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境界線 ―1999、世界は十三分止まった―  作者: 夕花
第一部『門』

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2/29

午後十一時三十一分

夜の街は、昼間とは違う静けさをまとっていた。


人の声は少なくなり、車の流れも途切れ始めている。


それでも、完全に眠ることはない。


遠くで響くエンジン音。


閉店間際の店から漏れる明かり。


誰かの帰りを待つように灯る、住宅街の窓。


青年は、その中を歩いていた。


特別な一日ではなかった。


朝起きて、仕事へ向かい、決められた時間を過ごす。


誰かに褒められることもなければ、誰かに覚えられるような出来事もない。


ただ昨日と同じように今日があり、今日と同じように明日が来る。


そういう日々だった。


青年は、そんな日々に不満があるわけではなかった。


刺激がない代わりに、予想できる毎日がある。


明日も同じ時間に起きる。

同じ道を歩き、同じ場所で信号を待つ。

変化のない一日。

けれど、青年にとってそれは退屈ではなかった。


その程度の平穏を、青年は悪いものだとは思っていなかった。


駅から自宅までの道は、もう何度歩いたか分からない。


角を曲がる場所も、信号が変わる間隔も、無意識に分かる。


見慣れた景色。


聞き慣れた音。


変わらない夜。


コンビニのガラスに映った自分の姿が視界をよぎる。


疲れは隠せない。


それでも、鏡代わりのガラスに映る自分は、年齢より若く見える顔をしていた。


それが得だと思ったことは、一度もない。


そのまま視線を外し、青年は歩き続けた。


青年は腕時計を見る。


《23:31》


針は、いつも通り正確に時を刻んでいた。


青年は視線を戻し、また歩き出した。


その時刻が、自分の日常を終わらせる境界になることを。

青年は、まだ知らなかった。





青年は帰宅すると、部屋の明かりをつけ、いつものように荷物を机へ置いた。


何気なくスマートフォンへ視線を落とした、その時だった。


青年は、しばらく画面を見つめていた。


表示されている時刻は、確かに午後十一時三十一分だった。


時計の針も同じ場所を指している。


それだけなら、何も不思議ではない。


電池の消耗。

一時的な不具合。

単純な故障。


理由はいくらでも考えられた。


だが、妙だった。


部屋の中にあるすべての時計が、同じ時刻で止まっていた。


壁に掛けられた時計。


机の上の小さなデジタル時計。


電源を落としたはずの古い携帯電話。


どれも、午後十一時三十一分を示している。


偶然にしては、できすぎていた。


青年は立ち上がり、窓の外を見た。


街は動いている。


車のライトが流れ、人の声が聞こえる。


遠くでは、どこかの建物の明かりが消え、また点いた。


世界は何も変わっていない。


変わったのは、自分の周囲だけなのか。


そう思った瞬間だった。


スマートフォンが震えた。


着信ではない。


通知でもない。


ただ、一瞬だけ画面が点灯した。


表示された時刻。


午後十一時三十一分。


そして、その下に見覚えのない文字が浮かんでいた。


《記録開始》


青年は眉をひそめた。


その表示は、数秒もしないうちに消えた。


履歴には何も残っていない。


まるで、最初から存在しなかったかのように。


だが、胸の奥に残った違和感だけは消えなかった。


何かが起きている。


そう思わせるだけの違和感が、胸の奥に残った。


だが、それ以上に青年を不安にさせたものがあった。


もし。


これが自分の見間違いではなかったら。


もし。


明日になれば、何もなかったことにされるのなら。


その時、自分は何を信じればいいのか。


青年は初めて、時計ではなく、自分自身の感覚を疑った。


この時刻には、意味がある。


青年には、そう思えてならなかった。


午後十一時三十一分。


それは、ただ時計が止まった時間ではなかった。





青年は、もう一度時計を見た。


午後十一時三十一分。


数分前から、針は同じ場所に留まっている。


秒針だけが動かない時計なら、珍しくはない。


だが、これは違う。


時間が止まっているわけではない。


まるで、そこだけが時間から切り離されているようだった。


青年は机の上に置かれたスマートフォンを手に取った。


画面には、現在時刻が表示されている。


午前零時二分。


時計とは違う。


こちらは動いている。


つまり、止まっているのは部屋ではない。


この時刻だけだった。


午後十一時三十一分。


その数字を意識した瞬間、妙な既視感が胸の奥に残った。


初めて見るはずの数字。


なのに、以前から知っていたような感覚。


どこで。


いつ。


なぜ。


問いかけても、答えは出てこない。


青年は視線を落とした。


机の上に、一枚の紙が置かれていた。


覚えがない。


いつ置いたのかも分からない。


白い紙。


そこには、短い文字だけが書かれていた。


《23:31》


青年は息を止めた。


その言葉を見た瞬間、胸の奥で何かが繋がった。


だが、次の瞬間には、その感覚は消えていた。


青年は無意識に額へ手を当てた。


鏡でも見れば疲れ切った顔をしているはずだ。


その顔を見ても、初対面では決まって実年齢より若く見られる。


今はそんなことに意味はない。


思い出せない。


何かを忘れている。


そう感じるだけだった。


忘れていることが怖かった。


人は、知らないものよりも。


一度知っていたはずのものを失うことの方が怖い。


青年には、その紙に書かれた数字が、自分の知らないものではなく。


自分の知らない場所に、以前から置き忘れていた何かのように感じられた。


紙を手に取る。


裏返しても、何もない。


筆跡にも見覚えはない。


ただ、その文字だけが確かに存在していた。


青年は窓の外を見る。


夜の街は、何も知らずに流れている。


車の音。


遠くの話し声。


誰かの笑い声。


すべてがいつも通りだった。


だからこそ、不気味だった。


この世界のどこかで、自分だけが知らない何かが起きている。


そんな感覚が消えなかった。


時計を見る。


午後十一時三十一分。


まだ、そこにある。


その数字は、ただの時刻ではなかった。


この夜の出来事を。

後になって何度も思い返すことになることを。


そして。


この時刻が、自分の日常と何かの境目になっていたことを。


青年はまだ知らなかった。

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