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境界線 ―1999、世界は十三分止まった―  作者: 夕花
第一部『門』

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7/23

観測地点

杉林の奥へ進むにつれ、外の世界の気配は少しずつ遠ざかっていった。


舗装された道の感触は、いつの間にか足元から消えていた。


それらは木々の向こうへ消え、代わりに聞こえるのは、足元で砕ける小石の音と、風に揺れる枝葉のざわめきだけだった。


青年は、何度か後ろを振り返った。


来た道は、すでに木々に隠れている。


戻ろうと思えば戻れる距離のはずだった。


それでも、不思議な感覚があった。


森の中へ進んでいるはずなのに、


今までいた世界との境界を少しずつ越えているようだった。


前を歩く神崎は、一定の速度を崩さない。


しかし時折足を止める。


木々の位置。


地面の沈み方。


人の手が加えられた痕跡。


それらを一つずつ確認し、記録していた。


「何か分かるんですか」


青年が尋ねる。


神崎は歩みを止めずに答えた。


「まだ何も」


「何も……?」


「だから確認しています」


その返答は、以前から変わらなかった。


分からないものを、分かったように扱わない。


異常だと決めつけない。


しかし、見落としもしない。


調査局という組織が何を重視しているのか、青年にも少しずつ理解できるようになっていた。


しばらく歩いた先で、神崎が足を止めた。


「ここです」


青年は前方を見る。


そこには、ただ古い斜面があるだけだった。


木々が生い茂り、苔が地面を覆っている。


入口らしいものは見当たらない。


「……ここに?」


青年の疑問に、神崎は頷いた。


「記録上では」


そう言って、持ってきたファイルを開く。


中には何枚もの写真が挟まれていた。


同じ場所を撮影したものに見える。


しかし、青年には違いが分かった。


一枚目。


木々の間に、崩れた石壁のようなものがある。


二枚目。


そこには何もない。


三枚目。


別の位置に、人工的な構造物が写っている。


「同じ場所なんですか」


「はい」


神崎は写真を並べる。


「撮影地点も、記録された座標も一致しています」


青年は写真を見る。


同じ場所。


同じ年月。


それなのに、写っているものだけが違う。


「以前からこうだったんですか」


「少なくとも、私たちが調査を始めた時からです」


神崎は写真を閉じた。


「入口の位置が、記録と一致しないことがあります」


その言葉に、青年は自然と森の奥へ視線を向けた。


何もない。


ただ木々が並んでいるだけ。


しかし、そこに何かが隠れているような感覚だけは消えなかった。


神崎は地面へ視線を落とした。


そして、数歩移動する。


「……ここです」


青年も近づく。


そこには、周囲の土とは少し違う色をした場所があった。


長い年月に埋もれた、人工的な線。


神崎が手袋をつけ、慎重に表面の土を払う。


少しずつ現れていくもの。


それは石ではなかった。


金属製の扉だった。


青年は、言葉を失った。


森しかないと思っていた場所の下に、人間が作った入口が眠っていた。


それは驚きというより、妙な納得に近かった。


初めて見るはずなのに。


なぜか、この場所がここにあることだけは知っていたような気がした。


神崎は扉の状態を確認する。


錆びている。


古い。


それでも完全には朽ちていない。


「開くんですか」


青年の問いに、神崎はしばらく扉を見つめた。


「記録では、以前は開きませんでした」


「以前は?」


神崎は答えず、持っていた器具を取り出す。


簡単な確認作業。


しかし、その表情が少しだけ変わった。


「どうしたんですか」


「……」


神崎は扉の隙間へ視線を向ける。


そして、静かに言った。


「開いています」


青年の背筋に、冷たいものが走った。


調査局の記録では閉ざされていた場所。


誰も入れなかった場所。


それが今、目の前で開いている。


神崎は慎重に扉へ手を掛ける。


金属が擦れる低い音が、森の静寂へ響いた。


扉の向こうには、暗闇が広がっていた。


風はない。


光もない。


ただ、地下へ続く空間だけが存在している。


神崎がライトを向ける。


その先には、人工的に造られた空間が続いていた。


地下へ向かっている。


それだけは分かった。


青年は無意識に腕時計へ目を落とした。


止まった針。


動かない時間。


その時計が、なぜかこの場所を知っているように感じられた。


「行きます」


神崎の声が響く。


青年は頷いた。


まだ何も分からない。


なぜこの場所が存在するのか。


なぜ自分がここへ導かれたのか。


答えは、まだ地下の奥に隠されている。


青年は一歩踏み出した。


階段の先には、二十七年前から閉ざされていた時間が残されているように思えた。





扉の向こう側には、冷たい空気が溜まっていた。


外の湿った森の匂いとは違う。


土の匂い。


古い石の匂い。


長い時間、閉ざされていた場所だけが持つ独特の空気だった。


神崎が懐中電灯を点ける。


白い光が暗闇の奥へ伸びていく。


そこにあったのは、地下へ続く階段だった。


自然にできた洞窟ではない。


一段一段、誰かの手によって造られたものだった。


しかし、石材は均一ではなかった。


古い部分。


補修された部分。


後から追加されたような金属製の手すり。


異なる時代のものが、ひとつの場所に重なっている。


青年は階段の入口で足を止めた。


「……いつからあるんですか」


神崎は資料へ目を落としながら答える。


「分かっていません」


迷いのない返答だった。


「年代測定では一致しない結果が出ています」


青年は眉を寄せる。


「一致しない?」


「調査した場所によって、年代が一致しません」


「一致しない?」


「同じ場所を調べても、結果が一致しません」


「古い年代が出た直後に、別の調査では数十年前という結果が出ることもあります」


「まるで、同じ場所に複数の時間が重なって存在しているように」


神崎は壁面へ光を向けた。


そこには、古びた石の表面にいくつもの傷が残っている。


自然にできたものではない。


誰かが、何度もこの場所を行き来した痕跡だった。


「遺跡だから古い、という単純なものではありません」


神崎は静かに続ける。


「古いものの中に、新しいものが混ざっている。その逆もあります」


青年は階段の先を見る。


暗闇の奥には何も見えない。


ただ、下へ続いている。


それだけだった。


「調査局の人たちは、ここを何度も調べたんですよね」


「はい」


神崎は頷く。


「ですが、記録は完全ではありません」


「入れなかった場所があるんですか」


神崎は少しだけ間を置いた。


「入った記録はあります」


その言葉に、青年は違和感を覚えた。


「……では?」


神崎は階段の奥を見る。


「戻ってきた記録と、内部の記録が一致しないことがあります」


青年は黙った。


意味を理解するまで、少し時間が必要だった。


行った。


戻った。


記録した。


そのはずなのに、残された情報が噛み合わない。


単なる記録ミス。


そう考えることもできる。


しかし、この場所ではそれすら簡単には片付けられない。


神崎は先に階段へ足を掛けた。


「行きましょう」


その声には恐怖も期待もなかった。


ただ、確認する者の声だった。


青年も続く。


一段降りるたび、外の音が遠ざかっていく。


鳥の声。


風の音。


木々の揺れる音。


すべてが少しずつ薄れていった。


しばらく降りたところで、青年は振り返った。


入口から差し込む光が、まだ小さく残っている。


しかし、それはすでに遠いものに感じられた。


さらに進む。


階段の幅は一定ではなかった。


広くなったかと思えば、急に狭くなる。


まるで、最初から人間が歩くためだけに造られたものではないようだった。


やがて、階段の終わりが見えた。


その先には、広い空間が広がっていた。


壁面には調査局のものと思われる小さな照明。


その近くには、古い石壁。


そして、その隙間には新しいケーブルが通されている。


過去と現在。


二つの時間が、無理やり同じ場所へ押し込められているようだった。


青年は足を止める。


「……変ですね」


神崎は否定しなかった。


「何がですか」


青年は周囲を見る。


「古い場所なのに……誰かが今も使っているみたいに見えます」


神崎はしばらく黙っていた。


そして、小さく頷いた。


「その感覚は、過去の調査員も記録しています」


「同じことを?」


「はい」


神崎はファイルを開いた。


そこには、簡潔な一文だけが記されていた。


『廃墟ではない。放棄された場所でもない』


青年はその文字を見つめた。


「では、何なんですか」


神崎は答えなかった。


答えられないのではなく、まだ答える段階ではない。


そんな沈黙だった。


二人はさらに奥へ進む。


壁面には調査用の印が残されている。


番号。


矢印。


日付。


しかし、青年はそこで足を止めた。


ひとつの印が目に入った。


数字。


その横に、小さく書かれた日付。


《1999.9.3》


青年の胸がざわつく。


世界が十三分止まった出来事について、証言記録が残された日。


青年にとって、それはもう、単なる歴史上の日付ではなかった。


自分が巻き込まれた異常と、過去を繋ぐ数字だった。


「神崎さん」


声を掛ける。


神崎も気づいたらしい。


静かに近づく。


だが、その表情に驚きはなかった。


知っていたのか。


青年はそう思った。


しかし、神崎は首を横へ振る。


「この記録は、ありませんでした」


その言葉の意味を理解するまで、一瞬かかった。


調査局の資料には存在しない。


誰かがここへ残したもの。


二人が見つけたことで、初めて記録されたもの。


青年は壁を見る。


その先に、さらに奥へ続く通路があった。


暗闇の向こう。


まだ何かが残されている。


そう感じた。


神崎は記録用の端末を取り出す。


「続けます」


短い言葉だった。


青年は頷いた。


二人は再び歩き始める。


その先で待っているものを、まだ知らないまま。


ただ一つだけ。


この場所が、過去を保存しているだけの遺跡ではないこと。


それだけは、青年にも分かり始めていた。


青年は、壁面に残された印へ視線を戻した。


その日付の横に、別の刻印があることに気づいた。


暗闇の中では、それが何を意味するものなのかまでは読み取れなかった。





壁面に刻まれた数字を前にして、二人はしばらく動かなかった。


《23:31》


ただの数字。


それだけなら、偶然と片づけることもできた。


時計の表示。


記録上の時刻。


あるいは、誰かが残した意味のない落書き。


しかし、青年にとってそれは違った。


あの夜、自分の時間が止まった瞬間。


何度確認しても忘れることのできない数字。


それと同じものが、過去の記録にも、この地下深くの壁にも残されている。


「……いつ、書かれたものですか」


青年の問いに、神崎はすぐには答えなかった。


懐中電灯の光を壁面へ当てながら、刻まれた跡を確認している。


表情は変わらない。


だが、いつもの冷静さとは少し違うものがあった。


慎重に判断しようとしている。


そんな印象だった。


「分かりません」


短い返答。


青年は神崎を見る。


「分からない?」


「この場所について、私たちが確認できている情報は限られています」


神崎は壁から視線を離した。


「この文字がいつ残されたものなのか。それを判断できる資料はありません」


調査局。


異常を記録し続けてきた組織。


それでも、この場所についてすべてを知っているわけではない。


その事実が、地下空間の静けさをさらに重く感じさせた。


神崎は周囲を見渡す。


「記録を探します」


「記録?」


「ここへ来た人間は、何かを残している可能性があります」


青年は周囲を見る。


壁。


床。


暗闇の奥。


何十年も誰にも触れられていないように見える空間。


しかし神崎は迷わなかった。


入口付近の壁際。


崩れた石材の隙間。


古い設備の裏側。


一つひとつを確認していく。


それは宝探しではなかった。


残された痕跡を拾い集める作業だった。


やがて。


神崎の足が止まる。


「……ありました」


青年が近づく。


そこにあったのは、古びた金属製の箱だった。


表面には錆が浮かび、長い年月を感じさせる。


だが、箱そのものは壊れていなかった。


神崎が慎重に蓋を開く。


中には数枚の紙と、小型の記録媒体が入っていた。


青年は息を止める。


「これは……」


神崎は紙を一枚取り出した。


紙質は古い。


だが、文字は読むことができた。


最初の一行。


そこには日付が記されていた。


《1999年9月3日》


青年の胸が強く脈打つ。


十三分に関する証言が記録された日。


その日付だった。


神崎は無言で読み進める。


数秒後。


わずかに眉が動いた。


青年はその変化を見逃さなかった。


「何か……」


神崎は答えなかった。


代わりに、紙を青年へ差し出す。


そこには短い文章が並んでいた。


――第一回調査記録。


――地下区域へ侵入。


――時間感覚に異常あり。


青年は続きを読む。


――同一地点へ複数回帰還。


――同行者との認識に差異発生。


――記録内容と現実に相違あり。


文章だけを見れば、意味は理解できる。


しかし、内容は理解できなかった。


同じ場所を歩いたはずなのに、違う場所へ戻る。


一緒にいた人間と、見ているものが違う。


記録と現実が一致しない。


それはまるで、自分があの夜経験したものの延長だった。


「……これ」


青年の声が小さく震える。


「俺が経験したことと似ています」


神崎は否定しなかった。


「そうですね」


その返答が、逆に怖かった。


神崎はすでに知っていた。


だからここへ連れてきた。


そう思った。


しかし。


「ただ」


神崎は紙を見つめたまま続ける。


「この記録の存在は、私も知りませんでした」


青年は顔を上げる。


「知らなかった?」


「はい」


神崎は静かに頷いた。


「調査局に残されている記録とは別です」


その言葉の意味を、青年は理解するまで少し時間がかかった。


つまり。


ここには、調査局が把握していない誰かの記録がある。


世界が十三分止まった時。


その瞬間、この場所には誰かがいた。


青年は紙の続きを見る。


最後のページだけ、他とは違っていた。


文字が少ない。


まるで、最後に急いで残されたようだった。


そこに書かれていた一文。


――対象確認。


青年の指が止まる。


その下。


さらに小さな文字。


――観測対象。


青年の指が止まった。


観測対象。


その言葉だけが、頭の中で何度も繰り返される。


調べる側ではない。


記録を見る側でもない。


自分は、最初から誰かに見られていたのではないか。


そんな考えが、一瞬だけ脳裏をよぎった。


「……これは」


神崎も同じ箇所を見ていた。


だが、すぐには答えなかった。


日付を確認する。


記録の最初。


《1999年9月3日》


そこまでは分かる。


しかし。


最後に記された日付。


それは。


《2007年》


だった。


青年は顔を上げる。


「……2007年?」


青年の声が漏れた。


なぜ、その年なのか。


1999年で終わったはずの事件が、まだ続いている。


神崎は答えない。


地下の静寂だけが返ってくる。


二十七年前の出来事。


その後に続く記録。


そして、自分の知らない誰かによって残された「観測対象」という言葉。


青年は初めて理解した。


自分たちが追っているのは、過去の出来事ではない。


まだ終わっていない何かだ。


その瞬間。


地下の奥から。


小さな音が響いた。


金属が擦れるような音。


誰も触れていない場所から。


神崎が懐中電灯を向ける。


光の先には、暗闇しかなかった。


だが。


その暗闇の奥に。


まだ誰にも開かれていない場所があるように思えた。


青年は腕時計を見る。


止まったままの針。


《23:31》


その数字だけが、静かにこちらを見つめていた。





地下空間の奥へ進むにつれ、音が少なくなっていった。


足音。


衣服の擦れる音。


呼吸。


それ以外のものが、少しずつ遠ざかっていく。


青年は何度も後ろを振り返った。


来た道は確かに残っている。


階段も、壁も、神崎が置いた目印も消えてはいない。


それなのに、距離だけが曖昧だった。


数十メートルしか歩いていないはずなのに、地上から随分離れてしまったような感覚がある。


「……神崎さん」


青年が呼びかける。


前を歩いていた神崎が足を止めた。


「何かありましたか」


青年は周囲を見る。


「いえ……」


言葉にしようとして、やめた。


怖いわけではない。


ただ、ここにいると時間の感覚だけが少しずつ削られていくようだった。


神崎は何も言わず、手元の記録へ視線を落とす。


紙の上には、現在時刻。


進入経路。


経過時間。


細かな数字が並んでいた。


「記録上では、ここまで約二十八分です」


神崎が言った。


青年は腕時計を見る。


止まったままの針。


あの日から変わらない表示。


「体感では、もっと長く感じます」


「ええ」


神崎は否定しなかった。


「過去の調査記録にも、同じ報告があります」


その言葉を聞いた瞬間、青年の胸の奥がわずかに冷えた。


ここでは、すでに誰かが同じ道を歩いている。


そして、同じ違和感を抱いていた。


やがて、通路の先に小さな空間が現れた。


広間と呼ぶには狭い。


部屋と呼ぶには何もなかった。


壁。


床。


天井。


それだけだった。


中央に、一つだけ物が置かれている。


そこにあったのは、一台の時計だった。


壁掛けでもない。


台座に固定されているわけでもない。


ただ、そこに置かれていた。


まるで、誰かが忘れていったように。


青年は足を止める。


見覚えがあった。


正確には、見たことがあるという記憶ではない。


同じものを知っている。


そう感じた。


「……時計」


神崎もそれを見ていた。


表情は変わらない。


しかし、歩みがわずかに遅くなった。


「記録にはありません」


青年が神崎を見る。


「え?」


「この場所に、時計があるという記録は残っていません」


その一言が、空間の静けさを変えた。


調査局が何度も調べた場所。


記録を残し続けてきた人間たち。


その誰も、この時計を記録していない。


青年はゆっくりと近づいた。


止める声はなかった。


神崎も動かなかった。


時計の針は動いている。


秒針が、小さく刻む。


一秒。


また一秒。


正常に。


その事実が、逆に不自然だった。


青年が手を伸ばしかけた瞬間。


腕に巻いた時計が震えた。


あの日と同じ感覚。


一瞬で全身の血が冷える。


青年は反射的に腕を見る。


止まった針。


変わらない表示。


《23:31》


「神崎さん」


声が震えた。


神崎はすでに自分の腕時計を確認していた。


そして。


初めてだった。


神崎の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。


驚いた表情ではない。


だが、長年異常を観測してきた人間の中に、確かな動揺が生まれていた。


「……止まった」


青年は息を止める。


神崎の時計。


それもまた、同じ時間を示していた。


《23:31》


二人の間に沈黙が落ちる。


青年は、ずっと考えていた。


なぜ自分だけなのか。


なぜ自分の時計だけが止まったのか。


しかし今。


その前提が崩れた。


自分が特別だったわけではない。


この場所が。


この時間が。


何かを引き起こしている。


「現在時刻を確認してください」


神崎の声が低く響く。


青年は持っていた端末を見る。


表示されている時刻。


それは、二十三時三十一分ではなかった。


昼間の時間。


現実の時間。


時計だけが、別の時間を示している。


「止まったんじゃない……」


青年が呟く。


神崎は何も言わなかった。


青年は中央の時計を見る。


そして、ようやく気づいた。


この時計は、現在の時間を示しているのではない。


あの夜、自分が異常へ接続した時刻を示している。


《23:31》


その瞬間。


広間の奥から、小さな音が響いた。


金属が擦れる音。


長い間眠っていたものが、再び動き出すような音だった。


神崎がすぐに懐中電灯を向ける。


しかし、そこには何もない。


ただ壁だけがある。


そのはずだった。


次の瞬間。


壁の一部が淡い光を放った。


古い装置。


存在するはずのない機械。


誰も触れていないそれが、静かに起動していく。


青年も神崎も、言葉を失う。


表示された文字。


それは、二人が知っている言葉だった。


ただし、意味だけが理解できなかった。


画面には、短く表示される。


『観測開始』


青年は、その文字を見つめた。


記録される側ではない。


調べる側でもない。


もっと以前から。


誰かが、この瞬間を待っていた。


そして自分は、その瞬間を迎える場所に立っていた。


そんな感覚が、青年の中に残った。


地下深く。


誰にも知られず残されていた場所で。


二十七年間眠っていたものが、再び目を覚ました。


それが何を意味するのか。


まだ、誰にも分からなかった。

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