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境界線 ―1999、世界は十三分止まった―  作者: 夕花
第三部『継続』

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31/38

- Interlude - 忘れられた約束

わたし、佐伯美琴は大変困っている。


母が、何かを隠している。


親子だからといって、何もかも話すわけではない。わたしにも母へ話していないことはあるし、別々に暮らしている以上、互いの生活をすべて知っているわけでもなかった。


それでも、今回の母は分かりやすい。


本人だけが、隠せていると思っている。


「お味噌汁、薄くない?」


向かいに座る母へ尋ねると、佐伯真紀は椀を持ったまま、わずかに首を傾げた。


「そう?」


「いつもよりは」


「美琴が濃い味に慣れたんじゃない?」


「先週は普通だったけど」


母は味噌汁を一口飲んだ。


確かめるような飲み方ではない。ただ口へ運び、少し遅れてから台所へ視線を向ける。それでも立ち上がろうとはせず、「そうかしら」とだけ言って箸を取り直した。


味が薄いことを気にしているようには見えなかった。


たぶん、味噌汁のことなど考えていない。


「最近、ちゃんと寝てる?」


「寝てるわよ」


「何時間?」


「急にどうしたの」


「答えられないんだ」


「昨日は六時間くらい」


すぐに数字が返ってきた。


目の下に隈があるわけではない。食欲もある。少し前まで話していた近所の店のことも覚えていたし、わたしの話にもいつもどおり相槌を打っていた。


具合が悪いようには見えない。


ただ、ときどき返事が遅れる。


聞こえていないのではなく、意識だけが別のところへ行っている。そういう間が、少し前から増えていた。


最初に気づいたのは、三週間ほど前だった。


土曜の昼過ぎに訪ねると、母は居間の棚から古い箱を下ろしていた。声をかけた瞬間、驚いたように振り返り、すぐに蓋を閉じた。


中に何が入っていたのかは見えなかった。


見せたくないものを無理に見ようとは思わない。けれど母は、わたしが何も聞いていないうちから、「昔のものを整理していただけ」と説明した。


何もなければ、母は言い訳をしない。


翌週には、買い物へ出たはずの母が、予定より二時間近く遅く帰ってきた。どこへ行っていたのか尋ねても、「少し用事があったの」としか答えなかった。


その次に来たときは、食事の途中で電話が鳴った。


母は表示された名前を見たあと、電話には出ず、端末を伏せて置いた。


どれも、一つだけならおかしくない。


古いものを整理することはある。娘へ説明する必要のない用事もある。食事中の電話に出ないことだって珍しくはない。


だから最初は、わたしが気にしすぎているのだと思った。


そう思いながら、これまで二週間に一度ほどだった帰省は、いつの間にか毎週になっている。


先週は、近くまで来たから。


その前は、母の作る煮物が食べたくなったから。


今日は、平日にできなかった用事を手伝うため。


理由はいくらでも作れた。


母は、わたしが帰る頻度を増やしたことについて何も言わない。気づいていないはずはないのに、尋ねることもなく、いつもどおり二人分の夕食を用意していた。


その態度も気に入らなかった。


まるで、わたしが様子を見に来ていることまで分かったうえで、知らないふりをしているようだった。


「ねえ、お母さん」


「なに?」


「何かあった?」


母の箸が止まった。


ほんの一瞬。


すぐに顔を上げ、いつもと変わらない声で聞き返してくる。


「何かって?」


「それが分からないから聞いてる」


「別に、何もないわよ」


目を逸らしたわけではない。声が揺れたわけでもない。


それでも、答えるまでに生じた間を、わたしは見逃さなかった。


「仕事のこと?」


「違うわ」


「体のこと?」


「それも違う」


「誰かと揉めてる?」


「揉めてないわよ」


「じゃあ、何を隠してるの」


母はすぐには答えなかった。


否定されると思っていた。気のせいだと言われるか、心配しすぎだと笑われるか。そのどちらかなら、まだ腹を立てるだけで済んだ。


けれど母は、困ったように目を細めた。


「心配してくれてるのね」


「そうだけど。ありがとうで終わらせないでよ」


「終わらせるつもりはないわ」


母は椀へ視線を落とした。


「少し、考えていることがあるだけ」


「何を?」


「まだ、きちんと話せる段階じゃないの」


「話せるようになったら話す?」


「ええ」


「いつ?」


「もう少し待って」


「もう少しって、どれくらい?」


「近いうちに」


「今日じゃ駄目なの?」


母は答えなかった。


迷っているようには見えた。


けれど、それは何をするか決められない人の迷い方ではない。


すでに決めたことを、どう伝えるか考えている。


母は、わたしに話していない何かを抱えている。


そして、その何かを。


また一人で決めようとしている。





「少し、相談があるの」


食事を終え、二人分の食器を流しへ運んだあとで、母が言った。


わたしは手にしていた湯呑みを置いた。


先ほどは、まだ話せる段階ではないと言っていた。それから十分も経っていない。


母の中で何かが変わったとは思えなかった。


「近いうちじゃなかったの?」


「話せるところまでは、話しておいたほうがいいと思って」


母は向かいの椅子へ座り直した。


いつもの食卓だった。


湯呑みの横には、片づけ忘れた箸置きが一つ残っている。台所では、蛇口から落ちた水滴が一定の間隔で流しを叩いていた。


そんな場所で、母だけが普段とは違う姿勢を取っている。


背筋を伸ばし、膝の上で両手を重ねていた。


「先に聞くけど」


「なに?」


「相談ってことは、まだ決めてないんだよね?」


母は答えなかった。


その沈黙だけで、わたしには半分ほど分かってしまった。


「それで、何の話?」


母はわずかに息を吸った。


「昔、美琴に話したことがあるでしょう。お母さんが、地下で知らない場所へ迷い込んだ話」


すぐには、何のことか分からなかった。


けれど、地下という言葉から、古い記憶が少しずつ浮かんでくる。


幼い頃、眠る前に何度か聞かされた話だった。


深い地下に、誰も知らない建物があった。


そこへ六人で入り、途中で仲間とはぐれた。


気がつくと知らない場所にいて、そこで出会った人に助けられながら、元いた場所へ帰ってきた。


絵本の代わりに聞くには少し怖かったけれど、わたしはその話が嫌いではなかった。


「覚えてるけど」


「どのくらい?」


「六人で地下に行って、お母さんだけ帰ってきた。向こうで誰かに会った」


口にしてから、母の顔を見る。


冗談を言おうとしているようには見えなかった。


「それ、本気の話だったの?」


母は少しだけ間を置いた。


「ええ」


「作り話じゃなかったの?」


「美琴に話した内容が、すべて正確だったわけではないわ。話せないこともあったし、私自身、覚えていないことも多かったから」


「そこじゃなくて」


わたしは母の言葉を遮った。


「本当にあったことなの?」


「そうよ」


子供を寝かしつけるための昔話だと思っていた。


それを二十年以上経ってから事実だったと言われても、すぐに信じられるはずがない。


「知らない場所って、ただ地下で迷ったんじゃないの?」


「今いる場所とは別の世界だった可能性があると言われているわ」


「別の世界?」


自分の声が、思ったより低くなった。


母はわたしの反応を確かめながら、ゆっくりと話を続けた。


六人で地下区域を調査していたこと。


途中で仲間と分断されたこと。


知らない建物で一人の男性と出会ったこと。


その人に助けられ、元の世界へ戻ったこと。


そして、母以外の五人は戻らなかったこと。


幼い頃に聞いた話と同じ形をしている。


けれど、母の口から調査記録や機器の話が加わるたび、わたしの知っている昔話から遠ざかっていった。


「それ、病院では何て言われたの?」


「意識を失っていた影響も含めて調べてもらったわ」


「記憶が混ざってるとか、夢を見てたとか」


「その可能性も検討された」


母の答え方は落ち着いていた。


初めて説明する人の声ではない。


きっとこれまでにも、同じ問いを何度も向けられてきたのだろう。


「でも、私がいなくなったことも、戻ってきたことも記録に残っている。持っていた機器にも、当時の状況だけでは説明できない記録が残っていたの」


「五人は、そのあと見つかったの?」


母は目を伏せた。


「全員の所在は、今も確認されていないわ」


その答えで、ようやく話の行き先が見えた。


母が古い箱を出していた理由。


何度も考え込んでいた理由。


聞かれてもいないのに、昔のものを整理していただけだと言った理由。


「最近、そのことをまた調べてたの?」


「私が調査していたわけではないわ」


「じゃあ、誰が?」


「神崎さん。昔から、この件を調べている人よ。それと、最近になって関わるようになった人がいるの」


知らない名前だった。


母がこれまでわたしへ話さなかっただけで、長く関係が続いていた人なのかもしれない。


「その人たちから、何か聞いたの?」


「二十七年前のことを、もう一度調べ直していると聞いているわ。私が経験したことにも、まだ分かっていないことが残っている」


「それで?」


母は膝の上で重ねていた手に、少しだけ力を込めた。


「今後、当時のことに関係する調査が必要になったら、私も参加したいと思っているの」


「必要になったら?」


「まだ、具体的な予定が決まっているわけではないわ」


「誰かに頼まれたの?」


「いいえ」


「だったら、お母さんが自分で決めたんだ」


母は否定しなかった。


わたしは椅子の背から身を起こした。


「何を相談したいの?」


「美琴には、きちんと話しておくべきだと思って」


「それは相談じゃないよね」


母の表情がわずかに固まった。


「参加してもいいかって聞いてるんじゃない。参加するつもりだから、その前に説明してるだけでしょう?」


「まだ、実際に調査へ行くと決まったわけではないわ」


「決まったら行くんでしょう?」


母は答えなかった。


その沈黙が、何よりはっきりした返事だった。


「危なくないの?」


「安全だとは言い切れない」


「前に五人もいなくなった場所に関係するんだよね?」


「同じ場所へ行くかどうかも、今は決まっていないわ」


「場所の問題じゃない」


母の話を、わたしはまだ信じきれていない。


別の世界も、同じ場所に重なった地下も、現実に起きたこととして受け入れるには遠すぎる。


けれど、一つだけは分かった。


母は、それを事実だと信じている。


二十七年前に五人を残し、自分だけが戻ったのだと思っている。


そして、五人につながる可能性があるなら、もう一度同じ危険に近づくつもりでいる。


「反対されると思ってた?」


「心配をかけるとは思っていたわ」


「だから、決めてから話したの?」


「何も決まっていないうちに話しても、余計に心配させるだけでしょう」


「お母さんの中では決まってるじゃない」


母は何も言わなかった。


幼い頃に聞いた不思議な話は、母にとって過去になっていなかった。


忘れられない思い出ですらない。


二十七年前から途切れることなく続き、今も母が目を逸らすことのできない問題だった。





「お母さんが、五人を放っておけないのは分かる」


そう言うと、母はわずかに目を見開いた。


反対の言葉が続くと思っていたのだろう。


「二十七年前に一緒にいた人たちなんでしょう。自分だけ帰ってきて、その人たちがどうなったのか分からないままなら、気になるのも分かる。何か分かる可能性があるなら、確かめたいと思うことも」


「美琴」


「でも、それとこれとは別だから」


母が口を開く前に、言葉を重ねた。


理解したことを、納得したことにされたくなかった。


母には昔から、そういうところがある。


相手が事情を分かってくれれば、それ以上は負担をかけないように話を収めようとする。自分が困っていても、助けを求めるより先に、周囲を心配させずに済む方法を探す。


今回も同じだった。


違うのは、その先にあるものが、普段の仕事や小さな悩みではないことだけだ。


「お母さんは、その五人に責任があると思ってるんでしょう?」


母は少し迷ってから、うなずいた。


「私だけが帰ってきたから」


「それは、お母さんが五人を置いて逃げたってこと?」


「違うわ」


「帰るとき、五人がどこにいるか分かってた?」


「分からなかった」


「助けられるのに、助けなかった?」


「そうじゃない」


母の声が、わずかに強くなる。


わたしは目を逸らさなかった。


「だったら、お母さん一人の責任じゃないでしょう」


「そう言われても、なくなるものではないの」


「何が?」


「私が戻ることを選んだことよ」


母は膝の上で重ねていた手をほどいた。


「向こうにいたとき、私は帰ると決めた。五人のことを忘れていたわけではない。それでも、自分がいた場所へ戻ることを選んだの」


「それを後悔してるの?」


母はすぐに首を横へ振った。


「後悔しているわけじゃない」


「じゃあ、間違ってたと思ってる?」


「それも違うわ」


「だったら、どうして今さら、そのときの罰みたいに危ないことへ関わろうとするの」


母の表情が止まった。


言いすぎたと思った。


けれど、取り消す気にはなれなかった。


五人を探したいと思うことまで否定したいわけではない。二十七年間抱えてきたものを、娘だからという理由だけで手放させることもできない。


それでも、母が語る責任には、過去の人たちしか含まれていなかった。


「罰だと思っているわけではないわ」


「同じだよ」


「同じではない」


「同じに見える」


椅子から立ち上がった。


座ったままでは、胸の奥にたまったものを抑えられなかった。


数歩離れ、流しの前で足を止める。洗っていない食器が、二人分残っていた。


さっきまで、いつもと変わらない夕食だった。


次に帰ってきたときも、同じように母が食事を作っている。そのことを疑ったことなどなかった。


「お母さんにとって、その五人は置いてきた人なのかもしれない」


母へ背を向けたまま、わたしは言った。


「だから、今度こそ放っておきたくないんでしょう。それは分かる」


返事はなかった。


「でも、わたしにとっては、お母さんがそうなるかもしれないんだよ」


振り返る。


「危ない調査に関わって、帰ってくるか分からない。何かあっても、わたしにはどうすることもできない。お母さんが二十七年間抱えてきたことを、今度はわたしにやらせるかもしれないって分かってる?」


母の唇がわずかに動いた。


けれど、言葉は出てこなかった。


「五人を置いてきたことが苦しかったって言う人が、どうして今度は自分の家族を置いていくかもしれないことを、一人で決められるの」


「置いていくつもりはないわ」


「じゃあ、必ず帰ってくるって言える?」


母は答えようとして、口を閉じた。


その迷いを、わたしは見逃さなかった。


「言える?」


「それは……言えない」


予想していた答えだった。


それでも、実際に聞くと胸の奥が冷えた。


母は、わたしを安心させるためだけに、できない約束をする人ではない。その誠実さを知っているからこそ、今の返事が意味するものも分かってしまう。


まだ具体的な調査は決まっていない。


それでも母は、必要になれば、帰れない可能性のある場所へ行くつもりでいる。


「ほら」


声が震えた。


「そんなことに関わるって、もう自分の中では決めてるんでしょう」


「危険を避ける準備はするわ。以前と同じように、何も分からないまま入るつもりはない。それに、もし現地での確認が必要になっても、私一人で行うものでは――」


「そういう話をしてるんじゃない!」


声が食卓を越え、台所の壁へぶつかった。


母が言葉を止める。


自分の手が震えていることに気づき、強く握った。


どのような調査が行われるのかも、母がどこまで関わるのかも、まだ決まっていない。神崎という人や、最近関わるようになったという人が何を知っているのかも、わたしには分からない。


母の話さえ、すべてを信じられずにいる。


けれど、今怒っている理由はそこではなかった。


「どうして、もっと早く話さなかったの」


「話せることが、まだ整理できていなかったから」


「違う。話したら反対されると思ったからでしょう」


母は否定しなかった。


「反対されたら、関われなくなるから?」


「そうではないわ」


「じゃあ何?」


「心配をかけたくなかったの」


その答えに、一瞬、何も言えなくなった。


やがて胸の奥から込み上げてきたものは、先ほどまでより強い怒りだった。


「それを決めるのも、お母さんなの?」


母がわたしを見る。


「何を聞いたらわたしが心配するか。どこまでなら耐えられるか。何も知らされないまま待つほうがいいのか。それも全部、お母さんが一人で決めるの?」


「そんなつもりは」


「じゃあ、相談してよ」


食卓へ戻り、向かい側の椅子には座らず、その背へ手を置いた。


「関わるって決める前に。五人のことが気になってるなら、そう言ってよ。危ないかもしれないなら、それも先に話して。わたしが反対して、喧嘩になって、それでも行きたいなら、そこで初めて一緒に考えればよかったでしょう」


「一緒に考えても、美琴を危険に巻き込むだけよ」


「考えることまで危険なの?」


母は答えなかった。


「お母さんが全部背負って、わたしは何も知らないまま送り出す。それが一番いいって、どうして勝手に決めるの」


目の奥が熱くなった。


泣きたくはなかった。


泣けば、母がまた自分を守る側へ回る。心配をかけたことを謝り、話を穏やかに終わらせようとする。


けれど、こぼれそうになる涙を隠す余裕もなかった。


「わたしは、もう子供じゃない」


「分かってるわ」


「分かってないよ」


すぐに言い返した。


「分かってたら、こんな報告の仕方はしない」


母の視線が、椅子の背を握るわたしの手へ落ちた。


二人のあいだに沈黙が残る。


台所では、蛇口から落ちた水滴が、また流しを叩いた。


「五人を探したいと思う気持ちは、なくせない」


やがて、母が静かに言った。


「何か分かる可能性があるなら、私は確かめたい。二十七年前に何が起きたのか、自分の目で知りたいと思ってる」


「うん」


「それを、美琴に背負わせるつもりはなかった」


「もう背負ってる」


母が顔を上げた。


「今、聞いたからじゃないよ」


手の甲で目元を拭った。


「お母さんが一人で決めて、何も言わないまま悩んでたときから、わたしはずっと心配してた。知らされなければ、何も背負わずに済むわけじゃない」


母は、すぐには返事をしなかった。


五人を探したいという気持ちが消えたわけではない。今後、必要な調査があれば関わるという決意も変わってはいないのだろう。


ただ、その決意の向こうに何が残るのかを、初めて見直しているように見えた。


「ごめんなさい」


「謝って終わりにしないで」


「ええ」


「行かないでって言えば、それで全部やめる?」


母は答えなかった。


分かっていた。


母はきっと、わたしがどれほど反対しても、五人につながるものを放ってはおけない。


「わたしだって、本当は行ってほしくないよ」


言葉にすると、胸が苦しくなった。


「危ないことなんて放っておいて、今までどおり近くにいてほしい。でも、それだけ言ったら、お母さんが二十七年間抱えてきたことまで、どうでもいいって言うのと同じになるでしょう」


「美琴」


「そんなふうに思ってないから、余計に腹が立つの」


声はまだ震えていた。


「五人のことを考えるなとは言わない。でも、お母さんには今の家族もいる。過去に残してきた人たちだけじゃなくて、帰ってくるのを待つ人もいるんだよ」


「分かっているつもりだったわ」


「つもりじゃ困る」


「そうね」


母は目を伏せた。


「私は、また自分だけで決めようとしていた」


黙って、その先を待った。


「向こうで帰ると決めたときは、自分で選ぶしかなかった。戻ってからも、何が起きたのかを自分の中で整理するしかないと思っていた。そのまま今回も、同じように考えていたのかもしれない」


母はゆっくりと顔を上げた。


「でも、今はあのときとは違う」


わたしは答えなかった。


その先を、母自身の言葉で聞きたかった。


「私が帰る場所には、美琴がいる」


静かな声だった。


必ず帰るという約束ではない。


危険が消えたわけでも、何が起きても戻れると保証されたわけでもない。


それでも初めて、母の決意の中に、過去の五人だけではないものが置かれた。


「それを忘れたまま、関わることだけ決めてはいけなかった」


椅子の背から手を離した。


怒りはまだ消えていない。


不安も、少しも軽くなってはいなかった。


ただ、母はようやく、五人を残した過去だけではなく、自分が残していくかもしれない現在へ目を向けていた。





しばらく、どちらも口を開かなかった。


母は椅子に座ったまま、わたしを見ている。


言い訳を探しているようには見えなかった。わたしが何を言うのか、黙って待っていた。


先ほどまでとは違う。


自分の決意を理解させるためではなく、今度こそ、わたしの考えを聞こうとしている。


その変化を認めるのは、少し悔しかった。


「分かった」


わたしが言うと、母の表情がわずかに動いた。


「何が?」


「お母さんが、五人を放っておけないこと」


納得したわけではない。


危険があるかもしれない場所へ、母がもう一度関わろうとしていることを受け入れたわけでもなかった。


ただ、行かないでほしいと繰り返すだけでは、何も変わらないことは分かった。


母は困るだろう。


わたしを心配させたことを謝り、それでも五人につながるものを放ってはおけず、最後には自分で決める。


そして次は、わたしに気づかれないよう、今よりもっと上手に隠すかもしれない。


それでは、今日ここで怒った意味がない。


「でも、認めたわけじゃないから」


「ええ」


「すぐ分かった顔しないで」


「してないわよ」


「してる。わたしが少し落ち着いたから、もう大丈夫だと思ったでしょう」


「思ってないわ」


「本当に?」


「本当に」


母は視線を逸らさなかった。


早く話を終わらせようとしている様子もない。


わたしは椅子の背から手を離し、向かい側へ座り直した。


泣いたあとの顔を見られるのは嫌だったけれど、今さら隠しても仕方がない。


「神崎さんって、どんな人?」


母は少しだけ目を瞬いた。


「急にどうしたの?」


「いいから教えて」


「二十七年前から、この件を調べている人よ。時間異常調査局にいて、私が戻ったあとの調査にも関わっていた」


「昔からの知り合い?」


「知り合ったのは、私が戻ってからね」


「信用できる人?」


「私は信用しているわ」


「お母さんはね」


母の眉が、わずかに寄った。


「わたしは会ったこともない」


「それは、そうね」


母が信用している。


それだけで十分だと思えれば、話は簡単だった。


けれど、母は今日まで、五人のことも、自分がまた関わろうとしていることも話さなかった。その母から、信用できる人だと聞かされても、すぐに同じようには思えない。


神崎という人が、どこまで危険を理解しているのか。


母に何を求めているのか。


それとも、母が自分から関わろうとしているだけで、その人は止めようとしているのか。


今のわたしには、何も分からなかった。


「最近、関わるようになったっていう人は?」


「彼も、少し前に異常へ巻き込まれた人よ」


「調査局の人じゃないの?」


「違うわ」


「専門家でもない?」


「少なくとも、もともとこの分野に関わっていた人ではないわね」


思っていた答えと違った。


神崎という人と一緒にいるのなら、同じ調査局の人なのだと思っていた。


「そんな人が、どうして二十七年前のことを調べてるの?」


「彼自身の経験が、私たちの件と関係している可能性があるから」


「どういう関係?」


母はすぐには答えなかった。


わたしに隠すための沈黙なのかと疑い、顔を見る。


けれど、母の表情にあったのは迷いだった。


まだ確かめられていないことを、どこまで事実として話してよいのか。そう考えているように見えた。


「私が向こうで会った人と、何らかの対応関係があるかもしれないの」


「同じ人ってこと?」


「分からないわ」


「似てるの?」


「向こうで会った人の顔も、名前も、私は覚えていないの」


「じゃあ、何を比べたの?」


「状況や、残っている記録よ。ただ、それだけで同じ人物だとは言えない」


母の答えは、はっきりしなかった。


けれど、誤魔化しているようにも聞こえない。


分からないものを、分からないまま話している。


そのことだけは伝わった。


だからこそ、不安になった。


二十七年前に何が起きたのか分からない。


五人がどうなったのかも分からない。


母が迷い込んだという別の世界も、それに関わっているという人のことも、まだ何も分かっていない。


そんな状態で、母は何か手掛かりがあれば関わるつもりでいる。


「その人も、調べたいって言ってるの?」


「ええ」


「危ないかもしれないのに?」


「自分に起きたことだから、確かめたいのだと思う」


「お母さんと同じ?」


「同じではないわ」


母は静かに首を横へ振った。


「彼には彼の理由がある。それを私が代わりに話すべきではないと思う」


聞きたいことを、また伏せられた。


それでも、腹は立たなかった。


母が勝手に決めたことと、他人の事情を勝手に話さないことは違う。


母の説明だけで、その人を分かったつもりになるのも違う気がした。


ならば、本人に聞けばいい。


「お母さん」


「なに?」


「条件がある」


「条件?」


「それを守らないなら、わたしは認めない」


母が姿勢を正した。


冗談ではないことが伝わったらしい。


「言って」


「神崎さんと、その人に会わせて」


母の表情に戸惑いが浮かんだ。


「美琴を、この件に関わらせるつもりはないわ」


「調査に混ぜてなんて言ってない」


「でも、二人に会えば――」


「もう関わってるよ」


母の言葉を遮った。


「お母さんからこんな話を聞いて、何も知らなかったことにはできない。会わせなければ関わらずに済むなんて、またお母さんが勝手に決めないで」


母は口を閉じた。


「わたしは、神崎さんがどんな人か知らない。その人のことも知らない。何を調べていて、これから何をしようとしているのかも分からない」


「まだ、今後のことは決まっていないわ」


「だから、決まる前に会うの」


母が目を瞬いた。


「何かが決まって、お母さんが参加することになってから、また報告されるのは嫌。今度は決める前に話して」


今日と同じことを繰り返させるつもりはなかった。


母の中だけで準備を終え、あとは行くと伝えるだけになってから相談されても、わたしに残されるのは反対することだけだ。


「二人に、何を調べているのか説明してもらう。お母さんに何をしてほしいと思っているのかも、危険があるならどこまで分かっているのかも聞く」


「二人にも、話せないことはあると思うわ」


「それなら、話せないって本人から聞く」


「会って、どうするの?」


「確かめる」


「何を?」


「お母さんを任せられる人なのか」


自分で口にして、少し違うと思った。


母は誰かへ預けるものではない。行くと決めるのも、最後に責任を負うのも母自身だ。


それでも、一人で向かわせるわけではないのなら、そばにいる人のことは知っておきたかった。


何かあったとき、過去の五人だけではなく、今ここで母を待つ家族のことも考えてくれる人なのか。


母がまた一人で背負おうとしたとき、それを止めてくれる人なのか。


わたし自身の目で確かめたかった。


「一度会っただけで分かることではないでしょう」


「会わないよりは分かる」


「美琴が納得できなかったら?」


「反対する」


「納得できたら?」


すぐには答えられなかった。


認めると言えば、母が危険なことへ関わるのを、自分で許すような気がした。


けれど、何を聞いても認めないと決めているなら、会わせてほしいという条件そのものが嘘になる。


「少なくとも、何も知らないまま反対するのはやめる」


ようやく口にできたのは、許可とも拒絶とも呼べない言葉だった。


「話を聞いて、それから考える。お母さんが関わることになったら、そのときもまた話す。わたしを抜きにして、勝手に決めない」


母は少し考えたあと、うなずいた。


「分かったわ。二人に確認する」


「二人ともだよ」


「ええ」


「どちらかだけじゃ駄目だからね」


「分かってるわ」


「断られたら?」


「その理由も含めて、美琴に伝える」


「お母さんの言葉に直さず、そのまま?」


「そのまま伝えるわ」


母の目を見る。


今度は、信じることにした。


怒りが消えたわけではない。


不安も、少しもなくなっていない。


それでも、母が一人で決めたことを聞かされるだけだった話に、ようやくわたしの意思が入った。


「もう一つある」


「まだあるの?」


「ある」


これだけは、神崎という人や、もう一人の人に会ったあとでも変わらない。


二人がどれほど信用できる人でも、どれだけ準備を整えても、危険をなくせる保証はない。


だから、母自身に覚えておいてもらうしかなかった。


「行くなとは言わない」


母の表情が揺れた。


認めたからではない。


止めても無駄だと諦めたからでもない。


母が五人を放っておけない気持ちを、なかったことにはできないと分かっただけだ。


「でも、家族を悲しませるな」


母は何も言わなかった。


わたしも、すぐには言葉を足さなかった。


無事に帰ってきて。


置いていかないで。


今度は、自分だけで決めないで。


短い言葉に押し込めたものを、母なら分かるはずだった。


「必ず帰ってくるって約束してるんじゃないからね」


できない約束をさせても仕方がない。


母が、わたしを安心させるためだけに嘘をつかないことも知っている。


「帰れないかもしれないからって、最初から仕方のないことにしないで。五人のことを考えるのと同じくらい、帰ってくることも考えて」


「ええ」


母は静かにうなずいた。


「帰るためにできることは、全部する」


必ずとは言わなかった。


それでも、先ほどまでとは違う返事だった。


過去を確かめることだけではなく、今いる場所へ戻ることも、自分が選ぶものとして引き受けている。


「それから、何か決めるときは先に話すこと」


「ええ」


「危ないことを隠さないこと」


「分かったわ」


「一人で何とかしようとしないこと」


母は、少し困ったように笑った。


「努力するわ」


「そこは約束して」


「約束する」


ようやく、わたしも息を吐いた。


安心などできなかった。


母が何へ関わろうとしているのか、まだ半分も理解できていない。会ったことのない二人を、本当に信用できるかも分からない。


それでも、何も知らないまま送り出されることだけは避けられた。


「じゃあ、会えるか決まったら教えて」


「分かったわ」


「わたしにも都合があるから、勝手に日時を決めないでね」


「先に確認するわよ」


「本当に?」


「本当に」


母の返事を聞いて、立ち上がる。


流しには、洗っていない食器が二人分残っていた。


蛇口をひねると、水音が先ほどまでの沈黙を流していく。


母も隣へ来て、食器へ手を伸ばした。


「わたしが洗うから、お母さんは拭いて」


「はいはい」


「返事は一回」


「はい」


いつものやり取りだった。


そのことに少しだけ安心している自分が、悔しかった。





美琴が帰ったあと、佐伯は食卓へ戻った。


向かいの椅子は空いている。


二人で片づけた食器は、すでに棚へ収まっていた。先ほどまでの言い争いを示すものは何も残っていない。


それでも、美琴の言葉だけは、まだ部屋の中に残っていた。


家族を悲しませるな。


佐伯は椅子へ腰を下ろした。


五人を残したまま、自分だけが戻った。


二十七年前から、その事実は変わっていない。何か分かる可能性があるなら、確かめなければならないと思ってきた。


神崎から、当時の記録を再び調べていると聞いたときも。


必要になれば、現地での調査へ参加したいと考えたときも。


佐伯が見ていたのは、残してきた五人のことだけだった。


自分がどこへ向かうのか。


そこにどのような危険があるのか。


そして、戻れなければ誰が残されるのか。


考えていなかったわけではない。


ただ、それを自分一人で引き受ければ済むことだと思っていた。


向こうで帰ると決めたときも、選ぶことができたのは自分だけだった。


戻ってからも、五人を残したという事実を抱えるのは自分の役目だと思っていた。


そのまま、二十七年が過ぎた。


だが、今は違う。


佐伯は携帯端末を手に取った。


神崎の連絡先を開く。


通話をかけようとして、指を止めた。時刻は遅くないが、まだ調査中かもしれない。


短い文面を入力する。


会って話したいことがあります。


送信してから、端末を食卓へ置いた。


ほどなく、着信を知らせる振動が伝わった。


表示された名前を確認し、通話をつなぐ。


「佐伯です」


神崎の声が返った。


その向こうで、何かを操作する小さな音がする。まだ調査局にいるのだろう。


「今、お時間は大丈夫ですか」


「ええ。何かありましたか」


佐伯は空いた椅子へ目を向けた。


そこに座っていた美琴の表情を思い出す。


怒りを抑えきれず、声を震わせながら、それでも五人を探したいという佐伯の気持ちまで否定しなかった。


「娘に、二十七年前のことを話しました」


電話の向こうで、神崎が黙る。


佐伯が何をどこまで話していたのか、神崎は知っている。幼い娘へ昔話の形で伝えたことも、その後は詳しい事情を伏せてきたことも。


「今後、必要な調査があれば参加したいと思っていることも伝えました」


「娘さんは、何と?」


「反対されました」


正確には、それだけではない。


美琴は行ってほしくないと言った。


それでも、佐伯が五人を放っておけないことは分かるとも言った。


理解と納得を同じものにせず、自分も考えるための条件を示した。


「それでも、関わる意思は変わりませんか」


神崎の問いに、佐伯はすぐには答えなかった。


変わっていない。


二十七年前に何が起きたのか。


五人はどこへ失われたのか。


記録を調べた先に、佐伯自身の経験でなければ確かめられないものがあるなら、目を背けるつもりはなかった。


ただし、同じ決意ではない。


美琴と話す前の自分は、五人のもとへ近づくことだけを考えていた。


今は、その先に戻る場所がある。


「変わっていません」


佐伯は答えた。


「ですが、一人で決めることではなかったと思っています」


「娘さんの同意を得たということですか」


「いいえ」


美琴は認めたわけではない。


何も知らないまま反対することをやめると言っただけだ。


話を聞き、自分で確かめてから考えると。


「娘から、条件を出されました」


「条件?」


「神崎さんと、彼に会わせてほしいそうです」


短い沈黙が返る。


「彼にも、ですか」


「はい」


「調査へ関わりたいという意味ではありませんね」


「違います」


佐伯は美琴の言葉を思い返した。


自分の説明へ置き換えてしまえば、また同じことになる。


娘が何を知るべきか。


何を聞けば不安になるか。


どこまで関わらせてよいか。


それを佐伯だけで決めないと約束した。


「二人がどのような人なのか、自分で確かめたいと言っています。何を調べているのか、今後何をしようとしているのかも、話せる範囲で直接聞きたいと」


「佐伯さんからの説明ではなく?」


「私の言葉だけで判断したくないそうです」


美琴らしいと思う。


母親の言うことだからと、すべてを信じるわけではない。


信じられないからと、すべてを作り話にすることもしなかった。


分からないものを分からないままにせず、自分で確かめようとしている。


「彼には、私から事情を説明します」


やがて神崎が言った。


「そのうえで、会えるか確認します」


「お願いします」


「場所と日時についても、改めて相談しましょう。娘さんを調査局へ招く必要はないと思います」


「私も、そのほうがいいと思います」


一般の店か、外部の個室。


美琴が身構えずに話せる場所がいい。


佐伯がそこまで考えていると、神崎が静かに続けた。


「娘さんに話したのは、今後の調査に参加するためですか」


「それだけではありません」


話す前は、そのつもりだった。


必要になれば参加する。


その前に、美琴へ説明しておかなければならない。


佐伯がしようとしていたのは、相談ではなく報告だった。


けれど、美琴はそれを許さなかった。


「私は、娘を心配させないことが、守ることだと思っていました」


神崎は何も言わず、続きを待っている。


「でも、何も知らせずに待たせることも、私が一人で決めていいことではなかった」


五人のことを背負わせたくなかった。


二十七年前の異常も、別の世界も、戻らなかった仲間たちも、美琴の生活には関係のないものとして遠ざけておきたかった。


だが、佐伯が再びそこへ向かおうとするなら、無関係ではいられない。


何も知らなければ、不安が生まれないわけではない。


美琴は、それをずっと前から知っていた。


「一人で決めたのではない、ということですね」


神崎の言葉に、佐伯は少し考えてから答えた。


「まだ、何も決まってはいません」


現地での調査が必要になるかも。


佐伯が参加できるかも。


いつ、どこへ向かうのかも。


「だから、決まる前に話します。娘にも、神崎さんたちにも」


「分かりました」


神崎の声は、それ以上を確かめようとはしなかった。


「面会については、彼の返事を待って連絡します」


「お願いします」


通話を終える前に、佐伯はもう一度、向かいの椅子を見た。


美琴は、行くなとは言わなかった。


代わりに、帰ってこいとも言わなかった。


帰れない可能性があるからと、初めから仕方のないことにするな。


帰るためにできることを、すべてしろ。


そして、一人で決めるな。


できない約束を求めるのではなく、佐伯自身に選び続けることを求めた。


「神崎さん」


「はい」


「今後、現地での調査が必要になった場合は、参加したいと思っています」


口にしても、迷いはなかった。


「ただ、正式に決める前に、もう一度相談させてください」


「娘さんと、ですか」


「娘とも。それから、同行する方たちとも」


短い間のあと、神崎が答えた。


「そのときは、必要な情報を整理したうえで話しましょう」


「ありがとうございます」


通話を終える。


暗くなった画面に、自分の顔が映った。


二十七年前、佐伯は帰ることを選んだ。


それは今も、間違いだったとは思っていない。


だからこそ、次に向かうことがあるなら、帰ることまで誰かに委ねてはならない。


過去に残した五人へ近づくことと。


今いる場所へ戻ること。


どちらか一つを選ぶのではない。


佐伯は携帯端末を食卓へ置いた。


向かいの椅子には、誰もいない。


それでもそこには、帰るべき理由が残っていた。


2026/08/01 3部横断点検に伴い、表現の修正

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