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境界線 ―1999、世界は十三分止まった―  作者: 夕花
第一部『門』

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8/29

- Introduction - 向こう側

白い線は、通路の奥へ続いていた。


青年が接続地点を離れると、足元の光もゆっくりと動き始める。


佐伯は記録媒体を持ったまま、そのあとに続いた。


画面には通常の構造図が表示されている。


青年と佐伯の現在座標。


壁の向こうへ伸びる白い線。


それまでに取得された映像と測定値が、時刻順に並べられていた。


佐伯は外部記録を呼び出した。


《変更要求者 佐伯真紀》


《移行対象 佐伯真紀》


《整合対象 佐伯真紀》


《整合条件 成立》


いずれも、通常画面へ一時的に現れた文字列だった。


対応する識別処理も、条件を判定した履歴も、通常ログには残されていない。


佐伯の名前が三つの役割とともに表示されたこと。


《整合条件 成立》という文字列が現れたこと。


確認できるのは、それだけだった。


帰還に必要な条件が揃ったのか。


最終的な処理が実行へ進もうとしているのか。


佐伯が元の世界へ戻れるのか。


どれも、まだ確定していない。


それでも、青年には、何かが終わりへ近づいているように思えた。


根拠はない。


画面に残る異常表示の意味も分からない。


ただ、ここから先へ進めば、今までと同じ状態には戻れないような感覚があった。


二人で歩いたこの通路も、交わした言葉も、まだ何も失われてはいない。


それなのに、そこにあるものが、触れる前から少しずつ遠ざかっていく。


通路の先で、白い線が曲がった。


壁しかない場所へ入り、その向こうへ続いている。


青年が近づくと、表面に細い継ぎ目が現れた。


「壁が変わりました」


佐伯が足を止める。


青年は継ぎ目へ近づいた。


触れてはいない。


それでも、線は壁の向こうへ途切れずに伸びている。


記録媒体の画面が乱れた。


通常の構造図に、短時間だけ別の区画が重なる。


現在の記録には存在しない、壁の奥の空間だった。


「ここですか」


「表示された位置と、白い線が入った場所は近いです」


佐伯は外部映像へ方位と時刻を保存した。


「ただ、この区画が実際に存在するかは確認できません」


壁の前で、床の一部が淡く光った。


二つの円に見える輪郭が、少し離れた位置へ浮かんでいる。


一方は佐伯の近くにあった。


もう一方は、青年の進行方向に重なっている。


記録媒体が再び乱れた。


《最終確認地点を照合》


続いて、別の文字列が現れる。


《接続維持対象を確認》


佐伯は画面へ触れなかった。


通常の構造記録には、《最終確認地点》に該当する区分はない。


《接続維持対象》を識別する機能も存在しなかった。


二つの表示は数秒間だけ残り、構造図の乱れとともに消えた。


「二つの円へ立て、という意味でしょうか」


青年が訊いた。


「そう見えます」


佐伯は床の輪郭を確認した。


「ですが、円が私たちの位置を指定しているとは断定できません」


青年は、白い線が通る側の円へ足を進めた。


指示に従うためではない。


自分が近づいたとき、床の光と白い線に変化が起きるかを確認するためだった。


青年が円の中央へ入る。


白い線の明るさが一度だけ変わった。


ほぼ同時に、壁の奥から低い音が返ってくる。


佐伯は時刻を記録した。


「位置に反応したんでしょうか」


「可能性はあります」


佐伯は答えた。


「ただ、あなたが移動したことが原因とは限りません」


佐伯も、もう一方の円へ近づいた。


足を踏み入れると、二つの輪郭の間を白い光が走った。


壁の継ぎ目がわずかに深くなり、床を通じて短い振動が伝わる。


佐伯はその変化も保存した。


二人の位置。


白い線の明滅。


壁の駆動音。


床の振動。


いずれも近い時間帯に発生している。


だが、それらを一つの処理として関連づける記録はなかった。


画面の中央へ、複数の文字列が重なった。


《変更要求者 佐伯真紀》


《移行対象 佐伯真紀》


《整合対象 佐伯真紀》


過去に現れたものと同じ表示だった。


三つの文字列が同じ処理に属しているかは、今も確認できない。


佐伯の名前が、それぞれの役割として正式に登録された履歴も存在しなかった。


表示はすぐに薄れた。


「ここから先へ進めば、もう取り消せないかもしれません」


青年は壁を見たまま言った。


何が始まるのか分かったわけではない。


佐伯が元の世界へ戻れるのか。


帰還したあと、この場所に何が残るのか。


二人が交わした言葉まで、今と同じ形で残るのか。


どの記録にも、その結果は示されていなかった。


「分かっています」


佐伯は答えた。


声に迷いはなかった。


それでも、記録媒体を持つ指は動かなかった。


元世界側の欠損領域。


その近くに残された五つの点。


佐伯が帰還を選んだ理由は変わっていない。


青年にも、それを否定する理由はなかった。


帰ると決めたのは佐伯だ。


その先に何があるのか分からないまま、それでも進むと決めたのも佐伯だった。


青年は、その選択を変えようとは思わなかった。


ただ、一つだけ、途中から変わらなかったものがある。


佐伯を元の世界へ返したい。


理由を説明できない不安を覚えたあとも、その意思だけは変わらなかった。


壁の奥から続いていた音が途切れた。


画面が一瞬だけ暗くなる。


《実行確認 保留》


佐伯は操作せず、外部映像へ表示を保存した。


「何の実行でしょうか」


「分かりません」


通常画面に、《実行確認》という操作項目は存在しない。


何が保留されているのかも示されていなかった。


数秒後、文字列が崩れた。


通常の構造図へ戻る直前、別の表示が割り込む。


《変更要求を確認》


青年は画面を見つめた。


「変更要求というのは、佐伯さんが帰ると決めたことですか」


「その可能性はあります」


佐伯は慎重に答えた。


「ですが、何を要求として扱っているのかは確認できません」


表示が消える。


通常ログには、要求を検索した履歴も、佐伯の選択を照合した記録も残っていなかった。


画面が再び乱れた。


《要求内容を照合》


その下で、佐伯の名前を含む三つの文字列が短く明滅した。


変更要求者。


移行対象。


整合対象。


表示された名称は同じだった。


だが、同じ氏名が現れたことと、三つの役割が一致していることは別だった。


通常ログには、人物や役割を照合した記録が存在しない。


青年の座標に近い位置でも、画面の乱れが続いている。


「俺にも関係しているんでしょうか」


「可能性はあります」


佐伯は画面と青年の位置を見比べた。


「ただ、表示だけでは区別できません」


青年は佐伯を見た。


佐伯は帰ることを選んでいる。


その先に何が起きるのか分からないことも承知している。


青年も、その決定を認めていた。


二人の意思に食い違いはない。


それでも、青年には、まだ何かが足りないように思えた。


端末が何かを求めていると分かったわけではない。


ただ、壁は開かず、白い線も二人の足元に残っている。


「佐伯さんは、帰ると決めた」


青年は言った。


佐伯は何も答えなかった。


「俺も、それを変えるつもりはありません」


青年の声が通路へ残った。


「佐伯さんを元の世界へ帰したい」


その直後、青年の足元で白い線が強く明滅した。


壁の奥から低い音が返ってくる。


記録媒体の画面にも、通常形式にない文字列が現れた。


《要求内容 帰還対象の維持》


佐伯が顔を上げる。


「今の言葉に反応したんでしょうか」


青年には答えられなかった。


発言。


白い線の明滅。


壁の奥の音。


異常表示。


四つは近い時間帯に発生している。


しかし、発言を音声として解析した記録はなかった。


青年の言葉が《要求内容》へ変換されたことを示す通常ログも存在しない。


「そう見えます」


佐伯は外部映像の時刻を確認した。


「ですが、今の言葉を読み取ったとは断定できません」


青年は表示を見つめた。


新しい条件を求めたつもりはない。


佐伯が選んだ結果を覆そうとしたわけでもなかった。


ただ、佐伯を帰す。


その意思を、自分の言葉で伝えただけだった。


《要求内容 帰還対象の維持》


文字列は数秒間残り、画面の乱れとともに消えた。


直後、二つの表示が一度だけ重なる。


《変更要求として受理》


《整合対象 再照合》


佐伯は画面へ触れなかった。


通常ログには、新しい要求を受理した記録はない。


《整合対象》を検索または変更した履歴も残っていなかった。


「処理が変わったという意味でしょうか」


青年が訊いた。


「そのようには読めます」


佐伯は答えた。


「ただ、実際に何が変更されたのかは確認できません」


画面は通常の構造図へ戻った。


青年と佐伯の現在座標。


二人の間を通る白い線。


壁の向こうに短時間だけ現れた、存在しない区画。


通常記録に残されているのは、それだけだった。


青年は壁の奥を見つめた。


佐伯を元の世界へ返す。


表示が何を意味していても、その意思だけは変わらなかった。

2027/07/27 解析端末仕様整理に伴う修正

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