ、すれ違って振り返らない。
ひろしには、その背中のほうが食堂のどの声よりも応えた。責める声には、まだ、言い返す言葉を考えられる。口をきかない背中に、かける言葉がなかった。
*
共同医療棟の面会室でその人は待っていた。
小柄でまだ二十歳そこそこに見える下士官だった。頭の右側に包帯が回り、右耳のあるあたりで膨らんでいる。膝の上に画板のような板を載せていた。板には紙が挟まれ、紙には升目が印刷されていた。
「第三補給小隊、三等通信士カキトメ・タシカです」
声で名乗ってから彼女は板を持ち上げて升目の一行目を指した。そこには、几帳面な字であらかじめこう書いてあった。
『右耳、聴こえません。左耳は、耳鳴りで不安定。当面、筆談でお願いします。話すのもまだ不安定なので書きます』
「あ、えと、ひろし・ただの、です。第七小隊の前衛で」
言ってから板の升目を借りて同じことを書く。
カキトメは三人の名乗りを順に読み、行ごとに発言者の小さな印を書き、それから新しい行に書いた。
『申請書、見た。「救助を選んだ」、あなた?』
「……はい」
口で言いかけて、この部屋の書式を思い出し、丁寧に升目に書いた。
『偵察機を撃たなかったのは私です。味方一人の救助を選びました。その代わりに、偵察機の数字が敵へ渡り、この病室につながっています』
ひろしは書き終えた板を両手で返した。カキトメは升目を最後まで読み、それから、すぐには書かない。ペン先が、次の行の上で、止まった。止まったまま、たっぷり間があった。
板の少し上の行に一度書いて線で消した跡があるのにひろしは気づく。ひろしが来るより前に、書いて消したものだ。何を書いて何を消したのかは、升目の潰れ方からは読めなかった。筆談にも、ためらいの音は残る。
やがてカキトメは、書いた。
『耳を撃ったのは砲撃。あなたではない』
ひろしに見せたあとカキトメは続けて書いた。
『──耳は砲撃のせい。砲撃は偵察機のせい。偵察機は味方一人の命と引き換え。つまり貴方のおかげで耳ですんだ』
カキトメはそこでようやく笑った。
板が回ってくる。ひろしは升目を三回読み、言葉をつなげなかった。何か言おうとして、声にならない。カキトメはひろしから板を奪い、続けて書いた。
『わたしの耳です。どう感じるかも、わたしのものです』
『あとは──大事なことほど伏せる。サスペンス区の習い』
セリーナは扇子を開きかけて、閉じた。事実確認は、もう済んでいる。ヒロミが持参した観測記録の写しをそっと板の脇に置いた。カキトメは一枚ずつめくり、めくり終えて書いた。
『記録うれしい。偉い人は花。花は、聴こえないことと、関係がない』
「お花も、いちおう」ヒロミが唇をおおきく動かしながら袋を掲げた。
『花は、減点しない。加点も、しない』
面会時間の終わりにカキトメは板の最後の行にこう書いた。
『次は、雑談に来て。雑談の面会は、リハビリの成績に加点』
*
帰り道、月の借り区画の廊下は艦の廊下より天井が高かった。
「……重いなあ」
「重いですわよ、当然」セリーナが扇子を畳んだ。
「……でも軽くもなった」ひろしは天井の高い廊下を見上げた。「彼女のケガはすぐに治らなそうなのに、俺だけ、すぐ軽くなって帰るのか……」
セリーナは少しのあいだ黙っていた。
「心の洗濯には、ならなかったようですわね……」扇子の先が、ひろしの胸を軽く突いた。「許されたのに、それを気持ち悪がっている。──その心、濡れたままお持ちなさいな。乾かさずに」
「……はい」
「それと忘れないことね。許した人と許さない人と、両方、この先も艦にいる。両方、抱えて歩きなさいな」
助けた一人の名前は、エル・イエニカ。撃たれた通信士の名前は、カキトメ・タシカ。逃がした一機の名前はこれからも、きっと知らないままだ。
負傷者や要救助者、加害者や被害者、そんな言葉より、名前がいい。ひろしは改めてそう心に書き留めて仮初の家に帰る。




