行く理由 -後編-
「母と神崎さんが行く理由は、分かりました」
美琴は、青年から視線を外さなかった。
「でも、あなたは違いますよね」
青年は返事をせず、次の言葉を待った。
「調査局の人ではない。当時、母と一緒に地下へ入ったわけでもない」
美琴はそこで言葉を切った。
「あなたは、なぜ青森へ行くんですか」
卓上には、途中で途切れた地下の図面が広げられている。
六名の記録が失われた場所。
すでに入口も施設もなく、そこへ行けば何かが見つかると決まったわけでもない。青年にも、そのことは分かっていた。
「最初は、自分に起きたことを知りたかったからです」
青年は答えた。
「最初は?」
「異常に関わったのは、自分の意思ではありませんでした」
現実の時刻とは異なる《23:31》。
調査局に残されていた観測記録。
青森で確認された未知の施設と、その先で起きたこと。
始まりを一つに決めることはできなかった。ただ、青年が自分から異常を求めたのではないことだけは確かだった。
「それまで、時間異常のことも、調査局のことも知りませんでした。何が起きているのか分からないまま、調べることになりました」
「神崎さんに頼まれたから?」
「それだけではありません」
青年は神崎を見た。
神崎は何も言わず、青年へ説明を委ねていた。
「自分にしか見えていないものがありました。自分の周囲で起きた変化もあった。だから、知らないままにはできなかったんです」
「それが、今も続いている?」
「分かりません」
美琴の眉がわずかに寄る。
「分からないのに行くんですか」
「終わったとも確認できていません」
青年は言った。
異常な表示が消えたあとも、解けていないものは残った。
佐伯の帰還前後に生じた記憶の欠落。
青森で所在を確認できなくなった五名。
α世界とα′世界に残された、同じ日、同じ時刻の異なる記録。
青年の接近によって変化し、離れると不安定になった照合枠。
それらがどこまで関係しているのか、今も確定していない。
「俺が近くにいるときだけ、状態が変わった記録があります」
「あなたが原因ということですか」
「そこまでは分かっていません」
青年は首を横へ振った。
「自分が何かを起こしたのか、起きていたものに反応しただけなのか。それも確認できていません」
美琴は神崎へ視線を移した。
「本当ですか」
「はい」
神崎が答える。
「彼の接近と同じ時間帯に変化が確認されています。ただし、因果関係は確定していません」
「青森でも、同じことが起きるかもしれない?」
「可能性は否定できません。起きない可能性もあります」
神崎の答えを聞き、美琴は再び青年を見た。
「だったら、行かないほうが安全なんじゃないですか」
その問いに、青年はすぐには答えられなかった。
自分が同行しなければ、同じ反応は起きないかもしれない。
反対に、自分がいなければ確認できない変化があるかもしれない。
どちらも推測にすぎなかった。
「そうかもしれません」
青年が答えると、美琴の表情が硬くなった。
「それでも行くんですか」
「はい」
「どうして?」
青年は局員ではなく、現地調査の技術を持つわけでもない。二十七年前の青森を知る当事者でもなかった。
神崎の説明を聞き、結果だけを待つこともできる。
何かが判明したときに連絡を受けるだけでもよかった。
それでも青年は、青森へ行くことを選んだ。
「佐伯さんが向こうで会った人と、俺のあいだに、何らかの対応があるかもしれないと言われています」
美琴の視線が止まった。
驚きよりも先に、確かめるような表情が浮かぶ。
「母から少し聞きました。同じ人かもしれないって」
「同じ人だとは確認されていません」
青年はすぐに訂正した。
「佐伯さんは、その人の顔も名前も覚えていません。残っている状況や記録から、自分との関係が疑われているだけです」
美琴は隣の佐伯を見た。
「お母さんが向こうで会った人と、この人が同じだと分かったわけじゃないの?」
「ええ」
佐伯が答えた。
「あの人がいたことは覚えている。でも、今ここにいる彼と同じ人物なのかは分からない」
「似ているかどうかも?」
「顔を思い出せないから、比べられないの」
美琴は青年へ向き直った。
「では、あなた自身も、その人のことを知らない?」
「会った記憶はありません」
青年は答えた。
「何をした人なのかも、佐伯さんに何を話したのかも、はっきりとは分かっていません」
佐伯が覚えているのは、向こうにその人物がいたこと。
そして、その人物が佐伯の帰還を望んでいたことだった。
人物を特定できる顔や名前、交わした細かな会話は失われている。
それ以上を、青年が自分の経験として語ることはできなかった。
「それなのに、自分と関係があると思っているんですか」
「関係があると決めているわけではありません」
「でも、無関係だとも思っていない」
「はい」
青年は一度、言葉を止めた。
「佐伯さんが戻るまでに起きたことと、俺の周囲で確認された異常には、いくつか重なる部分があります。ただ、それが何を意味するのかは分かっていません」
「その答えが青森にあると?」
「あるとは言えません」
美琴の眉間に、再びしわが寄った。
「神崎さんも、あなたも、そればかりですね」
「すみません」
青年が答えると、美琴は小さく息を吐いた。
「謝ってほしいわけではありません」
責める声ではなかった。
ただ、母が向かおうとしている場所に、確かなものがあまりにも少ない。その事実を一つずつ確かめるたびに、不安の置き場を失っているように青年には見えた。
「青森へ行けば、俺とその人の関係が分かるとは思っていません」
青年は続けた。
「入口がまた現れるとも、何かが待っているとも考えていません」
「では、何を確かめるんですか」
「自分が関わっているのかどうかも含めてです」
美琴は黙っている。
「これまでに起きた変化の中には、俺がいたことを無視できないものがあります。でも、それが何を示しているのかは分からない。佐伯さんが向こうで会った人との関係も、同じです」
青年は卓上の図面へ視線を落とした。
「分からないなら、調査局に任せることもできます。自分は元の生活へ戻って、結果だけを聞くこともできます」
実際、日常は残されていた。
朝になれば起き、会社へ向かい、仕事をする。
異常を知らなかった頃と同じではなくても、同じ形の生活を続けることはできる。
調査から外れるよう求められたことはない。
だが、続けなければならないと強制されたこともなかった。
「そうしなかったんですね」
美琴が言った。
「はい」
「なぜですか」
問いは、最初と同じだった。
青年は今度も、すぐには答えなかった。
異常に巻き込まれたから。
自分にだけ見えたものがあったから。
自分と対応するかもしれない人物が、別の世界にいたから。
どれも理由ではある。
だが、それだけならば、今も青年は異常に押されるまま、ここにいることになる。
「最初は、巻き込まれただけでした」
青年は言った。
「何が起きたのか知りたくて、神崎さんの話を聞きました。調べているうちに、自分とは関係がないと言い切れないことが増えていった」
「だから、やめられなくなった?」
「やめないと決めました」
青年の口から出た言葉に、美琴がわずかに目を細めた。
青年自身も、その違いを言葉にしたのは初めてだった。
やめられないのではない。
異常が何もかもを奪い、ほかの道を閉ざしたわけでもない。
調査を離れ、残された日常へ戻る道は今もある。
その道を残したまま、青年はここにいる。
「自分に関係しているかもしれないことを、分からないまま誰かに任せることは選びませんでした」
「母のためですか」
「それだけではありません」
青年は佐伯を見た。
佐伯もこちらを見ていた。
「佐伯さんに何が起きたのかは、知りたいです。残された五人がどうなったのかも。でも、それを自分の問題だと言うつもりはありません」
青年は、六名の誰とも一九九九年を共有していない。
失われた五名に会ったこともない。
佐伯が向こうで過ごした時間を、自分の記憶として扱うこともできなかった。
「俺が確かめたいのは、自分に何が起きたのか、自分が何に関わっているのかです。その中に、佐伯さんのことや、向こうで会った人のことも含まれています」
「母を連れていけば、答えが分かると思っているわけではない?」
「思っていません」
青年は迷わず答えた。
「佐伯さんにしか比べられないことはあります。でも、だから危険な場所へ行ってもらって当然だとは思っていません」
「では、母が行かないと言ったら?」
「佐伯さんの意思を尊重します」
「あなたは?」
「俺は、自分で決めます」
美琴の視線がわずかに鋭くなった。
「一人でも行くということですか」
「そういう意味ではありません」
青年は首を横へ振った。
「現地調査は、自分一人でできることではありません。神崎さんたちの判断を無視して動くつもりもないです」
「でも、調査を続けるかどうかは、自分で決める」
「はい」
美琴は青年を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
青年も視線を逸らさなかった。
母を守ると約束することはできない。
必ず何かを見つけるとも言えない。
自分が同行すれば安全になるという根拠もなかった。
それでも、確実ではない言葉で安心させることだけはしたくなかった。
「あなたが行くことで、母が危険になる可能性もありますよね」
「否定できません」
「反対に、あなたがいなければ確認できないことがあるかもしれない」
「それも、今は可能性です」
「どちらか分からないまま行く」
「はい」
青年は答えた。
「分からないことを、そのままにしたくないから行きます。ただ巻き込まれたからではありません。今回は、自分で調査を続けると決めています」
部屋に沈黙が落ちた。
美琴はすぐには口を開かなかった。
危険がなくなったわけではない。
青年の話を聞いたことで、母が必ず戻る保証が生まれたわけでもなかった。
それでも、美琴の視線から、問いを向けたときの険しさがわずかに薄れていた。
「母を使って、自分の答えだけを探そうとしているわけではないんですね」
「違います」
「何も分からないまま、神崎さんについていくわけでもない」
「はい」
「危険があることも、自分が異常に関係しているかもしれないことも分かっている」
青年は一度だけうなずいた。
「分かっている範囲では」
美琴はその答えを聞き、小さく息を吐いた。
「そういう言い方まで、神崎さんに似てきています」
青年は思わず神崎を見た。
神崎は表情を変えなかった。
「似せたつもりはありません」
「なら、もともとそういう人なんでしょうね」
美琴の声から、初めてわずかに力が抜けた。
美琴はしばらく青年を見ていた。
やがて卓上の図面へ視線を落とす。
「あなたまで行く理由は、分かりました」
青年は答えなかった。
美琴は青年から神崎へ、さらに佐伯へと視線を移した。
「あなたが行く理由は分かりました。でも、まだ三人で行くと決まったわけではないんですよね」
「はい」
神崎が答えた。
「佐伯さんの参加については、今日の話を踏まえて決定します」
美琴の眉がわずかに動く。
「母が行きたいと言っているから連れていく、ということではない?」
「それだけで同行をお願いすることはありません」
「では、母が行く必要はあるんですか」
問いを向けられた神崎は、卓上の資料へ視線を落とした。
途中で失われた地下の構造図。
一九九九年当時に記録された進入経路。
その隣には、現在の地形と照合するための図面が重ねられている。
「佐伯さんは、六名で地下区域へ入った当事者です」
神崎が言った。
「当時の記録には、進行方向や周辺構造、各地点で確認された数値が残されています。ただし、記録された情報が、現地で何を意味していたのかまで復元できるとは限りません」
「母なら分かる?」
「すべてではありません」
神崎は佐伯を見た。
「ですが、記録に残っていないことを確認できる可能性があります」
美琴も母へ顔を向けた。
佐伯はしばらく図面を見つめていた。
「当時、私たちは、この図面どおりに進んでいたわけではないの」
佐伯が指先を置いたのは、進入経路の途中だった。
「図面は、その時点で確認できた範囲をあとから記録したものよ。通路の広さや傾斜、空気の変化、足元の状態まで、すべてが残っているわけではない」
「二十七年前のことを、今も覚えているの?」
美琴の声には疑いよりも、不安が混じっていた。
「覚えていることもあるわ」
佐伯は答えた。
言い切ったあと、佐伯は小さく息をついた。
唯一の帰還者であっても、五名の所在や、自分だけが戻った理由を知っているわけではない。
それでも、分断直前の状況を証言できる人物は、今のところ佐伯だけだった。
「施設は消えているんですよね」
美琴が確認した。
「はい」
神崎が答える。
「それでも、母の記憶と比べられるんですか」
「同じ構造が残っているとは考えていません。まず確認するのは、記録上の座標と現在の地形です。そのうえで、当時の進入地点や周辺環境との差を調べます」
「何も残っていなかったら?」
「その結果も記録します」
美琴の表情が曇る。
「母が行っても、何も分からないかもしれない」
「その可能性はあります」
「反対に、また何か起きるかもしれない」
「否定できません」
神崎の答えは変わらなかった。
危険を小さく見せる言葉も、確かな成果を約束する言葉も使わない。
美琴はその答えをしばらく受け止めたあと、佐伯へ顔を向けた。
「お母さん」
美琴が佐伯を見た。
「本当に、それでも行くの?」
佐伯はすぐに答えなかった。
卓上の図面へ視線を戻し、六名の経路を目で追っていく。
青年には、その線が佐伯の記憶とどこまで重なっているのか分からなかった。
「前は」
佐伯が口を開いた。
「五人がどこかにいるなら、探さなければならないと思っていたのかもしれない」
美琴は黙って聞いている。
「自分だけが戻ったことを知ってから、ずっと考えていたわ。あのとき何が起きたのか。どうして私だけがこちらへ戻ったのか。五人はどこへ行ったのか」
佐伯の指が、六名の記録が途切れた位置で止まる。
「でも、青森へ行けば五人が見つかるとは思っていない。入口がなくなっていることも、あの場所が残っていないかもしれないことも分かっているわ」
「それでも確かめたい?」
「ええ」
佐伯は美琴を見た。
「五人を見つけに行くのではないの。私たちに何が起きたのかを、確かめに行きたい」
「自分だけが戻った理由も?」
「それも」
「分からないかもしれないのに?」
「分からないまま戻ることになるかもしれない」
佐伯はそこで言葉を切った。
「それでも、行ったままでいいとは思っていないわ」
美琴の視線が止まる。
「何も分からなくても、私は戻る。戻るために必要な準備もするし、危険があるなら一人で判断しない」
「絶対に帰れるとは言わないんだ」
「言えないから」
佐伯は静かに答えた。
「でも、帰れないことを最初から仕方がないとは思わない」
美琴は母の顔を見つめた。
佐伯と美琴が、この場へ来る前にどんな言葉を交わしたのか、青年は知らない。
ただ、佐伯の返答を、美琴は黙って受け止めていた。
「私が同行する理由はあります」
佐伯は神崎へ向き直った。
「ただの当事者としてではなく、当時の記録と現地を照合するために参加したいです」
神崎はうなずいた。
「当時の進入地点と周辺地形の確認。六名が進んだ経路と、記録に残されている構造の照合。分断直前に起きた変化についても、現地で確認できる範囲を比較していただきます」
「分かりました」
「現場で異常が確認された場合は、佐伯さん個人の判断では進みません」
「はい」
「記憶と現在の状況が一致しない場合も、記憶だけを根拠にはしない。通常の観測記録と分けて扱います」
「その方がいいと思います」
二人のやり取りを、美琴は黙って聞いていた。
「神崎さんも行くんですよね」
美琴が尋ねた。
「はい」
「現地では何をするんですか」
「調査全体の進行と、局側との連絡を担当します。取得した記録の管理と、調査を継続するか中止するかの判断も行います」
「何か起きたときに、母やこの人へ任せるわけではない?」
「任せません」
神崎は明確に答えた。
「佐伯さんには当時の記録との照合をお願いします。彼には、これまで確認された異常との対応が現地でも起きるかを確認してもらいます。ただし、現場の判断は私が行います」
美琴は青年へ目を向けた。
「対応が起きるか確認するって、具体的には何をするんですか」
「今のところ、現地にいること以上は決まっていません」
青年が答えた。
「何かを起こすために操作したり、勝手に動いたりするつもりはありません」
「何も起きなかったら?」
「そのまま帰ります」
美琴は少しだけ目を細めた。
「本当に?」
「少なくとも、何かを起こすために危険なことをするつもりはないです」
青年は神崎を見た。
「止められると思います」
「止めます」
神崎が即答した。
美琴は二人を交互に見たあと、小さく息を吐いた。
張り詰めていた空気が、わずかに緩む。
「三人とも、行く理由は違うんですね」
誰に向けるでもなく、美琴が言った。
「では」
神崎が三人を見た。
「青森地下区域の現地再調査は、私と佐伯さん、それから彼の三名で実施します」
佐伯がうなずく。
青年も続いた。
美琴だけは、すぐには反応しなかった。
「私が認めなかったら、どうしていましたか」
神崎へ向けられた問いだった。
「佐伯さんと改めて相談していました」
「中止したとは言わないんですね」
「佐伯さん本人の意思もあるからです」
美琴の表情がわずかに硬くなる。
それでも神崎は言葉を変えなかった。
「ですが、ご家族の不安を無視して参加を決定するつもりもありませんでした」
「母は大人だから、自分で決められる」
「はい」
「私が許可することでもない」
「そう考えています」
「でも、家族だから関係ないわけでもない」
「はい」
美琴は佐伯へ視線を戻した。
「お母さんも、そう思ってる?」
「思っているわ」
「前みたいに、一人で決めない?」
「決めない」
「何かあったときも?」
「必ず相談する」
佐伯の返答に、美琴はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「分かりました」
「行くことを、止めません」
佐伯がわずかに息を止める。
「ただし」
美琴は続けた。
「安心したわけではありません。三人から話を聞いても、危険なものは危険です」
「分かってるわ」
「お母さんは、分かったと言って無理をするから信用できない」
「美琴」
「そこはまだ信用してない」
佐伯が何か言い返そうとして、やめた。
青年には、美琴の言葉が一方的な非難には聞こえなかった。
美琴は神崎へ向き直った。
「母が無理をしようとしたら、止めてください」
「止めます」
「この人も」
美琴が青年を示す。
「はい」
神崎は同じ調子で答えた。
美琴は青年へ向き直った。
「あなたも、自分で決めたからって無理をしないでください」
「分かりました」
美琴はそこで、わずかに言葉を止めた。
「そういえば、名前は聞かない方がいいんでしたっけ」
「今は、その方がいいと思います」
青年が答えた。
「では、なんて呼べばいいですか」
「無理に呼ばなくても大丈夫です」
「それだと話しづらいです」
美琴は少し考え、青年の顔を見た。
「同い年くらいだと思っていたので、そんなに気を遣わなくてもいいと思っていたんですけど」
青年は返答に詰まった。
隣で、神崎が青年を見る。
佐伯も同じように視線を向けていた。
「同い年ではないと思います」
「年下ですか」
「いえ。かなり上です」
「かなり?」
美琴は青年の顔を見直した。
「見た目ほど若くはありません」
「それだと、全然分からないんですけど」
「少なくとも、同年代ではありません」
美琴は納得していない様子だったが、それ以上は尋ねなかった。
代わりに佐伯へ視線を移す。
「お母さんは知ってたの?」
「いいえ」
佐伯の返事が早かった。
「年齢を聞いたことはなかったから」
「一緒に青森へ行く人の年齢も知らなかったの?」
「話す機会がなかったのよ」
「何を話してたの」
佐伯は答えなかった。
青年自身、佐伯の年齢を知らないことに気づく。
別の世界で起きたことや、二十七年前の地下区域については知っている。
それなのに、互いの基本的なことはほとんど知らなかった。
「もっと若いと思っていました」
美琴が言う。
青年は返す言葉を探したが、見つからなかった。
美琴はもう一度青年を見たあと、小さく息を吐いた。
「さっき、同い年みたいに話してすみません」
「気にしていません」
「急に敬語を増やすのも変ですよね」
「今までどおりで大丈夫です」
「では、そうします」
美琴はそう答えたが、声には先ほどまでなかった戸惑いが残っていた。
神崎は変わらず無表情だった。
佐伯だけが、青年と美琴を見比べ、わずかに口元を緩めている。
「話が逸れました」
美琴が姿勢を直す。
佐伯の表情も戻る。
「お母さん」
「なに?」
「帰ってきたら、今度は全部話して」
佐伯は美琴を見つめた。
「調査で分かったことだけじゃない。怖かったことも、迷ったことも、何も分からなかったことも。大丈夫だった、だけで終わらせないで」
「分かったわ」
「本当に?」
「ええ」
佐伯は、今度は目を逸らさなかった。
「帰って、話すわ」
美琴はその返事を聞き、ゆっくりとうなずいた。
神崎が卓上の資料を閉じる。
「出発日と現地での行程は、局側で調整します。決まり次第、全員へ連絡します」
「私にも連絡してください」
美琴が言った。
「佐伯さんを通じてではなく?」
「できれば直接」
「分かりました」
神崎は迷わず応じた。
美琴は青年へも目を向けた。
「あなたも、戻ってきますよね」
青年は一瞬、答えを止めた。
青年には、この場で帰りを待つと口にした人物はいなかった。
それでも、戻れなくても仕方がないと思って青森へ行くわけではない。
「戻ります」
青年は答えた。
美琴はその言葉を聞き、三人を順に見た。
「では、待っています」
日を改め、青年は神崎、佐伯とともに青森へ向かった。
移動中、神崎から現地での行程と中止条件について最終確認を受けたが、三人の会話はそれ以上には広がらなかった。
青年にとって、青森へ向かうのは初めてではない。
以前も二十七年前の記録を追い、この土地を訪れた。地下へ続く入口を見つけ、その先に存在した施設へ足を踏み入れている。
だが、今回は違う。
一九九九年に地下区域へ入った佐伯本人が、同じ車内にいた。
佐伯は窓の外を見ていた。
青年からは、その表情の意味までは分からない。
ただ、目的地が近づいても、佐伯が視線を外すことはなかった。
現地近くで一泊し、山へ入ったのは翌朝だった。
やがて車は、以前の調査で使用した地点の近くに止まった。
翌朝、確認地点へ向かったのは一台の車ではなかった。
神崎たちの車両に続き、観測機材と救助装備を積んだ局の車両が山道へ入る。
現地支援班は七名。
通信と記録を担当する者は車両付近に残り、別の者たちは過去の入口確認地点と周辺の観測位置へ分かれることになっていた。救助装備と医療用の機材も、すぐに運び出せる状態で積まれている。
異常区域へ進む可能性があるのは、神崎、佐伯、青年の三人だけだった。
だが、今回の調査に来たのが三人だけというわけではない。
三人は必要な機材だけを持ち、車を降りる。
舗装の途切れた先には、木々に挟まれた細い道が続いていた。
神崎が携行端末を確認しながら先を進む。
佐伯がその後ろを歩き、青年も続いた。
山道も、杉林も、土の斜面も、ここだけにあるものではない。
それでも青年には、以前この土地を歩いたときの記憶が残っていた。
地下施設へ続く入口。
その先で見たもの。
そして、調査を終えたあと、入口も内部空間も確認できなくなったこと。
神崎が足を止めた。
「記録上の確認地点です」
三人の前にあったのは、木々と土に覆われた斜面だった。
扉もない。
地下へ続く通路もない。
かつてここに入口が存在したことを示す痕跡さえ残っていなかった。
佐伯は斜面を見たまま動かなかった。
「ここから入ったんですよね」
「以前の調査では、この付近で入口を確認しています」
神崎は端末へ視線を落とした。
「ただし、保存されていた座標と、実際に確認された入口の位置にはずれがありました」
佐伯が周囲を見渡す。
「この場所だけを調べるわけではないんですね」
「はい。ここを基準に、周辺まで範囲を広げます」
青年も斜面へ目を戻した。
以前、この場所には入口があった。
青年自身が触れ、その先へ進んだ。
だが、今は何も残っていない。
そこにあるのは、どこにでもありそうな山の斜面だけだった。
佐伯が小さく息を吐く。
それでも、視線を外すことはなかった。
三人はしばらく、入口の失われた場所に立っていた。
2026/08/02 青森探索の体制の整備に伴い本文修正
2027/08/01 7章との接続部分の表現を修正




