第22話 成功した違反
帰還航行の艦内は生還の空気で緩んでいる。
廊下ですれ違う乗員の足取りは軽く、食堂の配食は一品増えた。二機と一艇が生きて帰り、敵のエースは引き揚げた。三つとも壊れたが、人は誰も損をしていない。艦の全員がそう感じていた。
居室に戻ったイヴイヴは机に向かって三つの束を作った。一、違反の事実。二、通話の内容。三、説明できない事項。それぞれに几帳面な見出しをつけて指先で音もなく揃えた。
黙っていればたぶん誰も困らない。困らないほうを選ぶ理由ならいくつでも挙げられた。イヴイヴは挙げるのをやめて立ち上がった。
*
「面会を申請します」
保安主任トジマリ・オサムの当直室は生還の空気の届かない場所だった。イヴイヴは椅子に座る前に三つの束を机へ置き、魔法瓶を膝に載せた。
「艇の記録に、私の発信は残っていません。残っていないのは、艇の系を使わなかったからです。使わなかったのは、監督官に切られないためです。監督官は切断の権限を行使しませんでした。怠慢ではなく、判断です。そう記載してください。──以上が、一です」
トジマリは一の束をめくった。検証できる項目とできない項目があらかじめ分けてある。できないほうにはイヴイヴ自身の字で「検証不能・申告のみ」とあった。
「二は、通話の全文。冒頭に信号音が三つあります」イヴイヴは続けた。「三は、なぜ私があの回線に通じたか。──説明できません」
トジマリの部下が手を止めた。
イヴイヴは部下を一瞥もせず続ける。
「説明を組み立てようとしました。組み上がりませんでした。『説明できない』が、いまのところ、いちばん正確です」
当直室が静かになる。
「……座ってくれ」とトジマリが言った。イヴイヴは座った。
「これで違反の認定はできる」トジマリは束から目を上げた。「だが、経路と意図は立証できない。記録が無いからだ。あんたが黙っていれば、この件は偶発の混線で綴じられて、故意は問われない。下書きまで、もうある。──それは、分かっていたか」
「分かっていました」
「なぜ、出した」
イヴイヴは一拍、置いた。
「私の違反が無かったことになると、それを載せている台帳のほうが、嘘になりますので」
「……台帳が」
「はい。私より、台帳のほうが長く使われますから」
トジマリの、束をめくる手が止まった。
イヴイヴは三つの束をもう一度指先でまっすぐに揃えた。
「記録は正しくあるべきです。──訂正印は、お持ちですか」
トジマリはしばらく黙っていた。それから机の抽斗を開けた。
「持っている」
*
その夜のうちに、副長・トジマリ・イヴイヴの三者で評価が行われた。議題は処罰ではなく監査だ。
敵に渡ったものが数えられた。家政部の存在(存在しない部署だ)。中性洗剤二十リットルの発注意向(架空)。研磨剤の追加発注(同)。それから、こちらが敵の回線に届いたという事実と、こちらにメイドの通信官がいるという事実。後ろの二つは値がつけられず、「損害、定量不能の情報露見二件」と書かれた。
途中で誰かが真顔で洗剤の発注量から艦の乗員規模が逆算できないかを検討した。二十リットルでは足りない、という結論になる。存在しない部署の、架空の発注量が数人がかりで真剣に査定されている。その真面目さを、イヴイヴは好ましく思った。
「おかげで全員帰ってこれた。良し悪しの出納としては完璧に黒字だな」と副長は言った。「だが、黒字は違反を消さない。危険は残る。残るものとして扱え」
最後に、残った危険の扱いが決められた。艦の技術ではイヴイヴの発信経路を封じられない──通信部が半日かけて確かめた結論だ。封じられないものを乗せ続けるか、次の寄港地で降ろすか。副長は前者に決裁印を捺し、その責任者の欄に自分の名を書き入れた。
運用条件が締め直された。艇と艦の正規系だけを使う。自分の側の記録の写しを七日ごとに、求められなくても出す。そして──説明できないことは、説明できないまま出す。
トジマリが台帳へ新しい一行を書き加えるのをイヴイヴは見ていた。欄の外の余白にはこうあった。
『本件、発覚の経緯──申告。申告者──本人』
*
書き終えて話は済んだ。イヴイヴは膝の上の魔法瓶の蓋を開け、中を確かめた。
「冷めちゃいました」
「長い夜だったからな」とトジマリが言った。
「淹れ直します」
トジマリは何か言いかけて、やめた。聞かれないことに、イヴイヴは答えなかった。
聞かないでおく、というやり方があることを二人は知っている。
イヴイヴは魔法瓶を持って給湯設備のほうへ歩いた。トジマリの後ろで綴じ紐が固く結ばれる音がした。




