第16話 転がれない桃姫
レイジョー家令嬢セリーナ付きの執事、ルイ・ユミの一日は蒸気の量を決めることから始まった。
熟れた桃のような塗装がされた連絡艇のハッチには演出用の蒸気噴射装置が付いている。多すぎれば咳き込まれ少なすぎれば貧相になる。今朝の相手は軍の格納庫、観客は戦艦の乗員。ルイは噴射量を「中の上」に設定した。名家の登場は驚かせすぎても、侮られてもいけない。ちょうど驚いて、少し呆れる。その配分がレイジョー家の格をいちばん長く保つと信じている。
出港二日目、〈グランドリーム〉は航行中のまま連絡艇を受け入れた。ハッチが蒸気と共に開き、白い人影が現れる。
「ごきげんよう、諸君。レイジョー区、アテクシ番地──レイジョー家が三十七代目、セリーナ・ポリン=レイジョーですわ」
癖の強い金の縦ロール。軍服を仕立て直したとしか思えない白いドレス風の制服。左の耳元に白百合をかたどった古いピアスが一つ。ルイはその台詞回しを二十年聞いてきた。お嬢様はいつだって姫でおられる。
ルイは音もなくタラップを降り、セリーナに続いて恭しく一礼した。燕尾の執事服は、レイジョー家では礼装ではなく作業着である。蒸気の量を決めるのも、荷を担ぐのも、これで通す。
「執事のルイ・ユミと申します。以後、お見知りおきを。後ろの四名は当家の従者です。お好きにお呼びください」
まとめて言うのはいつものことだ。四人には、それぞれ名前があり、それぞれ違う声で違うことを考えている。ルイはその全部を知っている。知っていて、いつも「従者四名」という一括りの下へ畳む。覚えてもらうのは姫だけでいいのだ。
四人のうち一人が段差でつまずいて荷物ごと転び、けれど全く痛そうにせず跳ね起きて叫んだ。
「お嬢様、お見苦しいところを! 申し訳ありません!」
「まったくですわ」
「もう呼び名あるぜ」見学の整備兵が言った。「『ゴメンず』だろ。執事いれて五人。レイジョー区の、お嬢様に謝ってばっかりの一団」
四人がそろって傷ついた顔をした。傷ついた顔のまま、誰も否定しなかった。ルイも、否定しなかった。
あの整備兵は五人を一括りに「ゴメンず」と畳んだ。ルイ自身、四人を「従者四名」と畳んでいる。同業だ。否定できるはずもない。ルイは蒸気がちょうどよく晴れるのを待って次の段取りへ進んだ。
*
セリーナ・ポリン=レイジョーは転んではいけない。
これは家訓の中でいちばん大切にされている。姫は転ばない。転べばパンプキンキュカンバという悪魔に姫でいられなくされるという。生まれた日から、セリーナの背骨には一本の定規が入っている。定規は重い。だが、その定規の感触のおかげで、セリーナは自分がレイジョー家の三十七代目だとひとときも忘れずにいられる。
個室へ荷を運ばせる途中、通路でじょうろを提げた新兵とすれ違った。庶民の顔で、庶民の声で、そいつは言った。「すっげえ。戦争に来たんだよな、あの人も」。
セリーナは扇子を突き出した。
「あら。そこの水やり係。いま何か仰って?」
「え、いや。荷物多いなって」
「多くありませんわ。アテクシには必要最小限ですわ」言いながら思い出した。中継で見た顔だ。「──ああ。例の『英雄候補生』ですわね。フツー区の。志願の理由は『普通じゃなくなりたい』。合格の理由は『絵になるから』。よくもまあ、その程度の覚悟で戦艦に乗れたものですわね」
「はあ。……なんで、そこまで」
英雄候補生の顔は雄弁だった。なんで、そこまで言われる必要があるのか。お前に覚悟はあるのか?
その問いに、セリーナの指が無意識に左耳のピアスへ触れた。白百合のピアス。装備リストのどこにも載っていない私物。初代様から受け継がれてきた、本物の継承品だ。
「一族の、汚名を雪ぐためですわ」
その一言だけ、台詞回しの装飾が剥がれて、低い、まっすぐな音色だった。百年前、初代様が世界を魅了した──その『魅力』が『チート』と呼ばれ、一族は故郷を追われた。その汚名だ。だが、自分がそれをどう雪ぐつもりでいるのかまではセリーナは言わない。左耳の白百合の重さは自分だけで感じればいいのだ。
はっ、とセリーナは慌てて縦ロールを跳ね上げ踵を返した。突然の振り向きに従者たちが「お嬢様、お荷物が! 申し訳ありません!」と続いていく。
*
その後、射撃訓練区画で「披露」があった。
志願士官の技量確認、という名目のお披露目で、見物人の多くは冷やかしでお嬢様の戦争ごっこを見に来ている。ルイはその空気を、噴射量を測るのと同じ目で測った。侮りが六割。悪くない。侮りは簡単に畏怖へ変わる。
標的は艦外へ射出される高速ドローン。距離、約八千。艦の主計員が「見えるんですか、あれ」と真顔で聞いた距離だ。
*
セリーナはいつものように白い専用ライフルを自分で組み立て、伏射の姿勢へ入った。部品の数も、順も、身体が完璧に覚えている。名家の令嬢が銃の分解を諳んじるまでには、誰にも見せない、数えるのをやめたほどの回数の反復があった。
観客の目には姫が上品に膝をつくように見えているはずだ。だが、セリーナはその動作の内側で背骨の定規を自分で丁寧に外す。
重心を、みぞおちの下へ一気に落とす。落としながら、右肩を先に沈め、左の肘を体の下から逃がす。ドレスの裾が遅れて広がり、縦ロールが半拍遅れて揺れて、その揺れが優雅さを演じてくれている間に、体の芯だけが、床へ、転がる。転がるというのは、姫のしてはいけないことだ。だから、この動作一つを優雅な演目として完成させる。ドレスと縦ロールの揺らめきの中、銃身のぶれは殺され静止した。
セリーナの隣でルイがスコープを覗いていた。観測手も、執事の仕事のうちである。水面に波を立てない声が静止しきった一点へ届いた。
「艦体振動、周期三秒。標的射出まで──五、四、三、二、一。射出。艦体振動、谷。周期二、一、〇、二、一……」
ルイの仕事はここまでだ。艦の静まる一瞬を告げる。撃てとは言わない。撃つ瞬間は、姫が決める。
八千メートル先で標的の光が射出され不規則に跳ね始めた。セリーナの照準は静かにそれを捉える。
撃った。
*
ルイから見ても、優雅な伏射だ。それは人々を魅了する完璧な演目。だがルイだけが、二十年、その内側を見ている。姫は転ばない、姫の中の射手だけが、転ぶ。
銃声は一回。それで八千メートル先の光の点が消えた。
見物人の冷やかしが蒸発した。ざわめきが一斉に喉の奥へ引っ込んで区画が静まり返る。その静けさは、蒸気が晴れたあとの格納庫の静けさに似ていた。セリーナは立ち上がり髪を直し扇子を開いた。
「ご清覧、感謝しますわ。──ルイ、次は動きの複雑なものを。皆さま少々誤解されているようですから、あと四発ほど」
あと四発、全部当たった。姫の舞台は、一度も崩れなかった。ルイの数えでは、四回とも同じ谷。四回とも、姫の中の射手が同じ場所にいた。
*
帰り道にあの水やり係が通路の先で言った。
「すっげえな……」
その「すっげえ」に混じり気がなかった。冷やかしも、世辞も、身分も入っていない、ただの感嘆で、普通に心に届いた。
セリーナの縦ロールがぴくりと跳ねる。振り向いた顔は「当然ですわ」と言おうとして、着地に失敗した。
「……と、当然ですわ! み、水やり係に褒められても、何も嬉しくなんてっ」
「あの距離であの動くやつ当たるんだ。記録、送っていい? 友達に」
友達に。
その二文字に、セリーナは扇子を開きかけた手を止めた。記録を当然のように送る相手。感じた賞賛を当然のように分ける相手。セリーナにはその相手はいない。八千メートルの的より、その問いのほうが遠かった。
「……誰ですのそれは!?」
言ってからセリーナは自分の声の素っ頓狂さに気づき、扇子で口元を隠す。隠すのが、半秒遅かった。
セリーナが素で聞き返すのをルイは横で聞いた。姫の声ではない。だが悪い声でもなかった。二十年で、いちばん人間の声に近かった。
水やり係のほうは、自分の一言が何かを撃ち抜いたことに気づいていない。ルイはそれも観測して、覚えた。畳まずに、そのまま。
観測が仕事の男は、捉えることはできる。だが、何に使うかは決めない。決めるのはいつも主の仕事だ。執事にできるのは材料をひとつ残らず揃えて、主が手を伸ばすまで黙って持っていることだけ。──今日は、蒸気を焚き、姫を姫のまま無事に艦へ着けた。それで十分だ。
レイジョー家令嬢のセリーナ・ポリン=レイジョー、併走開始。




