失われた輪郭
報告書によれば、六名が地下施設へ入ったあと、最初に途絶えたのは映像だった。
携行機器から送られていた画面に乱れが走り、地下通路の輪郭が崩れる。壁面を映していたはずの映像は、数秒のうちに判別できない光の濃淡へ変わった。
音声だけは残っていた。
調査員が互いの位置を確かめる声。
観測値の変化を報告する声。
外部待機班からの呼びかけに、応答しようとする声。
それらも、一つずつ途切れていった。
最後に残った音声が誰のものだったのかは、記録から特定できなかった。
通信が完全に失われたあとも、待機班は呼びかけを続けた。
応答はない。
六名が携行していた発信機の反応も、ほぼ同時に失われていた。
機器の故障だけでは説明できなかった。
別々の調査員が所持していた機器が、同じ地点で、同じように通信不能となっている。
外部から取得できる情報だけを見れば、六名は地下施設の一画へ進入した直後、その場から消失していた。
待機班は、ただちに追跡班を送り込まなかった。
通信が途絶えた区画では、直前まで観測値の乱れが続いていた。六名に何が起きたのか分からないまま人員を追加すれば、同じ事態が繰り返される可能性がある。
施設へ通じる経路が閉鎖される。
地上側の人員が再配置され、地下から送られてくる観測情報の監視が続けられた。
誰かが戻ってくることを想定した措置ではない。
新たな変化が発生した場合、それを見落とさないための監視だった。
通信途絶からしばらくして、施設内部の記録装置が反応した。
《施設内部 座標変動検知》
六名が最後に確認された地点と、その周辺。
固定されていた座標情報が短時間だけ変動し、本来なら同じ位置を示すはずの複数の観測値にずれが生じていた。
異常は一度で終わらなかった。
数値が基準内へ戻りかけるたび、別の値が重なる。存在しない位置を示した直後に、施設内部の座標へ戻る。
待機班が観測装置の故障を照合しているあいだに、変動の幅はさらに大きくなった。
《観測値 基準外》
地上側では、その変化を帰還とは判断できなかった。
失われていた発信機の反応は戻っていない。
通信の再接続もない。
施設内に人間が現れたことを示す情報も確認されなかった。
観測されているのは、六名が消えた地点で新たな異常が発生したという事実だけだった。
待機班は、施設外部からの観測を継続した。
やがて座標の変動が収まり、基準外に達していた数値も低下を始める。
完全に安定したわけではない。
それでも、人員を進入させられる範囲まで戻ったと判断された。
生存者の確認と、異常が再発した原因の調査。
その二つを目的として、待機していたバックアップ班に進入指示が出された。
《追加調査班 進入》
先行した六名と同じ経路が使用された。
通路に損壊はない。
崩落も、浸水も確認されなかった。
壁面や床には、直前に座標変動が起きたことを示す痕跡さえ残っていない。
バックアップ班は一定の間隔を保ち、外部との通信を確認しながら地下へ進んだ。
六名が最後に報告を送った地点へ近づいても、呼びかけに答える声はなかった。
携行機器の反応も検出されない。
先頭の調査員が足を止めた。
通路の先、接続地点に近い壁際に、人が倒れていた。
うつ伏せに近い姿勢で床へ崩れ、片腕だけが身体の下から伸びている。呼びかけへの反応はなかった。
周囲に、ほかの人影はない。
バックアップ班の一人が警戒を続け、別の一人が倒れている人物へ近づいた。
呼吸が確認される。
脈も残っていた。
衣服と携行品を照合し、識別情報が外部へ送られた。
《調査員一名を発見》
《識別 佐伯真紀》
佐伯は意識を失っていた。
身体には地下施設へ進入する以前から記録されていた負傷が残っている。だが、その場で新たに受けたと断定できる外傷は確認されなかった。
《意識反応なし》
救護を担当する人員が佐伯の状態を確認しているあいだも、残る班員は周辺の捜索を続けた。
六名が所持していた機器。
移動した痕跡。
隣接する区画へ続く経路。
いずれも見つからなかった。
佐伯がどこから現れ、どのようにして壁際へ倒れたのかも分からない。
待機班は、彼女が帰還する瞬間を観測していなかった。
記録されているのは、施設内の座標と観測値が変動したこと。
その異常を調べるために進入したバックアップ班が、直前まで人間の存在を示す反応がなかった地点で、佐伯を発見したこと。
それだけだった。
《残る五名 所在確認不能》
佐伯は地上へ搬送された。
バックアップ班は可能な範囲で捜索を継続したが、新たな反応は確認されなかった。観測値が再び不安定になる兆候を示したため、全員に退避命令が出された。
最後の人員が地上へ戻ったあと、地下施設への進入口は閉鎖された。
内部の観測だけを残し、施設は再び封鎖される。
消えた六名のうち、帰還が確認されたのは一名。
二十七年前、佐伯真紀は事件当時に発見されていた。
佐伯は地下施設から搬出されたあと、地上の医療班へ引き渡された。
発見時から呼吸と脈拍は保たれていた。
外部からの呼びかけには反応せず、搬送の途中で意識を取り戻すこともなかった。それでも、生命に関わる急激な変化は確認されていない。
身体には複数の負傷が残されていた。
腕や脚の擦過傷。
左肩の打撲。
衣服の一部には、乾いた血液と土が付着していた。
いずれも地下施設へ進入する以前、調査中の事故によって生じたものとして記録されている。発見後の検査でも、帰還時に新たな損傷を受けたと断定できる外傷は見つからなかった。
一方で、佐伯の消耗は著しかった。
脱水症状。
長時間にわたって身体を動かし続けた痕跡。
睡眠を取らないまま、強い緊張状態に置かれていたときに見られる反応。
それらが同時に確認された。
ただし、どれか一つを失神の原因とすることはできなかった。
異常な移行が身体へ及ぼした影響についても、当時の検査では判断できていない。
記録には、複数の要因が重なった可能性だけが残された。
佐伯が意識を取り戻したのは、搬送された翌日だった。
目を開けた直後、彼女はしばらく天井を見ていた。
視線は定まっていなかった。
自分がどこにいるのか分からないというより、目の前にあるものと、それまで見ていたはずの光景を結びつけられずにいるようだった。
そばにいた医師が名前を呼ぶ。
佐伯は反応した。
氏名を答え、生年月日と所属を告げた。
調査開始前の出来事も覚えていた。地下施設へ入ったことも、ほかの五名と行動していたことも説明できた。
現在の日付を伝えられると、佐伯は同じ質問を聞き返した。
確認された日付は、六名が地下施設へ進入した翌日だった。
佐伯の認識と大きなずれはなかった。
だが、施設内部で最後に確認された時刻から、彼女がどれほどの時間を過ごしたのかは一致しなかった。
佐伯自身が、その時間を説明できなかった。
「ほかの五人は」
意識の回復が確認されたあと、最初に記録された質問だった。
医師は安静を求めた。
佐伯は上体を起こそうとしたが、腕に力が入らなかった。身体を支えられず、再び寝台へ戻される。
それでも、五名の捜索を続けるよう繰り返した。
同じ場所にいた。
反応が残っていた。
まだ見つかっていないだけかもしれない。
言葉は途切れ、順序も整っていなかった。
何を根拠にそう考えているのか尋ねられても、佐伯はすぐに答えられなかった。
「五人だけではありません」
呼吸を整えたあと、佐伯はそう付け加えた。
「記録しないといけない人がいます」
医師が、同行していた六名以外にも調査員がいたのかと尋ねる。
佐伯は首を振った。
「向こうにいた人です」
それが、移行先で出会った青年について残された最初の発言だった。
佐伯は、その人物が自分を助けたと訴えた。
彼がいなければ戻れなかった。
彼にしか認識できないものがあった。
その人物によって、帰還するための経路が成立した。
断片的ではあったが、内容に迷いはなかった。
しかし、医師がその人物の名前を尋ねたところで、佐伯は黙った。
知らなかったのではない。
思い出そうとしていることは、その表情からも明らかだった。
佐伯は何度か口を開いた。
音になる前に閉じる。
視線を落とし、記憶の中から名前に結びつく何かを探そうとする。
だが、答えは出なかった。
「顔は覚えていますか」
その問いにも、佐伯はすぐには答えなかった。
「見ていたはずです」
やがて、そう答えた。
「話もしました。何度も」
「どのような顔でしたか」
佐伯の指が、寝台の上でわずかに動いた。
輪郭をなぞろうとしたのかもしれない。
しかし、その手は途中で止まった。
髪の長さ。
目や口元の形。
身につけていた衣服。
年齢さえ、確かなものとして答えることができなかった。
声も思い出せなかった。
低かったのか、高かったのか。
どのような話し方をしていたのか。
最後に何を言われたのか。
そこに言葉が交わされたという事実だけが残り、その内容へ触れようとすると、記憶は途切れた。
佐伯は目を閉じた。
「いたんです」
声には、先ほどまでとは異なる強さがあった。
存在そのものを疑われたと感じたわけではない。
自分の中から、その人物まで失われることを恐れているようだった。
「知らない人だった。でも、一緒に帰る方法を探しました」
佐伯は胸元へ手を置いた。
「私は、その人を見ていたはずなんです」
医師はそれ以上の質問を中断した。
佐伯の容体は安定していたが、長時間の聴取に耐えられる状態ではなかった。
意識の混濁や、負傷による一時的な記憶障害の可能性も否定されていない。移行先に関する発言が、実際の体験に基づくものかどうかも、その時点では判断できなかった。
ただ、佐伯の記憶の欠落には偏りがあった。
自分自身については答えられる。
同行した五名の氏名と役割も覚えている。
地下施設へ入るまでの経緯にも、大きな欠落はない。
移行先の状況や、残る五名を示す反応については、断片的ながら説明できた。
それらについては、順序が曖昧であっても記憶そのものは残っていた。
思い出せないのは、その場所で出会った青年に関することだった。
名前だけではない。
顔も、声も、交わした言葉も欠けている。
その青年が何をしたのかは覚えているのに、どのような人物だったのかを説明できない。
誰かがいたという輪郭だけを残して、その内側が抜け落ちていた。
佐伯自身も、その欠落を自覚していた。
忘れたという感覚とは違っていた。
初めから知らなかったのでもない。
そこにあるはずの記憶へ手を伸ばすたび、その部分だけが何もない場所へつながっている。
「大切なことを忘れています」
短い確認を終える直前、佐伯はそう訴えた。
「何を忘れたのかは分かりません。でも、忘れてはいけないことだったと思います」
何が大切だったのか。
誰にとって大切だったのか。
問いを重ねても、佐伯は答えられなかった。
ただ、その感覚だけは失われていなかった。
記憶の欠落が帰還によって生じたものなのか。
地下施設での異常に起因するのか。
あるいは、負傷と消耗による一時的な症状なのか。
いずれも確定されなかった。
医師は休養と経過観察を優先し、正式な事情聴取を延期した。
その後も佐伯は、残る五名の捜索状況を何度も確認した。
報告される内容は変わらない。
地下施設は再封鎖され、外部からの観測が続けられている。
五名の反応は確認できない。
生存も、死亡も確定していない。
佐伯はその返答を聞くたび、何かを言いかけた。
だが、五名がどこにいるのかを説明することはできなかった。
移行先で出会った青年についても同じだった。
存在を否定することはない。
自分を帰還させた人物だという認識も揺らがない。
それでも、その人物へ結びつく具体的な記憶だけが戻ることはなかった。
容体が安定したと判断されたのは、帰還から二日後だった。
同日、医師の立ち会いのもとで正式な聴取が行われることになった。
佐伯真紀は、移行先の世界を覚えていた。
そこに一人の青年がいたことも覚えていた。
だが、その青年に関する記憶の内側だけが、不自然に失われていた。
正式な聴取は、帰還から二日後に行われていた。
報告書には、聴取を担当した調査員と立ち会った医師の氏名、開始時刻、佐伯の容体が記録されている。
その次の頁から、証言の要約が始まっていた。
青年は最初の数行へ目を通したあと、机上の記録端末へ視線を移した。
紙面に残されているのは、後から整理された文章だった。
佐伯が実際にどのような言葉で答えたのか。
どこで言葉に詰まり、何を思い出せなかったのか。
その一部は、音声記録として保存されている。
神崎が端末を操作した。
短い雑音のあと、聞き慣れない女性の声が流れた。
『佐伯真紀。時間異常調査局、地下区域調査班所属』
声はかすれていた。
小さく息を吸う音が入り、そのあとに生年月日と識別番号が続く。
質問に答えるというより、自分が何を覚えているのかを確かめるような話し方だった。
聴取は、地下施設へ進入する前の行動から始まっていた。
調査へ参加したのは六名。
佐伯を含む全員が同じ経路から地下へ入り、施設内部の観測地点を目指した。
そこまでは、ほかの記録とも一致している。
問題は、六名の通信が途絶える直前からだった。
『何が起きたのか、順番に説明してください』
記録の中で、聴取担当者が尋ねた。
しばらく返答はなかった。
衣擦れに似た音が入り、佐伯の呼吸だけが続く。
『分かりません』
やがて、佐伯は答えた。
『気づいたときには、もう地下ではありませんでした』
『地上へ移動していた、ということですか』
『違います』
返答は早かった。
その点についてだけは、迷いがないように聞こえた。
『場所が変わったんです。同じ座標にいたはずなのに、そこに施設がなかった』
佐伯が目を覚ました場所には、地下施設も、それへ続く通路も存在していなかった。
見えていたのは草地と、周囲の地形。
現実に存在する場所として照合すれば、地下施設の上部にあたる地点だった。
しかし、携行していた媒体は、佐伯が地下構造物の内部にいると示していた。
現実の地形と、媒体に記録された座標は一致している。
その一方で、媒体が示す構造だけが、目の前の景色と一致していなかった。
同じ場所に、存在しない地下施設が重なっていた。
『時刻は確認しましたか』
問いに対して、佐伯はわずかに間を置いた。
『確認しました』
『世界規模停止の発生は』
『起きていません』
紙面には、その返答だけが太い線で囲まれていた。
青年の指が頁の端で止まった。
二十七年前の同じ日。
こちらの世界では、《16:42》から《16:55》までの十三分間、すべてが停止した。
佐伯が移行した先では、その十三分が失われていなかった。
時計は止まらず、人も、風も、周囲の音も動き続けていた。
異常が起きなかったのではない。
こちらで起きたはずの異常だけが、そこには存在していなかった。
青年は紙面から目を上げなかった。
記録音声の中で、次の質問が続いた。
『同行していた五名は、その場所にいましたか』
『いませんでした』
『痕跡は』
『媒体に反応がありました』
佐伯はそこで一度、言葉を止めた。
『五つです。五人に対応していたのかは断定できません。でも、私はそう考えました』
五つの反応は、媒体の中にだけ存在していた。
現実の地形には人影も、所持品も、移動した痕跡もない。
呼びかけても応答はなかった。
位置を変え、接続を試みても、反応だけが残り続けた。
五名が同じ世界にいたのか。
別の場所へ移行していたのか。
その時点ですでに生存していなかったのか。
佐伯には何も分からなかった。
それでも、五つの反応が同行者と無関係だとは考えられなかったという。
『捜さなければならないと思いました』
音声の中の声が、わずかに強くなった。
『今もです。五人は、まだ所在不明なんですよね』
聴取担当者は質問を戻した。
五名の捜索については別途継続する。
いまは、佐伯がどのように帰還したのかを確認する必要がある。
そう告げられたあと、再び沈黙が入った。
『一人ではありませんでした』
佐伯が言った。
『向こうに、もう一人いました』
青年は次の頁をめくった。
そこから先には、聴取記録の一部に欠落があることを示す注記が増えていた。
音声が失われているのではない。
佐伯自身が、質問に答えられていない。
『その人物の氏名は』
『分かりません』
『名乗らなかったのですか』
『名乗ったかもしれません』
『では、あなたが聞き取れなかった』
『違います』
佐伯の声が低くなった。
『聞いたのかもしれない。でも、思い出せないんです』
聴取担当者は、質問の仕方を変えた。
年齢。
身長。
髪型。
着ていた服。
顔立ち。
佐伯はどの問いにも、確かな答えを返せなかった。
青年だった。
自分より若く見えたと思う。
それ以上の特徴へ触れようとすると、言葉が止まる。
声や話し方についても同じだった。
落ち着いていたのか。
焦っていたのか。
二人はどちらから声をかけたのか。
何を話し、どのように行動を決めたのか。
出来事の輪郭は残っていても、そこに結びつく具体的な記憶がなかった。
『その人物が実在したと判断できる根拠はありますか』
質問のあと、机に何かが触れる音がした。
佐伯が身体を動かしたのかもしれない。
『あの人がいなければ、私は戻れませんでした』
それまでよりも、はっきりとした声だった。
『それだけは覚えています』
『その人物が、帰還方法を知っていたのですか』
『違うと思います』
『では、何をしたのですか』
『一緒に探しました』
佐伯はそう答えたあと、長く黙った。
『帰るための場所を探していたんだと思います。媒体が反応して、そこへ向かった。でも、正確な経路は思い出せません』
『その人物が案内したのですか』
『白い線がありました』
青年の指が止まった。
初めて聞く言葉だった。
紙面には、佐伯の証言に基づいて作成された簡単な補足が付されている。
地面や壁面に現れ、特定の方向へ続く白色の線。
物理的な痕跡は残さず、観測機器にも記録されていない。
『白い線とは何ですか』
『分かりません。道のように続いていました』
『あなたにも見えていた』
『いいえ』
佐伯は否定した。
『あの人にしか見えていませんでした』
青年は無意識に、端末の表示へ目を向けていた。
白い線。
その言葉自体に覚えはない。
これまでに自分が見た異常の中にも、それに該当するものはなかった。
だが、佐伯の説明した構造は、まったく知らないものには思えなかった。
一人にしか認識できない異常。
その異常が進むべき方向を示す。
現実には存在しない場所へ導き、そこにいる本人にも意味を明かさないまま、何らかの処理へ組み込んでいく。
青年が経験した《23:31》や、《観測対象》という表示とは異なる。
同じ現象だと判断できる根拠もない。
それでも、異常が一人の人間を選び、その認識だけを通して進路を示すという形は似ていた。
『線の先には何がありましたか』
『接続地点です』
『地下施設への入口があった』
『入口はありませんでした』
佐伯によれば、白い線は閉じた壁の中へ続いていた。
現実には通路も扉もない。
だが、媒体上にはその先にも地下構造が存在していた。
二人が壁の前へ立ったことで、帰還に関係する表示が現れた。
どちらか一人では成立しない。
佐伯だけが位置を変えても、処理は始まらない。
現地にいた青年が離れると、表示そのものが不安定になる。
帰還経路の成立には、二人が同じ場所にいる必要があった。
『なぜ、その人物が必要だったのですか』
『分かりません』
『本人は、理由を理解していましたか』
『分からなかったと思います』
答えた直後、佐伯は小さく息をのんだ。
『たぶん、あの人も巻き込まれただけです』
その言葉が、青年の中に残った。
佐伯を帰還させるために、初めから待っていた人物ではない。
仕組みを理解し、意図して経路を開いたわけでもない。
佐伯と同じように、理解できない異常に巻き込まれ、その場で可能なことを探していた。
それでも、彼がいなければ帰還は成立しなかった。
記録上の青年は、帰還する側ではなかった。
自分の世界に残る者として、佐伯を戻すための処理に組み込まれている。
知らない人物の行動であるはずだった。
けれど、青年はそれを他人のものとして聞き流すことができなかった。
『帰還は、どのように開始されたのですか』
聴取が核心へ移る。
佐伯は、しばらく答えられなかった。
『私が選びました』
やがて、その言葉だけが返ってきた。
『何を』
『戻ることを』
帰還を強制されたわけではない。
留まる可能性も示されていた。
どちらを選べば何が起きるのか、保証はなかった。
五名の反応を残したまま、自分だけが帰還することになるのかもしれない。
帰還を選べば、現地の青年に何が起きるのかも分からない。
それでも佐伯は、自分の意思で戻ることを選択した。
言葉だけでは処理は始まらなかった。
接続地点に立ち、媒体によって選択が記録された。
その後に何が表示されたのか、佐伯の証言は断片的だった。
《要求内容を確認》
《選択を記録》
《実行条件》
《整合条件》
記憶に残っている語句は限られ、表示された順序も確定できない。
ただし、一つだけ、佐伯は繰り返し証言していた。
『《整合対象》が変わりました』
『変更前の対象は』
『私だったと思います』
『変更後は』
返答までに、長い間があった。
『あの人です』
音声の奥で、低い機械音が続いていた。
佐伯の呼吸が浅くなる。
立ち会っていた医師が中断を提案する声も入っている。
佐伯は、まだ続けられると答えた。
『表示が変わったとき、あの人も見ていました』
『その内容を理解していたのですか』
『分かりません』
『帰還処理を中止することは可能でしたか』
『それも分かりません』
佐伯はそこで言葉を切った。
『でも、止めませんでした』
青年は、紙面に記された同じ一文へ目を落とした。
佐伯の証言によれば、《整合対象》は自分から現地の青年へ変更された。
ただし、変更前の対象が佐伯だったことを裏づける処理記録は残されていない。その意味も解析されていなかった。
処理の対象が変わったことで、何が起きるはずだったのか。
なぜ帰還する佐伯ではなく、残る青年が選ばれたのか。
記録のどこにも答えはなかった。
『その人物が、処理を継続させたということですか』
『はい』
『本人の意思で』
『そうだと思います』
『何か言っていましたか』
その問いに、佐伯は答えなかった。
雑音の中で、何度か息を吸う音が聞こえる。
『言われました』
長い沈黙のあと、佐伯はそう言った。
『でも、言葉が思い出せません』
『内容もですか』
『意味だけは残っています』
『どのような意味ですか』
佐伯の返答は、すぐには続かなかった。
『五人のことを』
かすかな声だった。
『戻ったら、伝えてほしいと託されたんだと思います』
『残る五名がどこにいるのか、その人物は知っていたのですか』
『分かりません。五つの反応があった。それを諦めないでほしいと……たぶん、そういう意味でした』
正確な言葉は残っていない。
誰が最初に五名の捜索を提案したのかも、思い出せない。
それでも、青年から何かを託されたという感覚だけは失われていなかった。
佐伯はその意味に従うように、意識を取り戻した直後から五名の捜索を求めていた。
青年は音声を聞きながら、記録に存在しない言葉を想像しようとした。
何を伝えたのか。
どのような声で告げたのか。
なぜ、自分は帰還できない状況で、所在の分からない五名を気にかけたのか。
考えても答えは出ない。
その言葉を聞きながら、青年は、記録の中の人物を完全な他人として捉えられなくなっていた。
『帰還が始まったあと、何が起きましたか』
記録の中で、最後の質問が投げかけられた。
『光がありました。周りの形が崩れて、見えていたものが重なって……』
佐伯の説明は途中から曖昧になった。
接続地点までの経路。
二人が立っていた位置。
媒体に表示された文字。
出来事の前後関係。
どれも断片としては残っているが、一つの連続した記憶にはならない。
『帰還する直前のことは覚えていますか』
『あの人がいました』
『何をしていましたか』
『処理を止めなかった』
『それ以外には』
また、長い沈黙が流れた。
『何かが失われると思いました』
青年は顔を上げた。
神崎は何も言わず、端末から流れる音声を聞いている。
『何が失われるのですか』
『分かりません』
『あなた自身に関するものですか』
『それも分かりません』
佐伯の声が震えた。
『私が戻れば、何かが取り返しのつかない形で失われる。あのときは、そう感じました』
『その人物から何かが失われると考えたのですか』
『分かりません』
同じ答えが繰り返された。
『《整合対象》が変わったから、そう感じたのかもしれません。でも、表示の意味は分からなかった。あの人が何を見て、何を選んだのかも思い出せないんです』
佐伯は、帰還のために何かを差し出したとは証言していない。
自分の代わりに青年が何かを失ったとも断定していなかった。
残されているのは、《整合対象》が青年へ変更されたという事実。
青年が処理を止めなかったという事実。
そして、何かが失われるように感じたという、佐伯自身にも説明できない感覚だけだった。
『実際に何かが失われたことを確認しましたか』
『いいえ』
『では、その感覚が帰還処理によるものかどうかも』
『分かりません』
答えたあと、佐伯は小さく息を吐いた。
『でも、忘れてはいけなかったと思います』
声が途切れる。
『あの人のことを』
音声記録は、そこで一度中断されていた。
医師の判断により、聴取が停止されたことを示す文言が紙面に続いている。
神崎は、聴取記録の末尾に付された別の資料を開いた。
それは、過去の証言ではなかった。
記録された日時は、現在。
佐伯の端末に、再び異常が発生していた。
《23:31》
《観測再開》
表示は数秒後に消失。端末そのものにも、異常を示す履歴は残されていない。
ただし、佐伯は同時刻、室内に白い線を確認したと報告していた。
「こちら側でも、接続が再開している」
神崎の言葉に、青年は画面を見た。
佐伯が帰還したことで、すべてが終わったわけではない。
再開後も、青年に関する具体的な記憶は戻らなかった。
佐伯は、移行先に十三分停止がなかったことを覚えていた。
存在しない地下施設が同一座標に重なっていたことも、五名を示す反応が最後まで応答しなかったことも証言している。
白い線が現地の青年にしか見えなかったこと。
青年がいなければ帰還経路が成立しなかったこと。
自分の意思で帰還を選び、処理の途中で《整合対象》が青年へ変更されたこと。
それでも青年が処理を止めず、佐伯を帰還させたこと。
核心となる出来事は残されていた。
佐伯が失っていたのは、青年の存在そのものではなかった。
名前、顔、声、交わした言葉。
その人物を特定するための記憶だけが欠けていた。
青年は報告書から視線を上げた。
白い線を見たことはなかった。
佐伯が出会った人物を知っているわけでもない。
その人物と自分を結びつける記憶も、証拠も存在しなかった。
それでも、佐伯の証言に現れた青年の行動は、妙に近く感じられた。
自分だけが認識できる異常に導かれる。
意味を知らされないまま、何らかの処理へ組み込まれる。
その先に何があるのか分からなくても、目の前にいる誰かを戻すために選択する。
知らない人物の話であるはずなのに、他人のものとして聞き流せない。
自分が同じ場所にいたなら。
同じように、処理を止めなかったかもしれない。
端末から、停止された音声の無音だけが流れていた。
記録に残されていたのは、佐伯を帰還させた一人の青年だった。
佐伯は、その存在を覚えている。
何をしたのかも、何を託されたのかも、意味として残していた。
だが、その人物に関する記憶の内側だけが、不自然なほどきれいに抜け落ちていた。
端末の再生が停止すると、室内には機器の低い駆動音だけが残った。
青年は、開いたままの報告書へ視線を落としていた。
佐伯の証言は、そこで終わっている。
名前も、顔も、声も思い出せない青年。
何を考え、その選択によって何が起きたのかも分からない。それでも処理を止めず、佐伯を元の世界へ帰した人物。
記録に残されているのは、その人物を特定する情報ではなく、彼が選んだ行動の痕跡だけだった。
青年は報告書から手を離した。
「なぜ、これを今まで見せなかったんですか」
神崎はすぐには答えなかった。
机の上に並べられた資料を見渡し、そのうちの一冊を青年の前へ移す。表紙には日付と管理番号だけが記されていた。
「確証がなかったからだ」
「佐伯真紀の証言が事実かどうか、ということですか」
「証言そのものを疑っていたわけではない」
神崎は資料を開いた。
現れたのは、青年が調査局へ来てから記録された事象の一覧だった。
《23:31》
《観測対象》
《登録を確認》
《照合を開始》
目にしたことのある表示が、発生した時刻や場所とともに並んでいる。
「佐伯の証言と、君を結びつける根拠がなかった」
神崎の指が、一九九九年の報告書へ移る。
「移行先で出会った人物は青年だった。それ以上のことは分からない。氏名も容貌も、所属も不明。佐伯自身が、その人物を特定できるだけの記憶を失っている」
「だから、俺には見せなかった」
「類似しているというだけで、君を二十七年前の事件へ結びつけるべきではないと判断した」
神崎の声に迷いはなかった。
「証言に現れる人物と同一視すれば、君の判断に影響する。未解析の帰還処理へ、初めから関係していた者として扱うことにもなる。証拠がない状態で、こちらからその可能性を与えるわけにはいかなかった」
青年は資料に並ぶ文字を見つめた。
「今は違うんですか」
「少なくとも、照合できる記録は増えた」
神崎は一枚の紙を抜き出した。
二つの記録が、左右に分けて整理されている。
一方は、一九九九年に佐伯が帰還した際の記録。
もう一方は、青年がこれまでに経験した異常の記録だった。
発生した年代も、場所も異なる。
当事者も同じではない。
一九九九年には十三分の停止があり、佐伯が移行した先では、それが起きていなかった。現在の青年が経験した異常も、いずれとも完全には一致しない。
それでも、並べられた記録には、偶然として片づけるには多すぎる共通点があった。
現実の時刻と一致しない《23:31》。
その場所には存在しないはずの構造物。
特定の人物だけが認識できる異常と、それによって示される進路。
現実には入口のない接続地点。
媒体による対象の登録と照合。
そして、当事者へ目的を説明しないまま進行する移行処理。
「同じ現象なんですか」
「断定はできない」
神崎は答えた。
「個々の条件には違いがある。二十七年前に発生した移行と、君が経験した事象が、同一の仕組みによるものかも確定していない」
「でも、無関係とも言えない」
「そう判断したから、記録を開示した」
神崎の指が、一九九九年の処理記録の末尾で止まった。
そこには、佐伯の帰還が確認された直後に記録された表示が転記されている。
《移行対象 転送完了》
《帰還対象 帰還確認》
さらに、その直後に一度だけ確認された二行が続いていた。
《整合処理 継続》
《対象間接続 継続》
青年は、その文字を目で追った。
「これは、何と何が接続しているんですか」
「分かっていない」
「佐伯と、向こうの青年では」
「その可能性はある。だが、記録には対象を特定できる情報が残されていない」
佐伯が帰還した時点で、処理は終わったはずだった。
実際、佐伯の移行は完了している。
それにもかかわらず、何らかの接続だけが継続していた。
接続先も、目的も、解除条件も記録されていない。
「完了していない処理が残っているということですか」
「少なくとも当時は、そう解釈された」
神崎は次の頁を開いた。
解析記録が続いていた。
接続対象の特定は不能。
再現実験も成立せず、佐伯の媒体から同じ表示を呼び出すこともできなかった。地下施設の座標を再調査しても、移行先に存在したという構造は観測されていない。
残る五名についても、新たな反応は確認されなかった。
「佐伯さんの記憶が欠けたことと、この接続は関係しているんですか」
「それも不明だ」
神崎の答えは変わらなかった。
「記憶の欠落が帰還によって生じたのか、移行中に起きた別の現象なのか。あるいは、それ以前から進行していたのか。比較できる事例がない以上、因果関係は確定できない」
青年は、佐伯の聴取記録へ目を戻した。
そこに誰かがいたことは覚えている。
何をしたのかも、なぜ必要だったのかも、意味としては残っている。
だが、その人物の内側だけが失われていた。
帰還直前に感じたという、何かが取り返しのつかない形で失われる感覚。
それが佐伯の記憶を指していたのかは分からない。
現地の青年に起きたことなのか、それとも二人のどちらとも異なる何かだったのか。
記録から答えを得ることはできなかった。
青年は、二つの資料を見比べた。
佐伯が証言した白い線を、自分は見たことがない。
同じ異常を認識していたわけではなかった。
それでも、現地の青年だけに見えていたものが進む方向を示し、その先に現実には存在しない接続地点があった。その人物は意味を知らされないまま対象として登録され、帰還処理へ組み込まれている。
自分が経験したことと、完全に同じではない。
だが、異なるとも言い切れなかった。
青年自身も、《23:31》に導かれてきた。
存在しない場所を示され、媒体に観測対象として登録された。
何のために選ばれたのか説明されないまま、世界を隔てる境界の前まで進んだ。
異常の見え方は違っている。
その先で起きたことも同じではない。
それでも、当事者だけが認識できるものに導かれ、理解できない処理の一部にされる構造は似ていた。
「神崎さんは、どう考えているんですか」
神崎は視線を上げた。
「向こうにいた青年と、俺のことです」
短い沈黙があった。
「分からない」
神崎はそう答えた。
「関係があるとも、ないとも断定できない」
「似ているだけかもしれない」
「その可能性もある」
「同じ仕組みに、別々に巻き込まれただけかもしれない」
「否定できない」
神崎は、青年が求めている以上の答えを与えなかった。
証拠がないからではなく、証拠のない部分を答えに変えないためだった。
青年は再び報告書へ目を落とした。
佐伯の証言に残る人物が、自分と関係しているとは思えなかった。
二十七年前に、十三分の停止が起きなかった世界にいた青年。
自分とは異なる場所で生活し、自分の知らない異常に巻き込まれた人物。
両者を結びつける記憶はない。
記録もない。
それでも、その人物の選択だけは、遠い過去の出来事として読み流せなかった。
帰還すれば、何かが失われるかもしれない。
その意味も、失われるものも分からない。
それでも、目の前にいる佐伯を戻すために処理を止めなかった。
自分が同じ場所にいたなら、どうしただろう。
答えは考えるより先に浮かんだ。
同じように、止めなかったかもしれない。
それは記憶ではない。
証言に影響されて生まれた想像にすぎなかった。
だが、その想像を無関係なものとして切り離すこともできなかった。
青年は報告書の端へ指をかけた。
閉じれば、記録を過去へ戻すことができる。
一九九九年に起きた事件。
帰還した佐伯真紀。
所在不明のまま残された五名。
名前も顔も失われた、別世界の青年。
どれも、自分とは直接結びついていない。
そう整理すれば、それで終わるはずだった。
けれど、指は動かなかった。
二十七年前に残された《対象間接続 継続》という表示。
現在、自分の前に現れた《23:31》と《観測対象》。
その間に何があるのかは分からない。
同じ異常なのかも、同じ対象を示しているのかも分からない。
ただ、無関係だと断定するための根拠もなかった。
青年は、開いたままの報告書から視線を上げた。
「佐伯真紀は」
神崎が静かに待つ。
「今、どこにいるんですか」
「生存している」
神崎は答えた。
「調査局との連絡も維持されている。必要なら、こちらから接触することはできる」
会うか。
そう問われたわけではなかった。
神崎も、答えを急がせようとはしない。
青年は何も言わず、もう一度報告書へ目を落とした。
佐伯の証言に残されていたのは、名前も顔も思い出せない青年の選択だった。
自分とは関係がない。
そう考えれば、それで終わるはずだった。
それでも、報告書を閉じることはできなかった。




