行く理由 -前編-
神崎に案内された店を見て、青年は足を止めかけた。
駅から少し離れた、目立たない看板の店だった。
以前、佐伯と初めて会った場所でもある。
あのときは、記録の中でしか知らなかった帰還者から話を聞くために来た。なぜ今回も同じ場所が選ばれたのか、神崎から説明は受けていない。
店内へ入り、奥へ進む。
神崎が個室の引き戸へ手をかけた。
「こちらです」
扉の向こうには、二人の女性がいた。
佐伯は前と同じ奥側の席へ座っている。その隣にいた女性が、神崎と青年の姿を認めて立ち上がった。
「お待たせしました」
神崎が頭を下げる。
「いいえ。私たちも、少し前に着いたところです」
佐伯が答え、隣の女性へ目を向けた。
「娘の美琴です」
「佐伯美琴です」
美琴は神崎へ頭を下げたあと、青年にも同じようにした。
「今日は、時間を作っていただいてありがとうございます」
「こちらこそ」
青年も頭を下げる。
事前に、佐伯の娘が同席すると聞いていた。
神崎と青年に直接会い、何を調べているのかを自分で確かめたいと望んでいることも知らされている。
それでも、目の前の女性と佐伯が親子であるという事実は、青年の中ですぐには結びつかなかった。
青年が知る佐伯は、二十七年前に青森の地下区域で五人と分断され、別の世界へ移った人物だった。
六名のうち、ただ一人だけ所在が再確認された帰還者。
向こう側で帰ることを選び、元の世界へ戻った当事者。
そこから現在まで、佐伯が生活を続けてきたことは分かっていた。
だが、それは記録が示す年月として理解していただけだった。
目の前にいる美琴は、その二十七年間の中で生まれ、佐伯とともに現在まで生きてきた。
記録から抜け落ちていたわけではない。
青年が、そこへ目を向けていなかっただけだ。
「どうぞ、座ってください」
佐伯に促され、青年は神崎と並んで席へ着いた。
卓を挟んだ向かい側に、佐伯と美琴が座る。
美琴の前には、ほとんど手をつけられていない飲み物が置かれていた。背筋を伸ばし、神崎と青年を交互に見ている。
神崎が改めて名乗ると、美琴は一度うなずいた。
「母から、お名前は聞いています」
「どこまで説明を受けていますか」
神崎が尋ねた。
美琴はすぐには答えず、隣の佐伯を見た。
佐伯は口を挟まなかった。
「母が二十七年前、青森の地下で五人と離れたこと。そのあと、別の場所にいたこと。最近になって、当時のことをもう一度調べていることです」
一つずつ確かめるように言葉を区切る。
「神崎さんが、その調査に関わっている人だということも聞きました」
「はい」
「でも、わたしが聞いたのは母からです」
美琴は神崎へ視線を戻した。
「母がどう考えているのかは、分かりました。ただ、神崎さんが何を調べているのかは、神崎さんから聞きたいです」
落ち着いた声だった。
佐伯を責めているようには聞こえない。それでも、母の説明を聞いただけで判断するつもりがないことは伝わった。
「そのために、今日の場を設けました」
神崎が答える。
「確認できていることと、まだ分かっていないことを分けて説明します」
美琴は短くうなずいた。
その視線が、青年へ移る。
「あなたのことも、少しだけ聞いています」
名前はすでに佐伯から伝わっているはずだった。
それでも美琴は、母から聞いた人物と目の前の青年を照らし合わせるように見つめている。
「この人が、お母さんの話していた人?」
「ええ」
「最近、異常に巻き込まれた人」
「そうよ」
佐伯の返事を聞いてから、美琴は再び青年へ向き直った。
「調査局の方ではないんですよね」
「違います」
「もともと、こういうことを調べていたわけでもない?」
「はい」
「それでも、今は神崎さんたちと一緒に調べている」
「そうです」
美琴の視線は外れなかった。
青年を責める響きはない。
母の話だけでは分からなかったことを、本人へ確かめている。神崎と青年に会いたいと求めた理由を、そのまま行動へ移しているように見えた。
青年は隣に座る神崎へ目を向けた。
今回の面会について、神崎から詳しい説明を受けたわけではない。
佐伯が今後の調査へ関わる可能性があること。
その前に、美琴が同行するかもしれない二人と会い、自分で話を聞くことを望んでいること。
青年が聞いていたのは、そこまでだった。
家族が、佐伯とともに危険な調査へ向かう人物を知りたいと考えるのは、不自然ではない。
そう理解していた。
だが青年は、佐伯をいつの間にか、自分や神崎と同じ側にいる人物としてだけ見ていた。
異常を経験した当事者。
五人の記録を追う帰還者。
自分の知らない世界から戻ってきた人物。
どれも間違いではない。
ただ、それだけではなかった。
今、隣に座っている美琴にとって、佐伯は調査記録の中の帰還者ではない。
母親だった。
青年が佐伯を知るよりも前から続いている生活があり、異常とは関係のない時間の中で築かれた関係がある。
佐伯がどこかへ向かうという判断は、佐伯一人のところでは終わらない。
戻らなければ、待つ人がいる。
記録の上では分かっていたはずのことが、美琴を前にして、初めて一人の人間の重さを持った。
「今日は、母を止めてもらうために来たわけではありません」
美琴が言った。
佐伯の表情がわずかに動く。
美琴はそちらを見なかった。
「行っていいと言うために来たわけでもないです」
神崎は黙って続きを待っている。
「何を調べているのか。これから何をしようとしているのか。どうして母が必要なのか」
美琴は卓上で両手を重ねた。
「それを、皆さんから直接聞いて、自分で考えたいです」
「分かりました」
神崎が答えた。
美琴は表情を緩めなかった。
「お願いします」
四人のあいだに、短い沈黙が落ちる。
卓上の飲み物には、まだ誰も手をつけていない。
神崎は、卓上に薄い資料を置いた。
調査局で使っていたものとは違い、美琴へ見せられる範囲だけを抜き出した資料だった。表紙には、青森県内の地図と、山中に記された一つの座標がある。
「私たちが次に確認するのは、この場所です」
美琴は資料へ目を落とした。
「ここが、母たちの入った地下施設ですか」
「正確には、二十七年前の調査記録が残っている区域です」
神崎は地図上の一点を指した。
「佐伯さんたち六名は、この周辺から地下へ入りました。その後、途中で通信が途絶え、全員の所在が確認できなくなっています」
「母だけが戻った」
「はい」
美琴は隣の佐伯を見なかった。
初めて聞いた事実に驚いた様子はない。神崎の説明と、母から聞いていた話を照らし合わせているように見えた。
「残りの五人についても調べました」
神崎は続けた。
「当時の捜索記録だけでなく、その後の行政記録や、各地で確認された関連候補も照合しています」
「何か分かったんですか」
「五名の所在も、生死も確認できませんでした。記録上は死亡扱いですが、死亡を直接確認された者はいません」
「生きているかもしれない?」
「否定はできません。ただし、生きていると判断できる記録もありません」
「でも、その人たちを追うんじゃなくて、青森へ行くんですよね」
「はい」
「どうしてですか」
神崎は資料を一枚めくった。
次に現れたのは、複数の線で構成された地下の図面だった。途中までは通路として続き、その先は空白になっている。
「記録から五名の現在を追う方法では、これ以上の進展を見込めないためです」
「見つからないから、最初の場所へ戻る?」
「記録が途切れた起点を、現地で確認します」
神崎は空白の手前へ指を置いた。
「六名がどこから入り、どの方向へ進み、どの地点で通信と測位が失われたのか。当時保存された記録と現在の地形を、現地で照合します」
美琴は図面を見たまま、しばらく黙っていた。
「地下への入口は、まだあるんですか」
「ありません」
答えは短かった。
美琴が顔を上げる。
佐伯も神崎を見たが、驚いた様子はなかった。
「以前の調査で確認された施設は、調査終了後に同じ場所から消失しています」
神崎は淡々と続けた。
「入口も、その後は発見されていません」
「消失って」
美琴の声に、わずかな苛立ちが混じった。
「埋まったとか、壊れたとかではなく?」
「そのような痕跡は確認されていません。施設そのものが、確認されていた地点に存在しなくなりました」
「では、何もない場所へ行くんですか」
「現在の記録上は、施設も入口も存在しない場所です」
「そこへ行って、何を探すんですか」
神崎はすぐには答えなかった。
言葉を選んでいるというより、確定している範囲を越えないようにしているようだった。
「入口を探しに行くのではありません」
神崎は言った。
「六名の記録が途切れた座標と、現在そこに残っている差異を確認しに行きます」
美琴の表情は変わらなかった。
「差異というのは?」
「当時の構造図と現在の地形が一致するか。六名の進入経路と、保存された座標にずれがないか。記録に残された測位や通信の変化を、現在の環境と比較できるか。現地で確認するのは、そうした点です」
「何か残っていると分かっているわけではない?」
「分かっていません」
「入口がまた現れる可能性は?」
「判断できません」
「五人がそこにいる可能性は?」
「その前提では調査しません」
美琴の指が資料から離れた。
聞くたびに、目的がはっきりするのではなく、保証されていないもののほうが増えていく。
青年には、そう見えた。
「つまり」
美琴は神崎を見た。
「五人を助けに行くわけではない」
「はい」
「五人がいる場所を見つけたわけでもない」
「はい」
「地下へ入れるとも分かっていない」
「そのとおりです」
「それでも、母を連れていくんですか」
部屋の空気が、わずかに張り詰めた。
佐伯が口を開きかけたが、神崎が先に答えた。
「佐伯さんの参加は、まだ決定していません」
「言い方の話をしているんじゃありません」
美琴の声は強くなったが、視線は逸れなかった。
「入口もない。何が残っているかも分からない。何が起こるかも分からない。そういう場所へ、母が行く必要があると考えているんですか」
「三人だけで行くわけではありません」
神崎は続けた。
「異常区域へ入る可能性があるのは、私と佐伯さん、それに彼の三人です。現地には別に七名の支援班を置きます。通信と観測、周辺警戒、救助、医療を分担し、本局でも記録を同時に監視します」
美琴の表情は緩まなかった。
「前の調査でも、六人がまとめて消えたんですよね」
「はい。ですから今回は、内部へ入る人数を増やすことを安全策とは考えていません」
神崎は卓上の図面へ目を落とした。
「進入する人数は絞ります。その代わり、外側の観測と救助体制は、当時より厚くします」
「当時の記録には、機器が残した数値や、調査後に作成された報告しかありません。実際にどこから入り、周囲をどう見て、どちらへ進んだのか。記録と現地に違いがあった場合、それが当時からあったものか、後に生じたものかを判断するには、佐伯さんの記憶が必要になる可能性があります」
「母は、全部を覚えているわけではありません」
「承知しています」
「途中からのことも、はっきりしないのに」
「分断後や帰還直前の記憶には欠落があります。ただ、地下へ入ったことや、六人で進んだこと、分断までに起きたことの概略は残っています」
佐伯は黙って神崎の説明を聞いていた。
自分の記憶が役に立つと主張することも、美琴へ参加を認めるよう求めることもしなかった。
「記録だけでは比較できないものを、佐伯さんなら確認できる可能性があります」
神崎が言った。
「だから、参加について相談しています」
美琴は息を吐いた。
「可能性ばかりですね」
「はい」
神崎は、その言葉も否定しなかった。
「現地へ行っても、何も得られない可能性があります。五名につながる情報が残っている保証もありません」
「危険は?」
「分かっていない以上、ないとは言えません」
神崎の答えに、美琴の表情が硬くなる。
「同じ異常が起きるかもしれない?」
「否定できません」
「母が、またいなくなるかもしれない?」
神崎は一度だけ佐伯を見た。
「その可能性も、ないとは言えません」
佐伯が、美琴のほうを向く。
それでも美琴は母を見なかった。
安心させる言葉を佐伯へ求めることもなく、神崎から答えを聞こうとしているようだった。
「それでも行く必要があると?」
「危険があることと、確認する必要がないことは同じではありません」
神崎の声は変わらなかった。
「一九九九年に六名の記録が途切れた場所で、何が起きたのか。なぜ佐伯さんだけが再確認されたのか。記録だけでは、これ以上判断できません」
「現地なら分かるんですか」
「分かるとは言えません」
「また、それですか」
「分からないことを、分かるとはお伝えできません」
美琴は神崎を見つめた。
神崎も視線を外さなかった。
しばらくして、美琴は椅子の背へわずかに体を預けた。
納得したようには見えない。
だが、神崎が危険を隠して母を連れ出そうとしているわけではないことは、伝わったようだった。
「青森へ行くのは、五人がいるからではない」
美琴は、自分の中で確かめるように言った。
「消えた入口が、また見つかったからでもない」
「はい」
「母たちの記録が途切れた場所と、今の場所を比べるため」
「そのとおりです」
美琴は資料に残された座標を見た。
そこに示されているのは、五人の居場所ではない。
入口でも、答えでもなかった。
二十七年前、六名の記録が途切れた地点。
記録を追うだけでは進めなくなった先に、確かめるべき起点だけが残っている。
「何も見つからないかもしれない」
美琴が言った。
「はい」
「それでも、何かが起きるかもしれない」
「はい」
神崎は、どちらにも同じように答えた。
美琴は口を閉じた。
卓上には、誰も手をつけていない飲み物と、途中で途切れた地下の図面がある。
やがて美琴は、図面から顔を上げた。
神崎ではなく、今度は青年を見た。
2026/08/02 青森探索の体制の整備に伴い美琴への説明部分を修正




