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境界線 ―1999、世界は十三分止まった―  作者: 夕花
第一部『門』

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4/22

境界の向こう側

約束の日まで、数日が過ぎた。


青年は、普段と変わらない生活を続けていた。


朝になれば起きる。


仕事へ向かう。


決められた時間を過ごし、夜になれば帰宅する。


外から見れば、何も変わっていない。


だが、青年自身だけは分かっていた。


あの日を境に、日常の見え方が少しだけ変わってしまったことを。


以前なら気にも留めなかった時計の針。


街中にある表示。


誰かの何気ない会話。


そういったものが、妙に意識へ残るようになっていた。


午後十一時三十一分。


その数字を探しているつもりはなかった。


それでも、目に入るたびに心が反応した。


理由は分からない。


ただ、あの時間には何かがある。


そう感じていた。


青年は、机の上に置いたスマートフォンを見る。


数日前の着信履歴。


そこには、あの番号だけが残っていた。


名前はない。


登録した覚えもない。


調べても、何も出てこなかった。


それでも削除する気にはなれなかった。


あれ以来、青年は証拠というものを失うことを恐れていた。


まるで、それを消してしまえば、あの夜の出来事までなかったことになるような気がしたからだ。


約束の場所は、駅から少し離れた古いビルだった。


指定された時間。


指定された場所。


それ以外の情報は何もない。


普通なら、行く理由などなかった。


知らない相手。

説明のない連絡。

信じる根拠もない。


それでも、青年は勢いだけで向かうつもりはなかった。


危険かもしれない。

罠かもしれない。


それでも、行かないという選択肢だけは選べなかった。


そう考えた上で、行くことを決めた。


確かめなければならないことがあった。


自分が見たものが、本当に存在したのか。


その一点だけは、避けることができなかった。


あの夜から、自分はもう以前と同じ場所には戻れない。


そう感じていた。


ビルの前に立つ。


古びた外壁。


ガラスに映った自分の姿が、一瞬だけ目に入った。


疲れた表情。


少し乱れた髪。


それでも、初対面の相手から実際より若く見られることだけは昔から変わらなかった。


この場所で会う相手が、自分をどう見るのか。


そんなことを考えながら、青年は視線を外した。


人の気配の少ない入口。


周囲には、特別なものは何もない。


それなのに、青年は足を止めた。


見覚えがある。


そう思った。


だが、次の瞬間には否定する。


来たことなどない。


この場所を知っているはずがない。


それでも胸の奥には、説明できない引っかかりが残っていた。


懐かしいという感覚ではない。


もっと不自然なものだった。


忘れている何かを、思い出しかけているような感覚。


青年はゆっくりと扉へ手を伸ばす。


その瞬間。


腕時計が一度だけ震えた。


針は動いていない。


時間が止まったわけでもない。


ただ、秒針が一瞬だけ揺れた。


そして表示された数字。


《23:31》


青年は息を止めた。


偶然ではない。


そう思った。


誰かが待っている。


自分がここへ来ることを知っていた誰かが。


青年は深く息を吸い、入口を見上げた。


約束の場所。


もう後戻りはできない。


青年は静かに一歩を踏み出した。





外観とは違い、中は驚くほど静かだった。


扉が閉まる音だけが、人気のない廊下へ小さく響く。


受付らしいものはない。


古い照明だけが、長い廊下をぼんやり照らしていた。


「こちらです」


奥から声がした。


青年が振り向く。


一人の人物が立っていた。


青年は、無意識に周囲へ視線を走らせた。


入口。

廊下。

逃げ道になる場所。


知らない場所に来た以上、それくらいの確認はしていた。


だが、逃げ出したいほどの恐怖はなかった。


警戒している。


しかし、拒絶しているわけではなかった。


奥から現れた人物は、青年へ軽く会釈すると、何も言わず廊下の奥へ歩き始めた。


青年は黙って後を追う。


案内されたのは、小さな応接室だった。


「突然呼び出して申し訳ありません」


淡々とした声だった。


謝罪の言葉とは裏腹に、感情の揺れはほとんどない。


青年は相手を見る。


「あなたは……誰なんですか」


問いかけると、相手はすぐには答えなかった。


代わりに、机の上へ一枚の資料を置く。


そこには、見覚えのある数字があった。


《23:31》


青年の表情が変わる。


「その時間について、確認したいことがあります」


相手は静かに続けた。


「あなたが見たものと、私たちが記録しているものが一致するかどうか」


私たち。


その言葉だけが、青年の耳に残った。


「私たち、とは?」


問いかける。


だが、相手はすぐには答えなかった。


代わりに、資料を閉じる。


「今は、まだ説明できません」


その返答に、青年の中で小さな疑問が生まれる。


なぜ説明できないのか。


何を隠しているのか。


しかし、それ以上に気になることがあった。


この人物は、自分を呼び出した。


そして、自分が経験したことを知っている。


それだけではない。


それだけでも十分に異常だった。


「一つだけ確認させてください」


相手が言った。


「あの夜、時計以外に何か変わったことはありませんでしたか」


青年は答えられなかった。


時計。


スマートフォン。


紙。


記録開始という文字。


思い返せば、異常は一つではなかった。


そして、自分が見えていなかったものが、まだあるのかもしれない。


青年は、初めて気づいた。


自分は異変に遭遇したのではない。


何かの始まりに、立ち会ったのだ。


そのことを。





青年は、目の前に置かれた資料から視線を上げることができなかった。


そこに書かれている文字の意味は理解できた。


ただ、その内容を受け入れることができなかった。


一九九九年。


世界各地で記録された、十三分間の異常。


その記録の一部が、目の前にある。


しかし、それだけではなかった。


資料の最後に、小さな文字で追記されていた。


『類似事象、継続中』


青年は、その一文を何度も読み返した。


「……まだ、続いているんですか」


自然と口から漏れた。


向かいに座る人物は、すぐには答えなかった。


窓の外へ視線を向ける。


街はいつも通り動いている。


人が歩き、車が流れ、信号が変わる。


誰も、この場所で話されている内容を知らない。


「続いている、という表現が正しいかは分かりません」


やがて、静かな声が返ってきた。


「ただ、過去に一度だけ発生した現象ではないことは確かです」


青年は資料へ視線を戻した。


昨日まで、自分の日常には存在しなかった世界。


時計が止まる。


存在しない記録が現れる。


そして、それを追っている人間がいる。


すべてが現実として繋がり始めていた。


「なぜ、自分なんですか」


青年は尋ねた。


それが一番知りたいことだった。


自分に特別なものがあるとは思っていない。


特別な才能があると思ったこともない。


平凡な生活を送ってきた。


何かを選ばれる理由など、自分にはないと思っていた。


ただ、あの夜そこにいただけだ。


だからこそ、理由が分からなかった。


相手は少しだけ沈黙した。


「現時点では、分かっていません」


予想していなかった答えだった。


もっともらしい理由を聞かされると思っていた。


しかし、返ってきたのは正直な言葉だった。


「分からない?」


「はい」


相手は資料を閉じた。


「私たちは、原因を探しています」


その言葉には、奇妙な重みがあった。


すでに何かを知っている人間の言葉ではない。


分からないものを追い続けている人間の言葉だった。


少なくとも、この人物は答えを知っているふりをしているわけではなかった。


「ただ、一つだけ分かっていることがあります」


相手は青年を見る。


「異常は、見た人間を選んでいるわけではありません」


一瞬、間が空いた。


「では……」


青年の問いを遮るように、相手は続けた。


「見つけた人間が、関わることになります」


その言葉の意味を、青年はすぐには理解できなかった。


自分は被害者でも、特別な存在でもない。


ただ最初に気づいてしまっただけなのだ。


だが、胸の奥に残っていた違和感と繋がるものがあった。


あの夜。


時計が止まった瞬間。


自分は何かを発見したと思っていた。


違った。


何かに発見されたのかもしれない。


青年は、窓の外を見る。


変わらない街。


変わらない日常。


その向こう側に、自分がまだ知らない世界が存在していた。


「これから、どうなるんですか」


青年の問いに、相手は少しだけ視線を落とした。


「それを確認するために、あなたに会いました」


机の上に新しい資料が置かれた。


そこには、一つの地名だけが記されていた。


青年は、その文字を見つめた。


知らない。


そのはずだった。


だが胸の奥では、ずっと前から知っていたような感覚だけが静かに残っていた。


その違和感だけが、妙にはっきりと現実だった。

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