表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
境界線 ―1999、世界は十三分止まった―  作者: 夕花
第一部『門』

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/22

残された時間

朝になっても、青年の中に残った違和感は消えていなかった。


目を覚ました瞬間、昨夜の出来事を、何かの間違いだと思おうとした。


時計が止まったこと。


スマートフォンに浮かんだ見覚えのない文字。


そして、あの時刻。


午後十一時三十一分。


どれも現実として受け入れるには曖昧で、夢として片づけるには妙に鮮明だった。


青年は、しばらく布団の中で天井を見つめていた。


いつもの朝なら、何も考えずに起き上がる。


顔を洗い。

服を選び。

決まった時間に家を出る。


そのはずだった。


しかし。


昨日まで当たり前だった行動の一つ一つが、どこか遠いものに感じられた。


青年は枕元のスマートフォンを手に取った。


画面には、いつも通りの時刻が表示されている。


通知もない。


履歴にも、変わったものは残っていない。


昨夜の記録は、どこにも存在していなかった。


青年は布団から起き上がり、机へ向かった。


机の上を見る。


白い紙はない。


《23:31》


そう書かれていたはずの場所には、何も残っていない。


最初から、何もなかったように。


青年は、しばらく机の前に立ち尽くしていた。


昨日の夜。


確かに自分は見た。


触れた。


感じた。


それなのに。


世界のどこにも、その痕跡は残っていない。


まるで、自分だけが取り残された時間を覚えているようだった。


証拠がない。


誰かに話しても、信じてもらえるとは思えない。


ただの故障。


疲労による見間違い。


そう言われれば、それで終わってしまう。


だからこそ、気になった。


あれほど確かに感じた違和感が、自分の記憶の中にしか残っていないことが。


青年は、いつものように外へ出た。


すれ違った管理人が軽く会釈する。


「今日も早いね」


その声には、近所の若い住人へ向けるような親しさがあった。


青年も軽く頭を下げ、そのまま駅へ向かった。


街は変わらなかった。


人は歩き、車は流れ、店は開いている。


昨日までと同じ朝だった。


駅へ向かう途中。


青年は、歩きながらニュース画面を開いた。


昨夜の出来事に関する情報がないか。


それを確かめずにはいられなかった。


理由は分からない。


ただ。


昨夜の出来事が、本当に自分だけのものだったのか。


それを確かめたかった。


そこに、小さな記事が表示されていた。


――都内の一部施設で、複数の時計が同時に停止。


原因は調査中。


記事は短く、扱いも小さかった。


大きな事故でもない。


誰かが騒ぐような出来事でもない。


青年は、無意識に画面を拡大した。


発生時刻。


午後十一時三十一分。


指が止まった。


偶然だと思った。


そう思いたかった。


けれど、胸の奥に残っていた違和感だけが、静かに答えを出していた。


あの時間は、自分の周囲だけで起きたものではなかった。





古い資料室には、時計の音だけが響いていた。


壁際に並べられた棚には、年代も種類も異なる記録が保管されている。


新聞の切り抜き。


手書きの報告書。


映像記録の一覧。


どれも、表向きには価値のないものだった。


説明できない出来事。


偶然で片づけられた現象。


誰かの勘違いとして処理された記録。


それらは、一つの場所に集められていた。


机の上に、一枚の資料が置かれる。


日付は古い。


一九九九年。


そこには、短い文章だけが残されていた。


『発生時刻 一六時四十二分』


『継続時間 十三分』


『確認事項 多数』


その下には、いくつもの項目が並んでいた。


しかし、その多くは黒く塗りつぶされている。


残された文字だけでは、何が起きたのか分からない。


分からないからこそ、記録は残され続けていた。


資料をめくる指が止まった。


同じ数字。


同じ時間。


偶然なら、ただの偶然で終わる。


しかし。


過去にも同じように「偶然」と呼ばれた出来事があった。


そして、そのたびに誰かが気づく前に記録から消えていった。


だから彼らは記録を残している。


忘れられる前に。


存在しなかったことにされる前に。


「また出たか」


低い声が、静かな部屋に響いた。


資料を確認していた人物は、新しく届いた報告書へ視線を落とす。


発生日時。


場所。


状況。


そして、共通して記された一つの数字。


《23:31》


しばらく、その数字を見つめる。


過去の記録には存在しない時刻だった。


だが。


その数字を見た瞬間。


彼は、初めてではない感覚を覚えていた。


以前にも。


時間に関係する異常を追ったことがある。


ただ、その記録には最後まで答えが残されなかった。


だが、無関係だとも思えなかった。


偶然なら、それで終わる。


しかし、この世界には時々、偶然では説明できないものが現れる。


だから記録する。


だから残す。


いつか、それらが一本の線になる日が来るかもしれないから。


資料を閉じる。


部屋には再び時計の音だけが残った。


その針は、静かに時を刻んでいた。


午後十一時三十一分へ向かうように。





その日の夜。


青年は、また時計を見ていた。


意識していたわけではない。


ただ、気づけば視線は壁へ向かっていた。


時計の針は動いている。


秒針は進み、数字は変わっていく。


昨日のような異常は起きていない。


それでも、安心することはできなかった。


一度知ってしまった違和感は、なかったことにはできない。


夢だったのかもしれない。


見間違いだったのかもしれない。


そう考えようとするほど、あの時間だけが鮮明に残っていた。


午後十一時三十一分。


その数字が、頭から離れなかった。


青年はスマートフォンを手に取る。


通知はない。


見覚えのない記録も残っていない。


昨夜の出来事を示すものは、何ひとつ存在しなかった。


画面を閉じようとした、その瞬間。


着信音が鳴った。


知らない番号だった。


青年は、しばらく画面を見つめる。


出る理由はない。


出る必要もない。


そう思った。


だが、その番号の一部に目が止まった。


偶然。


そう片づけることもできた。


それでも、指は動かなかった。


本当なら、無視するべきだった。


知らない番号。


意味不明な時間。


関わらない方がいい。


そう理解していた。


それでも。


もし、この電話を逃したら。


また昨日のように、自分だけが何も知らないままになる。


その可能性が、青年を動かした。


午後十一時三十一分。


昨日、何かが起きた時刻。


呼び出し音だけが、静かな部屋に響いている。


やがて、青年は通話ボタンに触れた。


「……もしもし」


返事は、すぐにはなかった。


数秒の沈黙。


その向こうで、誰かが息をする音だけが聞こえる。


『確認させてください』


低い声だった。


『昨日の夜、妙な出来事はありませんでしたか』


青年は言葉を失った。


誰にも話していない。


記録も残っていない。


それなのに、相手は何かを知っている。


『突然の連絡で申し訳ありません』


声は落ち着いていた。


『ただ、あなたと同じ時間に関する報告がありました』


その言葉だけが、妙にはっきり残った。


同じ時間。


それはつまり、自分だけの出来事ではないということだった。


青年は窓の外を見る。


街はいつも通りだった。


明かりが灯り、人が歩き、車が流れている。


何も変わらない夜。


だからこそ、その声の存在が現実味を持っていた。


『詳しい話は、直接お伝えします』


短い沈黙のあと、声が続く。


『近いうちに、お会いできませんか』


そこで通話は切れた。


残された画面には、発信履歴だけが残っている。


番号以外の情報はない。


青年は、もう一度時計を見る。


午後十一時三十一分。


その時刻は、まだ何も語らない。


ただ、昨日から続く違和感だけが、静かに残っていた。


そして青年は、まだ知らなかった。


あの十三分が。


過去の記録ではなく。


今も続いている出来事の一部だったことを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ