六つ目の対応者
佐伯が個室を出たあとも、青年はしばらく席を立てなかった。
扉が閉じる直前、佐伯は一度だけ振り返った。何かを言い残した様子ではなく、青年も呼び止めなかった。
机の上には、ほとんど手をつけられなかった飲み物が残されている。
佐伯の涙が何を意味していたのか、答えは出なかった。
「何か思い出したように見えましたか」
神崎が尋ねた。
青年は、佐伯が座っていた席から視線を戻した。
「いいえ」
名前にも、顔にも覚えはない。
何かを思い出したわけでもない。
佐伯は、その二つを明確に否定していた。
「俺を、二十七年前の人物だと認識したようにも見えませんでした」
「私も同じです」
神崎は短く答えた。
「面会前後で、佐伯さんの証言内容に変化はありません。人物を特定できる新しい情報も得られなかった」
青年はうなずいた。
佐伯の中で起きたのは、記憶の回復ではない。
現在の青年と、二十七年前に佐伯の帰還へ関わった人物を結びつける証拠も、あの場では何一つ確認されなかった。
それでも、何も起きなかったとは言い切れない。
佐伯自身にも説明できない感情が、青年を前にしたときだけ表へ現れた。
「涙は、記録にはなりませんね」
青年が言うと、神崎はすぐには答えなかった。
「涙を、二人の関係を示す証拠にはできません」
やがて神崎は言った。
「原因も分かっていません。失われた人物への感情なのか、記憶の欠落そのものに対するものなのか、それ以外の反応なのか。現時点では区別できない」
「では、今日の面会で確認できたことは」
「佐伯さんが、君を無関係な人物だと断定できなかったことです」
神崎はそこで言葉を切った。
「ただし、それは佐伯さんの主観です。現在の君と二十七年前の人物が同一であることを示すものではありません」
青年も、その結論に異論はなかった。
佐伯の感情を否定する必要はない。だが、そこへ説明を加えれば、本人にも分からないものを別の答えへ変えることになる。
神崎は上着の内側から携帯端末を取り出した。
面会中、机の上へ出されることはなかった端末だった。画面を点灯させ、保存されている記録を確認する。
「もう一つ、見ておくべきものがあります」
「面会の記録ですか」
「会話の記録ではありません」
神崎の指が画面を送る。
「この端末には、調査局で継続している照合状態が自動的に記録されています。通常の観測値に異常はありませんでした」
画面には、面会が始まる前の状態が表示されていた。
《対象間接続 継続》
《接続先 照合中》
青年が解析室で見たものと同じだった。
二十七年前から継続している接続。その先が確定しないまま、照合だけが続いている。
「これは、佐伯さんが来る前の記録です」
神崎が表示時刻を示した。
その時点では、以前の記録から変化していない。
神崎は次の記録を開いた。
保存時刻は、面会が始まってからしばらく経った頃を示していた。青年と佐伯が向かい合い、二十七年前の経験について話していた時間帯だった。
表示されている内容が変わっている。
《接続候補 確認》
《対象識別 照合待機》
青年は画面を見たまま、すぐには言葉を返せなかった。
「これは、いつ出たんですか」
「正確な契機は特定できません」
神崎は記録を一つ前へ戻した。
面会が始まった直後には、まだ《接続先 照合中》と表示されている。次の自動記録では《接続候補 確認》へ変わり、その状態が佐伯の退室まで続いていた。
「佐伯さんが泣いたときですか」
「そうとは限りません」
神崎の答えに迷いはなかった。
「記録の間隔から、変化した瞬間までは絞り込めません。涙が確認された時刻より前に、表示が変わっていた可能性もあります」
青年は、佐伯との会話を思い返した。
最初に顔を見たときの間。
二十七年前の人物について話した時間。
名前も顔も思い出せないまま、大切な人だったと伝えようとした佐伯。
どの反応が接続状態の変化に関わったのかは、記録から判別できない。
「佐伯さんが原因だとも、俺が原因だとも言えない」
「はい」
神崎は画面を閉じなかった。
「確認できるのは、二人が同席していた時間帯に変化したということだけです」
《接続候補 確認》
それは、現在の青年が接続先として確定したことを意味しない。
《対象識別 照合待機》
何を識別しようとしているのかも、照合の結果が何を示すのかも分からなかった。
青年は画面から神崎へ視線を移した。
「面会が終わったあとは、どうなっていますか」
神崎が次の記録を表示する。
佐伯が退室したあとの状態にも、《接続候補 確認》は残されていた。
対面が終わっても、表示は以前の状態へ戻っていない。
「変化した接続は、そのまま継続しています」
神崎は端末を机の上へ置いた。
「佐伯さんの記憶は戻らなかった。君を二十七年前の人物だと識別した事実もない」
画面には、二行の表示が残っている。
「しかし、二人の対面中に、それまで進まなかった照合が一段階だけ進んだ」
青年は、佐伯が出ていった扉を見た。
感情だけなら、証拠にはならない。
だが、感情とは別の場所で、客観的な記録にも変化が生じていた。
二十七年間残留していた接続は、新たな照合候補を確認している。
その候補が誰なのかは、まだ示されていなかった。
青年は端末に残る二行から視線を外した。
「これだけでは、俺が二十七年前の人物と結びついたとは言えませんね」
「はい」
神崎は即答した。
「面会中に接続状態が変化したことと、君がその人物であることは別の問題です。そこを分けずに考えると、佐伯さんの反応まで誤った意味で扱うことになります」
佐伯は、青年を知らない人だと思おうとすると、それも違う気がすると話した。
だが、名前も顔も思い出していない。現在の青年を、二十七年前に帰還へ関わった人物だと認識したわけでもなかった。
端末に生じた変化も、同一人物であることを示してはいない。
神崎は机の上の端末を手に取った。
「調査局へ戻ります」
「今からですか」
「確認できる記録があります。今日の面会結果を評価するには、先に二人を分けておく必要があります」
佐伯が残した感情と、端末に残った照合候補。
その二つを重ねる前に、現在の青年と二十七年前の人物が、記録上どのように扱われているのかを確かめる。
青年は席を立った。
個室を出ると、廊下には人の行き交う音が戻っていた。佐伯との面会中も外では同じ時間が流れていたはずなのに、扉を隔てた室内だけが、まだ二十七年前とつながっているように感じられた。
青年は一度だけ振り返った。
閉じた扉の向こうに、佐伯の姿はもうない。
それでも、説明できない涙だけが、その場に残されているようだった。
調査局へ戻ったあと、神崎は青年を解析室へ案内した。
室内には以前と変わらず、複数の観測機器が並んでいる。奥の解析端末には、佐伯の帰還に関する記録と、現在の青年に関する観測記録が別々の枠で表示されていた。
神崎は隣接する二つの表示を示した。
「右が、二十七年前に佐伯さんの帰還処理へ関わった人物の記録です。左が、現在の君について調査局が確認している記録です」
青年は画面へ近づいた。
どちらにも、同じ人物を示す顔写真はない。二十七年前の人物について残されているのは、佐伯の証言と、帰還処理の中でその人物が担った役割を示す記録だった。
人物を特定する名前も、顔も、声も記録されていない。
青年は右側の表示を見た。
「情報が足りないなら、違う人物だとも決められないのでは」
「人物特定情報が欠けていることと、同一人物であることは別です」
神崎は端末を操作し、比較項目を開いた。
「名前が分からないから一致している、とは言えません。顔が残っていないから同じ顔だったとも言えない。記録の欠落は、どちらの証明にも使えません」
画面には、二人に関して確認可能な情報が並べられた。
氏名。
年齢。
経歴。
所属。
生活史。
二十七年前の人物について、すべての詳細が残っているわけではない。それでも、現在の青年の記録へ連続する情報はなかった。
同じ氏名で生活していた記録もない。
年齢が連続する記録もない。
青年が二十七年前に別の世界へ移動し、そこで生活していた事実も確認されていない。
「現在の君には、現在世界での生活記録があります」
神崎は左側の表示を送った。
学歴、就職、勤務記録。
そのどれも、青年がこれまで普通の生活だと思ってきた時間の中にある。
「記録のすべてが、世界間の異常を証明できるわけではありません。ただ、少なくとも君の生活史には、二十七年前の人物から連続していることを示す欠落がない」
「同じ人間が、こちらへ移ってきた記録もない」
「はい」
青年は二つの表示を見比べた。
佐伯の涙を前にしたとき、自分が二十七年前の出来事と無関係ではない可能性を受け止めた。
それは今も変わらない。
だが、無関係ではないことと、同一人物であることもまた別だった。
「別の世界に、俺と似た人間がいた可能性は」
「否定できません」
神崎は答えた。
「ただし、同じ人物が分かれたのか、別々に存在していたのか、そもそも人物として対応しているのか。それを判断できる記録はありません」
「佐伯さんが、俺を知らない人だと思えなかったことも」
「人物識別の証拠にはしません」
神崎の声は変わらなかった。
佐伯の感情を軽視しているのではない。説明できない反応を、記録だけで否定しようとしているのでもなかった。
ただ、涙が示していないものまで、示したことにはしない。
神崎は比較画面の一部を拡大した。
「人物としての記録だけではありません。処理記録上の登録も一致していない」
右側には、二十七年前の帰還処理で別世界の青年へ与えられた表示が置かれていた。
《整合対象 六》
佐伯の帰還経路を維持した結果、六つ目の整合対象として確定した人物だった。
それが、別世界の青年だった。
左側には、現在の青年に対して確認されてきた表示が並んでいる。
《観測者ではない》
《観測対象》
青年は二つの枠を見比べた。
同じ番号も、同じ役割名もない。
一方は、佐伯の帰還処理において接続を維持した対象。もう一方は、その処理から二十七年後に観測対象として記録された人物だった。
「俺は、接続を維持した人物として登録されていない」
「はい。現在までに、その表示は確認されていません」
「向こうの青年も、観測対象ではない」
「少なくとも、残っている記録にはありません」
人物を識別する情報が一致しない。
処理の中で与えられた役割も一致しない。
青年は右側の《整合対象 六》を見た。
佐伯を帰還させた人物が担ったものだった。
現在の青年には、その記憶も経験もない。佐伯を帰すと決めたのは別世界の青年ではなく佐伯自身であり、その選択を止めずに処理を維持したのが、そこに記録された人物だった。
青年は、そのどちらも自分の行動として受け取ることはできなかった。
「俺が、その人の代わりとして選ばれた可能性は」
神崎はすぐには答えなかった。
端末上の記録をもう一度確認してから、青年を見る。
「現時点では、そのように考える根拠はありません」
「接続候補が確認されても?」
「候補として何が抽出されたのか、まだ識別されていません。面会中に変化が起きたというだけで、役割が引き継がれたとは判断できない」
神崎は二つの表示枠の間へ、新たな比較画面を開いた。
そこには、共通項目として確定できた情報がほとんどなかった。
人物識別も、処理の中で与えられた役割も一致しない。同一の肉体が世界を移動した記録もなかった。
「二人を結びつける情報が不足している、ということではないんですか」
青年が尋ねると、神崎は小さく首を振った。
「不足している情報はあります。ただし、確認できている範囲まで保留にする必要はありません」
神崎は右側の記録を指した。
「この人物は、二十七年前の帰還処理で《整合対象 六》として扱われた」
次に、左側へ視線を移す。
「君は現在、《観測対象》として記録されている。少なくとも、端末に残された記録では、二人の役割は一致していない」
青年は黙って表示を見つめた。
「人物の記録は連続せず、処理上の役割も一致しない。したがって、現在の記録から、君とこの人物を同一人物として扱うことはできません」
佐伯の涙が否定されたわけではない。
面会中に生じた接続状態の変化も残っている。
それでも、二人の青年を一人の人物として扱うことはできなかった。
「では、佐伯さんの反応は何だったんでしょう」
「分かりません」
神崎は、その問いにも別の答えを与えなかった。
「同一人物ではなくても、何らかの関係が成立する可能性はあります。ただし、その関係を人物の同一性で説明することはできなくなりました」
青年は佐伯の言葉を思い返した。
知っているとは言えない。
それでも、知らない人だと思うこともできない。
佐伯が感じたものは、失われた人物を現在の青年へ置き換えた結果ではないのかもしれない。
同一人物として確認できない二人のあいだに、何らかの関係が生じている。
だが、それ以上はまだ推測だった。
神崎は比較画面を保存した。
二つの記録は隣り合ったまま、最後まで一つには重ならない。
「現在の記録から、君を二十七年前の人物と同一だとは判断できません。その人物の役割を引き継いだ記録もない」
解析端末には、二つの記録が別々に表示されていた。
《整合対象 六》
《観測対象》
佐伯の涙が何を示していても、現在確認できる人物記録と役割は一致していなかった。
神崎は二つの表示を閉じず、その隣に別の記録を呼び出した。
画面上部に示された識別番号を、青年は以前にも見ている。
**TAR-1999-07-18-AO-13**
佐伯が帰還したあと、通常の報告書へ自動的に組み込まれていた記録だった。
最初に表示されたのは、簡潔な一行だった。
《処理完了》
「これは、佐伯さんの帰還処理が終わったという意味ですね」
青年が尋ねると、神崎はうなずいた。
「少なくとも、佐伯さんの選択を受理し、一名を移行させる処理は完了しています」
神崎は記録を先へ送った。
佐伯は自分の意思で帰還を選んだ。その選択は要求として受理され、代償と整合条件が確定したあと、移行処理が実行されている。
別世界の青年が処理を維持し、佐伯だけがこちら側へ帰還した。
その結果は、二十七年前の調査記録にも残されている。
「では、今も続いているのは」
「帰還処理そのものではありません」
神崎の指が止まった。
《実行結果 期待値不一致》
その下へ、帰還後に抽出された差異が並ぶ。
帰還した一名。
帰還しなかった五名。
時間差異。
座標重複。
そして、接続残留。
「処理は、成立した条件に従って正常に実行されています。佐伯さんが帰還したという結果も取り消されていない」
神崎は次の表示を開いた。
《例外出力を追加》
《接続残留》
「ただし、実行後の状態は、処理が想定していた結果と一致しなかった」
「その不一致から生じたものが、今も残っている接続ですか」
「記録上は、そう読めます」
神崎は断定を避けた。
「帰還処理が終わらないまま二十七年間続いていたのではありません。完了した処理の実行結果から差異が生じ、その一つとして接続が残った。少なくとも、この記録では二つが分けて扱われています」
青年は、《処理完了》と《接続残留》を見比べた。
終わったものと、残ったもの。
同じ出来事から生じながら、それらは別の状態として記録されている。
佐伯の帰還を成立させた選択は、すでに完了していた。別世界の青年が担った役割も、その処理の中に記録されている。
現在の青年が、それを引き継ぐ余地はない。
それでも、佐伯との面会中に、残留していた接続は新たな候補を確認した。
「面会中に変化したのは、こちらですね」
青年は《接続残留》の表示へ手を伸ばした。
画面の表面へ指先が触れる。
その瞬間、解析端末の駆動音が途切れた。
青年は動きを止めた。
室内から、機器の低い音が一つだけ抜け落ちている。画面上の記録も停止し、神崎が開いていた操作表示が薄く沈んだ。
「離れないでください」
神崎の声が低くなる。
青年は指先を画面へ触れさせたまま、神崎を見た。
神崎は隣の端末へ手を伸ばし、記録映像の保存操作を始める。その動きに迷いはなかったが、解析端末へ視線を戻したとき、表情がわずかに変わった。
二つに分かれていた表示枠の間へ、見覚えのない枠が現れている。
通常の照合画面とは異なっていた。
項目名も識別番号もなく、別世界の青年と現在の青年に関する記録だけが、同じ枠の中へ移されていく。
最初に表示されたのは、人物識別の結果だった。
《対象識別 不一致》
続いて、二人へ与えられた役割が抽出される。
《役割識別 不一致》
青年は指を動かさなかった。
二人を同じ人物として扱える記録はない。
確認された処理記録の中でも、同じ役割を持つ対象として扱われていない。
先ほど神崎が記録から導いた結論が、解析端末の上でも否定されることなく示されている。
しかし、照合はそこで終わらなかった。
二つの不一致表示の下に、新たな一行が加わる。
《接続位置 対応》
青年は息を止めた。
「位置とは、座標ですか」
神崎は物理座標の記録を開いた。表示形式は一致していない。
「少なくとも、通常の座標項目ではありません」
神崎は映像の保存状態を確認しながら答えた。
「物理座標を示す項目とは形式が違います。接続処理の中で割り当てられた位置を示している可能性はありますが、今は表示をそのまま記録します」
次の表示が現れる。
《残留接続 照合中》
画面の左側に、別世界の青年の記録が置かれた。
《整合対象 六》
右側には、現在の青年に関する記録が置かれる。
《観測対象》
異なる二つの役割は、一つに統合されなかった。
どちらかが書き換えられることも、引き継がれることもない。
それぞれの表示を残したまま、二つの枠の間に細い線が引かれた。
《継続接続上の対応を確認》
青年は画面を見つめた。
自分が別世界の青年として識別されたわけではない。
佐伯の帰還を維持した六つ目の対象へ、現在の青年が置き換えられたわけでもなかった。
不一致のまま、接続上の位置だけが対応している。
「保存できていますか」
「映像は継続しています」
神崎は答えた。
端末の表示を読み上げることも、意味を説明することもしない。ただ、画面に現れた順序と時刻を記録し続けている。
青年の指先に、わずかな熱が伝わった。
画面そのものが発熱したようには見えない。
痛みも痺れもなかったが、触れている一点から、遠くにある何かへ細い糸が延びているような感覚があった。
青年は、その感覚を事実として受け取らないようにした。
「手を離したら、どうなりますか」
「分かりません」
神崎の視線は画面から動かなかった。
「ただ、接触が開始条件だった可能性があります。異常を感じた場合は、すぐに離してください」
青年は指先を見た。
現在まで、自分が端末へ触れたことと異常表示の発生が、直接結びついた証拠はなかった。
だが、今回は接触と同時に照合が始まっている。
「記録は十分ですか」
神崎は保存時間を確認した。
「はい。離してください」
青年は画面から指を離した。
細い線が揺れた。
《継続接続上の対応を確認》の文字が、輪郭を失うように崩れていく。続いて二つの表示枠が重なり、画面全体へ細かな乱れが走った。
《照合状態 不安定》
別世界の青年と現在の青年に関する表示が、途中で切れた文字列へ変わる。
《対応情報 保持不能》
一度暗くなった画面が復帰したとき、見覚えのない照合枠は消えていた。
残っているのは、最初に開いていた二つの人物記録と、佐伯の帰還後に生成された記録だけだった。
解析端末の駆動音が戻る。
青年は手を下ろしたまま、画面を見つめた。
「消えましたね」
「端末上では保持できていません」
神崎は保存した映像を別の画面へ移した。
そこには、先ほどの表示が記録されている。
《対象識別 不一致》
《役割識別 不一致》
《接続位置 対応》
《残留接続 照合中》
映像には残っている。
だが、解析端末の記録一覧には、特殊な照合が実行された形跡が追加されていなかった。
「もう一度、触れてみますか」
青年が尋ねると、神崎はすぐには許可しなかった。
端末の状態と周囲の観測値を確認し、異常な変化がないことを確かめる。
「短時間だけお願いします。先ほどと同じ位置へ」
青年は再び手を上げた。
最初に触れた場所へ、同じ指を置く。
端末は停止しなかった。
二つの記録も動かない。
画面に変化がないまま、数秒が過ぎた。
神崎は別の操作画面から照合を実行する。通常の比較処理が始まり、人物識別と役割情報が別々に表示された。
先ほどの枠は現れない。
やがて、通常画面の下部へ一行だけ追加された。
《追加応答 なし》
「離してください」
青年が指を離しても、今度は表示が乱れなかった。
神崎は記録の配置と操作条件を戻し、青年にもう一度だけ端末へ触れさせた。
《追加応答 なし》
条件を変えて再試行しても、結果は同じだった。
最初の照合は再現しなかった。
同じ操作を繰り返しても、最初の照合は戻らない。青年の接触だけが条件なら、二度目にも何らかの反応が生じるはずだった。
だが、解析端末は通常の記録だけを表示している。
「最初の反応は、俺が触れたから起きたんでしょうか」
「接触と表示の変化が同時だったことは確認できます」
神崎は保存映像の時刻を拡大した。
「ただし、接触だけが原因とは断定できません。佐伯さんとの面会によって、すでに接続候補が抽出されていた。その状態で君が端末へ触れたため、照合が進んだ可能性はあります」
神崎は、そこで一度言葉を切った。
「あるいは、端末への接触ではなく、君がこの記録を認識したことが条件だった可能性もある。どちらも、再現できない以上は確定できません」
青年は保存映像へ視線を戻した。
一度だけ現れた照合。
人物識別は不一致だった。
役割識別も不一致だった。
それでも、接続位置は対応している。
「端末が壊れて、誤った比較結果を出した可能性は」
「除外はできません。ただ、通常の故障としては説明しにくい」
神崎は観測値を示した。
電源、温度、通信、記録領域。
特殊な照合が発生した時間帯にも、通常の障害は検出されていない。駆動音は停止したが、端末そのものが電源を失った記録もなかった。
「人間側の端末が、表示された情報を保持できなかった可能性があります」
「端末に表示されていないだけで、照合そのものは終わっている可能性もある?」
「可能性はあります。ただし、この端末がどこから結果を取得したのかも分かっていません」
神崎は慎重に答えた。
「一度目の接触で必要な照合が実行され、結果だけが示された。同じ出力を繰り返す必要がないため、二度目には応答しなかった。そう考えれば、再現しないこととは矛盾しません」
「でも、それを確認する方法はない」
「今のところは」
神崎は保存映像を複製し、別系統の記録領域へ移した。
端末上に保持されなかった以上、残っている映像だけが、一度限りの照合を確認できる客観記録になる。
青年は画面の中の二つの表示を見た。
《整合対象 六》
《観測対象》
別世界の青年が担ったものと、現在の青年へ与えられたもの。
二つは最後まで同じ役割にはならなかった。
その間に表示されたのは、継承でも置換でもない。
《継続接続上の対応を確認》
「佐伯さんの帰還は、もう終わっている」
青年は確かめるように言った。
「はい」
「向こうの青年がしたことも、その処理の中で完了している」
「その記録を書き換える表示は出ていません」
神崎は保存映像の末尾で再生を止めた。
「今回確認されたのは、二人が同じだという結果ではない。役割が移ったという結果でもありません」
青年は黙って続きを待った。
「人物も役割も不一致のまま、継続していた接続上で位置だけが対応した。記録から確定できるのは、そこまでです」
なぜ自分だったのか。
何と何が対応したのか。
答えは、何も示されていなかった。
それでも、佐伯の帰還後に残った接続上で、現在の青年との対応が一度だけ示されていた。
神崎は、一度だけ現れた照合結果を画面に残した。
《対象識別 不一致》
《役割識別 不一致》
《接続位置 対応》
二人を同一人物として扱える記録はない。役割の継承も確認されていない。それでも、継続していた接続上で、現在の青年との対応だけが示された。
「この関係を記録するための呼び方が必要です」
神崎は新しい記録欄を開いた。
対応者。
神崎は入力した文字を確定せずに続けた。
「端末に表示された名称ではありません。同一人物、後継者、代替者と決めず、今回確認された対応だけを記録するための暫定分類です」
「その呼び方なら、俺が何をするかまでは決めない」
「はい」
神崎はうなずいた。
「対応が確認されたことと、君に何かを求めていることは別です。現時点では、その先を同じものとして扱えません」
神崎は入力欄の上部に、《暫定分類》と付け加えた。
現在青年。
《観測対象》。
継続接続上で位置対応を確認。
人間側暫定分類――対応者。
記録には、確認できた範囲だけが残された。
「残った接続が、俺を探していたんでしょうか」
青年が尋ねると、神崎は首を横へ振った。
「探していたとは判断できません。目的があったことも、特定の人物を必要としていたことも確認されていない」
「《接続先 照合中》という表示は出ていた」
「接続先を照合していたことは事実です。ただ、最初から君を接続先としていたのか、佐伯さんとの対面によって初めて候補になったのかは分かりません」
保存映像の中で、照合枠は青年が手を離したあとに崩れている。
再び触れても、同じ表示は現れなかった。
一度だけ実行された照合が、何を開始条件としていたのかも確定していない。
「最も矛盾が少ないのは、佐伯さんの帰還後も継続していた接続が、今回の面会をきっかけに君を候補として抽出したという解釈です」
神崎は、表示の順序に沿って言葉を続けた。
「その状態で君が記録へ触れたことで、一度だけ照合が実行された。人物と役割は一致しなかったが、接続上の位置は対応した」
「そして、同じ照合は繰り返されなかった」
「はい。人間側で確認できない処理領域では、すでに照合が完了した可能性はあります。ただし、人間側の端末が結果を保持できなかっただけかもしれません」
神崎は二つの可能性を並べたまま、どちらかを選ばなかった。
同じ処理が二十七年間続き、その中で現在の青年まで到達したのか。
完了した処理から残った接続を、別の処理が利用しているのか。
保存された表示だけでは、そこまで判別できない。
「いずれにしても、帰還処理がやり直されているわけではありません」
神崎は言った。
「佐伯さんの選択も、別世界の青年が処理を維持した事実も、完了した結果として残っている」
青年は《処理完了》の文字を見た。
二十七年前に選ばれたことは、現在の青年のものではない。
その決断を自分のものとして引き受けることも、その人物に代わって続きを担うこともできなかった。
「その人がいたから、佐伯さんは帰ってきた」
「はい」
「でも、残った接続上で俺との対応が示されても、俺がその人だと決まるわけではない」
「なりません」
神崎の答えに迷いはなかった。
「少なくとも、今回確認された記録から、君とその人物を同一の対象だとは判断できません」
青年はうなずいた。
同一人物として確認できないからといって、何の関係もないとは限らない。
関係が生じたから、同じ人物になるのでもない。
別世界の青年に関する処理記録と現在の青年とのあいだに、同じ接続上での対応が示されている。
それが何を意味するのかは、まだ分からなかった。
神崎は保存映像の末尾を開いた。
青年が手を離し、照合枠が崩れる直前の映像だった。
これまで確認したときには、乱れに隠れて読めなかった領域がある。神崎は一コマずつ映像を送り、文字列の輪郭が最も残っている位置で止めた。
《継続接続上の対応を確認》
その下に、別の表示が現れかけている。
神崎が複数の記録映像を重ね、欠けた部分を補う。
最初の一行が復元された。
《対応対象 確認》
青年は画面へ身を寄せた。
それが処理表示上の正式な役割名なのか、照合時だけの対象区分なのかは分からない。
少なくとも、現在の青年を示す名前も番号も表示されていなかった。
続いて、次の一行が映し出される。
《要求情報 未取得》
「要求情報」
青年が読み上げた。
「俺の要求ですか」
「判断できません」
神崎は表示を拡大したまま答えた。
「君自身の要求なのか、別の対象に関する情報なのかも判断できません」
「誰が、誰に要求しているのかも分からない」
「はい」
神崎は、そこへ意味を加えなかった。
佐伯の帰還では、佐伯自身の選択が要求として受理された。
別世界の青年は、その帰還対象を維持する変更要求を行った。
だが、今回の表示には要求者も、内容も、対象も示されていない。
過去の処理と同じ形式だと決める根拠はなかった。
映像の最後に、もう一行が残っている。
《照合継続》
表示は直後に崩れ、画面から消えていた。
神崎は復元した三行を別の記録として保存した。
《対応対象 確認》
《要求情報 未取得》
《照合継続》
「照合は終わっていないんですね」
「人間側で確認できた表示では、継続となっています」
「でも、今は何も起きていない」
「観測できていないことと、停止していることは同じではありません」
神崎は二十七年前の《対象間接続 継続》を表示した。
接続は、長いあいだ人間側の端末へ姿を見せなかった。
それでも、佐伯との面会後に再び変化し、現在の青年との対応を示した。
表示が消えている今も、処理が終わったとは限らない。
「今すぐ、何かを選ばなければならない可能性は」
青年が尋ねると、神崎は少し考えてから答えた。
「そのような要求は確認されていません」
「《要求情報 未取得》と出ていても?」
「情報が取得されていないことしか分かりません。選択を求めていると解釈するには足りない」
神崎は青年を見た。
「表示の意味が確定するまで、君が自分から要求を作る必要もありません」
青年は画面に並ぶ三行へ視線を戻した。
何かを期待されているのか。
何かを決める位置へ置かれたのか。
それとも、残った接続が次の処理へ進むため、分類できない対象を照合し続けているだけなのか。
どれも、今は答えにならない。
ただ一つ、以前とは異なる事実が残った。
人物も役割も一致しない二つの記録のあいだに、継続する接続上での対応が一度だけ示された。
「対応者」
青年は、神崎が記録した呼び方を口にした。
別世界の青年の代わりになるための名前ではない。何かを選ぶよう求められたわけでもなかった。
なぜ対応が示されたのか。
その先で何を照合しようとしているのか。
画面には、答えの代わりに三行だけが残されていた。
《対応対象 確認》
《要求情報 未取得》
《照合継続》




