第15話 トマトを返せ
操舵手のヤライ・ミシマにとって、旗艦の初出港は面倒な日だった。
宣戦布告からまだ数時間である。港はもう祭りだった。
面倒なのは機動ではない。機動はいつもの仕事だ。面倒なのは、周りがそれを「見もの」にしたがることだった。
朝から港じゅうが浮ついていた。「旗艦の初出港だぞ」「操舵手はあのヤライだろ」「見せてくれるさ」。ブリッジ後方には配属されたばかりの新兵が二人、見学に立たされている。絵になるからと広報が決めた立ち位置だ。旗艦が港を出る、というだけのことを、みんな祭りの演目にしたがっていた。ただの出港だぞ。
ヤライは腕の見せどころという言葉が昔から嫌いだった。
*
〈グランドリーム〉──大きな夢、という名前の大砲は、見た目とは裏腹に人と暮らしが詰まった艦だ。冗談みたいにでかい主砲のせいで居住区画は隙間を使う。
主砲直下の大通路に『主砲発射時、洗濯物は各自回収』の掲示と洗濯ロープ。第二格納庫の隅に水耕栽培のトマトと世話当番表。整備兵は行進曲を鼻歌にしている。さっき、宣戦布告の議場で鳴っていた曲が、もういつもの曲になっている。
ヤライはこの艦のそういうところが嫌いではなかった。彼が舵で運んでいるのは、砲でも大義でもない。斜めにしたら味噌汁がこぼれる椀と、落としたら潰れるトマトと、明日も使う日用品だ。物を無事に向こうへ着ける。それが操舵手の仕事だ。それ以上でも以下でもない。舵を握って十何年、彼の手は教科書から卒業していた。
出港前、物資区画から固定確認の報告が上がってきた。水タンク、予備部品、水耕棚、すべて番号順に固定済み。ただし報告の末尾に若い声が一つ。「収穫済みトマトの小箱一つ、軽量のため固定を省略しました」。
「操舵席。いまの、聞こえまして?」
通信席からよく通る声が飛んだ。ギール・アイシス。艦の通信担当で、ヤライが数少なく名前を覚えている男だ。それくらい声が通る。
「聞こえた」ヤライは通信口へ短く返した。「軽い物ほど遠くまで飛ぶ。全部留めろ」
若い声は「はい」と言った。
「はい、いただきました」ギールは復唱の時刻を書き取り、それから書き足した。「──留め直したという報告も、お待ちしております」
出港時刻は迫っていた。留め直しが間に合ったかどうかまでは、操舵席からは分からない。分からないものは留めた側の責任だ。ヤライは前を向いた。
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出港。
シャイン艦長の号令。復唱。機関音。ヤライは操舵桿に手を置き、港の図面を頭の中で一度だけなぞった。
まっすぐ出れば簡単だ。だが、まっすぐ出ると加速で艦内の水が片側へ寄り、艦じゅうの味噌汁が斜めになる。だから、弧を描く。豆腐屋のバイトで覚えた、水を溢さない運びだ。
ヤライの手は動いた。管制塔まで四百メートル、右へ六度。僚艦の左舷まで十二、そこで加速を抜いて、慣性だけで滑らせる。舵を戻すのは、二隻の中間を過ぎて〇・三秒後。早ければ右舷を擦り、遅ければ水が片側へ落ちる。彼にとっては掛け算の答えを書くのと変わらない。ただ、答えを書く紙が旗艦一隻だというだけだ。
港の管制塔を舐めるように回り込み、係留中の僚艦二隻の隙間を水が一滴も揺れない角度で、糸を通すように抜けた。慣性制御が悲鳴ではなく、吐息くらいの音を立てた。曲芸ではない。いちばん退屈な、いちばん物を損なわない、いちばん何も起きない経路にすぎなかった。
背後で新兵が「うおっ!?」と声を上げた。隣のもう一人は騒がず、鉛筆で何かを書き留めている。宣戦映像の二人だ、と乗員の誰かが小声で言った。見て騒ぐのと、見て書き留めるのと、新兵にも二種類いる。ブリッジの他の誰も驚いていない。答えが合っていた証拠だ。
水は揺れず、留めた物は一つも動かなかった。ただ留めていない軽い箱だけは、水も揺らさないほどのわずかな慣性を拾って、ふわりと滑る。艦が定常航行に入ると同時に艦内放送が悲鳴を上げた。
『第二格納庫より至急! トマトが! トマトが逃げた! 誰だ留めてないのは! ──トマトを返せ!!』
ヤライは伸びをした。あの、固定を省略した一箱だ。
「普通に舵を切っただけなんだけどなあ」
「ヤライちゃんの普通は教本にのってないのよ」とギールが笑う。
「味噌汁が斜めになる」ヤライは操舵桿から手を離した。それで全部だ、といわんばかりだった。
「あの逃げた一箱は」
「留めろとは言った」ヤライは前を向いたままだった。「留め直したかどうかは操舵席からは見えん。俺の操舵は充分、準備までは俺の領分ではない」
「記録には残っておりますわよ」ギールは笑った。「──お待ちしていた報告が、来なかったというぶんが」
犯人の顔も名も知らない。知る必要も今はない。ああいうのはたいてい二度目はしない。
*
少しして、艦内放送が続報を流した。今度は落ち着いた声だった。『第二格納庫、状況終了。逃げたトマトは全数捕獲。負傷者なし。負傷トマト数名……留め忘れた方はあとで格納庫まで』。犯人捜しの口調ではなく、三者面談の予告みたいだった。
小箱は割れず中身は数個が転がり出ただけ。整備兵が拾い集め、夕食に回された。「本日採れたて、床経由」と誰かが意地悪な札を立てた。
旗艦の出港はそうして始まる。斜めにならなかった味噌汁と、留め忘れられて逃げたトマトと、退屈な操舵だけ。
ヤライは休憩前に水耕棚の前を通った。今朝よりトマトが少し減っている。床経由のぶんだろう。留め具を指で一つ確かめた。緩んでいない。ついでに世話当番表に目をやると、新しい欄に見慣れない名前が一つ増えている。フツー区あがりの新兵らしい。役の欄には、水やり、とある。ヤライは名前のほうは覚えず、役だけ見て通り過ぎた。物に水をやる係がいるのは良いことだ。続けることは力になる。
大きな夢を掴む旅が始まる。




