第3夜「滅びの夜(3)」
俺は目の前の女の顔と、自分に差し伸べられた手と交互に凝視する。
「ど、どうして俺の名前を?」
「・・・」
ルテナは答えない。彼女は静かに口を閉ざしたまま、その黒い服の胸元にある、首からかけた銀の月のペンダントを見つめていた。
「お前は、一体・・・」
「・・・ふふ、そんなこと、どうでもいいでしょ? ほらっ、はやく私の手を取りなさい。そうすれば力を刻めるから。ほらはやく。」
「・・・」
俺が固唾を飲んで戸惑っていると、ルテナは大きく手を伸ばし、畳み掛けるように催促する。
自信に満ちた表情、謎めいた美しい笑み。あぁ、何というか、何もかもが怪しい。
「もしかして怖いの? 腰抜け?」
「───っ、あぁ、分かったよ! もう何でもいい! とにかく俺に力を寄越せ!」
その時、俺は慌てながら立ち上がり、差し伸べられた女の手を取った。そんな乱雑な挙動を、ルテナは青紫の瞳で静かに見つめるだけ。悔しいが、見透かされた気分だ。
「ふふ、その覚悟、私が見届けてあげるわ。」
「───っ!?」
その瞬間、俺の手はルテナに強く握り返された。その手は確かに柔らかく、温かく、そして熱かった。
(あっ、熱い! 何だっ、これ。何か、何かが、俺に、俺の中に伝って、流れ込んできて。)
触れ合った手から流れ込んでくる熱。熱い、とても熱い力が女の手から俺の中に入り込み、混ざり合い、絡み合い、刻まれてゆく。
そして俺は痛む腕を押さえつけながら、冷たい床に倒れ込む。
呼吸が乱れる。鼓動が荒れる。全身が、俺の中を流れる血が、熱い。
そんな俺の悶える姿をルテナは心配する様子もなく、ただ面白そうに眺めていた。
「ぐっ、体がっ、あ、熱いっ。お前、俺に、何をっ。」
「それが馴染むのには時間がかかるけど、どうやらそんな暇はないみたい。ふふ、それじゃあ頑張ってね。私は遠くで見ているから。」
「なっ、どこに・・・」
「今夜私が求めるのはただ一つ。その手で示しなさい。貴方の力を、その覚悟を。」
そして女は微笑みながら夜の闇に消えてゆく。俺はその姿を止めることも追うこともできない。ただ体が思うように動かない。
くそ、あの女、俺に、俺の体に、何をしやがった。
俺は苦しみながら立ち上がると、熱を帯びた右腕には、黒い紋様が刻まれていた。
だめだ、何も分からない。この不可思議な紋様も、あの女の去り際の言葉の意味も、そこに含まれた不敵な笑みも。
とりあえず、今は少しでも悩む時間が・・・
「おいっ、ガキ!」
「!?」
その時、見覚えのある兵士の男が声を荒げながら迫ってくる。その手には松明と剣。最悪のタイミングだ。
「どうやら女の奴隷が一人逃げたんでな、急遽代わりを・・・なっ、お前っ、何してっ!」
「あっ、これはっ、俺じゃあ・・・」
兵士の男は明かりを投げ捨て、咄嗟に剣を構えて俺を睨みつける。それは壊れた檻を見て、いや、正確には頭部から股までを真っ二つに切断され、血と内臓を撒き散らしている見張り役の部下を見ての反応だ。
「・・・いやっ、どう見ても俺か。なるほど、こういう事か、あの魔女め。」
俺は身に覚えのない疑いをかけられて、弁明の一つでも考えようとしたが、すぐに諦める。もちろん見張り殺しはルテナによる犯行で、俺は一切の無実ではあるが、当の本人は姿を眩まし、現場には檻にぶち込まれていたはずのクソガキのみ。
この状況、誰がどう見ても怪しいのは俺だ。そして、おそらく逃げ出した奴隷というのもルテナのことだろう。
つまり、あの女はこの短時間に作り上げた全ての責任を俺に投げたのだ。それがあの言葉と不自然な笑みの正体。
まったく、なんて身勝手な女なんだ。
「何をブツブツ言ってんだっ、このっ───」
「っ。」
どうやら少し、心の声が漏れていたらしい。目の前の兵士が憤慨している。まぁ、どうでもいいことだが。俺はその様子を冷静に観察しながら、自然な動作で死体から遺品を拾い上げ、その剣を前に構えた。
「・・・おい、正気か、この俺に、帝国兵士に、剣を向けるなんて。」
「あぁ、覚悟の上だ。」
「そうかよ。ふっ、ならお前を奴隷にするのはやめだ。奴隷解放、牢屋破壊、無断脱走、見張り殺し、そして、帝国兵士たる俺に剣を向けた。帝都で裁くまでもねぇ。お前は死刑だっ!」
「───っ!」
その瞬間、兵士の男は剣を振り上げ、地面を強く踏み込んだ。学生同士の剣闘とは比べ物にならない。人を確実に殺すための一振り。
あぁ、この感覚、久しく忘れていたな。懐かしいような、待ち望んでいたような、そんな。
「っ、なんだっ、結構動けるじゃねえか!?」
「───くそ。」
そして俺は男の凶器を正面から剣で受け止めた。瞬間、重なる剣の間には火花が散り、甲高い音が鳴る。握る手からは強い衝撃が走り、身体中の肉に、骨に響く。
それから男の猛攻は激しさを増して続く。大胆で乱雑な太刀筋、こちらも慣れない借り物の剣で捌く。目では追えるが、くそっ、体の方が。
あの女に刻まれた右腕の印。これが俺の感覚を蝕むように阻害して、思うように腕に力を入れられない。 何が全てを変える力だ。こんなもの、ただ熱くて、痛くて、まるで魔女の呪いだ。
「だがなっ、ほらっ、力が弱いなぁ!」
「───ぐっ!」
「そんな弱々しい剣じゃ、俺は崩せねぇぞ、」
「・・・腐っても、帝国兵士、か。」
「あ?」
「正直みくびってたよ。こんな廃れた旧王都に左遷された奴なんか、雑魚同然だってな。」
「・・・殺す!」
「───ふ。」
「なっ!?」
その時、兵士の男は怒りのままに剣を大きく払ったが、俺はその軌跡をじっと眺めながら、目と鼻の先で躱す。
剣の戦いとは単純明快に見えて、その中身は複雑なもの。剣の技量は言わずもがな、間合いの取り方、太刀筋の読み合い、足の運び方、緩急の付け方。そして何より大切なのは、その全てを軽く凌駕するような、強い感情。
この男の場合、個人的なプライドによる怒りは出しつつも、それと同時に兵士としての冷静さもあり、それらが見事に混ざり合いながら、こちらの剣にも伝わってくる。
まぁ、悪くはないが良くもない。王宮の師匠が生きていたら、鼻で笑っていただろうな。
「くっ、テメェっ、何をした!?」
「別に。やっと、慣れてきた。」
俺は淡々と剣を交えつつ、男の剣を全て避けながら、次の動作を誘導し、正確に受け流す。
剣を振るうごとに、力を刻まれた腕の熱が全身に巡っていく。体が軽い。相手の動きが止まって見える。なんだか調子が良い気がする。
「くっ、どうして───」
「どうして当たらないかって?」
「───っ!?」
「それはな。俺の方が強いからだよ。」
「ガキが!」
「ふっ、遅い、」
男が放った回し蹴りを腕で受け止めつつ、続けて死角から振りかざされた剣すら見切って避ける。そのまま男を横から蹴り飛ばし地面に転ばす。
もうこいつには状況を打破する力も、俺を翻弄する動きもない。ここから先、あとは作業に近いな。
こういう場合、追い詰められた敵が取る選択は・・・
「・・・くっ、テメェ、ただの学生じゃねぇな! お前、お前一体、何者だっ!?」
「俺か、俺は───っ!?」
「ハハッ、馬鹿がっ! 隙だらけ───」
その時、兵士の男は地面から拾ったであろう砂を俺の顔に投げつけて、勢いよく飛び出した。
距離が離されたのを利用して、こちらに余裕ができた隙に会話を持ちかけ、このタイミングでの単純な目潰し。一瞬の判断と隙が生死を分ける戦い。視界を奪うのは最も古典的で有効な手段だ。
もちろん無駄な抵抗だが。
「ふっ、隙だらけ、だな。」
「───ぐぼっ!?」
俺は兵士の男の渾身の特攻を自然と避けて、その隙だらけの後頭部に剣を叩きつけた。たとえ一時的に視覚を失っても、即座に慌てる必要はない。鍛えられた耳も鼻も無事だ。あとは研ぎ澄まされた感覚さえあれば、一兵士のお粗末な剣など、難なく避けられる。
「くそっ、まさか、この、俺が。このっ、俺が!?」
「・・・」
どうやら実戦が久しぶりすぎて、力加減を間違えたらしい。人間の頭部は硬いとはいえ、切り損ねた。兵士の男は穴という穴から血を吐き出しながら、まだ生きている。
「まっ、待ってくれ! 投獄して悪かった! 奴隷解放も、衛兵殺しも見逃す。だから、い、命だけはっ!?」
「・・・」
俺は地面に伏す男に剣を振り下ろそうとしたが、実に演技力の高い命乞いを受けて、動きを止める。
それを若い学生ゆえの甘さだと考えたのか、男は下卑た笑みを浮かべながら、その懐に隠してあった短刀を取り出し、最後の力で立ち上がる。
「はっ、ありがとよっ!」
「───っ。」
「あ。」
だから俺はその刃を剣で弾いて、綺麗に破壊した。その瞬間、兵士の男の顔は真っ青に、その目の前にはすでに振り下ろされた剣が。
「───死ね。」
そして俺はルテナの言葉を思い出しつつ、絶望に浸る兵士の男をその顔面から容赦なく切り裂いた。あの女のように真っ二つとはいかなかったが、それでも男の上半身は鋭い刃に深々と切り刻まれ、その中に内包していた臓物を血飛沫と共に撒き散らした。
俺は大量の返り血を浴びながら、その死体を静かに見下ろす。この手に残るのは懐かしい感触、頭によぎるのは、あの日の炎の宮殿、忌々しい過去。
血に染まった剣を握る幼き俺の目の前で、血を吐きながら倒れる姉。
それでも俺を最後まで抱きしめてくれた、あの温もり。
(そうだった、確かあの時も、こんな感覚だったな。)
またしても同族の命を狩ったことに、大した感情は湧かないが、俺は血のついた剣を乱暴に放り投げた。 そして何事もなかったように、その場から立ち去る。
(他の兵士に見つかっては面倒だ。その前に逃げないと。今日は特に疲れた。はやく帰って寝たい。あの女は一体。)
淡白な感情とは対照的に、頭の中は考え事で溢れかえっている。
しかし今夜、俺の中で確かな覚悟として定まった決意はただ一つ。
俺はこの手で、この国を滅ぼす。
それが俺の使命でもあり、あの女に誓った覚悟でもあり、あの日の姉に対する贖罪でもあるのだから。




