第26話 操魔士が治める地
魔獣の低く唸る声が、森の奥から微かに響いていた。
木々の隙間から覗くのは、仄暗い影に覆われた巨大な山──竜種が棲まうとされる“竜哭の禁山”。
ここはラトーダ領。
帝国北部に位置し、魔獣が蠢くラトーダの森を湛える、操魔士の名門であるグランジェット家が治める地。
そして──
ここは、人間だった頃のリックの故郷でもあった。
領の中心に聳える屋敷の一室。
重厚な机に向かい、俯いたまま動かない男がいた。
ガイアス・グランジェット。
ラトーダ辺境伯領を治める領主であり、帝国屈指の操魔士。
だが今の彼は、かつての威厳を失っていた。
「……リック……」
ガイアスの口から掠れた声が漏れる。
大切な息子を失って数ヶ月──その傷は癒えるどころか、日に日に深まっていた。
妻オリビアも心身を壊し、床に伏せる日々が続いている。
ガイアス自身も、領主としての責任感だけで辛うじて立っている状態だった。
──あの日のことを、忘れた日は一度もない。
リックが姿を消した朝。
屋敷は突然の騒ぎに包まれた。
使用人から近隣の街の者まで、総出で捜索にあたった。
降りしきる雨の中、皆が必死にリックの名を呼び回った。
言いようのない嫌な予感が胸を締めつける。
そんな不安を胸に抱え、父ガイアスと兄レオンはラトーダの森を抜け、竜哭の禁山へ向かった。
「胸騒ぎがする……
レオン、急ぐぞ……!」
「はい……!父さん!」
木々を掻き分け進んだ先──
そこには、倒されたレッサードラゴンの死骸が転がっていた。
「……これは……」
激しい戦闘の跡。
その痕跡はレッサードラゴンと相対した者が一人ではない事を告げている。
操魔士である二人には、すぐに異常さが分かった。
「これは……
操魔士の……リックとクラウの戦闘痕だ……!」
「……はい!」
ガイアスとレオンの背筋を冷えた何かがなぞる。
二人の胸は激しく脈打ち、不安と焦燥感に襲われた。
そして──
二人が目を凝らすと、その先に“黒い外套の小柄な人影”があった。
フードを深く被り、地に伏して何かを漁っている。
「何者だ……!」
ガイアスが叫ぶと、人影はゆっくり振り返った。
木々の隙間を縫って月光が照らす。
その口元には、黒く濁った血と泥がこびりついていた。
「貴様……!!」
ガイアスとレオンが駆け寄ろうとした瞬間、人影は口角を不気味に上げ、木々の隙間をすり抜けるように消え去った。
「逃したか……」
追う間もなく、その姿は完全に消えていた。
ガイアスはふと視線を落とす──
彼は足元を見て、その信じられない光景に息を呑んだ。
「……っ……」
レオンも、目に映る光景を理解できず立ち竦んだ。
そこには──
四肢を失い、頭部と腹を食い荒らされた“無惨な亡骸”があった。
リックだったもの。
そして、その隣にはクラウの亡骸も寄り添うように倒れていた。
「リック……!?
な、なぜこんな……ああ……
ぐっ……ぅ……う、うおおおおおおおお!!」
「……リッ……ク……
そ、そんな……ぐぅ……ぅぅ……」
ガイアスは崩れ落ち、泥まみれの亡骸を抱きしめて泣き叫んだ。
その父の横で、レオンも涙を流し、噛み締める唇には血が滲んでいた。
その時の記憶が、今もガイアスの胸を潰れそうなほどに締めつける。
状況から見て、リックを殺したのは魔獣で間違いない。
しかし、あの黒い人影はなんだったのか。
そして、あの口元の血は──
あの人影は、間違いなく大切な息子の尊厳を踏みにじっていた。
それは、到底許されることではない。
ガイアスは激しい怒りを静かに燃やし、密かに調査を続けていた。
そんな折──
部屋の扉がノックされた。
「父さん。少しよろしいでしょうか。」
レオンが少し疲れた表情を浮かべ入ってきた。
彼もまた、あの出来事から立ち直れずにいる。
弟を守れなかった自責の念──
そんな胸の痛みを、父の手伝いに躍起になることで紛らわせていた。
「顔色が優れんな。無理はするなよ。
それで、何かあったのか、レオン?」
「ええ。お気遣いありがとうございます。
先ほど、デュランダール公爵から……
操魔士の指導をお願いしたいとの申し出がありました。」
ガイアスは目を見開いた。
「ダルタディオ様が……?」
「はい……
どうも“最弱”と噂されていた勇者キリアが、公爵家の養子となるようです。
そのため、彼女に操魔士の基礎を教えてほしいとのことです。」
レオンは少し戸惑いながら言った。
ガイアスも眉を寄せる。
「本来反発するはずの操魔ギフトと勇者特性……
突然、それを使いこなすようになった勇者、か……」
しばし沈黙が落ちた。
そして──
ガイアスは静かに頷いた。
「分かった。その申し出、受けよう。」
「承知しました。すぐに返答を送ります。」
レオンは深く頭を下げ、部屋を出ていった。
ガイアスは静かに立ち上がり、窓の外を見つめる。
ラトーダの森の向こう──
竜哭の禁山が、薄闇の中にそびえていた。
「なあ、リック。
お前がいなくなっても、世界は変わらず動き続けているよ。
だが、私は……
あの日……お前を失った、あの時のままだ……」
ガイアスは瞳を揺らし、静かに俯く。
「お前の声が、頭から離れない……
くっ、ぅ……会いたいよ……リック。」
その声は、深い悲しみと、無慈悲に続く未来への喪失感に震えていた。
その悲しみを哀れむように、運命は静かに動き始める。
魔獣となったリックと、人間だった頃の家族。
神の悪戯のようなその邂逅は、もうすぐそこまで迫っていた。




