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境界線 ―1999、世界は十三分止まった―  作者: 夕花
第一部『門』

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観測記録

青年は、机の上に置かれた資料からゆっくりと視線を上げた。


知らない地名。


だが、その文字だけが胸の奥へ沈んでいく。


理由は分からなかった。


ただ、その場所を知らないままにしてはいけない。


そんな感覚だけが、妙に強く残っていた。


向かいに座る人物は、その反応を静かに見つめている。


試すようでもなく、急かすようでもない。


ただ、青年が自分で受け止めるのを待っているようだった。


室内には時計があった。


壁に掛けられた、ごく普通のアナログ時計。


秒針は規則正しく時を刻み、部屋の静けさの中へ小さな音を落としている。


その音を聞いているだけで、青年は少しだけ安心した。


止まっていない。


今、この時間は正常に流れている。


そう確認せずにはいられなかった。


「混乱していると思います」


相手が穏やかに口を開いた。


「当然です。私も、最初にこの場所へ案内された日は、同じような顔をしていました」


その言葉を口にした瞬間だけ、神崎の表情がわずかに緩んだ。


遠い記憶を思い出しているようだった。


その言葉だけは、不思議と作り物には聞こえなかった。


「……あなたも?」


「ええ。」


短く頷く。


「ここに最初からいた人間ではありません」


その一言だけで、青年の中の警戒が少しだけ緩む。


目の前の人物もまた、自分と同じように、ある日突然こちら側へ足を踏み入れた人間なのだ。


「改めて自己紹介をします」


相手は姿勢を正した。


「私は神崎です。」


青年は黙って聞いている。


「所属は時間異常調査局。」


その名称を耳にした瞬間、部屋の空気が少しだけ重くなったように感じた。


時間異常調査局。


まるで冗談のような名前だった。


行政機関でも企業でもない。


映画か小説の中にだけ存在するような組織名。


しかし、この部屋には冗談を言っている空気が一切なかった。


青年は部屋を見回した。


飾り気のない応接室。


年季の入った木製の机。


壁一面に並ぶ書棚。


ファイルの背表紙には年代だけが整然と並び、そのどれにも装飾はない。


派手な設備も、近未来的な機械も存在しなかった。


秘密組織という言葉から想像していた光景とは、あまりにも違う。


神崎は青年の視線を追うように室内を見渡し、小さく笑った。


「もっと特別な場所だと思っていましたか。」


青年は否定しなかった。


その沈黙だけで十分だった。


「実際は、こんなものです。」


神崎は机に指先を添えた。


「私たちが扱うのは非日常ですが、働いている人間はごく普通です。書類を書き、現場へ向かい、報告書をまとめる。その繰り返しです。」


青年は思わず問い返した。


「そんな……普通なんですか。」


「普通でなければ続きません。」


神崎は静かに答えた。


「異常だけを見続ける人間は、いずれ異常に呑まれます。」


その言葉には、経験からしか生まれない重さがあった。


青年は部屋の奥へ視線を向けた。


窓の向こうには、先ほどまで歩いていた街並みが広がっている。


人々は笑い、信号を待ち、スマートフォンを見ながら足早に通り過ぎていく。


誰も、自分が今いるこの部屋の存在を知らない。


いや、知る必要すらないのだろう。


「では……」


青年はゆっくりと口を開いた。


「この場所は、何を調べているんですか。」


神崎はすぐには答えなかった。


机の上に置かれた資料へ手を伸ばし、その一番上を静かに開く。


そこには、一枚だけ写真が挟まれていた。


街角だった。


どこにでもありそうな交差点。


歩行者が歩き、自転車が止まり、車が信号待ちをしている。


何の変哲もない風景。


しかし、写真の中央だけが不自然だった。


そこだけ時間を切り取られたように、人影が輪郭ごと歪んでいる。


青年は息をのんだ。


神崎は写真から視線を外さないまま、静かに言った。


その声には、長年この光景を見続けてきた人間だけが持つ疲れが滲んでいた。


「私たちが調べているのは、人には見えない異常ではありません。」


一拍置く。


「誰も気づかないまま、世界に積み重なっていく異常です。」





神崎が開いたファイルには、題名も組織名も記されていなかった。


あるのは管理番号だけだった。


青年が視線を向けると、相手はその反応を確認するように小さく頷く。


「安心してください。あなたに機密を見せるつもりはありません。」


そう言ってファイルを開く。


ページの多くは黒く塗り潰されていた。


隠しているのではなく、まだ書けない部分が残されているように見えた。


「私たちの仕事は、異常を解決することではありません。」


青年は顔を上げる。


「……違うんですか。」


「ええ。」


神崎は迷いなく答えた。


「正確に記録し、観測し、必要ならば後世へ残す。それが仕事です。」


青年は思わず眉をひそめた。


「でも、それじゃ……。」


止められないということですか。


その言葉は口に出なかった。


神崎も続きを促さない。


沈黙のまま、ページが一枚めくられる。


そこには古い新聞記事の切り抜きが貼られていた。


事故。


失踪。


原因不明。


どれも全国各地で起きた、ごくありふれた出来事に見える。


「これらが?」


青年が尋ねる。


「断定はできません。」


神崎は静かに首を振る。


「だから記録します。」


その言葉は妙に重かった。


証明できない。


だから忘れない。


そのためだけに、この場所は存在している。


青年は部屋を見渡した。


書棚の数は想像以上だった。


同じ装丁のファイルが何列にも並び、その背表紙には管理番号だけが無機質に印字されている。


棚の奥まで続くその数は、この場所が積み重ねてきた年月そのもののようだった。


「二十七年前のことも。」


青年が呟く。


神崎は視線だけで頷いた。


「ええ。あの日以降、この仕事は大きく変わりました。」


青年は、その言葉を聞き逃さなかった。


「あの日以降?」


「それ以前は、地方ごとの報告を集める程度でした。」


神崎は一枚の古い写真を机へ置く。


写っているのは、ごく普通の会議室だった。


十数人の男女が無言でカメラを見つめている。


裏には手書きで日付だけが記されていた。


《1999.9.10》


「あの日から約二か月後です」


青年は写真を見つめた。


誰も笑っていない。


疲れ切った顔をしている。


それでも、その視線だけは妙に強かった。


「この人たちは。」


「今の私たちの前身です。」


神崎は短く答えた。


「世界が何を失ったのか、その時点では誰も理解していませんでした。ただ一つ分かっていたのは、同じ出来事が再び起きた時、誰かが記録を残さなければならないということです。」


青年は写真から目を離せなかった。


二十七年前。


世界が十三分止まった日。


その出来事は都市伝説ではなく、ここでは現実として扱われている。


しかも、その日から今日まで。


誰かがずっと記録を続けてきた。


青年は静かに息を吐いた。


自分は、異常な世界へ足を踏み入れたと思っていた。


違う。


その世界は、ずっと前から存在していた。


知らなかったのは、自分だけだったのである。





青年は机の上に広げられた写真へ、もう一度視線を落とした。


一九九九年九月十日。


世界が十三分止まった、約二か月後。


写っている人々は誰一人として笑っていない。


疲労だけではない。


何かを目撃してしまった者だけが共有する沈黙が、その一枚には閉じ込められていた。


「……この人たちは、その日を知っているんですね。」


青年が静かに尋ねると、神崎は短く頷いた。


「知っています。ただし、全員が同じものを見たわけではありません。」


その答えに、青年は眉を寄せた。


「同じじゃない?」


「異常は、観測者によって姿を変えることがあります。」


そう言って神崎は、写真を丁寧にファイルへ戻した。


代わりに取り出したのは、数枚の報告書だった。


紙は黄ばみ、角は擦り切れている。


長い年月、何度も読み返されてきたことが分かる。


「これは当時の証言です。」


青年は一枚目へ目を落とした。


『時計だけが止まった。』


次の報告書。


『空を飛んでいた鳥が消えた。』


さらにもう一枚。


『街から音だけがなくなった。』


内容はどれも一致していない。


だが、日付だけはすべて同じだった。


《1999年9月3日》


青年は思わず息を飲んだ。


「こんなに違うんですか。」


「だから私たちは、証言を切り捨てません。」


神崎は落ち着いた口調で続ける。


「人は、自分が理解できる形でしか異常を認識できないことがあります。」


青年は再び報告書へ目を向けた。


時計だけが止まったという者もいた。


鳥が空から消えたという者もいた。


街から音だけが失われたという者もいた。


どれも同じ現象とは思えない。


しかし、その違いこそが、何かを示しているようにも感じられた。


神崎は報告書を閉じた。


「ただ、一つだけ違う点があります」


青年が顔を上げる。


「あなたの場合です」


「止まった時計だけが重要なのではありません。」


「え……?」


「あなたは何を見て、何を見落としたのか。その両方が重要です。」


その言葉が胸に残る。


見たものではなく、見落としたもの。


青年はあの夜を思い返した。


止まった時計。


記録開始と浮かび上がった紙。


鳴らないスマートフォン。


そして、十三分間だけ誰も気づかなかった街。


あの時、自分は本当にすべてを見ていたのだろうか。


「人は、自分が見たいものしか見ません。」


神崎は窓の外へ目を向けたまま言った。


「異常も例外ではありません。」


部屋に静寂が戻る。


時計の針だけが規則正しく時を刻んでいた。


その音を聞きながら、青年は棚一面に並ぶ記録へ視線を移す。


この部屋には、どれほどの「見落とされたもの」が積み重ねられているのだろう。


誰にも信じられなかった証言。


説明のつかなかった違和感。


偶然として片づけられた出来事。


それらを捨てずに残し続けた人々がいた。


青年は静かに口を開く。


「……もし、また同じことが起きたら。」


神崎は間を置かずに答えた。


「だから、あなたに会いました。」


その一言に、青年は言葉を失う。


神崎は机の引き出しから、小さな封筒を取り出した。


厚みはほとんどない。


封はされていなかった。


「これは?」


「あなたに預けます。」


青年が中身を取り出す。


一枚の紙だった。


地図でもなく、報告書でもない。


印刷されていたのは、一つの地名だけ。


その場所を見た瞬間、胸の奥がわずかに疼いた。


初めて見るはずの文字列。


それなのに、どこかで知っている気がする。


記憶ではなく、感覚だけが反応していた。


「そこへ行けば分かるんですか。」


青年の問いに、神崎はゆっくり首を横へ振る。


「いいえ。」


静かな返答だった。


「そこから始まります。」


部屋の空気が、ほんのわずかに張り詰める。


青年は紙を握りしめた。


答えを探してここへ来た。


だが、手渡されたのは答えではない。


次の扉を開くための、たった一枚の紙だった。





応接室には、しばらく誰も口を開かなかった。


資料の上に置かれた一枚の紙だけが、静かに二人の間を隔てている。


青年は、その紙に記された地名を見つめ続けていた。


見覚えはない。


旅行した記憶もなければ、仕事で訪れたこともない。


地図を思い浮かべても位置すら分からない。


それなのに、胸の奥だけが小さく疼いていた。


初めて見るはずなのに、初めてではない。


そんな矛盾した感覚だった。


「知らない場所です。」


青年は視線を外さないまま答えた。


「ですが……」


そこで言葉が止まる。


説明できない。


何をどう言えば、この感覚を伝えられるのか分からなかった。


向かいに座る人物は、その沈黙を急かさなかった。


まるで、その反応を待っていたかのように静かだった。


「懐かしい、と感じましたか。」


青年は思わず顔を上げる。


「……どうして分かったんですか。」


神崎は小さく息を吐いた。


「同じ反応を記録しているからです。」


その一言だけで十分だった。


青年の背中を冷たいものが走る。


同じ反応。


つまり、自分以外にもいた。


「他にもいるんですか。」


「いました。」


返答は短い。


過去形だった。


青年は、その違いに引っかかる。


「いました……?」


「現在も確認できている者はいます。しかし、多くは途中で記録が途絶えています。」


部屋の空気が少しだけ重くなる。


青年は自然と資料へ目を落とした。


紙の端には、小さな整理番号が印字されている。


その下には、日付。


そして、いくつもの黒く塗り潰された行。


名前なのか。


場所なのか。


あるいは別の何かか。


青年には分からない。


「どうして隠しているんです。」


神崎は視線を資料へ落とした。


「あなたを信用していないからではありません。」


静かな声だった。


「まだ確認できていないことが多すぎるからです。」


その答えは曖昧だった。


だが、嘘ではないことだけは伝わってきた。


知らないから隠している。


知っているから隠している。


その二つは似ているようで、まったく違う。


青年はようやく理解し始めていた。


目の前の人物もまた、万能ではない。


この現象の答えを持つ人間ではなく、答えを探し続けている側なのだ。


だからこそ、自分の話を聞いた。


だからこそ、自分に会った。


「……その場所へ行けば、何か分かるんですか。」


沈黙を破るように尋ねる。


神崎は少しだけ考え、静かに頷いた。


「分かるかもしれません。」


断言ではない。


可能性だった。


「そこは、二十七年前の記録に何度も現れる場所です。」


青年は紙を持ち上げた。


一枚の紙に書かれた、たった一つの地名。


それだけが、昨日までの日常と知らない世界を繋ぐ唯一の道標になっていた。


「準備ができ次第、現地へ向かいます」


神崎は立ち上がった。


青年は、その言葉を聞いて初めて現実を意識した。


そこへ行けば、戻れなくなるかもしれない。


今までの生活とは違う場所へ踏み込むことになる。


それでも。


あの夜から残り続ける疑問を、このまま抱えたままにはできなかった。


「……自分も行く必要がありますか」


青年の問いに、神崎はすぐには答えなかった。


「必要かどうかは、私には判断できません」


少し間を置く。


「ですが、あなた自身が確かめたいと思っているはずです」


その言葉に、青年は反論できなかった。


「あなたにも同行していただきます」


青年は驚かなかった。


どこかで、その言葉を予想していた。


あの夜から、自分はただの目撃者ではなくなった。


時計が止まった瞬間から、自分はこの出来事の内側へ踏み込んでしまっている。


断るという選択肢は、すでに心のどこにも残っていなかった。


応接室を出ると、長い廊下の窓から夕暮れの光が差し込んでいた。


橙色に染まった街では、人々が何事もなかったように家路を急いでいる。


笑い声が聞こえる。


車が交差点を曲がる。


信号が青へ変わる。


世界は、いつもと何ひとつ変わらない。


青年は窓越しにその景色を眺めながら思った。


変わってしまったのは、世界ではない。


世界の見え方だった。


その違いを知ってしまった以上、もう以前と同じ日常へ戻ることはできない。


胸ポケットへ収めた紙の角が、歩くたび胸元へわずかに触れた。


そこに記された地名は、まだ何も語らない。


だが、その沈黙の向こう側で、二十七年前から閉ざされていた扉が、ゆっくりと軋み始めていた。


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