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境界線 ―1999、世界は十三分止まった―  作者: 夕花
第三部『継続』

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残された五人

二つの世界の記録を比較してから、数日が過ぎていた。


その間、青年が調査局を訪れたのは二度だけだった。最初は追加の確認事項に答えるため。二度目は、神崎から新しい資料が揃ったと連絡を受けたためだった。


解析端末の画面には、六つの記録が並んでいる。


一九九九年。


青森県八甲田山地下区域。


同じ調査班として、地下へ入った六名。


青年は椅子へ座り、画面の上から順に目を通した。


班長。


副リーダー。


残る三名。


そして、佐伯真紀。


名前や年齢、当時の所属形態も記録には残っている。だが、今開かれている画面では、それらは一覧の端へまとめられていた。


中央に置かれているのは、進入後の記録だった。


「かなり増えましたね」


青年が言った。


数日前に見た資料より、項目が細かく分けられている。


位置記録、通信履歴、携行機器の作動状況、映像と音声、各人の最終確認時刻。映像から抽出された進行順序まで、別々の欄へ整理されていた。


「資料が増えたわけではありません」


神崎は画面を切り替えた。


「元からあった記録を、六名ごとに分け直しています」


青年は表示された件数を見る。


一人分だけでも、数百の項目が並んでいた。


「端末で自動的に分けたんですよね」


「最初の抽出は」


神崎はうなずいた。


「ただし、抽出されたものをそのまま使ってはいません」


別の画面が開く。


同じ時刻の通信記録が、複数の分類へ重複して入っている。位置情報には、地上側の受信時刻と地下側の記録時刻が混在していた。


映像の一部には、後の調査で付け加えられた注釈まで含まれている。


「同じ記録でも、保存された時期や形式が違います」


神崎が言った。


「当時の原記録なのか。後から複製されたものなのか。別の資料から転記されたものなのか。それを確認しないまま並べても、比較には使えません」


青年は一覧を送った。


除外。


重複。


時刻補正不可。


原記録未確認。


項目の横には、それぞれ理由が残されている。


「これを全部、人が確認したんですか」


「全件ではありません。比較対象として残ったものだけです」


「それでも多いですね」


「少なければ、もっと早く終わっています」


神崎は平然と答えた。


青年は画面へ視線を戻した。


六名の記録は、同じ形式に揃えられていた。


地下区域へ入った順番、通信状態が変化した位置、映像が乱れ始めた時刻、音声と発信機反応が失われた時刻。


六人分を重ねると、一本の長い表になる。


青年は最初の位置記録を開いた。


六名は地上側の待機班と通信を維持しながら、地下区域へ進入している。先頭と最後尾の間には距離があったが、班が分断されるほどではない。


途中で立ち止まった記録もある。


装備の確認。


周囲の撮影。


壁面と床面の状態確認。


異常を発見して慌てて奥へ進んだような動きではなかった。


「最初は、全員一緒だったんですね」


青年が言った。


「少なくとも位置記録上は」


神崎が答える。


「完全に同じ場所ではありません。調査班として行動できる範囲にいた、という意味です」


青年はうなずいた。


画面上の六つの位置が、地下区域の構造図を進んでいく。


班長が前方。


少し離れて副リーダー。


残る四名は、その間と後方へ分かれている。


誰か一人だけが別の通路へ入った記録はない。


誰かが大きく遅れた形跡もなかった。


やがて、映像記録の欄に変化が現れる。


最初は小さな乱れだった。


画面の端に細い線が入り、数秒後には消えている。その時点では、六名の映像すべてに同じ変化が起きたわけではない。


だが、地下へ進むにつれて乱れは増えた。


「最初に異常が出たのは、この映像ですか」


青年が一つを選ぶ。


「最初に保存された乱れは、それです」


神崎は言葉を区切った。


「最初に異常が起きたとは限りません」


「記録されなかった可能性がある」


「機器ごとの感度差もあります」


青年は他の映像を開いた。


同じ場所を別の角度から撮影している。片方には線が入り、もう片方には目立った変化がない。


数分後には二つの映像が同時に乱れ、さらに別の記録でも輪郭が崩れ始めた。


人の姿が見えなくなったわけではない。


だが、動くたびに像が遅れて重なり、誰がどこにいるのかを一つの映像だけで追うことが難しくなっていた。


青年は再生を止めた。


「映像が先なんですね」


「現在確認できる記録では」


神崎が答える。


音声は、その後もしばらく残っている。


映像が大きく乱れたあとも、六名は互いに声を掛けていた。


位置の確認。


通信状態の報告。


地上側からの呼びかけ。


内容の一部は欠けているが、少なくとも会話が続いていたことは分かる。


青年は波形を見た。


六本の音声記録が並んでいる。


一つが途切れる。


その直後、別の一つも消える。


残った音声には、誰かを呼ぶ声が入っていた。


青年は再生を止めなかった。


短い雑音。


応答。


聞き取れない言葉。


また一つ、音声が途切れる。


最後まで残った記録も、明確な叫び声や衝撃音を残してはいない。音が細くなり、雑音に埋もれ、そのまま消えていた。


室内に端末の駆動音だけが残った。


「順番は分かっているんですか」


青年が尋ねた。


「音声が途絶した順番は」


神崎は一覧を示した。


六名の欄に、それぞれ異なる時刻が記録されている。


差はある。


だが、数分も離れてはいない。


「この順番に意味があるかは確認できません」


「位置とは一致しない?」


「単純には」


神崎が構造図と時刻を重ねる。


先頭から順番に途絶したわけではない。後方からでもない。


携行機器の種類にも明確な共通点はなかった。


青年は六つの記録を見比べた。


「佐伯さんだけ、最後まで残っていたわけでもない」


「はい」


「最初に消えたわけでもない」


「確認できる範囲では」


佐伯の映像、音声、位置、発信機の記録だけを選ぶ。


どの項目にも、後に佐伯だけが再確認されることを示す印はなかった。


他の五名より長く通信できたわけではない。


別の装備を持っていたわけでもない。


一人だけ離れた場所にいた記録もない。


青年は佐伯の欄を閉じた。


「この時点では、六人のうちの一人なんですね」


神崎はすぐには答えなかった。


画面上では、六つの位置反応が同じ地下区域に残っている。


「記録上は」


やがて神崎が言った。


青年は最後の項目を開いた。


発信機反応。


それまで別々に動いていた六つの表示が、ほとんど同じ時間帯に失われている。


完全な同時ではない。


最初と最後の間には、わずかな差がある。


だが、映像や音声の途絶に比べれば、間隔は短かった。


「誤差ですか」


「そう扱える範囲です」


「一人ずつ消えたというより」


青年は構造図の六つの点を見る。


「同じときに、まとめて追えなくなった」


「位置確認については、その表現が近いと思います」


神崎が比較画面を固定する。


六名の進入。


映像の乱れ。


音声の途絶。


発信機反応の消失。


順番に差はある。


機器によって残り方も違う。


班内の役割、位置、装備、通信が途絶した順番。


どの項目にも、佐伯だけを他の五名から分ける条件はなかった。


「佐伯さんが戻った理由も、この中にあると思っていました」


「私たちも確認しています。ただ、現在まで見つかっていません」


少なくとも、消失までに残された記録から、六名を分ける差は確認できなかった。





神崎が比較画面を閉じた。


六名の映像と音声が消え、代わりに一本の時系列が表示される。


左端には、一九九九年当時の日付。


その横に、六名の発信機反応が失われた時刻が並んでいた。


青年は先ほどまで見ていた記録へ視線を戻す。


映像が乱れた。


音声が途絶えた。


六名の位置を追えなくなった。


そこまでは、ほとんど同じ流れだった。


「このあとですね」


青年が言った。


「はい」


神崎は時系列の続きを開いた。


発信機反応が失われたあとも、地上側の待機班は通信を試みている。


呼びかけ。


周波数の切り替え。


予備回線への移行。


携行機器の遠隔確認。


いずれにも応答はない。


青年は記録時刻を追った。


「すぐには入らなかったんですね」


「内部の状況を確認できませんでした」


神崎が答えた。


「映像も通信も失われています。六名の発信機がほぼ同じ時間帯に途絶した以上、待機班まで同じ状態になる危険がありました」


「助けに行けなかった」


「即時には」


神崎は言葉を限定した。


地上側では、地下から送られていた通常観測値も途切れていた。


温度、磁場、音圧、携行機器の状態。


どの記録も、最後に更新された数値を残したまま止まっている。


機器の故障なのか。


通信だけが失われたのか。


六名に何かが起きたのか。


その時点では、どれも判断できなかった。


待機班は入口周辺の観測を続けながら、内部の変化が収まるのを待った。


青年は経過時間を確認する。


短くはない。


だが、救助を断念したと呼べるほど長くもなかった。


「状況が変わった、というのは」


青年が尋ねた。


神崎は次の記録を開いた。


地下区域入口付近の観測映像。


最初は画面全体に細かな乱れが入り、内部を見通せない。


時間が進むにつれ、その乱れが弱くなっていく。


映像が安定し始めたあと、待機班が複数の観測機器を携行して地下へ入っている。


「六名が通った経路を追ったんですか」


「途中までは」


記録映像の中で、調査員たちが慎重に進んでいく。


壁や床、通路に残された六名の目印は、いくつか確認できた。


だが、進むほど過去の記録との一致が崩れていく。


曲がるはずの通路がない。


扉の位置が違う。


壁面の状態が変わっている。


青年は映像を止めた。


「構造が変わったんですか」


「当時の記録では、そう判断されています」


「今は?」


「同じ場所を再現できていません。構造が変化したのか、記録していた位置そのものが一致していないのかは確定していません」


神崎は過去の構造図と救助班の移動経路を重ねた。


途中までは重なる。


その先で、二つの線が分かれていた。


六名が進んだ記録上の通路は続いている。


救助班の映像には、その場所に壁がある。


青年は二つの線を見比べた。


「六人がいた場所まで、行けなかった」


「最後に確認された座標までは」


神崎は救助班の記録を送った。


壁の前で測位が行われる。


六名の発信機反応はない。


壁面を調べても、開口部や扉は見つからない。


周辺の磁場や温度にも、直前の記録と一致する異常は残っていなかった。


救助班は別経路を探している。


上層。


隣接通路。


地下側の空間推定。


結果は同じだった。


六名が最後にいた場所へ通じる経路は確認できない。


「それで、佐伯さんはどこに」


神崎が別の映像を開いた。


救助班の一人が、壁際で足を止める。


画面が揺れた。


誰かの声が入る。


映像の中央に、床へ倒れた人影があった。


青年は無意識に画面へ身を寄せた。


服装や髪、倒れた姿勢までは見えるが、細部は判別できない。


救助班が近づき、呼吸と脈を確認している。


「佐伯さんですか」


「はい」


発見地点が構造図へ表示される。


六名の発信機が最後に確認された場所の近く。


だが、同じ座標ではない。


救助班が最初に通過した際、その場所に佐伯はいなかった。


一度周辺を確認し、別経路を探したあと。


再び戻った際に、倒れている佐伯を発見した。


青年は映像の時刻を見た。


「現れたところは」


「記録されていません」


「救助班が見落とした可能性は?」


「否定できません」


神崎は最初の通過映像を開いた。


床。


壁際。


携行灯の光が動く。


人が倒れていれば見える場所だった。


だが、映像だけですべてを確認できるとは限らない。


画角の外。


光が届かなかった箇所。


救助班の注意が別の場所へ向いていた時間。


見落としの可能性は残る。


「だから、突然現れたとは言えない」


「はい」


神崎は二つの映像を並べた。


最初の通過。


再確認時の発見。


その間を記録した映像はない。


確定しているのは、最初の映像には佐伯の姿を確認できず、次の映像では倒れている佐伯が確認されたことだけだった。


青年は発見記録へ目を移した。


意識状態。


外傷。


所持品。


身元確認。


そこには佐伯真紀という名前が記録されている。


「他の五人は」


神崎は検索結果を表示した。


救助記録。


追加調査。


周辺捜索。


施設外部の確認。


六名が使用していた装備の探索。


五名に関する発見記録はない。


遺体。


所持品。


発信機。


新しい位置情報。


どれも確認されていなかった。


青年は画面に残った五つの空欄を見た。


「佐伯さんだけが戻った」


「一九九九年の記録上、こちら側で再確認されたのは佐伯さんだけです」


神崎が訂正する。


青年は一度、目を閉じた。


以前にも聞いた言い方だった。


戻った。

戻らなかった。


そう呼ぶには、彼らがどこかへ移ったと分かっていなければならない。


記録にあるのは、六名を見失い、その後に佐伯だけを発見したという事実だけだった。


「五人が向こう側へ行ったという記録もない」


青年が言った。


「ありません」


「死んだという記録も」


「直接確認されたものはありません」


神崎が後年の記録へ画面を進めた。


一九九九年以降。


五名について行われた捜索と照会。


行政上の記録。


家族への連絡。


関連する失踪情報との照合。


画面には、五本の時系列が並んだ。


消失後、五本の記録は長いあいだ同じ経過をたどっていた。


捜索継続。

有力情報なし。

生存確認なし。

遺体未発見。


その脇に、約十年後の日付を持つ別の照合記録が、関連候補として置かれている。詳細欄は閉じられていた。


「これは?」


「後年に確認された関連候補です」


「本人が見つかった?」


「そこまでは判断されていません」


神崎は項目名だけを表示した。


身元不明者。


記憶欠落。


照合不能。


異常候補地点周辺。


どの文字も、それだけでは特定の人物を示していない。


「五人の誰かかもしれない」


青年が言った。


「別の失踪事例に関連する可能性もあります」


「無関係な人かもしれない」


「はい」


神崎は詳細を開かなかった。


「この記録は、別に確認します」


青年は表示された四つの項目を見た。


それまでの五本とは、記録の性質が違っていた。


だが。


違うというだけで、その人物が帰還したとは言えない。


青森で消えた一人だとも言えない。


青年は六本の時系列を並べ直した。


最初の一点。


六名の発信機反応が失われた時刻。


そこまでは近い。


その先で。


佐伯の記録だけが発見へ続く。


残る五本は、長いあいだ同じ形で続いていた。


所在確認不能。

生存確認不能。

遺体未発見。


そして、記録上は死亡扱いとなった。


その五本とは別に、約十年後に確認された身元不明者の記録が置かれていた。


青森の五名の誰かに対応するのか。それとも、まったく別の失踪事例につながるのか。記録からは特定できない。


「でも」


青年は画面から目を離さなかった。


「どれも、その人が今どうなっているかは分からない」


「はい」


死亡扱いは、死亡の確認ではない。


身元不明者の記録も、誰かが戻ったことを示すものではなかった。


青年は、最初の消失時刻へ視線を戻した。


六名は同じ場所で記録から失われ、佐伯だけが再確認された。


残る五名の現在へ続く記録はない。


その脇には、誰のものとも確定できない記録だけが残されていた。





神崎が、最後に残った一本の時系列を開いた。


先ほど表示されていた四つの項目が、画面の中央へ移る。


身元不明者。


記憶欠落。


照合不能。


異常候補地点周辺。


その下に記録された日付は、六名が消失した年から、およそ十年後のものだった。


「十年後」


青年が言った。


「正確には、十年には届いていません」


神崎は日付を拡大した。


「ただ、当時の記録でも約十年後の関連事例として整理されています」


発見場所は青森ではなかった。


別の地域。


一九九九年の十三分停止後、日本国内で調査対象に挙げられながら、八甲田山周辺より優先度が低いと判断された異常候補地点の近くだった。


青年は地図を見た。


数日前に確認した候補地点の一つに、印が重なっていた。


「ここも、当時から調べていた場所なんですね」


「継続的な調査対象ではありました。ただし、青森ほど複数の異常が集中していたわけではありません」


神崎が当時の記録を開く。


局が現地を常時封鎖していたわけではない。


異常候補として観測を続け、周辺で通常とは異なる事例が報告された場合に、関連性を確認していた場所だった。


身元不明者が発見されたのは、候補地点から少し離れた道路脇だった。発見者は近隣に住む住民として記録されている。


倒れている成人男性。


意識はなかった。


外傷は軽度。


重い損傷や、生命に関わる異常は確認されていない。


青年は発見時の記録を送った。


項目には「衣服製造元・年代特定不能」と記されていた。


「当時の一般的な衣服と一致しなかった、という意味です」


「古かったんですか」


「年代を特定できる特徴はありませんでした」


衣服には製造元を示す表示がなかった。


素材そのものは異常ではない。


繊維として分析でき、通常の衣服と同じように扱える。


ただし、縫製や形状が既知の製品記録と一致せず、どこで作られたものか確認できなかった。


「服だけで異常事例に入ったわけじゃないですよね」


「それだけなら入りません」


神崎は次の項目を開いた。


保護された男性は、呼びかけに反応して意識を取り戻した。


会話は成立した。


質問の意味も理解できた。


自分で立ち上がり、歩くこともできた。


だが。


自分の名前を答えられなかった。


住所も、出身地も、職業も、家族も、発見前にどこにいたのかも答えられなかった。


「記憶喪失」


青年が画面の文字を読んだ。


「記録上の分類です」


神崎は言った。


「原因は特定されていません」


言葉を忘れているわけではない。


一般的な知識も残っている。


文字を読み、簡単な計算を行い、日用品の用途も理解していた。


社会生活を送るための知識はある。


だが、それを自分自身の過去へつなげる記憶がない。


青年は報告書を読み進めた。


「自分のことだけが分からない」


「そのように記録されています」


「佐伯さんと似ていますか」


神崎はすぐには答えなかった。


「佐伯さんには、帰還以前の自分に関する記憶があります」


神崎が別の欄を示す。


「この人物には、それが確認できません」


佐伯は、自分が誰であるかを失ってはいない。


家族も、所属も、調査へ入った経緯も覚えていた。


欠けていたのは、分断後から帰還までの一部と、その間に出会った人物を特定する情報だった。


画面の人物は違う。


失われている範囲が、自分自身の経歴全体に及んでいた。


「同じ記憶欠落でも、同じ状態とは言えない」


「はい」


神崎は所持品記録へ進んだ。


男性は、衣服の内側に数点の物品を持っていた。


所持品は、小型の金属片、紙に似た薄い素材、身分証を思わせる板状物だった。


だが、どれも本人確認には使えなかった。


板状物には、文字らしき痕跡がある。


表面に凹凸も残っている。


しかし、光を変えても、拡大しても、意味のある文字列として読み取れない。


紙に似た素材も同様だった。


印刷が消えたように見えるが、インクを除去した痕跡はない。


「何も書かれていなかった?」


「記録作成者は、何かがあった形跡はある、としています」


神崎が撮影画像を表示した。


薄い板の表面には、確かに線が残っている。


均等な間隔。


写真が貼られていたような区画。


識別番号が置かれていたような余白。


何かを証明するための物だったように見える。


だが。


そこに誰の情報があったのかは分からない。


電子的な読み取りも試みられていたが、情報は取得できなかった。


「壊れていたんですか」


「物理的な破損だけでは説明できない、と当時の技術担当は記録しています」


「異常だった」


「通常の故障原因を確認できなかった、までです」


神崎は報告書の表現を崩さなかった。


青年は板状物の画像を見つめた。


持ち主の情報を示すために作られたように見える。


それなのに。


本人と同じように、何者であったかを示す部分だけが欠けている。


公的機関でも身元照会が行われていた。


当時利用できた範囲で、失踪届や行方不明者記録、犯罪被害、事故、災害、医療機関の記録まで照合されていた。


該当者なし。


後年、照合技術が更新されるたびに再確認も行われた。


それでも、身元へ続く記録は見つからなかった。


「指紋や、身体の記録は」


青年が尋ねた。


神崎は照合欄を開いた。


身体的特徴。


推定年齢。


身長。


骨格。


古い傷。


指紋。


複数の項目が並ぶ。


「取得できた情報はあります」


「一致した人はいなかった?」


「一部の特徴が近い失踪者は複数います」


神崎は候補一覧を表示した。


人数は一人ではない。


発見時期より前に失踪した人物。


異常事例に関わった者。


一般の行方不明者。


局の調査中に位置を確認できなくなった人物。


それぞれに、一致する項目と一致しない項目が記録されている。


青年は一覧を送った。


「青森の五人も入っている」


「比較対象には含まれています」


五名の記録も並んでいた。


年齢。


性別。


当時の身体的特徴。


残された写真。


医療記録。


現場で取得された映像。


完全な情報ではない。


一九九九年当時の資料であり、現在と同じ精度で残っていない項目もある。


その中の一人と、顔立ちや身体的特徴の一部が近い。


青年は二つの画像を見比べた。


古い調査記録に残る人物。


約十年後に保護された身元不明者。


同じように見える。


少なくとも。


無関係だとすぐに切り捨てられるほど違ってはいなかった。


「似ていますね」


青年が言った。


「外見上は」


神崎の答えは短かった。


「これだけ似ていても、本人だとは言えないんですか」


「言えません」


神崎は一致しなかった項目を表示した。


一致したのは、外見上の特徴の一部だけだった。


指紋と過去の負傷記録は一致しなかった。身体計測値にも差がある。


ただし、この事例で確認された不一致が、別人であるために生じたものか、異常事例との関連によって生じたものかは判断できなかった。


そのため、不一致は同一人物である証拠にはならない一方、完全な除外条件にもできなかった。


「一致しない。でも、別人とも確定できない」


青年が言った。


「はい」


「それなら、青森の人かもしれない」


「可能性はあります」


神崎は候補一覧を閉じなかった。


「別の異常調査で失踪した人物である可能性もあります」


画面には、青森以外の記録も残っている。


地下施設。


山中。


廃屋。


海岸。


通常の捜索では位置を確認できなくなった人物。


異常に関わった可能性はあっても、どこへ消えたか確定していない事例。


その中にも、身元不明者と一部の特徴が近い人物がいた。


「こんなにいるんですか」


青年が尋ねた。


「同じ状態で消えたと確認されているわけではありません」


神崎は言った。


「行方不明となった経緯に、通常の説明だけでは整理できない点が残る事例です」


「その中の誰かが戻ってきたかもしれない」


「それも仮説です」


青年は候補一覧へ視線を戻した。


青森の一人。


別の調査で消えた者。


局が把握していない失踪者。


異常とは無関係な記憶喪失者。


どれも除外できない。


「本人に写真を見せたりは」


「行われています」


神崎が聞き取り記録を開いた。


失踪者の写真。


場所。


名前。


当時の所持品。


複数の情報を提示しても、本人に明確な反応は確認されなかった。


知らないと答えたもの。


見覚えがあるような気がすると答えたもの。


判断できないと答えたもの。


どの反応も、身元を特定する根拠にはならなかった。


「覚えていないだけなら、反応がなくても不思議ではない」


青年が言った。


「そうです」


「反応したとしても、本人とは限らない」


「はい」


青年は椅子へ背を預けた。


照合できる情報が少ない。


一致すれば手がかりになる。


一致しなければ別人だと考えたくなる。


だが。


異常によって失われたものがある可能性を残すなら、不一致そのものも決定的な証拠にはならない。


「局は、どう扱ったんですか」


「特定の失踪事例へ結びつけない関連候補です」


「青森の五人の一人としてではなく」


「はい」


神崎は画面の分類を示した。


要観察。


身元照合継続。


異常事例との関連未確定。


どの項目にも、帰還者とは書かれていない。


「佐伯さんには」


青年は言いかけて、画面を見た。


神崎が視線を上げる。


「この人のことを伝えたんですか」


「確認できる関連性がありません」


神崎は答えた。


「青森の調査班と結びつく事実がない以上、特定の関係者へ通知する対象にはしていません」


「見てもらえば、何か分かったかもしれない」


「分からなかった可能性もあります」


神崎は否定しなかった。


「それだけではありません」


青年は続きを待った。


「その人物にも、現在の生活があります」


画面には、保護後の詳細は表示されていない。


身元が分からないからといって。


過去の異常事例に関係する可能性があるからといって。


複数の失踪者の関係者を順に会わせることが、本人にとって正しいとは限らない。


「誰かの家族かもしれない人を、別の誰かのところへ連れていく」


青年が言った。


「可能性だけで行えば、本人を複数の過去へ結びつけることになります」


神崎は候補一覧を閉じた。


残ったのは、最初の四項目だけだった。


身元不明者。


記憶欠落。


照合不能。


異常候補地点周辺。


「戻ってきた人なのかもしれない」


青年は言った。


「可能性はあります」


「でも、誰が戻ってきたのかは分からない」


「はい」


画面の人物には、発見前の記録がない。


名前もない。


どこから来たのかも分からない。


ただ。


ある日、異常候補地点の近くで発見された。


生きていた。


会話もできた。


歩くこともできた。


それでも、元の場所へ続く記録は見つからなかった。


青年は、佐伯の帰還記録を思い出した。


佐伯には、名前があった。


所属も、家族も、自分が誰なのかも答えられた。


だから発見された人物は、佐伯真紀として過去の記録へ結びついた。


画面の男には、そのためのものが何も残っていない。


仮に。


本当にどこかから戻ってきたのだとしても。


戻る前の自分へつながるものがない。


「帰ってきても」


青年は画面を見たまま言った。


「元の人間に戻れるとは限らない」


神崎はすぐには答えなかった。


「少なくとも、この記録は」


やがて口を開く。


「発見されたことと、身元が回復することを、同じ結果として扱えない事例です」


青年は四つの項目を見つめた。


画面には、どの失踪記録にも結びつかない人物だけが残っていた。





その日だけでは、照合は終わらなかった。


青年が次に調査局を訪れたとき、身元不明者の記録は、さらに多くの資料へつながっていた。


画面上には、いくつもの候補が並んでいる。


異常調査中に行方を確認できなくなった者。


異常候補地点の周辺で保護された記憶欠落者。


身元を証明する情報を持ちながら、記録との照合が成立しなかった者。


通常の失踪事件として処理されたあと、局の調査対象へ加えられた事例。


一件ずつ見れば、共通しているようにも見える。


だが、条件を重ねるほど、同じ事例として扱えないものが増えていった。


発見年代や年齢が合わないもの、失踪時の身体的特徴と一致しないもの、異常候補地点から離れすぎているもの。記録の誤りや、後年の聞き取りで異常とは無関係だと判明した事例も除外された。


候補は減った。


それでも、身元不明者の身元には結びつかなかった。


青年は画面の端に残った数字を見る。


「前より少なくなってますね」


「除外できた事例があります」


神崎が答えた。


「本人が分かったものも?」


「はい。後に身元が判明した事例。記録上の誤りだった事例。異常候補地点との関連が確認できなかった事例です」


神崎が一覧を閉じていく。


一つ消える。


また一つ消える。


最後まで残ったのは、身元不明者の記録と、複数の失踪事例だった。


青森の一人も、その中に含まれている。


だが。


ほかの候補より強く一致しているわけではなかった。


「結局、誰なのかは分からない」


青年が言った。


「はい」


「青森の人じゃないとも言えない」


「除外できる情報はありません」


「ほかの場所で消えた人じゃないとも言えない」


「同じです」


神崎は照合結果を保存した。


画面には、該当なしではなく、特定不能と表示されている。


存在しないわけではない。


候補がないわけでもない。


複数の可能性が残り、そのどれか一つへ絞れない。


青年は椅子へ座り直した。


数日間。


局では、同じような確認が続けられていた。


システムが抽出した記録を人間が読み直す。


元の資料へ戻る。


転記された時刻を確かめる。


位置情報の基準を揃える。


同じ人物が別の名前で登録されていないか確認する。


失踪者の写真と、身元不明者の記録を比較する。


一致する項目。


一致しない項目。


比較できない項目。


どれだけ繰り返しても、最後の一つが決まらなかった。


青年が画面を閉じると、別の比較結果が表示された。


五つの反応。


佐伯がいた世界で確認された、動かない五つの位置。


その横に、一九九九年の青森で失われた五名の最終記録が並んでいる。


「こっちも見直したんですか」


「同じ作業をしています」


神崎は二つの記録を重ねた。


一九九九年。


青森地下区域。


五名の発信機反応が最後に確認された位置。


もう一方は。


佐伯が帰還前に確認した五つの反応。


数は同じだった。


だが、座標の基準が違う。


地下構造も一致しない。


時間の扱いも同じとは限らない。


青年は相対的な位置関係を見た。


「並び方は」


「一部は近く見えます」


神崎が表示倍率を変えた。


五つの点の間隔。


通路に対する位置。


失われる直前の移動方向。


比較条件を変えると、似ている部分が現れる。


別の条件を重ねると、その一致は崩れた。


「五人の位置が、そのまま向こうに残っているわけではない」


「そのようには確認できません」


「でも、無関係とも言えない」


「数が同じという事実は残ります」


神崎は二つの記録を分けた。


「それ以上は、現在の資料だけでは判断できません」


青年は五つの反応を見つめた。


佐伯が帰還前、同行していた五名のものではないかと考えた反応。


生きていることを示すのか。


位置を示すのか。


単に過去の記録が残っていただけなのか。


そのどれも、まだ確定していない。


「反応が残っていたから、五人が向こうにいたとは言えない」


「はい」


「今もいるとも」


「言えません」


「死んでいるとも言えない」


神崎は答えなかった。


青年は、五名の現在の記録へ視線を戻した。


五名。


いずれも長期失踪の末に、記録上は死亡したものとして扱われている。


だが、死亡を直接確認された者は一人もいない。


さらに、どの失踪事例にも対応を確定できない身元不明者の記録が残されていた。


それが本人なのか。

別の失踪者なのか。


何も確定していない。


仮にその人物が帰還者であったとしても。


青森の一人とは限らない。


青年は六名の記録を開いた。


同じ場所へ入った。


同じ時間帯に位置を失った。


そこまでは共通している。


佐伯は、自分の名前を持ったまま発見された。


約十年後には、どの失踪事例にも対応を確定できない別の記録が加わった。


「同じ場所にいると考えるのは、違うんですね」


青年が言った。


神崎は画面を見たまま答えた。


「同じ場所で失われたことは確認できます」


「でも、同じ状態だとは限らない」


「はい」


「同じ場所にいるとも限らない」


「その前提では調査できません」


青年は五つの反応へ視線を戻した。


五人。


同じ数。


同じ消失に関係しているようにも見える。


数日間の照合結果は、画面上で三項目にまとめられた。


五名――実際の生死・所在未確定。

身元不明者――対応する失踪事例を特定不能。

五つの反応――五名との対応未確定。


資料を増やしても、五名の現在へつながる記録は見つからなかった。


身元不明者が誰なのか、候補を一人に絞ることもできなかった。


「ここから先は」


青年は言った。


「また別の記録を探すんですか」


神崎はしばらく画面を見ていた。


「現在抽出できる範囲は確認しました」


「まだ残っている資料は」


「あります」


神崎は否定しなかった。


「ただし、同じ条件で照合を続けても、結果が変わる可能性は低いでしょう」


画面の横には、確認済みの資料数が表示されている。


映像、音声、通信、測位、救助記録、後年の捜索、行政記録、異常候補地点周辺の事例。


すべてを調べ尽くしたわけではない。


だが。


今ある問いに対して、同じ種類の資料を増やしても、同じ空白が残る。


「記録にないものを探す必要がある」


青年が言った。


「記録されていない、とはまだ言えません」


神崎は画面を閉じた。


「保存されている記録の読み方を変える必要がある可能性もあります」


「どうやって」


神崎は青森地下区域の構造図を開いた。


一九九九年の調査記録。


六名が進入した経路。


救助班が到達できなかった場所。


過去の構造図と、現在保存されている構造図。


「現地を確認します」


青年は画面を見た。


「青森へ行くんですか」


「はい。現地再調査を行います」


「もう決めたんですね」


「記録照合だけでは、これ以上前進できません」


神崎は構造図を閉じた。


「日程と、現地調査に必要な準備を確認しています」


青年はうなずいた。


答えを見つけたわけではない。


五名がどこにいるのかも分からない。


だが。


調べる場所は残った。


そのとき。


机の上に置かれていた神崎の端末が短く振動した。


神崎が画面を見る。

指が止まった。


青年は、神崎の表情がわずかに変わったことに気づいた。


「何かありましたか」


神崎は表示された文面を確認した。


「佐伯さんからです」


青年は構造図へ視線を戻した。


青森へ行くことを決めたばかりだった。佐伯には、まだ何も伝えていない。


「会って話したいそうです」


神崎は佐伯へ折り返した。


青年は声を出さず、途切れた通路の先を見つめていた。


2026/08/01 3部横断点検に伴い、表現の修正

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