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境界線 ―1999、世界は十三分止まった―  作者: 夕花
第二部『帰還』

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帰還処理

《整合対象 再照合》


表示の下で、進行線が最初の位置から動き始めた。


青年と佐伯は、それぞれ指定された円の中に立っている。


佐伯は傷をかばうように重心を片側へ寄せていたが、指定された位置からは動かなかった。


二人の足元を結ぶ白い線にも変化はない。壁の内側には、この世界に存在しない通路の輪郭が浮かび、低い駆動音が途切れることなく続いていた。


変わったのは、記録媒体に表示されていた情報だけだった。


《原要求者 佐伯真紀》


《要求内容 帰還対象の維持》


《移行対象 佐伯真紀》


《帰還要求 維持》


《帰還対象 確定》


《整合対象 再照合》


佐伯が画面を見つめる。


「帰還対象は、変わっていません」


青年も表示を確認した。


佐伯真紀という名前は、移行対象の欄に残されている。


青年が口にした言葉は、佐伯の帰還を取り消す要求としては扱われなかった。


その一方で、整合対象の欄からは、佐伯の名前が消えている。


帰還する者と、その帰還という結果を照合する対象。


それまで同じ人物に割り当てられていた二つの情報が、初めて切り離されていた。


進行線が、画面の中央まで進む。


《移行対象 照合》


《佐伯真紀》


《位置情報 一致》


《帰還要求 維持》


佐伯の足元にある円が一度だけ明滅した。


壁の内側に浮かんだ通路の輪郭が、わずかに深くなる。


その先に何があるのかは見えない。


佐伯がいた地下区域へつながっているのか、所在を確認できない五人のいる場所へ続いているのかも分からなかった。


ただ、佐伯を移行させる経路だけは失われていない。


《移行対象 確定》


表示が切り替わる。


進行線はそこで止まらず、次の欄へ移った。


《整合対象 検索》


画面上に、五つの点が現れる。


どれも動かなかった。


これまで表示されていた、所在不明の調査員たちを示す点と同じものだった。


一つ目の点が明滅する。


《応答なし》


続いて、二つ目の点へ照合が移る。


《応答なし》


同じ表示が繰り返された。


三つ目。


四つ目。


五つ目。


いずれの点からも、処理に必要な情報は返らなかった。


佐伯は記録媒体を持つ手に力を込めた。


五人がどこにいるのかは、今も分からない。


点として残されていても、それが生存を意味するとは限らなかった。


画面上で、五つの点が暗くなる。


《整合対象 該当なし》


進行線が止まった。


低い駆動音だけが通路に残る。


壁の内側にある輪郭は消えていない。佐伯の移行経路も維持されたままだった。


それでも、帰還処理は始まらなかった。


「整合対象が見つからなければ、帰れないんでしょうか」


佐伯が言った。


青年は答えられなかった。


これまで、整合対象には佐伯自身が指定されていた。


佐伯が帰ることを望み、その佐伯が移行し、帰還という結果の照合にも同じ佐伯の情報が使われる。


その条件で、一度は《整合条件 成立》と表示されていた。


だが、青年の要求が受理されたあと、処理はその関係を最初から調べ直している。


青年は自分の足元を見た。


円の中央には、六つ目の点が重なっている。


白い線は、青年の位置を通って佐伯の足元へ続いていた。


青年が指定位置を離れれば、経路は維持できない。


その事実は、再照合が始まってからも変わっていなかった。


記録媒体から、短い音が鳴る。


暗くなっていた五つの点の下に、新しい点が現れた。


六つ目の点だった。


青年の足元にある点と同じ位置で明滅している。


《接続維持対象 六》


《位置情報 一致》


《移行経路 接続中》


佐伯が顔を上げた。


画面と、離れた円に立つ青年を見比べる。


「あなたを調べています」


青年は記録媒体へ視線を戻した。


六つ目の点を囲むように、細い輪郭が現れる。


進行線がその輪郭へ触れた。


《整合対象候補 六》


直後、表示が乱れた。


文字の一部が欠け、六つ目の点がわずかに左右へ揺れる。


一つの位置に固定しようとするたび、別の情報が重なっているように輪郭が崩れた。


《対象識別 不一致》


《起点情報 一致》


二つの表示が交互に現れる。


佐伯が画面へ指を伸ばした。


操作を受け付ける項目は出ていない。


「識別できていません」


青年は円の中に立ったまま、点の揺れを見ていた。


記録媒体は青年を六つ目の対象として認識している。


それにもかかわらず、その情報だけでは一つの対象として確定できない。


理由は示されなかった。


六つ目の点が大きく明滅する。


床の白い線にも、同じ間隔で暗い部分が走った。


壁の内側に浮かんでいた通路が一瞬だけ浅くなり、すぐに元の奥行きを取り戻す。


《移行経路 再確認》


《接続維持対象 六》


《対象間接続 継続》


処理は停止しなかった。


識別の不一致を残したまま、六つ目の点に対する照合が繰り返される。


青年には、何を比較されているのか分からなかった。


名前も、所属も、記録媒体には登録されていない。


この世界で佐伯と出会い、白い線を認識し、ここまで経路を維持してきた。


少なくとも、画面に示されている情報はそれだけだった。


やがて、左右に揺れていた点が中央へ戻る。


欠けていた文字も元の形を取り戻した。


《対象識別 未確定》


《整合対象候補 六》


《照合継続》


進行線が、六つ目の点の手前で止まった。


佐伯の帰還対象は維持されている。


移行経路も失われていない。


ただ、帰還という結果を照合する対象だけが、まだ確定していなかった。


記録媒体は、青年の位置にある六つ目の点を示し続けていた。




処理が中断されたわけではなかった。


六つ目の点を囲む輪郭が明滅するたび、表示の一部が欠け、すぐに元へ戻る。その動きに合わせて、二人の足元を結ぶ白い線にも細かな揺らぎが走っていた。


佐伯は記録媒体を見下ろした。


「識別できないなら、整合対象にはできないんでしょうか」


青年には答えられなかった。


処理は青年を一つの対象として確定できていない。


それでも、候補から外そうともしていなかった。


《対象識別 再照合》


《起点情報 一致》


《位置情報 一致》


《対象間接続 継続》


表示が繰り返される。


名前も所属も示されない。


六つ目の点だけが、青年を識別するための情報として残されている。


佐伯の足元にある円が淡く明滅した。


壁の内側に浮かぶ通路の輪郭は、一定の深さを保っている。帰還経路そのものは失われていなかった。


《帰還対象 佐伯真紀》


《帰還要求 維持》


佐伯の名前は変わっていない。


変わろうとしているのは、それとは別の欄だった。


六つ目の点が大きく明滅する。


表示の輪郭が崩れかけ、再び一つに重なった。


《対象識別 不一致》


《起点情報 一致》


《識別情報を保留》


短い間を置いて、進行線が動き始める。


《整合対象候補 六》


《接続状態を優先》


《整合対象 六》


佐伯が顔を上げた。


青年も画面を見ていた。


かつて佐伯の名前が置かれていた欄に、六という数字が現れている。


《帰還対象 佐伯真紀》


《整合対象 六》


二つの表示が並んでいた。


佐伯が帰還する。


その結果を照合する対象として、青年が選ばれている。


青年がここに残ること自体は、帰還方法が判明したときから分かっていた。


だが、表示には、それとは別に《整合対象》という役割が加えられていた。


佐伯が記録媒体へ指を伸ばした。


「整合対象を変更できますか」


画面が反応する。


《変更権限 なし》


「再照合を中止してください」


《照合結果 確定》


取り消しを受け付ける項目は現れなかった。


佐伯は青年を見る。


「この表示だけでは、何をさせられるのか分かりません」


青年はうなずいた。


《整合対象》という言葉が、ここに残ることだけを意味するのか。


それとも、帰還が成立したあとも、青年を対象とした何らかの処理が続くのか。


判断できる情報は示されていない。


佐伯は問い方を変えた。


「整合対象への処理内容を表示してください」


短い明滅のあと、一行が加わる。


《要求範囲外》


「帰還後も処理は続きますか」


記録媒体は応答しなかった。


同じ表示だけが残っている。


青年は自分の足元を見た。


円の中央に、六つ目の点が固定されている。


身体には何の変化もなかった。


痛みも、寒さもない。


それでも、白い線の明るさは、わずかに青年の側へ偏っていた。


佐伯の視線も、その偏りを追っている。


「このままでは実行できません」


壁の内側にある輪郭がわずかに揺れた。


帰還経路が閉じたわけではない。


佐伯の返答を待っている様子もなかった。


《整合対象 六》


《帰還対象 佐伯真紀》


《最終確認 待機》


「帰還要求を取り消します」


佐伯が言った。


画面に新しい表示が現れる。


《変更要求 受付不可》


佐伯の表情が変わった。


「なぜですか」


《確定後変更 受付不可》


最初に帰還を求めたのは佐伯だった。


だが、その要求はすでに青年の言葉によって維持され、整合対象の再照合まで進んでいる。


いまさら佐伯の意思だけで、確定した処理を戻すことはできなかった。


「あなたなら、止められるかもしれません」


青年は表示を見た。


《要求内容 帰還対象の維持》


青年の言葉を受けて変更された要求は、今も残っている。


青年は答えなかった。


取り消せるとは思っていない。


それでも、佐伯の帰還を取り消したいとは思わなかった。


佐伯をここへ残す。


そう求めれば、処理がもう一度変わる可能性はある。


だが、それは佐伯自身が選んだ帰還を、青年の判断で取り消すことになる。


青年は佐伯を見た。


指定された円は数歩先にある。


それでも、どちらかが指定位置を離れれば経路が失われる。


近づくことはできなかった。


「佐伯は、帰ると決めた」


「決めました。でも、あなたに何が起きるのか分からないまま帰るとは決めていません」


青年は否定しなかった。


処理内容は示されていない。


何も起こらない可能性もある。


ただこの世界に残り、佐伯の帰還を見届けるだけなのかもしれない。


それでも、何も変わらずに終わるとは思えなかった。


理由は分からない。


身体に異常があるわけでも、表示に危険を示す言葉が現れたわけでもない。


それなのに、処理が進むほど、胸の奥にわずかな空白が広がっていく。


佐伯がいた場所だけが、まだ何も起きていないうちから空白になっていくように思えた。


記録媒体から短い音が鳴る。


《最終確認 継続》


《帰還要求 維持》


処理は、何らかの確認を待っている。


だが、誰の、どの言葉を確認として受け取るのかは示されていない。


青年は、並んだ二つの表示を見た。


《帰還対象 佐伯真紀》


《整合対象 六》


帰る者と、その帰還結果の照合に使われる対象。


その二つは、もう同じではない。


青年は顔を上げた。


「君が帰る。それでいい」


佐伯が息を止めた。


青年は、佐伯を安心させるために言ったのではなかった。


自分に何が起きるのかは分からない。


説明できない感覚が何を意味するのかも分からない。


それでも、佐伯の帰還を取り消さないと伝えていた。


佐伯は記録媒体と青年を見比べた。


「それでいい、というのは」


言葉が続かなかった。


青年が経路を維持するために残るだけではない。


帰還が成立したあと、青年に何が起きるのか。


表示から読み取れるのは、佐伯とは別の対象として扱われていることだけだった。


佐伯は記録媒体へ向き直った。


「違います」


声が通路に響く。


「今の言葉を、実行の承認として扱わないでください」


画面はすでに切り替わっていた。


《帰還要求 維持》


《実行条件 成立》


「処理を停止してください」


《停止条件 なし》


壁の内側に浮かぶ通路が、再び奥行きを増し始める。


二人の会話が終わるのを待ってはいない。


青年の言葉は、新しい要求として受理されたのではなかった。


すでに確定していた要求を変えないという、最後の確認として処理されていた。


六つ目の点を囲む輪郭が明るさを増す。


《最終確認 完了》





佐伯は記録媒体から青年へ視線を移した。


「あなたからも、取り消すと伝えてください」


青年は答えなかった。


すでに確定した要求を取り消せないことは分かっている。


それでも、整合対象として選ばれたからといって、佐伯の帰還を覆すつもりはなかった。


「佐伯は帰る」


「この表示を見ても、そう言うんですか」


青年は六つ目の点を見た。


自分に何が起こるのかは示されていない。


ここへ残されるだけなのか。それとも、帰還が成立したあとに別の処理が続くのかも分からなかった。


何も起こらないとは、もう思えない。


それでも、佐伯が帰還対象であることは変わっていなかった。


「そのために、あなたが整合対象になる必要はありません」


「ほかに対象はいない」


「だからといって、受け入れていいことではありません」


佐伯が傷をかばいながら、円の外へ片足を踏み出した。


その瞬間、足元から伸びる白い線が途切れかけた。


壁の内側にある通路の輪郭も浅くなる。


《移行対象 位置不一致》


《移行経路 維持不能》


青年が佐伯を見る。


「そこを離れないで」


「離れれば、止められます」


「帰還もできなくなる」


「このまま進めるよりはいい」


佐伯はもう一歩を踏み出そうとした。


だが、白い線がさらに暗くなったところで足を止めた。


青年は指定された円から動いていない。


佐伯が戻らなければ、帰還経路は失われる。


「戻って」


佐伯は動かなかった。


「まだ、あなたに何が起きるのか分かっていません」


「分からないことは、分かってる」


「それなら、どうして進められるんですか」


青年は否定できなかった。


整合処理の内容は示されていない。


保証されているのは、佐伯が帰還するという結果だけだった。


「それでも、帰ってほしい」


佐伯の表情から、動きが消えた。


青年は、それ以上の言葉を探した。


大丈夫だとは言えない。


また会えるとも約束できない。


自分がここに残るのかさえ、もう確かではなかった。


それでも、佐伯が帰ったあとに残せるものはある。


「帰ったら、この場所で起きたことを伝えて」


佐伯は青年を見たまま答えなかった。


「五人を示す位置情報が、消えずに残っていたことも」


「あなたのことは」


青年はわずかに迷った。


「覚えていて」


佐伯の足が、円の中央へ戻った。


途切れかけていた白い線がつながる。


壁の内側にある通路も、元の深さを取り戻した。


《移行対象 位置再確認》


《移行経路 復旧》


佐伯は記録媒体を持つ手を下ろさなかった。


「それを約束にするつもりですか」


「ほかに頼めることがない」


「あなたが戻る方法を探します」


青年は答えようとした。


だが、その前に画面が切り替わった。


《対象間接続 照合開始》


佐伯が記録媒体へ視線を戻す。


「待ってください。まだ――」


《対象間接続 照合完了》


《移行処理 実行待機》





表示は変わらない。


青年を整合対象として確定し、記録媒体は最後の処理を残して待機している。


佐伯は円の中央に立ち、青年を見ていた。


足元から伸びる白い線は、壁の内側に浮かんだ輪郭へ続いている。青年の位置を通り、二人をつないでいた光にも途切れはない。


実行条件は成立している。


それでも佐伯は、すぐには記録媒体へ視線を戻さなかった。


「本当に、何が起きるのか分からないんですか」


青年は自分の両手を見た。


指を動かす。


腕に触れ、胸元へ手を当てる。


身体のどこにも痛みはない。感覚が欠けた場所もなかった。


「今は、何も」


「今は」


佐伯は、その言葉を繰り返した。


それから記録媒体へ視線を落とした。


画面上の六つ目の点は、青年の位置に固定されたまま動かない。


その下には、移行処理がまだ実行されていないことだけが示されていた。


佐伯は記録媒体から目を離し、再び青年を見る。


二人のあいだにあるのは、数歩の距離だけだった。


手を伸ばしても届かない。


指定位置を離れれば帰還経路が失われる。佐伯も、それを理解しているはずだった。


「まだ、間に合うなら」


「戻らないで」


青年の言葉に、佐伯の動きが止まる。


「でも、あなたに何が起きるか」


青年は記録媒体を見た。


何も起きないと安心させることはできない。処理が終われば元に戻るとも約束できなかった。


「帰って」


佐伯の表情が揺れる。


その言葉が、すでに成立した実行条件を取り消すものではないと、佐伯も理解しているようだった。


それでも青年は、言い換えなかった。


佐伯の帰還を望んだことまで、誤りにするつもりはなかった。


「それでよくありません」


佐伯の声は小さかった。


「何が起きるのかも分からないのに、そんなことを言わないでください」


青年は答えを探した。


だが、佐伯を安心させられる言葉は、もう残っていなかった。


それでも、胸の奥に広がる感覚だけは、先ほどよりもはっきりしていた。


何かが失われようとしている。


何が、とは分からない。


まだそこにあるものを確かめようとするたび、触れる前に形が崩れていくような感覚だけが残る。


記録媒体から短い音が鳴った。


《移行処理 実行》


佐伯が画面へ視線を落とす。


「待ってください」


返答はない。


白い線の明るさも変わらなかった。


壁の向こうに浮かんでいた通路が広がることもなく、風や音がこちらへ流れ込んでくることもない。


処理が始まったことを示しているのは、画面上の一行だけだった。


佐伯は青年へ手を伸ばした。


円の外へ踏み出せば、帰還経路が失われる。


届かない距離を残したまま、その手が止まる。


「覚えていてください」


青年は佐伯を見た。


何を、と尋ねる時間はなかった。


佐伯がこの場所にいたこと。


二人で帰還する方法を探したこと。


そのすべてを指しているように思えた。


「覚えてる」


青年が答えた。


次の言葉を続ける前に、佐伯はいなくなった。


光に包まれたわけではない。


輪郭が薄れたのでも、壁の向こうへ引き込まれたのでもなかった。


そこに立っていた佐伯が、次の瞬間には存在していない。


伸ばされていた手も、記録媒体も、何の痕跡も残していなかった。


同時に、床の白い線が途切れた。


佐伯のいた円が消える。


壁の内側に重なっていた通路の輪郭も失われ、継ぎ目のない壁だけが残った。


床をつないでいた光は青年の足元まで後退し、そこで一度だけ明滅した。


記録媒体は消えている。


それでも文字だけが、その位置に残っていた。画面から切り離され、暗い空間へ直接刻まれたように見えた。


《移行対象 転送完了》


《帰還対象 帰還確認》


佐伯は帰った。


青年がその事実を理解するより先に、表示が切り替わる。


《整合処理 継続》


《対象間接続 継続》


二行は一度だけ現れた。


意味を確かめる間もなく、表示も消える。


通路に暗さが戻った。


青年はその場から動かなかった。


佐伯がいた場所を見る。


壁際の床には、指定位置を示していた円も、白い線も残っていない。足跡も、影も、そこに誰かが立っていたことを示すものはなかった。


青年は息を吸った。


胸はいつもどおり動いた。足元にも、指先にも、失われた感覚はない。


記憶をたどっても、空白は見つからなかった。


それでも、すべてが元のままだとは思えなかった。


理由は分からない。


何かを忘れたわけではない。


身体から何かが欠けたわけでもない。


ただ、確かにそこにあったものが、自分の知らない場所へ遠ざかっていくような感覚が残っていた。


青年は、表示が消えた場所を見つめた。


佐伯が立っていたときには口にできなかった息が、ゆっくりと漏れる。


肩から力が抜ける。


胸の奥に生じた揺れを押さえるように、青年は一度だけ目を閉じた。


帰らせなければよかったとは思わなかった。


何が起きたのかは、まだ分からない。


胸に残る感覚が、これから起きることの前触れなのか。すでに起きた変化の痕跡なのか。


確かめる方法はなかった。


ただ、佐伯が帰ったことだけは分かる。


それを確かめるものは、青年の記憶以外には何も残されていなかった。


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