第16話 公爵家の使者
整えられた口髭を湛え、眉間に皺を刻み静かに馬車に揺られる男──
デュランダール公爵家執事筆頭であるセルドリク・カーマインは、その揺れを身体に感じながら深い溜息を吐いた。
ダルタディオ公爵の命は絶対だ。
だが、今回ばかりは使者としての役目を全うできるかどうか、不安の色を滲ませていた。
『──勇者を呼び寄せよ』
そのたった一言は重く、セルドリクは胸の奥を騒つかせていた。
胸の内に沸く不満にも似た思いが思わず口をつく。
「どうしたものか……
噂通りであれば……アレク様の非は自明の理……
しかも、相手がかの勇者とは……」
世界にたった五人の選ばれし“勇者”。
最弱と蔑まれていたとはいえ、魔王を討つべく転生神の加護を受けた者だ。
「このような不躾な召見など……
まともに受け入れられるとは思えぬ……。」
そう呟き、セルドリクは深い溜息を漏らした。
さらにもう一つ、噂が真実ならあの剣帝アレクを打ち倒した相手。
あのような振る舞いの男でも、その実力だけは紛れもなく本物だ。
セルドリク自身も剣聖のギフトを授かっている。
剣帝には及ばずとも、そのギフトを駆使し、かつてはAクラス冒険者として名を馳せた身だ。
それでも、アレクを打ちのめした相手に勝てる道理は一切見当たらない。
護衛として同行しているのは、デュランダール公爵家が誇る精鋭の私兵たち。
だが彼らがいたとて、“力に目覚めた勇者”を敵に回すなど正気の沙汰ではない。
主の命と未だ見ぬ勇者に思いを馳せ、頭を抱えていたその時だった。
「ッ!?……止まれ!!」
御者の叫びと共に、馬車が急停止した。
馬たちが耳をつんざく悲鳴を上げ、その前脚を高く持ち上げる。
「どうしたのだ……!?」
セルドリクが身を乗り出すと、視界に飛び込んできたのは、鋭い角を持つ灰色の魔獣たち。
近場を数えるだけでも、10体はいる。
「スピアラビットの群れか……!」
Bクラス魔獣“スピアラビット”。
数体なら対処可能だが、十数体の群れとなれば話は別だ。
その鋭い角は軽鎧であれば軽く貫き、頑丈な牙は獲物の骨を噛み砕く。
「全員……構えろ!!」
護衛たちが盾を構え、剣を抜く。
外へ出たセルドリクも、腰の剣を引き抜き低く構えた。
その手は、久しく忘れていた感触を、冷えた汗と共に思い出す。
「この数では……!」
「く、くそっ!……なんでこんなに……!」
「とにかく、セルドリク様をお護りしろ!」
「陣形を崩すな!盾を重ねて応戦しろ!」
次々と弾幕のように襲いかかるスピアラビット。
盾を弾き、馬車の車輪を破壊しようと角を突き立てる。
弾かれた角は地を抉り、土を激しく跳ね上げた。
「皆、堪えるのだ!」
セルドリクも俊剛併せ持つ華麗な剣技で応戦するが、数の暴力は徐々に彼らを追い詰める。
少し、また少しと後退を余儀なくされていた。
カルシオーネの街まではまだ距離がある。
ここで馬車を壊されては途方に暮れてしまう。
その時だった。
「──ッ!!」
真紅の閃光が、戦場を切り裂いた。
その後を追うように、遅れて風が吹き抜ける。
「な……!?」
セルドリクが目を見開く。
草原を颯爽と駆け抜ける影。
その中心には、真紅の瞳を輝かせた少女の姿があった。
そして、その傍らには──
猛々しく駆けるサーベルキャット。
「リック、そっちはお願い!」
少女が軽やかに跳躍し、真紅の魔爪を纏いスピアラビットを斬り伏せていく。
その動きはしなやかで無駄がなく、まるで戦場を舞い踊る戦姫のようだ。
そして従魔のサーベルキャットもまた、牙と爪を巧みに使い、撃ち漏らしを確実に仕留めていく。
「な、なんという……!」
セルドリクはその姿に息を呑む。
「な、なんだあの動き……?」
「人間にあんな動き……できるのか?」
「あの魔獣も、すごいな……」
護衛たちもまた、その圧倒的な技量と連携を前に、気づけば視線を支配されていた。
そのまま、少女は息一つ乱さず最後の一体を斬り伏せる。
「これで最後かな?
──リックは終わった?」
少女は周囲を見回しながら問いかける。
「ガウッ!」
──もちろん!──
リックは当然と言わんばかりに答えた。
少女は軽やかな足取りで、セルドリクの元へ駆け寄ってきた。
目前にふわりと立ち、澄んだ声を響かせる。
その声は、張り詰めた戦場の余韻を優しく洗い流すようだった。
「ケガはなかった?」
少女は心配そうに、セルドリクの顔を覗いている。
その瞳は、いつの間にか優しい淡紅の輝きになっていた。
先ほどまでの勇ましい戦いぶりとは裏腹に、その佇まいはどこか柔らかく、まだあどけなさを残す可愛らしい少女。
その隣には、誇らしげに胸を張る従魔の姿もあった。
「え、ええ……。
あなたのおかげで、皆無事です。」
短く答えるセルドリクだったが、あまりの出来事に言葉が続かず立ち尽くす。
少女は花のようにふわりと微笑み、リックと呼ぶ従魔の頭を軽く撫でた。
「よかった!
じゃあ、僕は行くね。道中気をつけて!」
そう言い残し、少女と魔獣は颯爽と草原を駆けていった。
名を聞く間もなく──真紅の残滓が軌跡を描き、草原の風に溶けて消えた。
セルドリクは、呆然とその背を見つめる。
「真紅の魔力……
魔獣を連れた……少女……
──……っ!!」
彼は、はっと息を呑んだ。
脳裏に民衆の噂がよぎる。
「まさか……
あの少女が……!」
気づいた時には遅かった。
少女の姿はもうどこにもない。
「あれが……覚醒した勇者の力……。」
セルドリクは小さく呟いた。
彼は急いで馬車の修理を指示する。
すぐさま体勢を整えると、カルシオーネの街へ向けて馬車を走らせた。
その胸は、勇者と思しき少女への畏敬と、主人の命との狭間で揺れ動いていた。




