第38話 余韻の夜
敵の残党は、もはや戦う気力を失っていた。
血と汗にまみれた顔を互いに見合わせ、誰からともなく後ずさる。鉄パイプを取り落とし、チェーンを引きずったまま振り返り、蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。
砂利を蹴る足音が四方に散り、鉄骨に反響して夜の空気を震わせた。恐怖に裏返った声が遠ざかり、やがて闇に吸い込まれていく。残ったのは、血と油と埃の匂いだけだった。
ジンキは肩で息をしながら、腕に突き刺さったままのナイフを見下ろす。刃の周りからじわじわと血が溢れ、ぽたぽたと砂利を濡らした。赤黒い染みが広がり、月光に鈍く光る。
「女!」
怒声が工事現場に響き渡る。
「そこのクズ連れて、とっとと失せろ!」
びくりと肩を震わせたひとみが、恐る恐る顔を上げる。
ジンキの視線は鋭く、冷えた刃物のように突き刺さった。
ジンキは低く吐き捨てる。
「二度とゴウキに近づくんじゃねぇ」
ひとみの唇が小さく震える。
反論の言葉は出ない。ただ、泣き腫らした瞳を伏せ、小さく頷いた。彼女は崩れ落ちたドライブの腕を取る。重たい体を引きずるようにしながら、ふらつく足で奥へと消えていく。
月光に照らされた背中は小さく、頼りなく揺れていた。その影が鉄骨の向こうに飲み込まれると、戦場には一層深い静寂が訪れた。
「……逃げたか」
香田が短く呟き、構えていた拳を解いた。指の関節から血がにじみ、乾いた音を立てて握りしめ直す。
マッスルは大きく息を吐き、豪腕で首筋を拭う。
「ったく……最後まで気の抜けねぇ相手だったぜ。ジンキ、お前ほんと無茶しやがる」
笑い混じりの声だったが、その瞳には心底の安堵が宿っていた。
ガリバーは無言のまま、ゆっくりと周囲を見渡す。角材や鉄パイプが散乱した地面を確認し、逃げ去った残党の気配が完全に消えたのを確かめると、静かに首を振った。
その背後で、コウスケがまだ震える膝を押さえて立ち尽くしている。顔には青ざめた疲労と、それでも消えない興奮が混じっていた。
「……終わった、のか」
誰にともなく呟いた声は、夜風にさらわれていった。
壁にもたれたゴウキが、ふらつきながらも立ち上がる。血に染まった学ランが肩に張り付き、全身がまだ重たそうに揺れていた。
「ジンキ……助かった」
ジンキは口角を吊り上げ、不敵な笑みを浮かべた。
「座ってろって言ったろ。片はついた」
二人の視線が交わる。互いの疲労と傷を知っているからこそ、言葉は要らなかった。そこにあったのは、信頼と誇り、そして戦友としての絆だった。
仲間たちの息遣いだけが響く工事現場。
折れた鉄骨が影を伸ばし、ブルーシートが夜風に揺れる。血の匂いがまだ濃く漂っているのに、不思議と場の空気は澄んでいた。
マッスルが肩を鳴らし、口の端を吊り上げる。
「おいジンキ、刺さったままのそれ……大丈夫かよ?」
心配と茶化しの入り混じった声に、ジンキは鼻で笑った。
「へっ、これくらい大丈夫だ」
血で濡れた袖を握り直しながら、ジンキは夜空を仰いだ。月光が彼の横顔を照らし、鋭い影を落とす。
静けさが戻った工事現場。
敗者が去り、勝者が残る。
その場にいる全員が、この夜を忘れられないものとして刻み込んでいた。




