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境界線 ―1999、世界は十三分止まった―  作者: 夕花
第一部『門』

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9/27

観測都市

広間を包んでいた静寂が、ゆっくりと形を変え始めた。


壁の奥で灯った淡い光は、呼吸をするように弱く明滅を繰り返している。


神崎は懐中電灯を下ろさなかった。


光源はすでに必要ない。


それでも視線を逸らさず、目の前で起きている現象を静かに観察していた。


青年も動けなかった。


壁だった場所。


何の変哲もない石壁だったはずのそこに、細い光の筋が幾筋も走っている。


石の隙間から漏れているようにも見える。


だが違う。


光は石の向こうから滲んでいるのではなく、壁そのものの内部を流れていた。


まるで長い眠りから目覚めた血管のように。


ゆっくりと。


一定のリズムで。


広間全体へ広がっていく。


青年は息を呑んだ。


壁が動いているわけではない。


崩れているわけでもない。


それなのに、空間そのものが少しずつ姿を変えていく感覚があった。


自分が見ているものを、今までの常識だけでは判断できなくなっていた。


「……記録してください」


神崎の声だけが冷静だった。


青年は慌てて端末を取り出す。


画面には現在時刻。


位置情報。


環境データ。


異常は表示されていない。


だが、その横で録画映像だけが激しく乱れていた。


映像が数秒ごとに飛ぶ。


画面が白く霞む。


正常へ戻る。


再び乱れる。


「映像が……」


青年が呟く。


神崎は自分の端末も確認していた。


「こちらも同じです。」


「故障ですか」


「分かりません。」


その返答は短かった。


神崎は端末をしまう。


「現象そのものを優先します。」


青年も頷いた。


機械が正しいとは限らない。


この場所では、目の前で起きていることだけが唯一の事実だった。


再び金属音が響く。


今度は先ほどよりも近い。


低く。


重く。


地下深くで巨大な歯車が回り始めるような音。


青年は反射的に音の方を見る。


広間の奥。


先ほどまで壁しかなかった場所。


そこに一本の線が浮かび上がっていた。


縦に伸びる細い光。


神崎は懐中電灯を向ける。


光は消えない。


照らされても消えない。


最初からそこに存在していたかのように、静かに輝いている。


「……継ぎ目です。」


神崎が小さく呟く。


青年も近づいた。


確かに壁ではない。


巨大な一枚岩だと思っていたものは、左右に分かれた扉だった。


長い年月の中で完全に一体化し、境目さえ見えなくなっていたのだ。


青年は無意識に指先を伸ばした。


石肌へ触れる。


冷たい。


しかし、その冷たさの奥に微かな振動を感じた。


鼓動。


そんな言葉が頭をよぎる。


「振動しています。」


神崎も同じように壁へ手を当てた。


数秒。


何も言わない。


やがて静かに手を離した。


「……私にも感じます。」


その一言で十分だった。


錯覚ではない。


二人とも同じ現象を感じている。


青年の視線が中央の時計へ向く。


秒針は変わらず時を刻んでいた。


規則正しく。


静かに。


その音だけが、この空間では異様なほど鮮明だった。


カチ。


カチ。


カチ。


そのリズムに合わせるように、壁の光が脈打つ。


青年は思わず息を止めた。


偶然だ。


——そう思いたかった。


だが、秒針が進むたびに光は明滅を繰り返している。


偶然とは思えなかった。


「神崎さん。」


青年が声を掛ける。


「時計と……」


言い終える前に、神崎が小さく頷いた。


「同期しています。」


青年は時計を見る。


壁を見る。


再び時計を見る。


二つは確かに同じ周期で動いていた。


それだけではない。


壁全体へ広がった光は、一本の筋となって扉の中央へ集まり始めている。


まるで何かへ電力を送っているようだった。


神崎はゆっくりと周囲を見回した。


広間の床。


壁。


天井。


そのすべてに同じ模様が浮かび始めている。


細い線。


円。


幾何学的な図形。


古代の紋様にも見える。


配線図にも見える。


青年には、それが何を意味するものなのか分からなかった。


ただ一つだけ確かなことがある。


これは遺跡ではない。


少なくとも、ただの遺跡ではない。


誰かが造り。


何かの目的で動かし。


そして二十七年間、静かに停止していた施設。


その機能が今、自分たちの目の前で再び動き始めている。


神崎は扉から目を離さなかった。


開く速度。


振動。


音。


一つずつ確認してから端末を取り出した。


「第一調査班、地下施設内部。」


淡々とした口調で記録を残す。


「施設内部において未知の起動現象を確認。」


一拍置く。


「現時点で外部からの操作は一切行っていない。」


青年はその言葉を聞きながら、もう一度壁を見た。


光はさらに強くなっている。


そして――


低い駆動音とともに、中央の継ぎ目がわずかに震えた。


石と見分けがつかなかった巨大な扉が、長い眠りから覚めるように、ゆっくりと内側へ動き始めた。





扉が動き始めても、音はほとんどしなかった。


石が擦れ合う重々しい響きを想像していた青年は、その静けさに違和感を覚える。


響いたのは、低く続く駆動音だけだった。


長い眠りから目を覚ました機械が、慎重に自身の状態を確かめているような音。


やがて扉は、人ひとりが通れるほどの隙間を開いた。


その向こうから、冷たい空気が静かに流れ込んでくる。


森で感じた冷気とも、地下特有の湿り気とも違う。


乾いている。


澄み切っている。


誰もいないはずなのに、誰かが今まで管理していたような空気だった。


神崎は懐中電灯を向ける。


しかし、その光はすぐに意味を失った。


扉の向こうには、すでに淡い照明が灯っていたからだ。


青年は思わず目を細める。


天井。


壁。


床。


どこにも照明器具らしいものは見当たらない。


それでも空間全体が、夕暮れ前の空のような柔らかな光に包まれていた。


「……照明設備?」


青年が呟く。


神崎は首を横に振る。


「分かりません。」


その返答は、いつもと同じだった。


知らないことを、知っているとは言わない。


だが、その目は普段以上に鋭く周囲を観察している。


青年も扉をくぐった。


その瞬間、視界が大きく開ける。


思わず息を呑んだ。


光が届いた瞬間、青年は距離感を失った。


地下の天井がどこにあるのか分からない。


広すぎる。


空間そのものが、地下という感覚を奪っていた。


そこは地下とは思えないほど広大な空間だった。


見渡す限り、建造物が並んでいる。


石造りの建物。


崩れた壁。


広い通路。


柱が規則正しく立ち並ぶ広場。


まるで、一つの街だった。


青年は言葉を失う。


遺跡という言葉から想像していた景色ではなかった。


そこには、生活のために造られた街そのものが眠っていた。


「……都市。」


気づけば、その言葉が口から漏れていた。


見たことのない場所だった。

それでも、人間はそれをそう呼ぶしかなかった。


神崎も静かに頷く。


「記録にあった規模を、大きく超えています。」


青年は神崎を見る。


「資料には?」


「ここまで広い空間は確認されていません。」


「じゃあ……」


「調査範囲の外だったのか、それとも。」


神崎は言葉を切った。


続きを口にはしない。


青年にも、その続きを想像することはできた。


以前ここへ来た調査隊は、この場所へ到達していない。


あるいは――到達した記録だけが残らなかった。


その可能性を否定できない。


二人は慎重に歩き始める。


足音が乾いた石畳へ響く。


通路の両側には、建物が並んでいた。


窓のような開口部。


崩れた扉。


倒れた柱。


だが、不思議なことに瓦礫は少ない。


長い年月が経過しているはずなのに、崩壊しているという印象はなかった。


時間だけが止まったような街。


そんな言葉が自然と浮かぶ。


青年は一軒の建物へ視線を向けた。


入口は半ば開いている。


中は暗く、家具らしき影が見える。


人の気配はない。


それでも、誰かが少し前までそこにいたような生活の匂いだけが残っていた。


「神崎さん。」


青年が小声で呼ぶ。


「人が住んでいたんでしょうか。」


神崎は建物を見つめたまま答える。


「少なくとも、人間を前提とした構造です。」


「前提?」


「階段の幅。扉の高さ。通路の間隔。」


神崎は周囲を見渡した。


「寸法が現代の建築と極端には違いません。」


青年も改めて建物を見る。


確かにそうだった。


巨大でもない。


極端に小さくもない。


どこか現実の街並みに近い。


だからこそ、不気味だった。


「ただし。」


神崎が続ける。


「似ていることと、同じであることは別です。」


青年は黙った。


その言葉には、経験から来る重みがあった。


見た目だけで判断してはいけない。


ここまで何度も教えられてきたことだった。


やがて広場の中央へ出る。


そこには円形の広い空間があり、その中心には一本の塔が建っていた。


塔というより、巨大な柱。


天井まで真っ直ぐ伸びるその構造物は、地下空間全体を支えているようにも見える。


そして、その表面にもまた、あの光が流れていた。


青年は思わず立ち止まる。


「ここも……。」


神崎も塔へ近づく。


光の筋は地下施設で見たものと同じだった。


一定の間隔で脈打ち、都市全体へ枝分かれするように伸びている。


まるで、この柱が都市そのものへ命を送り続けているようだった。


青年は周囲を見回す。


建物。


通路。


柱。


そのすべてが、一本の巨大な循環の中へ組み込まれているように見える。


遺跡ではない。


施設でもない。


都市。


いや。


もっと別の何か。


神崎は静かに呟いた。


「観測施設……。」


青年が振り返る。


神崎は塔から視線を離さなかった。


「都市のために施設が造られたのではありません。」


一拍置く。


「施設として、この都市が造られています。」


青年はその言葉を理解できなかった。


街そのものが、一つの装置。


そんなものが存在するのだろうか。


そのときだった。


塔の上部で、小さな光が一つ灯る。


続いて二つ。


三つ。


まるで夜空へ星が浮かぶように、都市のあちこちで同じ光が点き始めた。


青年は息を呑む。


光は無秩序ではない。


一定の規則に従って、街全体へ広がっている。


そして最後に。


都市の最も奥。


暗闇の中に埋もれていた巨大な建造物だけが、ゆっくりとその輪郭を浮かび上がらせた。


青年は立ち尽くした。


ここは入口ではなかった。


本当の中心は、まだその先にあった。


光に照らされた建造物だけが、静かに沈黙していた。





塔を後にすると、二人は中央広場から枝分かれした通路へ足を向けた。


都市の中心から離れるにつれ、空気がわずかに変わっていく。


先ほどまで感じていた機械の駆動音は遠ざかり、代わりに耳へ届くのは、自分たちの足音だけだった。


石畳を踏む音が、静かな街並みに吸い込まれていく。


青年は周囲を見渡した。


建物は規則正しく並び、通路も不自然なほど真っ直ぐ延びている。


計画的に造られた都市。


そんな印象を受けた。


しかし、そこには人の姿だけがなかった。


神崎は通路脇の建物へ視線を向ける。


「この区画を確認します。」


青年も頷き、後に続いた。


入口には扉が残っていた。


木製ではない。


石でもない。


見たことのない灰色の素材で作られている。


年月を経ても腐食した様子はなく、半開きのまま静かに止まっていた。


神崎は慎重に押し開ける。


抵抗はほとんどない。


長い間閉ざされていたとは思えないほど滑らかだった。


室内へ入る。


懐中電灯を向ける必要はなかった。


外と同じ柔らかな光が、窓もない室内を淡く照らしている。


青年はゆっくり息を吐いた。


生活の跡が残っていた。


机。


椅子。


棚。


壁際には小さな寝台のようなもの。


家具らしき配置には規則性があり、人が日常を過ごしていた空間であることだけは理解できる。


だが、どれも少しだけ違う。


机は低く、角が極端に丸い。


椅子には背もたれがない。


棚には引き出しが存在しない。


人間の生活に似ている。


それでも完全には一致しない。


青年は棚へ近づいた。


そこには器のようなものが整然と並んでいる。


陶器にも金属にも見えない。


指先で軽く触れる。


冷たい。


驚くほど軽い。


神崎も別の棚を調べていた。


「破損が少ないですね。」


青年は頷く。


「生活していた人が、そのままいなくなったみたいです。」


神崎は返事をしなかった。


代わりに床へ膝をつく。


視線の先には、小さな円形の跡が残っていた。


家具を引きずった跡ではない。


何かが長期間置かれていた痕跡。


神崎は静かに写真を撮る。


「持ち出されています。」


「何がですか。」


「分かりません。」


そう答えながらも、神崎の視線は跡から離れなかった。


「ただ、この空間だけが空白です。」


青年も床を見る。


確かに、そこだけ埃の積もり方が違っていた。


周囲には長い年月が積み重なっている。


その場所だけ、時間が切り取られたように何も残っていない。


青年は部屋を歩く。


壁際には小さな額のようなものが掛けられていた。


近づいて見る。


絵ではない。


文字でもない。


幾何学模様。


円と直線だけで構成された図形だった。


意味は分からない。


それでも、不思議と目を離せなかった。


「何かの地図でしょうか。」


青年が呟く。


神崎も隣へ立つ。


数秒間、黙って見つめる。


「断定はできません。」


その返答に青年は苦笑した。


いつも通りだった。


知らないことを想像で埋めない。


それが神崎という人間だった。


部屋を一通り確認し終え、二人は外へ出る。


向かいの建物も調べる。


その次も。


さらにその先も。


どの建物にも共通していた。


生活の形跡はある。


だが、人の痕跡だけがない。


衣服。


書類。


個人を示す物。


そうしたものは一切残されていなかった。


まるで都市全体から、「誰が住んでいたか」という情報だけが消されている。


青年は通路の中央で足を止めた。


「変ですね。」


神崎は振り返る。


「何がですか。」


「生活は残ってるのに、人だけがいない。」


青年は周囲を見回した。


「避難したなら、もっと物を持ち出すと思います。」


「そうですね。」


神崎は短く答えた。


「放棄した都市とも違います。」


青年は静かに続ける。


「誰かが片付けたようにも見えない。」


神崎は室内をゆっくり見渡した。


棚。


床。


家具の配置。


何も言わず数秒考え、小さく呟いた。


「消えた。」


その一言だった。


青年は顔を上げる。


「……消えた?」


「生活は残った。」


神崎は建物を見渡す。


「しかし、人だけが残らなかった。」


青年はその言葉を理解できなかった。


存在しなかったことになる。


そんな現象があるのだろうか。


そのとき。


青年の視界の端で、何かが揺れた。


通路の奥。


建物と建物の間。


誰かが横切ったように見えた。


青年は反射的に振り返る。


誰もいない。


静かな街並みだけが続いている。


「どうしました。」


神崎の声で我に返る。


「今……。」


青年は言葉を探した。


見間違い。


そう言えば終わる。


だが、確かに見えた。


「誰かいたような。」


神崎は何も言わず、視線だけをその方向へ向けた。


数秒。


静寂が続く。


風は吹かない。


物音もしない。


やがて神崎は静かに口を開いた。


「この都市では。」


青年を見る。


「見えたものと、存在するものを同じだとは考えないでください。」


青年は返事ができなかった。


その忠告は、脅しではない。


経験から生まれた言葉だった。


再び歩き始める。


しかし青年は、一度だけ振り返る。


誰もいない通路。


それでも、誰かがこちらを見送っているような感覚だけは、最後まで消えなかった。





生活区画を離れると、通路の造りが少しずつ変わり始めた。


建物の数が減っていく。


代わりに、壁面へ埋め込まれた柱のような構造物が一定の間隔で並んでいた。


その表面を、塔で見たものと同じ淡い光がゆっくりと流れている。


都市全体を巡る血管。


青年には、そんな光景に見えた。


「中心部へ近づいています。」


神崎が静かに言う。


青年は頷きながらも、胸の奥にわずかな緊張を覚えていた。


この都市へ足を踏み入れてから、何度も違和感を覚えてきた。


生活の跡。


誰もいない街。


消えた人々。


だが、それらはすべて「過去」の痕跡だった。


これから向かう先には、過去では済まない何かが待っている。


そんな予感があった。


通路の先に、小さな部屋が現れる。


建物というより、通路に付属した管理室のような空間だった。


扉は閉じられていない。


神崎は立ち止まり、室内へ光を向ける。


「確認します。」


二人は慎重に中へ入った。


室内は狭い。


机が一つ。


壁沿いに並ぶ棚。


その奥には、天井近くまで届く黒い板のような設備が設置されている。


青年は机へ近づいた。


そこには薄い板状の物体が何枚も積まれていた。


紙ではない。


金属でもない。


指先で持ち上げると、驚くほど軽かった。


表面には細かな線が走っている。


文字にも見える。


図面にも見える。


だが、意味は読み取れなかった。


「読めませんね。」


青年が呟く。


神崎も一枚受け取り、静かに観察する。


「文字体系が違います。」


短い返答だった。


だが、その視線は別の場所へ向いていた。


部屋の壁。


そこには、何枚もの写真が並ぶように四角い枠が取り付けられていた。


しかし、中身だけが抜き取られている。


青年は眉をひそめた。


「ここも……。」


神崎は頷く。


「持ち出されています。」


生活区画と同じだった。


残されているもの。


持ち去られたもの。


その境界が不自然なほど明確だった。


青年は部屋の奥へ目を向ける。


壁際には、一台の机だけが他と違っていた。


埃をかぶっていない。


いや。


正確には、そこだけ時間が止まっているようだった。


神崎も同じことに気づく。


慎重に近づき、机の表面を照らす。


そこには、一冊の冊子が置かれていた。


青年は息を呑む。


初めてだった。


持ち去られていない記録。


神崎は手袋をつけ直し、慎重に冊子を開く。


ページは黄ばんでいない。


保存状態が良すぎる。


まるで、昨日まで誰かが使っていたようだった。


最初のページ。


文字は読めない。


だが、途中から見覚えのある数字が現れた。


《23:31》


青年の鼓動が一気に速くなる。


また、《23:31》だった。


まるで、この都市全体がその時刻だけを記憶しているかのように。


神崎はページをめくる。


数字。


図。


記号。


理解できるものはほとんどない。


しかし、一か所だけ。


日本語でも英語でもない文字列の横に、小さく手書きで何かが書き加えられていた。


それは現代の筆跡だった。


調査局で使われる記録用の筆跡に似ていた。


神崎が静かに読み上げる。


「……『観測者ではない、か』」


青年は神崎を見る。


「誰のことですか。」


神崎は首を横に振る。


「続きがあります。」


さらに下。


短く、もう一文だけ残されていた。


『見られている。』


青年は無意識に振り返った。


入口。


通路。


誰もいない。


それでも背中へ刺さるような視線だけが消えない。





神崎は冊子を閉じた。


表情は変わらない。


だが、その動作だけが普段より慎重だった。


「調査局の人が書いたんですか。」


青年が尋ねる。


「確証はありません。」


「筆跡照合が必要です。」


神崎は冊子を保管袋へ収める。


「ただ。」


少しだけ間を置く。


「この人物は、最後までここにいたようです。」


青年は息を呑む。


「戻れなかった?」


神崎は答えなかった。


否定もしない。


その沈黙が、何より重かった。


部屋を出ようとした、その時だった。


青年の腕時計が、小さく震える。


《23:31》


止まった針は変わらない。


だが、振動だけが続く。


一度。


二度。


三度。


神崎も同時に腕を見る。


「……またです。」


青年は頷く。


今度は二人とも同じ現象だった。


神崎はゆっくり顔を上げる。


視線の先。


部屋の正面にあった黒い設備。


先ほどまで何も映していなかったその表面に、淡い光が浮かび始めていた。


細い線が一本。


続いて二本。


幾何学的な図形が組み上がっていく。


まるで装置が、自分たちの存在を認識したかのように。


青年は言葉を失う。


表示された図形は、ゆっくりと一つの形へ変わっていく。


円。


その中心を貫く一本の線。


青年はその形を見た瞬間、息を呑んだ。


理由は分からない。


それでも、その図形だけは初めて見る気がしなかった。


それがどこだったのか思い出せないまま、図形がゆっくりと消えていく。


数秒の沈黙。


そして、黒い画面の中央へ一つの数字だけが浮かび上がった。


《13》


青年は思わず息を止めた。


その数字だけが、静かな部屋の中で異様な存在感を放っていた。


十三分を示しているわけではない。


そう感じた。


しかし、その理由を青年はまだ言葉にできなかった。

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