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境界線 ―1999、世界は十三分止まった―  作者: 夕花
第一部『門』

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6/27

青森地下遺跡

数日後の朝。


青年は、あの日から何度も同じ問いを繰り返していた。


自分は何を見たのか。


そして、何を見落としたのか。


答えはまだ見つからない。


それでも、あの場所へ行かなければ何も始まらないことだけは分かっていた。


青年は、止まったままの腕時計を掌に載せていた。


窓から差し込む朝の光が文字盤を照らしても、短針も長針も、あの日から一度も動いてはいない。


机の隅には、折り目ひとつない一枚の紙が置かれている。


そこに記された地名は、この数日のあいだ何度読み返しても見覚えのないままだった。


それでも目にするたび、胸の奥だけが静かに疼く。


知らないはずなのに、どこかへ帰ろうとしているような感覚。


そんなはずはない。


そう思えば思うほど、その感覚だけが消えなかった。


理由は分からない。


分からないまま、その紙だけは鞄へしまわず、何度も取り出しては眺めていた。


時計を見る。


止まった腕時計ではなく、部屋の壁に掛けられた時計だ。


針は午前八時を少し回ったところだった。


規則正しく進む秒針の音を聞いていると、不思議と現実へ引き戻される。


あの日以来、青年は何度この音を確かめただろう。


止まっていない。


今日も世界は動いている。


それを確認することが、いつの間にか癖になっていた。


部屋を出る前、青年はもう一度だけ止まった腕時計を見つめた。


そして静かに腕へ巻く。


動かないと分かっていても、それを置いていく気にはなれなかった。


玄関の扉を開くと、夏の朝の空気が流れ込む。


強い日差しの下を、自転車が通り過ぎる。


子どもたちの笑い声が響き、商店街では店を開ける音が聞こえ始めていた。


どこにでもある朝。


誰も、この世界のどこかで十三分という時間が失われたことなど知らない。


青年だけが、その日常を少し遠くから眺めているような気持ちだった。


駅へ向かう道は、以前と何も変わらない。


変わったのは、自分の目だけだった。


交差点で信号を待ちながら、人々の腕時計へ視線が向く。


駅前の時計台。


コンビニのレジ横に置かれたデジタル時計。


電車の発車案内。


どれも正確に時を刻み続けている。


それを見るたび、自分だけが別の時間へ取り残されているように感じられた。


改札を抜け、指定された駅で電車を降りる。


住宅街を抜けた先にある、飾り気のない建物。


時間異常調査局。


数日前、この場所を訪れた時とは違っていた。


もう偶然迷い込んだ場所ではない。


あの日までは、自分の意思とは関係なく辿り着いた場所だった。


しかし今日は違う。


自分の意思で、この先へ進むために来た場所だった。


自動ドアが静かに開く。


受付の職員は青年の姿を見ると、小さく会釈を返しただけで何も尋ねない。


すでに話は通っているらしい。


「神崎がお待ちしています。」


案内された廊下を歩く。


足音だけが静かに響く。


初めて訪れた時には長く感じたその廊下も、今日は不思議なほど短く感じられた。


応接室の扉が開く。


神崎は窓際で資料を読んでいた。


青年に気づくと、本を閉じるような自然さで資料を机へ置く。


「時間どおりですね。」


穏やかな声だった。


青年は軽く頷く。


「お待たせしました。」


神崎は青年の腕元へ視線を向ける。


止まったままの腕時計。


何も言わなかった。


ただ、それを見て小さく頷くだけだった。


「準備は整いました。」


神崎は机の上に置かれた封筒を手に取る。


「本日、現地へ向かいます。」


青年は静かに息を吸った。


数日前に聞いた言葉が、今ようやく現実になる。


神崎は扉へ向き直る。


「こちらへ。」


青年は止まった時計の重みを腕に感じながら、その後を歩き始めた。


その扉の向こうには、二十七年前から続く記録の、その先が待っていた。





調査局の地下駐車場には、白いワゴン車が一台だけ停まっていた。


官公庁の公用車にも見える、ごくありふれた車だった。


組織名も紋章もない。


目立つものは何一つない。


神崎は助手席側のドアを開ける。


「長距離になります。」


青年は頷き、車へ乗り込んだ。


車内も外観と同じだった。


無線機が一台。


紙の地図。


使い込まれたファイルケース。


それ以外は一般車と変わらない。


神崎がエンジンを始動させると、静かな振動だけが車内へ伝わった。


地下駐車場を抜けると、朝の光がフロントガラスいっぱいに広がる。


車は街へ溶け込むように走り始めた。


窓の外では、通勤の人々が足早に駅へ向かっている。


配送車が路地へ入り、小学生が横断歩道を渡る。


何事もない日常。


その風景は数日前まで、自分がいた世界そのものだった。


青年は窓へ額を預け、小さく息を吐く。


「まだ信じられません。」


神崎は前を向いたまま問い返す。


「何がですか。」


「全部です。」


青年は苦く笑った。


「数日前までは普通に仕事へ行って、普通に帰るだけだったんです。」


信号が青へ変わる。


車は滑るように交差点を抜けた。


「それが今は、二十七年前の出来事を追って青森へ向かっている。」


自分で口にしてみても現実味がなかった。


神崎はしばらく何も言わなかった。


やがて前方を見据えたまま静かに口を開く。


「そうやって、突然こちら側へ来ることになった人を、私は何人も見てきました。」


青年は視線を向ける。


「皆さんも、突然だったんですか。」


「ほとんどは。」


神崎は短く答えた。


「自分で探してここへ来た人は少数です。大半は異常に巻き込まれ、その結果として私たちと接触します。」


車は高速道路へ入る。


街並みは少しずつ低くなり、やがて建物よりも空の方が広くなった。


遠くには夏雲がゆっくりと流れている。


青年は流れる景色を眺めながら尋ねた。


「その人たちは……どうなったんですか。」


神崎は少しだけ間を置いた。


「それぞれです。」


答えは短い。


だが、その一言の中に多くを含んでいることは伝わってきた。


「元の生活へ戻った人もいます。」


高速道路の継ぎ目をタイヤが越えるたび、小さな振動が車内を揺らす。


「戻れなかった人もいます。」


神崎は、それ以上続けなかった。


言葉にできない記憶があるように、青年には感じられた。


青年はそれ以上聞かなかった。


聞けば答えてくれるのだろう。


しかし今は、その続きを知ることが怖かった。


車窓の景色はゆっくりと変わっていく。


住宅地が途切れ、田畑が広がり、遠くの山並みが少しずつ近づいてくる。


都会では聞こえなかった蝉の声が、サービスエリアへ立ち寄るたびに濃く耳へ残った。


時間だけが静かに北へ流れていく。


青年は無意識に腕時計へ目を落とした。


止まったままの針。


対照的に、車内のデジタル時計は一分、また一分と数字を書き換えていく。


その差が奇妙だった。


同じ腕に存在しているのに、一方は未来へ進み、一方は過去に留まっている。


まるで自分自身が、二つの時間の境界に立っているようだった。


世界は確かに進んでいる。


それなのに、自分の時間だけがあの日へ取り残されている。


神崎は青年の視線の先を見て、小さく言った。


「まだ動きませんか。」


「ええ。」


青年は苦笑する。


「修理に出そうとは思いませんでした。」


神崎も笑わなかった。


「その判断は間違っていないと思います。」


それ以上の説明はない。


しかし、その短い言葉だけで十分だった。


青年は再び窓の外を見る。


青空の下を流れる景色は穏やかだった。


穏やかであるほど、胸の奥にある違和感だけが輪郭を増していく。


自分は本当に、初めてあの地へ向かうのだろうか。


知らない地名。


知らない場所。


それでも、その名を思い浮かべるたびに胸の奥が静かに疼く。


車は休むことなく北を目指して走り続けていた。





高速道路を降りると、車は一般道へ入った。


窓の外を流れる景色は、少しずつ色を変えていく。


道沿いに並んでいた店舗は姿を消し、代わりに田畑が広がった。


稲穂は夏の日差しを受けて淡く揺れ、その向こうには幾重にも重なる山並みが霞んでいる。


青年は黙ってその景色を見つめていた。


見知らぬ土地のはずだった。


だが、初めて訪れる場所を眺めているという感覚が、どうしても胸へ落ちてこない。


神崎は一定の速度を保ったまま車を走らせている。


しばらく沈黙が続いたあと、不意に青年が口を開いた。


「調査局では、この場所をどう呼んでいるんですか。」


神崎は前を向いたまま答えた。


「正式な呼称はありません。」


その返答は意外だった。


「ありませんか。」


「青森地下遺跡という呼び方も、便宜上そう呼んでいるだけです。」


青年は視線を神崎へ向ける。


「遺跡であることは分かっています。


しかし、それが何のために造られた場所なのか。


誰が造ったのか。


そして、どこまで続いているのか。


現時点で、起源や構造について確認できていることはありません。


だからこそ、私たちは記録を続けています。」


淡々とした説明だった。


分からないことを、分からないまま語る。


それが調査局という組織の姿勢だった。


「それでも調査を続けているんですね。」


「記録が残っているからです。」


神崎は短く言った。


「一九九九年以降、この場所は何度も報告書に現れています。」


青年は胸ポケットをそっと押さえた。


あの地名が、自分だけに向けられたものではなかったことを改めて知る。


「ただし。」


神崎はそこで言葉を区切った。


「記録は、ある地点から急に曖昧になります。」


「曖昧?」


「同じ場所を歩いたはずなのに、地図が一致しない。記録の順序が前後する。同じ隊員同士でも証言が食い違う。」


青年は窓の外へ目を戻した。


そんな話を聞いたあとでも、景色は変わらない。


緑の田畑。


静かな集落。


夏空の下をゆっくり流れる雲。


異常など、どこにも見当たらなかった。


やがて道路は山あいへ入り、道幅が少しずつ狭くなっていく。


カーブを曲がるたび、木々の密度が増していった。


木漏れ日がフロントガラスを横切り、車内へ細かな光の帯を落としていく。


青年は窓を少しだけ開けた。


湿った風が頬を撫でる。


土の匂い。


草の匂い。


そして、それとは別に、胸の奥を微かに揺らす何か。


思い出せそうで思い出せない感覚だけが残る。


神崎は青年の様子を横目で見たが、何も尋ねなかった。


聞かないことにも意味がある。


そんな静かな配慮が、この数日のやり取りで少しだけ分かるようになっていた。


一本のトンネルを抜ける。


視界が開けた先には、小さな案内板が立っていた。


風雨に色褪せたその板には、青年が何度も見返した地名が記されている。


胸ポケットの紙と、まったく同じ文字。


青年は無意識に息を止めた。


紙の中だけの場所ではなかった。


本当に存在していた。


神崎がゆっくりとアクセルを緩める。


「着きました。」


車は道路脇の小さな駐車帯へ静かに滑り込んだ。


神崎はエンジンを切らなかった。


「ここから先は、報告書が最も多く途切れている区域です。」


青年は窓の外を見る。


森しか見えない。


神崎は静かに続けた。


「中へ入れば、私の指示以外では動かないでください。」


「……何かあるんですか。」


「分かりません。」


神崎は短く答えた。


「だから観測します。」


エンジンが静かに止まった。


森は何も答えなかった。





神崎が先に車を降りる。


青年もそれに続き、ドアへ手を掛けた。


ドアを開けた瞬間、山の空気が流れ込んできた。


奇妙な静けさだった。


音がないわけではない。


鳥の声もある。


風の音もある。


それなのに、森全体が静まり返り、何かを待っているように感じられた。


青年は違和感を胸の奥へ抱えたまま車を降りた。


街で吸い込む空気よりも重く、湿った土の匂いが肺の奥まで満ちていく。


目の前には古びた舗装路が一本だけ延び、その先は鬱蒼とした杉林へ吸い込まれていた。


観光地らしい案内板も、人を迎える看板もない。


ただ、長い年月を経た森だけが静かに広がっている。


神崎はトランクから一つのケースを取り出した。


見た目は工具箱ほどの大きさで、黒い樹脂製の箱だった。


青年が視線を向けると、神崎は小さく笑う。


「特別な機械ではありません。」


蓋を開く。


中には紙の地図、懐中電灯、方位磁針、測量用らしい器具、そして分厚いファイルが整然と収められていた。


青年は少し意外そうな表情を浮かべる。


「もっと……」


青年は言葉を飲み込んだ。


神崎は苦笑した。


「異常を調べる道具より、人間を記録する道具の方が多いんです。」


そう言ってファイルを取り出す。


背表紙には管理番号だけが印字され、その下に一行だけ地名が添えられていた。


青年は無意識に胸ポケットへ手を伸ばす。


神崎から渡された紙。


そこに書かれていた地名と同じだった。


神崎はファイルを閉じる。


「現地では、決めつけないでください。」


青年は顔を上げた。


「決めつけない?」


「何を見ても、それをすぐ異常だと思わないことです。」


神崎は杉林の奥へ目を向ける。


「逆に、何も起きていないと決めつけることもしない。」


その言葉は調査局そのものを表しているようだった。


証明しない。


否定もしない。


ただ、観測する。


青年は何も答えなかった。


その言葉だけが胸の中へ静かに残った。


森の奥から風が吹き抜ける。


杉の梢がゆっくりと揺れ、その音だけが辺りを満たしていく。


青年は視線を巡らせた。


道路脇には錆びたガードレール。


ひび割れた舗装。


苔むした側溝。


どこにでもある山道だった。


だが、その何気ない風景の中に、自分だけが置き去りにされているような感覚がある。


足は自然と林の奥へ向いていた。


胸の奥だけが、まだ見えない何かを探していた。


「……変ですね。」


思わず漏れた声に、神崎は否定も肯定もしなかった。


「ええ。」


それだけ答える。


二人の間に、しばらく沈黙が流れた。


やがて神崎は腕時計へ目を落とす。


正常に時を刻む針を確認し、小さく頷いた。


「行きましょう。」


青年も無意識に、自分の腕時計を見る。


針は、あの日のまま止まっている。


動いている世界と。


止まった時間。


その二つを腕に抱えたまま、青年は神崎の後ろへ続いた。


杉林へ続く細い道は、人一人が歩くには十分な幅しかない。


木漏れ日が足元へまだらな模様を落とし、踏みしめるたび、小石が乾いた音を立てた。


森の奥は見えない。


木々の隙間の奥。


そこだけが、不自然なほど暗かった。


神崎は迷いなく、その闇へ歩いていく。


青年も、迷いを胸に抱えたまま、その闇へ足を踏み入れた。


森は、何も答えなかった。

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