第23話 報告書二行目
夜、セリーナ・ポリン=レイジョーは自室の机に任務報告書の用紙を広げていた。
報告書は、日時、隊編成、経過、結果、所見。結果の欄は三行。たった三行だ。アテクシの家では、と、セリーナは万年筆の蓋を外しながら思う。家庭教師はいつも言ったものだ。「レイジョー家の文章に、敗北という単語は、存在いたしません」
一行目はすぐに書けた。
『当隊は巡回中に敵エース級一機および追撃隊との交戦を経て、全隊員の生還をもって帰艦した』
嘘ではない。一文字も嘘ではない。交戦はした。全員生きている。帰ってきた。家に送る手紙ならこの調子であと十行は書ける。「アテクシの狙撃は五発全弾命中」──これも事実だ。白銀のエースが去ったあと青星艦隊に包囲され、拘束用のアンカーが五基。その五基を残った五発ですべて撃ち砕いた。第一波を単独で退けた。「旗艦が迎えに来るほどの活躍」──事実の並べ方として、満点。
二行目で筆が止まった。
止まったまま一時間。ペン先を当てたままの一行目の下に小さいインクの染みが広がった。
*
扉が叩かれたのはそのころだった。開けるとヒロミが立っていた。手には帳面。
「セリーナさん、報告書って書いた? 私、経過のところの時刻が自信なくて……って、まだ白いね」
「……一行、書きましたわ」
ヒロミは机の上の一行を失礼にも読んだ。読んで、何も言わずに、自分の帳面を開いて、隣に置いた。
『敵包囲完成予定七二〇秒、救援到着予定一二〇〇秒。残弾五。敵射出アンカー五基撃墜後、残弾〇。経過約一二〇秒。結論、自力の手段は尽きていた』
几帳面な字でそう書いてある。アテクシは観測狙撃手ということになっている。観測していたのはヒロミさんのほうだった。
数字は、残酷だった。
五発全弾命中。それがどうした、と数字は言っていた。詰んでいた。
「ヒロミさん。貴女、これを報告書に書きますの」
「書くよ。わたしが見たことだから」
「怖くありませんの。自分の隊の『敗北』が軍の書類に残りますのよ」
ヒロミは少し考えて言った。
「書かない方が怖いよ。次も、同じ穴に落ちるから。……あと、負けたのに全員生きてるのって、それはそれで、ちゃんとすごい記録だと思う」
*
ヒロミが帰ったあと入れ替わりにルイが来た。夜食の載ったトレイを片手に執事の完璧な姿勢で。
「お嬢様。考え事と伺いましたので糖分を」
「ルイ。……ひとつ、聞きますわ」
セリーナは一行目を指した。
「この続きに、本当のことを書いたら、家はどうなさると思って?」
ルイはトレイを置き、一行目を読み、それから主より先に答えを持っていた顔で言った。
「ご当主は激怒なさるでしょう。奥様は寝込まれ、広報顧問は火消しの文案を大量ご用意なさる」
「でしょうね」
「ですが、我々は」ルイは背筋を伸ばしたまま、声だけ半歩、近づけた。「お嬢様が成功をお書きになっても、失敗をお書きになっても、同じようにお仕えします。お守りするのが、うちの仕事でございますので」
「……下がってよろしくてよ」
「はい。糖分はおとりください」
*
一人に戻ってセリーナは万年筆を取り直した。
二行目。ペン先を紙に当てる。当てて動かない。家庭教師の声がした。レイジョー家の文章に敗北という単語は存在いたしません。──存在しない単語は書けない。書こうとすると指が止まる。一度書きかけた。『当隊は健闘したが』。健闘。便利な言葉だ。負けたことを頑張ったことにすり替えられる。射撃大会で三位だった年も、家への手紙では『上位入賞』と書いた。セリーナはその一行を線で消した。健闘ではない。アテクシたちは、詰んでいた。ヒロミさんの帳面がそう言っている。頑張りでは埋まらなかった穴だ。
もう一度ペン先を当てた。今度は動かした。
『ただし、上記の結果は当隊の実力によるものではない。当隊は敵の包囲を打開できず事実として敗北していた。生還をもたらしたのは、艦の救援と、当隊の力によらない複数の要因である』
書いてみると手は震えなかった。震えたのは書く前だけだった。
結果の欄は三行書ける。だが二行で足りた。一行目の事実と二行目の訂正。それで結果は言い尽くしている。家に送る手紙なら十行は埋める欄を二行で閉じた。
三行目は、空けた。
筆を所見の欄へ移す。
『所見。狙撃だけでは勝てなかった』
そこで蓋を閉めかけて手が止まった。
あの通話のことを書くかどうか。相手は命の恩人で、正体不明で、敵のエースに電話をかけた、メイドだ。書けば恩を仇で返すように見えるかもしれない。書かなければ──アテクシの報告書は家に送る手紙と同じものになる。事実の都合のよい並べ方に。
万年筆の蓋をもう一度外した。所見の欄の続きにもう一行書き足した。
『所見追記。交戦中、当隊の臨時通信員による艦外通信が一件発生した。経路は不明であり、艦の情報が漏洩した可能性を否定できない。当該通信は結果として当隊の生還に寄与した』
読み返す。レイジョー家の文章に存在しないはずの単語が堂々と書いてある。おまけに恩人を保安部に売るような一文まである。家庭教師が卒倒する報告書だ。広報顧問なら破り捨てる。……でも、ヒロミさんの数字の隣に並べて恥ずかしくないのはこの版だった。
*
その報告書がそのままの形で艦の外へ出ることはない、と知ったのは翌日の午後だった。
セリーナは会議室に呼ばれた。
長机の向こうに、副長、広報士官、保安主任トジマリ。手前に印刷されたばかりの書類が一部。表題は『巡回任務に関する公式報告(案)』。セリーナが呼ばれた理由は末尾の署名欄に観測狙撃手の名が要るからだった。
「先にお読みください」広報士官が言った。昨日までの笑顔に徹夜の跡が透けている。この男がこのところ負け続けているのは艦内の噂だ。編成表の不備で始末書が一枚、塗装の件では苦情が山、という噂だった。極めつきに目玉の企画が今朝潰れた。
英雄特集。主演、ひろし。表紙にはフツー区の星が敵最強格を退けたと刷ってあったという。その企画にひろし本人が「なし」と言った。ヒロミの機体の断たれた右腕の断面を持ち出して退けていないものは退けていない、と。──セリーナはその話を今朝ルイから聞いている。聞いて少し悔しかった。退けていない、と同じ観測をアテクシも昨夜一人で報告書の所見に書いている。あの水やり係はそれを今朝、広報士官の目の前で口で言ってのけた。
この公式報告はその広報士官にとって久しぶりの勝てる書類のはずだった。
セリーナは読む。
うまい文章だった。それは、認めざるを得なかった。訓練途上の候補生二名と随伴の哨戒艇が敵エース級の襲撃を受け、適切な判断と連携で持ちこたえ、旗艦の救援により全員生還。敗北という語は、どこにもない。嘘も、どこにもない。事実の並べ方として、満点。アテクシの家の広報顧問が書いたと言われても信じる出来だった。
だから、欠けている一文にすぐ気付いた。
「……アテクシの所見追記がありませんわね」
「はい」広報士官は隠さなかった。「削らせていただきました」
「理由を伺いますわ」
「三つ、あります」彼は指を立てた。「一つ。『漏洩の可能性』は未確定です。未確定の可能性を公式文書に書けば読んだ者は確定と受け取ります。二つ。当該事案は保安部の継続調査中で、調査中の事案の詳細は公式報告に載せない規定です。三つ」
彼はそこで少しだけ言いにくそうにした。
「この報告は艦の外へ出ます。艦隊司令部、広報、そしていずれご家族の目にも触れる。三人が生きて帰った話に、『敵に何かが漏れたかもしれない』という一文を添える利益が私には見つけられませんでした。──検閲のつもりはありません。書式と配慮です」
筋は通っていた。腹立たしいことに、三つとも正論だ。セリーナは書類を置き署名欄を見た。万年筆は持ってきている。ここに名前を書けば会議は五分で終わり、公式の物語は完成、家庭教師も広報顧問も満足する型どおりの一枚が艦の外へ飛んでいく。
昨夜のアテクシ自身が悩んで書いたのだということを、除けば。
「一つ、確認しますわ」セリーナは言った。「この公式版に署名した場合、アテクシの原文の所見はどこに残りますの?」
「保安部の調査記録に残る」トジマリが答えた。「調査資料としてだ。ただし調査資料は調査が終われば要約されて、原文は保管庫行きになる。探せば、ある。探さなければ、ない。そういう場所だ」
「探さなければ、ない」セリーナは繰り返した。「つまり公式には、アテクシは『漏洩の可能性を観測しなかった者』になる。署名ごと」
「そうなる」
セリーナは万年筆を胸元に戻した。
「署名は、いたしませんわ」
会議室の空気が固まった。広報士官が疲れた目を瞬かせた。
「……レイジョー家のご令嬢が、公式文書への署名を、拒否なさると」
「ええ、そうよ。家中が卒倒する話でしてよ」セリーナは扇子を開いた。開いた扇子の陰で自分の声がいつもの高さのままだったことを確かめた。「アテクシは昨夜、観測したものを書きましたの。所見を公式版から外すこと自体には、抗議いたしませんわ。理由は、通っておりますもの。ですが、外した版に、外された当人が署名するのは、話が別。──アテクシの署名は、アテクシの観測に付きますの。艦の都合には、付きませんわ」
沈黙のあと、先に口を開いたのは、副長だった。
「保安主任。規定上、公式報告に、現場士官の署名は必須か」
「必須ではありません」
「……それは、規定にあるのか」副長が聞いた。
「今朝までは、ありませんでした」トジマリは様式を机の中央に置いた。今朝。──セリーナは気づいた。この人は昨夜のアテクシの原文をもう読んでいる。「権限台帳と、同じです。なかったので、作りました」
副長は一読し、決裁印を出した。本艦の恒久様式として──以後、削除に同意の取れない所見はすべてこの形で別綴じにする。
広報士官は長いことその紙を見つめてから頷いた。負けを認める頷き方ではなかった。
「公式版に一行入ります。『所見別綴じあり・艦内保管』」
「開かせるために、書くのですわ」セリーナは万年筆を取り直した。「そちらはどこに署名すれば、よろしくて?」
末尾の署名欄は、空のまま。あそこに署名すれば、削られた版の全体に判を捺すことになる。代わりに署名は二か所。公式版の経過欄に一つ──アテクシが観測した事実の範囲に。別綴じの所見原文に、一つ。セリーナは釈然としないまま二つ目に名前を書いた。外に出る物語は、変わっていない。
*
同じ会議の後半でもう一件の議題が処理された。
イヴイヴの継続審査だった。乗せ続けるかは、昨夜のうちに決まっている。決まっていないのは、彼女が何であるかだった。
議題の資料に、一枚、古い書類が綴じられていた。表題は『人員所属照会:イヴイヴ(人事名簿該当なし)』。余白が判子で一周していた。『補給部→医務室の応援では』『医務室→士官食堂では』『士官食堂→広報の付き人では』『広報→レイジョー家の従者では』。そして、その隣に見覚えのある直筆があった。
『レイジョー家→断じてうちの子ではありませんわ』
アテクシの字だった。数日前、この照会が回ってきたとき、アテクシはそう書いて突き返した。突き返した先で照会は艦じゅうをもう一周し、誰の部下でもないことだけを判子の数だけ証明して戻ってきている。
トジマリが綴じられた資料を順に読み上げた。
サスペンス区への出身照会の返事も綴じられていた。回答欄に一行、『ネタバレ禁止です』。区の公印つきだった。会議室に、ああやっぱり、という空気が流れた。やっぱり、と思っても、所属の欄は埋まらない。断り状は回答ではないのだ。
アテクシの所見追記が、資料の一つとして読み上げられた。恩を仇で返すように見えるかもしれない、と昨夜のアテクシが恐れた一文。役に立ったとは思えなかった。漏洩の可能性を書き残したぶん、あの発信経路への疑いは正式に消えずに残った。アテクシの一文があのメイドへの調べを一日ぶん長引かせたのかもしれない。それも、記録を残した責任のうちだった。
結論として「条件付き配置」が承認された。所属欄は艦長直轄・臨時。職務は通信補助および艦内支援。
「家政部では、ありませんのね」
セリーナが聞くとトジマリは真顔で答えた。
「家政部は作らん。作ると、あれが部長になるだろうが」
会議が終わり書類が綴じられた。公式の一枚と別綴じの一枚は同じ紐で結ばれて同じ箱に収まった。
*
会議室を出ると、廊下にイヴイヴが立っていた。配置決定を伝えられたところらしく胸元に真新しい名簿記載票を持っていた。
「セリーナ様。審査の席で、私の申告書に、言及があったと聞きました。貴女の所見も、私の申告と、内容が一致していたそうです」
「……それが、何か」
「一致した記録はよい記録、信憑性が増します」メイドはほんのわずかに頭を下げた。
よい記録。──アテクシは漏洩の可能性として書いた。貴女を保安部の調べに差し出すように。それをよい記録と呼ぶ。セリーナはどこか罪悪感を覚えたままだった。
「貴女は、正しい紙を書きます。次の紅茶は、濃いめにお淹れします」
「な、なんですのそれ?」
「配合の、調整です」
遠ざかる背中を見ながらセリーナはふと思った。彼女はアテクシの好みを知っているのだろうか。セリーナは扇子で口元を隠した。




