境界の手前
三人はしばらく、入口の失われた場所に立っていた。
その後方では、支援班が外部観測用の機材を展開している。車両側との通信、周辺の位置記録、三人が携行する機器の反応は、それぞれ別の担当者が監視していた。
やがて神崎が斜面から視線を外し、進入側で使用する機材を地面へ下ろした。
「ここを基準点にします」
佐伯が斜面を振り返る。
「入口があった場所を?」
「正確には、以前の調査で入口を確認した地点です。保存されていた座標とは一致していません」
神崎は携行していた機器を取り出し、周囲を確認しながら設置位置を決めていく。
前回確認された入口は、現在の斜面には見当たらない。
だが、それだけで調査を終えるわけではなかった。
一九九九年に残された記録と、現在の地形。
以前の調査では、入口は保存座標からずれた位置に現れていた。
過去の記録と現在の測定結果を照合するためには、まず現在の位置を一つの基準として定める必要があった。
青年と佐伯も、進入側で使用する機材を運ぶ。
地面の状態を確認し、神崎の指示に従って、基準点から持ち出す機器を間隔を空けて配置した。
特殊な処理を行うものではない。
現在位置と方位、基準点からの距離を測定し、保存記録と比較する。そのための道具にすぎなかった。
神崎はすべての機器が作動していることを確認すると、最初の測定結果を記録した。
「現在位置を確定します」
表示された数値と、一九九九年の記録が重ねられる。
二つの位置は一致しなかった。
それ自体は、想定されていた結果だった。
以前の調査でも、記録上の座標と実際に入口が発見された位置にはずれがあった。目の前の斜面を基準とすれば、一九九九年に六名の記録が途切れた座標は、ここから離れた場所に示されている。
「この方向ですか」
佐伯が、木々の向こうへ視線を向けた。
「現在の測定結果を基準にすれば」
神崎はそう答えたあと、別の機器へ目を移した。
その手が止まる。
青年からは、二つの表示に並んだ数字までは読み取れなかった。ただ、神崎がすぐに次の操作へ移らなかったことで、何かが合っていないことは分かった。
「どうしましたか」
青年が尋ねる。
「位置情報が一致していません」
神崎は二台の機器を順に確認した。
「どのくらいですか」
「許容誤差をわずかに超えています」
佐伯が二つの機器を見比べる。
「どちらかがずれている?」
「その可能性を確認します」
神崎は一方の機器を基準点へ戻し、設定と校正記録を確かめた。続いてもう一方にも同じ確認を行う。
異常を示す警告は出ていない。
作動状態にも問題はなかった。
神崎は設置位置を変え、同じ地点を再び測定した。
今度は、二つの結果が一致した。
「戻ったんですか」
佐伯が尋ねる。
「少なくとも、現在の測定では」
神崎は記録を消さず、先ほどの数値と並べて保存した。
青年は周囲を見渡した。
木々の位置も、地面の傾きも変わっていない。測定のあいだに、三人が場所を移したわけでもなかった。
風に揺れた葉が、斜面の上から一枚落ちる。
それ以外には、何も起きていない。
「故障ではないんですか」
青年が聞くと、神崎は機器から目を離さずに答えた。
「現時点では確認できません。どちらも校正範囲内で作動しています」
「では、最初の数値が間違っていた?」
「そうとも判断できません」
神崎は先ほど記録した結果を示した。
「機器が正常だからといって、表示された位置が必ず現実の位置と一致しているとは限りません。ただし、一度の不一致だけで異常とも断定できない」
表示値そのものが正しいのか。
測定対象となる場所が、同じ基準で測れる状態にあるのか。
今の段階では、そのどちらも確認できていなかった。
神崎は斜面の前の基準点へ観測機器を一台追加し、周辺の測定を始めた。
最初に、保存座標が示す方向から測定範囲を広げていく。
木々の間を抜け、足元の傾斜に合わせて進路を変える。神崎は一定の間隔で立ち止まり、基準点からの位置と移動量を記録していった。
佐伯も周囲を見ながら歩いていた。
「何か覚えていますか」
青年が尋ねる。
「今のところは」
佐伯は近くの木へ視線を向けたあと、首を横へ振った。
「地上の景色をどこまで見ていたのかも、はっきりしません。ここが当時と同じ場所だとしても、二十七年前のままではないでしょうし」
青年もうなずいた。
記憶と現在の景色が一致しないことは、異常の証拠にはならない。
同時に、何も思い出せないことが、場所の違いを証明するわけでもなかった。
神崎が再び足を止める。
手元の機器を確認したあと、後方の基準点へ視線を戻した。
「もう一度測ります」
三人はその場を動かず、測定が終わるのを待った。
先ほどまで一致していた複数の表示に、再びわずかな差が生じていた。
一方では、基準点から予定どおりの距離を移動したことになっている。
もう一方では、それよりわずかに遠い。
方位にも小さなずれがあった。
いずれも、単独で見れば大きな差ではない。山中の移動だけを考えれば、人間の感覚では見過ごしてしまう程度だった。
だが、局の専用機器が定める許容範囲には収まっていなかった。
「またですか」
佐伯の問いに、神崎はうなずいた。
神崎は再び機器と設置状態を確認した。
だが、測り直した結果は許容範囲内で一致し、不一致を再現することはできなかった。
それでも、二度目の記録は残された。
「どちらを正しい記録として扱うんですか」
青年が尋ねる。
「どちらかを選ぶことはしません」
神崎は答えた。
「機器自体に異常は確認されていない。その状態で、同じ地点に対する複数の測定結果が同時には成立しなかった。その事実を記録します」
原因は、まだ分からない。
機器の故障とも。
通常の測定誤差とも。
場所そのものに生じた異常とも断定できない。
それでも、単に数値が正しくなかったとして捨てることはできなかった。
神崎は周辺地形を示す記録へ、測定した地点を書き加えた。
「範囲を広げます」
「記録座標まで行くんですか」
佐伯が尋ねる。
「一度にそこだけを目指すことはしません。入口の確認地点を中心に、周囲の測定結果をつなげます」
周辺を順に測定したが、一九九九年の保存記録と現在の地形を結びつける新たな一致は確認されなかった。
先ほどの不一致だけが、記録の中に残されている。
青年は歩きながら、何度か後ろを振り返った。
入口の失われた斜面は、まだ木々の間に見えていた。
遠ざかった分だけ、小さくなっている。
それだけのはずだった。
「どうしましたか」
佐伯が足を止めた。
「いえ」
青年は答えかけ、もう一度斜面を見た。
先ほどまでより近く見える。
三人が戻った覚えはなく、機器の移動記録にも変化はない。
青年は数歩進み、再び振り返った。
今度は、元の距離に見えた。
「何か見えましたか」
神崎が尋ねる。
「見えたわけではありません」
青年は、斜面と自分たちの足元を交互に見た。
白い線もない。
入口も現れていない。
景色そのものは、何も変わっていなかった。
「距離が、少し変わったように感じました」
神崎はすぐに斜面へ機器を向けた。
測定結果は、それまでの移動記録と一致していた。
佐伯も同じ方向を見たが、何かを感じた様子はなかった。
「今はどうですか」
「元に戻っています」
青年が答えると、神崎はその言葉も時刻と位置に結びつけて記録した。
機器上では変わらない距離。
青年だけが覚えた、わずかな違い。
どちらか一方を、もう一方の証明として扱うことはできない。
三人は再び歩き始めた。
青年は振り返らなかった。
それでも、背後に残した斜面までの距離を、もう一度確かめたいという感覚だけは消えなかった。
三人は斜面から離れる方向へ歩き続けた。
青年は背後を確かめたい感覚を残したまま、神崎の持つ機器へ目を向ける。表示されている移動量に変化はなく、現在位置も、先ほど再測定した結果から連続していた。
少なくとも、機器の上では。
先を歩いていた神崎が足を止めた。
「ここを次の測定点にします」
青年と佐伯も立ち止まる。
斜面に沿って進んできたはずだった。
だが、青年の右手には、先ほどまで見えていなかった地面の切れ目があった。
崖と呼べるほど深くはない。土の斜面が途中で途切れ、その先が一段低くなっている。倒木と下草に覆われ、以前からそこにあったようにしか見えなかった。
「これは、地形図にありますか」
青年が尋ねると、神崎は周辺記録を開いた。
「ありません」
佐伯が切れ目の手前まで進み、足元を確かめる。
「さっき、ここを通りませんでしたか」
「この近くは通っています」
神崎は答えた。
「ですが、この段差は確認していません」
見落とした可能性はある。
三人とも、常に同じ方向を見ていたわけではない。木々と斜面に遮られた山中なら、わずかな地形の変化に気づかなくても不自然ではなかった。
それでも青年には、その説明だけでは足りないように思えた。
切れ目の向こうに立つ木が、近すぎた。
目で見れば数メートル先にある。だが、幹の太さや枝の重なりは、もっと離れた位置から見ているようでもあった。
青年が一歩横へ動く。
木の見え方は変わらない。
もう一歩進むと、今度は急に遠く見えた。
「神崎さん」
呼びかけるのと同時に、複数の機器から警告音が鳴った。
神崎が表示を確認する。
先ほどまで一つだった現在位置が、重ならない複数の値に分かれていた。
基準点からの距離。
進行した方位。
標高。
同じ三人を測定しているにもかかわらず、機器ごとに異なる現在位置と位置関係が示されていた。
「全員、その場を動かないでください」
神崎の声に、佐伯が足を止める。
三人は互いに見える範囲にいた。青年から神崎までは数歩。佐伯も、その少し先にいる。
だが、一台の機器では佐伯が青年より基準点に近く、別の機器では最も遠い位置にいた。
「機器の異常ですか」
佐伯が尋ねる。
「現時点では判断できません。機器側の問題なら、複数が同時に異常を起こしていることになります」
神崎は基準点との照合を試みた。
警告音が途切れる。
表示が一度消え、再び現在位置を示した。
値は戻らなかった。
それどころか、先ほどとは異なる位置に変わっている。
青年は周囲を見た。
木々も、斜面も、地面の切れ目も、動いた瞬間は見ていない。
それでも、神崎との距離は先ほどより遠く見えた。
青年がそう認識した時には、二人のあいだに一本の木が立っていた。
「今、動きましたか」
青年が尋ねる。
「動いていません」
神崎が答える。
佐伯も首を横へ振った。
木は以前からそこにあったように地面へ根を張っている。周囲には落ち葉が積もり、幹には苔がついていた。
突然現れたようには見えない。
それでも、少なくとも青年の記憶では、数秒前まで自分と神崎のあいだに木はなかった。
神崎が通信機を取り出す。
「現地班から局へ。周辺地形と位置情報に継続的な不一致を確認。複数機器で現在位置を確定できません」
返答までに、わずかな間があった。
雑音が混じる。
『こちらでも確認しています』
局側の声は聞き取れた。
だが、その途中へ同じ言葉が重なった。
わずかにずれた二つの声が続き、同じ音声が三重に聞こえる。
神崎が通信記録を確認する。
「受信記録には、同じ内容が三件残っています」
『こちらの送信記録は一件です』
その返答も、異なる間隔で重なった。
青年は通信機から視線を上げた。
風は吹いている。
木々も揺れている。
それなのに、枝の動きと葉の擦れる音が一致していなかった。目の前の枝が揺れたあと、別の方向から音が届く。
単に遅れて聞こえたのとは違うように思えた。
枝のある方向と、音が届いた方向が一致していない。
神崎は通信を維持したまま、局側へ観測状況を尋ねた。
『青森の別地点でも、位置情報の不一致を確認しています』
そこで言葉が途切れる。
別の声が入り、何かを伝えた。
『訂正します。青森だけではありません。国内の複数地点から、同種の報告が入っています』
「発生時刻は」
『ほぼ同時です』
神崎の表情がわずかに硬くなった。
「観測地点に共通条件はありますか」
『確認できません。異常候補地点以外からも報告があります』
通信の向こうで、複数の声が重なっていた。
測定地点間の距離が一致しない。
同じ区間を往復した車両でも、記録された移動距離が許容範囲を超えて食い違う。
固定されているはずの観測設備同士の位置関係が変化している。
いずれも、建物や道路が崩壊したという報告ではなかった。
そこにあるものは残っている。
ただ、それらがどこにあり、互いにどれだけ離れているのかを、一つに定められなくなっていた。
「局の観測範囲だけですか」
神崎が尋ねる。
返答はすぐにはなかった。
通信機から雑音が消える。
短い沈黙のあと、局側の声が戻った。
『海外の観測機関からも照会が来ています』
青年は神崎を見た。
『複数地域で、位置、距離、方位に関する記録が一致していません。現時点で範囲を確定できませんが、局地的な現象ではありません』
神崎は周囲へ視線を向けた。
山中の景色は、一見しただけなら何も変わっていない。
木々は倒れていない。
地面も崩れていない。
空の色も、流れる雲も、それまでと同じだった。
それでも、それらの位置関係を一つの記録として定めることができなくなっていた。
「調査を中止しますか」
佐伯が尋ねた。
神崎はすぐには答えなかった。
局側へ現在の記録を送信し、周囲の測定結果と通信状態を確認した。
その間にも、機器の表示は変わり続けていた。
一つの値へ戻るもの。
二つに分かれるもの。
測定範囲外を示すもの。
どれも故障を知らせる表示ではない。各機器は測定値を出力し続けているが、その結果は同時には成立しなかった。
青年は足元を見た。
先ほどまであった段差は消えていた。
その代わり、少し先の斜面が、木々のあいだで唐突に途切れて見えた。
変わる瞬間は見ていない。
気づいたときには、別の配置が成立していた。
佐伯も同じ場所を見ていた。
「さっきとは違います」
「はい」
青年が答える。
神崎は二人の視線の先を確認し、その変化も記録した。
「局から現地班へ」
通信機から声が届く。
今度は重ならなかった。
『海外を含む観測情報を照合中です。影響範囲は、現時点では限定できません』
神崎は通信機を握り直した。
「世界規模の可能性は」
数秒の沈黙があった。
『否定できません』
その返答を聞いた瞬間、青年には、一九九九年の十三分が思い浮かんだ。
世界中の時間が止まったとされる異常。
二十七年を経た現在も、何が起きたのか説明できていない出来事。
だが、今起きているのは、時間の停止ではなかった。
場所が、一つに定まらない。
それも、この山の中だけではなく、ほぼ同じ時刻に国内外で確認され始めている。
三人が青森へ来たことと、異常の発生が関係しているのかは分からない。
青年と佐伯が同じ場所にいることが、何を意味するのかも確認できていない。
ただ、入口の失われた地点を調べ始めた直後に、局所的だった不一致と同種の報告が、国内外から入り始めた。
神崎は通信機を握ったまま、青年と佐伯を見た。
「一九九九年とは異なる形で、世界規模の異常が始まっている可能性があります」
誰も答えなかった。
目の前の景色は壊れていない。
だが、一つに定まらない場所は、すでにこの山の中だけではなかった。
神崎が通信機から視線を上げた。
その先に、入口があった。
先ほどまで木々と斜面が続いていた場所に、灰色の平らな面が立っている。
周囲の地面が崩れた形跡はない。木々が押し退けられた様子もなかった。
壁面の中央には、奥へ続く開口部がある。
いつ現れたのか、青年には分からなかった。
変化する瞬間を見た記憶はない。
気づいたときには、それが以前からそこにあったように、斜面の一部へ組み込まれていた。
「神崎さん」
青年が呼びかけるより先に、神崎は機器を入口へ向けていた。
機器の表示には、入口に対応する新たな反応はない。
現在位置を示す数値も、なお一つには定まらなかった。
神崎が局へ状況を伝えると、今度はすぐに返答があった。
『映像を受信しています。入口の出現時刻は特定できません』
「直前の映像は残っていますか」
『残っています。同じ位置には斜面が記録されています。ただし、二つの映像で周辺地形の対応点が一致しません』
神崎は測定結果と、入口内部の映像を送信した。
短い確認のあと、局から返答が届く。
『現地責任者の判断で、入口付近までの確認を許可します。通信または相互確認が失われた場合は、直ちに撤退してください』
「外から測定を続けても、入口の位置を確定できません」
神崎は答えた。
「局との通信を維持し、進入記録を残します。通信が途絶した場合、または三人の位置関係を目視でも維持できなくなった場合は引き返します」
神崎は通信先を現地支援班へ切り替えた。
「支援班は入口の外側と基準点に残ってください。三名の反応、映像、音声を継続監視。いずれか一系統でも途切れた場合は、本局へ即時報告してください」
『了解。入口側二名、基準点三名、車両側二名で監視を継続します』
「こちらから撤退を報告できない場合も、内部へ追って入らないでください。最後に確認できた位置と記録を保持し、救助手順へ移行してください」
『了解しました』
神崎は応答を確認してから、佐伯と青年を見た。
佐伯が入口を見る。
「この先が、原因につながっているとは限りません」
「はい」
神崎は否定しなかった。
「ですが、局が現在把握している範囲では、内部を確認できるのはこの入口だけです」
神崎が先頭に立った。
青年が続き、佐伯が最後に入口を越える。
足裏の感触が変わった。
湿った山の土から、硬く平らな床へ移る。
内部は外から見たよりも広かった。
三人が並んでも余裕のある通路が、照明の先まで続いている。壁面は床と同じ灰色で、人工的に整えられた面にも、岩盤を削り出した跡にも見えた。
青年は後ろを振り返った。
入口の向こうに、木々と斜面が見えている。
まだ外へ戻れる。
そう確認して前を向き、数歩進んだ。
神崎が立ち止まる。
「現在位置を記録します」
三台の機器が測定を始める。
入口からの移動距離は、それぞれ異なっていた。
七メートル。
十二メートル。
二十六メートル。
三人が実際に歩いた歩数から見積もられる距離と、一致するものはなかった。
神崎は入口を基準に再測定した。
数値は変わったが、一つには戻らなかった。
「外へ出ますか」
佐伯が尋ねる。
「一度、入口を確認します」
三人が振り返る。
そこに、外はなかった。
通路が右へ曲がっていた。
入口からここまで、曲がり角は通っていない。
三人は直線の通路を進んできたはずだった。
それでも背後には壁が続き、その先で通路が折れている。
外へ続いていたはずの位置に入口はなく、代わりに別の経路が見えていた。
佐伯が曲がり角へ照明を向けた。
「さっき、ここを通りましたか」
「いいえ」
青年は答えた。
少なくとも、青年の記憶にはない。
神崎も首を横へ振った。
局との通信は、まだつながっている。
「現地班から局へ。進入後、背後の経路が変化。入口を目視できません」
『こちらの映像では、三名は入口から約四メートルの位置にいます』
青年は周囲を見回した。
入口はない。
四メートル先に外があるようにも見えなかった。
『ただし、個別の位置情報が一致していません。神崎さんは入口の内側、佐伯さんは外側、青年は――』
声が止まった。
「どう表示されていますか」
『複数の位置に分かれています』
青年は自分の足元を見た。
床は一つしかない。
身体が複数に分かれている感覚もなかった。
神崎と佐伯も、すぐ近くに立っている。
「俺は、どこにいるように見えますか」
「そこです」
神崎は青年の位置を示した。
佐伯も同じ場所を見ていた。
しかし、青年が二人までの距離を確かめると、その認識は一致しなかった。
神崎は背後を確認した。
「通信と相互確認は維持できています。ただし、入口を確認できません。これ以上の進入は中止します」
神崎は通信機を持ち直した。
「現地班から局へ。進入後、外へ続いていた経路が変化。入口を目視できません。以後は退路の探索へ切り替えます」
神崎は、目視による位置関係と各機器の記録をすべて局へ送った。
「互いの姿と声を維持し、外へ通じる経路を探します。以後、姿が見えていても距離を信用しないでください。離れず、声でも位置を確認します」
三人は歩き始めた。
右へ曲がったはずの通路は、角を越えるとまっすぐ延びていた。
青年が振り返る。
曲がり角は消えていた。
先ほどまで背後にあった壁もなく、同じ灰色の通路が遠くまで続いている。
変わる途中は見えなかった。
角を曲がった瞬間、別の構造がすでに成立していた。
神崎は一九九九年の保存記録と、進入後の移動量を照合していた。
通常機器が示す現在位置は一致しない。
一台は地上の斜面付近を示し、別の一台は保存された調査範囲の外側を示している。局側が受信している位置も、同じ時刻に複数へ分かれていた。
ただ一つ、一九九九年の記録を基準とした移動方向にだけ、一定の偏りが残っていた。
「記録が途切れた地点に近づいているんですか」
青年が尋ねる。
「そう見える結果があります」
神崎は慎重に答えた。
「この方向が出口につながるんですか」
「分かりません。保存記録上では、記録が途切れた地点へ近づく傾向だけが残っています」
神崎は通信機を持ち直した。
「現地班から局へ。退路を示す経路は確認できません。保存記録との比較にのみ継続した偏りがあります。三名の相互確認を維持し、その方向へ進みます」
正しい進路を示しているわけではない。
機器が、目的地を案内しているわけでもない。
一九九九年に保存された位置と、今の移動記録を比較した結果が、同じ方向への偏りを残しているにすぎなかった。
三人は声が届く距離を保ち、通路を進んだ。
床の感触が変わった。
青年が足元を見ると、灰色だった床が黒い石へ変わっている。振り返れば、壁も同じ材質になっていたが、変化した境目は見つけられなかった。
機器の示す現在位置は、なおも互いに両立しない。
ただ、保存記録との比較では、六名の記録が途切れた地点までの距離が、またわずかに縮まったように見えた。
黒い石の通路は、照明の届く先まで続いていた。
通常機器が示す現在位置は、なおも一致していない。
保存記録との比較に残る傾向だけは、先ほどから変わらなかった。
だが、その結果が正しいかは分からない。
目の前の通路が、記録上のどこに当たるのかも確定できなかった。
先頭を歩いていた神崎が、分岐の手前で足を止める。
左右へ分かれた通路は、どちらも同じ幅に見えた。壁と床の材質にも違いはなく、照明の届く範囲に目印となるものはない。
神崎が機器を確認するより先に、佐伯が左へ身体を向けた。
一歩踏み出しかけ、止まる。
「佐伯さん?」
青年が呼びかけると、佐伯は自分の足元を見た。
「今、こちらだと思いました」
「何か見えましたか」
神崎が尋ねる。
「いいえ」
佐伯は左側の通路へ視線を戻した。
「見えたわけではありません。ただ、こっちへ進むつもりでいたような気がして」
神崎は左右の通路を測定し、保存記録と照合した。
瞬間的な測定値は一致しなかった。一台では左の通路が記録消失地点へ近づき、別の一台では右へ進んだ方が距離を縮める。
ただ、進入後から継続して保存している相対移動の記録は、左側にのみ、それまでと同じ偏りを残していた。
「左へ進みます」
神崎が決めた。
「ただし、佐伯さんの感覚を進路の根拠にはしません。記録との一致は別に扱います」
「分かりました」
左の通路へ入る。
数歩進んだところで、青年は壁の形が変わっていることに気づいた。
黒い石の一部に、灰色の平らな面が混ざっている。
初めは細い帯だったものが、先へ進むほど広がり、やがて壁の下半分を占めた。黒い石との境目は、途切れることなく先へ続いている。
神崎が照明を向けた。
灰色の面には、浅い窪みが等間隔に並んでいた。
佐伯の足が止まる。
呼吸が、わずかに浅くなった。
「覚えていますか」
神崎が尋ねた。
佐伯はすぐには答えなかった。
壁の窪みを目で追い、手を伸ばしかける。だが、触れる前に腕を下ろした。
「同じものを見た気がします」
「どこで」
「地下へ入ったあとです」
神崎は保存されている構造図を開いた。
六名が進んだ経路の途中に、壁面の反復形状が記録されている。形と間隔は、目の前の窪みに近かった。
完全には一致しない。
記録では窪みの数が一つ多く、通路の幅も現在より狭い。それでも、ここまで現れた構造の中では、初めて一九九九年の記録と複数の特徴が重なっていた。
「当時の場所ですか」
青年が尋ねる。
「そうとは言えません」
神崎は答えた。
「一部の配置が保存記録と似ています。ただ、現在位置も周囲の構造も確定できていません」
佐伯は窪みの並ぶ壁を見たままだった。
「分かりません」
三人は先へ進んだ。
通路を曲がるたび、低くなった天井、右側だけがわずかに沈んだ床、一定の間隔で途切れる壁面が現れた。
保存記録と一致するものもあれば、一部だけが異なるものもある。灰色の通路の途中へ黒い石の壁が入り、次に振り返ったときには、その黒い部分がなくなっていた。
別の場所へ移動した感覚はない。
一九九九年の地下区域へ入ったと断定できる変化もなかった。
変わり続ける構造の中へ、二十七年前に記録された配置が繰り返し混ざっていた。
佐伯が突然、足を止めた。
「下がっています」
青年には、前方にまっすぐな床が続いているようにしか見えなかった。
神崎が照明を向ける。
数歩先で、床が一段低くなっていた。
「見えていましたか」
「まだ見えていませんでした」
佐伯は答えた。
「でも、ここには段差があると思いました」
神崎が保存記録を確認する。
同じ形の段差が、六名の進入経路に記録されていた。位置関係まで同一とは確定できないが、その先には左へ続く通路が記されている。
三人が段差を下りる。
照明の先に、記録と似た分岐が見えた。
神崎が左へ進路を取る。
佐伯は、その先を確かめるように見つめていた。
「ここも知っているんですか」
青年が尋ねた。
佐伯は新たに現れた通路を見つめた。
「知っている、とは言えません」
声は落ち着いていた。
「でも、まだ変わっていないと思いました」
青年には、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
青年にとっては、壁もその先の通路も初めて見る景色だった。それでも佐伯は、壁の向こうに何があるのかを、確認する前から感じ取っていたように見えた。
三人が通路へ入る。
周囲から黒い石が消えた。
床も壁も、灰色の平らな面へ戻っている。照明の先には低い天井と狭い通路が続き、一九九九年の構造記録に似た配置が増えていた。
神崎が歩みを止める。
「記録消失地点との比較結果が変わりました」
複数機器の現在位置は、依然として両立していない。
一方は地上付近を示し、別の一台は保存された調査範囲の外側を示している。移動距離も方位も一致しない。
だが、一九九九年の保存経路だけを基準にすると、記録が途切れた地点は前方に示されていた。
神崎が照明を向ける。
光の先で、床を横切る細い黒い帯が見えた。
扉も、目立った設備もない。
ただ、そこだけが周囲の灰色とは異なっていた。
「見えますか」
佐伯が尋ねる。
「ここで、私の記録が途切れたんですか」
「保存記録を現在の構造へ重ねるなら、あの付近です」
佐伯に苦痛を訴える様子はなかった。
青年自身も、周囲の音や床を踏む感触に変化を感じていない。
神崎が機器の記録を確認しながら、ゆっくりと歩き始める。
佐伯も続いた。
青年は照明の向きを前へ戻し、二人のあとを追った。
床を横切る黒い帯までは、まだ距離が残っていた。
佐伯がわずかに顔を動かした。
何かを確かめるように、青年のいる方へ視線を向けかける。
青年は、そのまま一歩を踏み出した。
佐伯は、前方の黒い帯を見つめていた。
保存記録を現在の構造へ重ねれば、あの付近が自分の位置情報が途切れた地点に当たる。
実際に同じ場所かは分からない。
それでも、二十七年前に記録が途切れた地点へ近づいているような気がした。
青年は、少し後ろを歩いているはずだった。
「あなたは、あの場所をどう思いますか」
返事はなかった。
佐伯は一歩進みかけ、足を止めた。
「聞こえましたか」
もう一度呼びかけながら振り返る。
青年の姿がなかった。
照明に照らされた通路が、遠くまで続いている。
青年がいた場所には、何かが通過した形跡も、空気が動いた気配もなかった。
「神崎さん」
佐伯の声に、神崎が足を止めた。
振り返った神崎の照明が、青年のいたはずの場所を横切る。
誰もいない。
神崎はすぐに数歩戻り、床と壁面へ光を向けた。
落とした機材もない。
足跡が途中で消えた様子もなかった。
青年が歩いていた位置だけが、最初から誰もいなかったかのように空いている。
神崎が通信機を取った。
「現地班から局へ。同行者一名を視認できません」
短い雑音のあと、局側の声が返る。
『対象を確認します』
神崎は青年がいた位置を見たまま、返答を待った。
佐伯も同じ場所へ照明を向けている。
誰もいない。
『三名分の反応を確認しています』
神崎の視線が、手元の機器へ落ちた。
「位置を確認してください」
『二名は現在位置と一致。残る一名は、二名の後方です』
神崎と佐伯が同時に振り返る。
示された方向には、灰色の通路が続いていた。
青年はいない。
照明を動かしても、人影も、持っていた機材の反射も見えなかった。
「距離は」
神崎が尋ねる。
局側から数値が伝えられる。
それは、青年が消える前に歩いていた位置とほぼ重なっていた。
佐伯は何もない場所を見つめた。
反応だけが残っている。
そこにいるはずの青年だけが、どこにもいなかった。
2026/08/02 青森探索の体制の整備に伴い本文修正
2026/08/02 9章との接続部分の整合性修正




