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境界線 ―1999、世界は十三分止まった―  作者: 夕花
第三部『???』

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26/29

知らない人

面会場所に指定されたのは、調査局ではなかった。


駅から少し離れた店の個室だった。通りに面した入口には目立たない看板が掲げられ、店内から聞こえる話し声も、奥へ進むにつれて遠ざかっていく。


青年は神崎のあとに続き、半分ほど開かれていた引き戸の前で足を止めた。


室内には、すでに一人の女性が座っていた。


机の上には手をつけられていない飲み物が置かれている。女性は膝の上で両手を重ね、神崎へ視線を向けた。


その顔を、青年は初めて見る。


報告書には氏名と経歴が記されていた。二十七年前の調査へ参加し、六名のうち一人だけが帰還したことも知っている。


だが、資料に写真は添付されていなかった。


記録の中にしか存在しなかった人物が、目の前にいる。


「お待たせしました」


神崎が室内へ入る。


女性は小さく首を振った。


「いいえ。私も、少し前に来たところです」


神崎が脇へ寄り、青年の姿が見える。


女性の視線が、青年へ移った。


そのまま、止まった。


ほんのわずかな間だった。


表情が変わったわけではない。驚いた様子もなく、名前を呼ぼうとしたわけでもなかった。


ただ、青年を見たあとに続くはずだった動作が、一拍だけ遅れた。


膝の上に置かれていた指先が離れ、すぐに元の位置へ戻る。


「佐伯さん」


神崎の声に、女性は一度だけ瞬きをした。


「こちらが、事前にお伝えした方です」


青年は軽く頭を下げた。


「初めまして」


女性は青年を見たまま、返事をしなかった。


神崎も言葉を重ねない。


店の外を走る車の音が、閉じた扉の向こうを通り過ぎていった。


やがて女性は視線を下げ、浅く息を吸った。


「すみません」


「いえ」


「少し、考え事をしていました」


女性はそう言ってから、改めて青年へ向き直った。


先ほどまでの遅れは、もう残っていない。


「佐伯真紀です」


青年も自分の名を告げた。


「よろしくお願いします」


佐伯は静かに頭を下げた。


その仕草は落ち着いていた。


青年を知っているようには見えない。名前を聞いても、表情に変化は起きなかった。


それでも、最初に生じた間だけは消えなかった。


青年が席へ着く。


神崎は二人の間ではなく、机の端に近い位置へ座った。正面から話を聞き取るための配置ではない。


調査局の応接室で資料を挟んだときとは違っていた。


机の上に、記録媒体も書類も置かれていない。


神崎は二人を順に見た。


「改めて紹介します。佐伯真紀さんです。二十七年前に時間異常を経験し、その後も必要な確認に協力していただいています」


青年は佐伯へ目を向けた。


二十七年前。


その年月は報告書の上では一つの数字にすぎなかった。


目の前の佐伯は、その時間を異常の外側で過ごしてきた。記録が途切れたあとにも生活を続け、二十七年を過ごしてきた人物だった。


「こちらは、最近になって時間異常に関わった方です」


神崎は青年の名を告げたあと、それ以上の説明を加えなかった。


「自分に起きたことを、まだ整理している途中でもあります。記録だけでは分からないこともあるため、経験者として話をしていただけないかとお願いしました」


佐伯はうなずいた。


「そのように聞いています」


神崎が伝えていた内容と違いはない。


青年の観測記録と二十七年前の記録を照合した際、解析端末が反応したことは、説明に加えられなかった。


佐伯は、その説明を求める様子を見せない。


「私の話が役に立つかは分かりません」


声は穏やかだった。


「覚えていないことも多いですし、今も説明できないことがあります」


「分からないことを、分かるように話してもらうつもりはありません」


青年が答える。


「覚えている範囲で十分です」


佐伯の視線が、再び青年の顔へ戻った。


今度は遅れなかった。


しかし、すぐにも離れなかった。


青年は問い返さずに待った。


佐伯の目に、過去を思い出したような変化はない。ただ、初めて会った相手を確かめるには、少し長い時間だった。


「何か、気になりますか」


青年が尋ねると、佐伯はわずかに眉を寄せた。


「いいえ」


答えたあとも、その表情は戻らなかった。


「たぶん、何も」


言葉が一つ加えられる。


青年には、その違いが分からなかった。


佐伯自身にも分かっていないように見えた。


神崎は何も言わない。


机の端へ置いた手も動かさず、佐伯の言葉を訂正することも、青年へ説明を促すこともしなかった。


ただ、その視線だけが一度、佐伯から青年へ移った。


最初の間を、見逃してはいない。


青年はそう気づいたが、口にはしなかった。


神崎がこの面会に何を求めているのか、すべてを聞いているわけではない。


佐伯から直接話を聞くこと。


二人が接触しても異常が起きないことを確認すること。


その先に別の目的があったとしても、現時点では推測にすぎなかった。


机の上の飲み物から、細い湯気が立っている。


佐伯はカップへ手を伸ばしかけ、指先を止めた。


「時間異常に関わったのは、最近なんですね」


「はい」


「それまでは、何も?」


青年はすぐには答えなかった。


一九九九年の十三分。


《23:31》を示した時計。


地下に存在した施設と、そこではない場所から帰還した佐伯。


どこからを最初と呼ぶべきなのか、今も決められない。


「何もなかったと思っていました」


佐伯は、その答えを聞いて視線を下げた。


「そうですか」


短い言葉だった。


同意とも否定とも取れない。


佐伯はカップを持ち上げ、口をつけずに戻した。


「私も、最初はそうでした」


青年は顔を上げた。


佐伯の指が、取っ手からゆっくりと離れる。


「自分に何が起きたのか、分かりませんでした」


先ほどまで青年を確かめていた視線が、わずかに遠くなる。


神崎は遮らない。


青年も、次の言葉を待った。


佐伯は一度だけ目を閉じた。


それから、二十七年前の話を始めた。





佐伯は、机の上へ視線を落としたまま話し始めた。


「調査へ参加したところまでは、記録と同じです。六人で地下へ入り、確認するはずだった場所へ向かいました」


声に迷いはなかった。


何度も説明してきた内容なのだろう。出来事を順に並べる言葉は整っている。


「でも、途中から記憶が続いていません」


佐伯は指先でカップの取っ手に触れた。


「気がついたときには、知らない場所にいました。地下にいたはずなのに、そこは地下ではありませんでした」


青年は、事前に読んだ記録を思い返した。


別世界の青年が佐伯を発見した場所では、媒体に地下施設の座標が表示されていた。


しかし、実際に存在していたのは、それとは異なる場所だった。


「一人だったんですか」


「最初は、そう思いました」


佐伯は答えたあと、わずかに間を置いた。


「ほかの五人は見つかりませんでした。名前も、参加していたことも覚えていました。でも、いつ離れたのか分からなかったんです」


「記録では、同じ地点で分断された可能性があるとされていました」


青年が言うと、佐伯はうなずいた。


「私も、あとからそう聞きました」


「佐伯さん自身には、そのときの記憶がない」


「ありません」


短い返事だった。


佐伯はカップから手を離した。


「自分では、同じ場所を歩いていたつもりでした。何かを越えた覚えもありません。扉を開けたわけでも、道を選んだわけでもない。ただ、気づいたときには、周囲から誰もいなくなっていました」


神崎は黙って聞いている。


記録を訂正することも、補足することもなかった。


「その場所を、どう説明したんですか」


「できませんでした」


佐伯は顔を上げた。


「見たものを話しても、該当する場所がありませんでした。壁があったと言っても、調査された区画には同じものがない。通路を進んだと言っても、記録ではその先に通路自体が存在していない」


佐伯の記憶には場所がある。


現実の記録には、対応する場所がない。


青年がこれまで経験してきた異常にも、似た構造はあった。


存在しない地下施設。


現実とは一致しない表示。


特定の人間だけが認識できる異常。


証言を裏づける媒体記録や座標記録は残っている。だが、当人の記憶と記録は完全には一致せず、記録が示す場所も現実には存在していない。


「話すたびに、自信がなくなりました」


佐伯の声は変わらない。


それでも、その言葉だけがわずかに遅れて届いた。


「最初は、確かに見たと思っていたんです。でも、説明しても記録と合わない。確認されるたびに、自分の覚えていることのほうが間違っているのかもしれないと思うようになりました」


「周囲には、どこまで話したんですか」


「調査局以外には、ほとんど」


佐伯は小さく息を吐いた。


「話しても理解してもらえないと思いました。それに、私自身が理解できていませんでしたから」


帰還したという事実に加え、白い線や接続地点、帰ることを選んだ記憶、その帰還に誰かが関わったことも断片的に残った。


だが、それらを一つの連続した経緯として説明することはできない。人物を特定するための記憶も欠けたままだった。


記録として整理された断片を、佐伯は一人で抱えたまま日常へ戻った。


「すぐに元の生活へ戻れたんですか」


「戻ることはできました」


佐伯は答えた。


「戻れたことと、元どおりになったことは、同じではありませんでしたけど」


青年は何も言わなかった。


会社へ復帰してからの日々が浮かぶ。


机も、端末も、任されていた仕事も変わっていない。


周囲は以前と同じように青年へ接した。


それでも、画面に一瞬だけ重なる数字や、消えたはずの表示を見過ごすことはできなくなっている。


日常へ戻ったあとにも、異常だけが切り離されずに残っていた。


「何も起きていない時間のほうが長いんです」


佐伯は続けた。


「朝になれば起きて、仕事へ行って、帰ってくる。周りの人にとっては、それで異常は終わっています」


佐伯は一度、青年の顔を見た。


「でも、自分の中では終わっていない。忘れていることがあると分かっているのに、何を忘れたのか確かめられない。その状態だけが残りました」


青年にも、自分が経験した異常のすべてを説明できるわけではない。


見たものは覚えている。


しかし、それらが二十七年前の出来事とどのようにつながっているのかは分からない。


分からない部分だけが、現実との間に残されている。


「その違和感は、今もありますか」


「あります」


佐伯は迷わず答えた。


「二十七年も経てば、考えない日は増えます。思い出そうとしなければ、普通に生活もできます」


カップに触れていた指が、ゆっくりと離れた。


「それでも、なくなったわけではありません」


青年は佐伯の言葉を、自分の経験と比較した。


同じ出来事ではない。


佐伯は二十七年前に異常へ巻き込まれ、現在の青年は二十七年後に別の異常を経験した。


佐伯には、帰還までの経緯に関する記憶が欠けている。青年の経験にも、現実の記録だけでは説明できない部分が残っていた。


それでも、両者の間には似た欠落がある。


異常を認識できる者は限られている。


当人が覚えている出来事と、現実に残された記録が一致しない。


起きたことのすべてではなく、一部だけが失われている。


そして、誰かの選択によって結果だけが現実へ残されている。


青年は、机の端へ視線を移した。


神崎は二人の会話を聞いている。


表情から、その一致をどう捉えているのかは分からなかった。


「帰還したときのことは、どこまで覚えていますか」


青年が尋ねると、佐伯の視線が止まった。


それまで途切れずに続いていた言葉が、初めてすぐには返ってこなかった。


青年は待った。


佐伯は何かを探すように目を伏せた。


「帰ってきた瞬間は、覚えていません」


やがて、静かに答えた。


「気づいたときには、元の世界にいました。保護されて、何度も確認を受けて、それから自分が戻ったのだと分かりました」


「帰還したのは、佐伯さんだけだったんですね」


「はい」


佐伯の指先が動いた。


「でも、自分だけのことだったとは思えないんです」


佐伯は顔を上げた。


「あの場所には、私が帰ることを望んでくれた人がいました」


その答えだけが、二十七年間失われなかった事実のように残った。





青年は、事前に確認した報告書を思い返した。


六名で調査へ入り、五名が所在不明となったこと。


佐伯だけが帰還したこと。


保護された時点で記憶の一部に欠落があり、帰還までの経緯を一つの連続した出来事として説明できなかったこと。


正式聴取の記録は、その先へ続いていた。


別の場所で出会った青年。


青年にだけ見えていた白い線。


帰還までのあいだに確認された異常な表示と、通常記録には残らない変化。


そして、向こう側に残った五名について交わされた言葉。


佐伯の帰還を望んでいた人物が存在し、その人物が佐伯とともには戻らなかったことは記録されている。


ただし、名前や顔、声など、その人物を特定できる情報は残っていなかった。


「当時の聴取でも、その人のことを話していました」


青年が言うと、佐伯は視線を伏せた。


「そう聞いています」


佐伯は答えたあと、自分の言葉を確かめるように間を置いた。


「でも、自分が何をどう話したのか、今はほとんど覚えていないんです」


青年は神崎へ目を向けた。


神崎は口を挟まなかった。


報告書の内容を補足する様子もない。青年がどこまで聞くのかを、そのまま見ている。


「その人が、佐伯さんの帰還に関わっていたことも」


「分かります」


佐伯の返事に迷いはなかった。


「帰るまで、その人が何をしていたかは覚えていますか」


その問いに、佐伯は答えなかった。


机の上で重ねられていた指が、ゆっくりと組み直される。


「すみません」


やがて、佐伯は小さく首を振った。


「帰るまでに何が起きたかは、断片的に覚えています。でも、あの人と何を話したのか、その人がどんな人だったのかだけが抜け落ちているんです」


佐伯は目を閉じた。


記憶を探しているようにも、見つからないものを確かめているようにも見えた。


「その人がいたことは分かります。私が帰ることを望んでくれていたことも、その人が向こう側に残ったことも」


そこで言葉が途切れる。


青年は続きを促さなかった。


店の外から、食器の重なる音がかすかに届いた。扉の向こうでは誰かが行き交い、遠くで短い笑い声が上がっている。


佐伯が再び目を開けた。


「でも、名前が分かりません」


「報告書にないという意味ですか」


「違います」


佐伯は首を振った。


「私が、思い出せないんです」


青年は返す言葉を止めた。


「顔も分かりません。声も、どんな話し方をしていたのかも」


佐伯の視線が、青年ではない場所へ向けられる。


「帰ることを選んだのは私です。それは覚えています。でも、その前後にあの人と何を話したのかが思い出せません」


青年は、佐伯の言葉を頭の中で分けた。


存在していたこと。


佐伯が帰ることを望んでいたこと。


その人も、佐伯の帰還を望んでいたこと。


一緒には戻らなかったこと。


そこまでの意味は残っている。


しかし、その人物を特定するための記憶がない。


名前も、顔も、声も失われている。


記録に残せなかったのは、その人物の存在ではない。


誰だったのかを特定するための情報だった。


「覚えていないのに、どうしてその人がいたと分かるんですか」


青年が尋ねる。


問いかけたあとで、佐伯を追い詰める聞き方になったかもしれないと思った。


だが、佐伯は表情を変えなかった。


すぐに答えようともせず、机の上へ落とした視線を動かさない。


青年は待った。


記憶にないことを、説明できる形へ変えるのは難しい。


青年にも、記録だけでは説明できない経験があった。


自分にだけ見えたものがある。


目の前で起きたにもかかわらず、現実の記録と一致しない出来事がある。


覚えているからといって、それを裏づけられるとは限らなかった。


「俺にも、似たことがありました」


佐伯が顔を上げる。


「記録に残っていることだけでは、説明できないものを見ました。ほかの人には認識できないものもあった」


青年は言葉を選んだ。


「だから、覚えていることが正しいのか証明してほしいわけではありません」


佐伯は黙って聞いている。


「分からないなら、分からないままで構いません」


青年はそこで言葉を止めた。


佐伯の記憶にないものを、推測で埋めるつもりはなかった。本人が言葉にできる範囲を越えれば、最後に残るのは誰かが整えた説明だけになる。


佐伯の指から、わずかに力が抜けた。


「その人がいたことを、なかったことにはしたくないんです」


青年は黙って聞いていた。


「誰だったのかは分かりません。どんな人だったのかも、思い出せません」





佐伯は一度視線を落としたあと、再び青年を見た。


「あなたを知っているとは言えません」


言葉は、確かめるように一つずつ置かれた。


「名前にも、顔にも覚えはありません。何かを思い出したわけでもないんです」


「俺も、佐伯さんと会うのは今日が初めてです」


青年は答えた。


「二十七年前のことも、記録に残っていた内容しか知りません」


佐伯は小さくうなずいた。


「分かっています」


そこで言葉が止まった。


佐伯は自分の中にあるものを探すように、机の上へ視線を落とした。


「でも、知らない人だと思おうとすると……それも違う気がするんです」


青年には答えられなかった。


佐伯自身が説明できないものを、青年が代わりに決めることはできない。


佐伯が目を伏せた。そのとき、一滴の涙が頬を伝った。


佐伯はすぐには動かなかった。やがて指先で頬に触れ、戸惑ったように目を止める。


「すみません」


「いえ」


「理由が、分からないんです」


佐伯は涙を拭った。


「あなたを見て、何かを思い出したわけではないのに」


青年は何も言わなかった。


涙が何に反応したものなのかは分からない。二十七年前の人物へ向けられたものなのか、失われた記憶そのものによるものなのか、それとも、この会話が別の何かへ触れただけなのか。


どれも推測にすぎなかった。


青年は、二十七年前の人物と自分を結びつける証拠を得たとは思わなかった。涙は記録にならない。失われた記憶を埋めることも、二人が同一人物だと示すこともできない。


ただ、何も起きなかったとも言い切れなかった。


それ以上の意味を、この場で決めることはできない。


佐伯の呼吸が落ち着くまで、誰も話さなかった。


神崎も言葉を差し挟まない。佐伯から青年へ一度だけ視線を移したが、その反応から何かを断定する様子はなかった。


佐伯の涙が何を意味するのか。


この場では、誰にも説明できなかった。


2027/07/27 解析端末仕様整理に伴う修正

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