第37話 女の涙、男の怒り
ドライブの頬を走る裂傷から、赤黒い血がつうっと首筋を伝って落ちていく。息は荒く、鉄骨の迷路に反響し、濡れた砂利を小刻みに揺らした。
押されている――誰の目にも明らかだった。ジンキの連撃は速く、正確で、迷いがない。打ち込まれるたびにボディに重たい音が響き、その余韻が遅れて場を支配する。ドライブの肩が揺れ、拳が空を切る。周囲を取り巻く怒号さえも、次第に細り始めていた。
そのとき、震える声が夜を裂いた。
「もう、やめて――!」
ひとみだった。
細い足で二人の間に立ちはだかる。涙に濡れた頬を月光が照らし、光の筋が白く冷たく輝いた。肩は小刻みに震え、吹き込む風にさえ怯えるようだ。
ジンキは拳を半ばまで上げたまま、動きを止めた。
「女に守られるか……終わりだな、ドライブ」
乾いた吐き捨て。拳をゆっくり下ろす。その関節には固まった血が白くひび割れ、戦いの痕を刻んでいた。
空気が、わずかに緩んだ。
その刹那、光が走る。
「――ッ!」
咄嗟に左腕を差し出す。冷たい刃が肉を割き、骨に鈍い音を立ててぶつかる。
熱が遅れて走り、袖口から真っ黒な液体が溢れる。滴が砂利に落ち、じゅっと乾いた音を立てた。
「なっ!?」
ジンキの瞳孔がきゅっと縮む。仲間も敵も、同時に息を呑んだ。
ナイフを握っていたのは、ひとみ。
両手が震え、涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだ。
「や、やったわ……朝日くん……!」
その声は喜びとも恐怖ともつかず、ただ上ずっていた。
ドライブの口元がにやりと歪む。
「よくやった。……どいてろ」
乱暴に肩を押され、ひとみはよろめき鉄骨に背をぶつける。指が離れた瞬間も刃はジンキの腕に残り、肉を割ったまま突き刺さっていた。
「ジンキ!」
香田の鋭い声。コウスケは血相を変えて駆け出しそうになり、ガリバーは無言で前に出る。マッスルは奥歯を噛みしめ、拳を強く握った。鉄骨が軋む。
壁際のゴウキが、ふらつきながら立ち上がる。
「ジンキ、待ってろ……俺が、行く――」
足元が揺れ、膝が笑う。それでも一歩を踏み出しかけた瞬間。
「座ってろ、ゴウキ!」
ジンキの怒声が撃ち抜いた。
血に濡れた口元に、凄絶な笑みを浮かべる。
「女にこんなことさせて……男の風上にも置けねぇ。こいつは絶対に許さねぇ」
「フハハ……!」
ドライブの喉奥から濁った笑いが溢れる。
「片腕が使えねぇまま、俺の攻撃を防げるわけがない!」
砂利を蹴り、再び踏み込む。
風が裂け、嵐のような左右の連打が襲う。
ガッ、ガッ、ガンッ――!
ジンキは刺さった左腕を締め、肩と肘で衝撃を殺す。骨が震え、刃が肉の中で軋む。痛みで視界が霞む。だが、崩れない。
横目に映るひとみは鉄骨にもたれ、顔色を失い、ガタガタと震えていた。指先まで血の気が抜け落ち、虚ろな瞳が宙を彷徨う。
「くく……防戦一方か」
ドライブが笑む。さらに一歩、間合いを潰す。拳の影が踊り、空気が唸る。
ジンキは大きくバックステップ。砂利が舞い上がり、月光に白い粉塵が漂った。息が荒い。血を含んだ唾を吐き捨て、目を伏せる。
「……そこの女」
低い声に、ドライブの眉が動く。
「このクズのどこがいいのか知らねぇが」
ジンキの声は低く、しかし芯が通っていた。
「今、目覚まさせてやる」
「黙れ!」
怒号とともに床を割らんばかりの踏み込み。肩が沈み、腰が回転し、右の拳が閃く。続けざまに左。畳みかける最後の一打――。
その瞬間。
ジンキは刺さったままの左腕をひねり、半身を滑らせた。
視界に、ドライブの顎が無防備に開く。
「――ッらぁ!」
乾いた爆ぜる音。
「ぐっ……!」
ドライブの頭が跳ね、血と唾が飛ぶ。驚愕に見開かれた瞳。その顎を撃ち抜いたのは、刃を抱えたままの左腕。そして、体重を乗せた右の断ち上げ。
「刺さってる腕で……!」
周囲が凍り付いた。ドライブの膝が折れる。だが意地で踏み止まる。
ジンキの眉間に炎が宿る。
「……むかつくんだよ」
吐息が熱を帯びる。
「女を利用して……好き勝手してるテメェがよぉ!」
怒りが拳を加速させた。
右、左、ボディ、顔面。打ち出す拳は迷いがなく、重みを増す。ドライブのガードはもはや追い付かない。腕で受けても胸で受けても膝が折れる。鼻梁が裂け、口内の血が泡となり飛んだ。
「やめっ……」
ひとみの声が掠れる。泣き声とも悲鳴ともつかない。
だがジンキは振り向かない。向けるべき相手はただ一人。
「終わりだ――!」
踏み込み。左で胸元を押し上げ、右に全体重を括る。
轟音。
ドライブの身体が鉄骨の壁に叩きつけられ、金属が悲鳴を上げた。梁が揺れ、ライトがぐらぐらと震えた。
遅れて地面に重い音。砂利が跳ね、月光の帯に白い塵が舞う。
静寂。ブルーシートが風で膨らみ、しゅう、と萎む。遠くで工具がころころと転がる。
「……朝日くん?」
ひとみの声。返事はない、体は痙攣し、それきり動かなかった。
「……勝ったのか」
コウスケが呟く。香田は拳を下ろし、マッスルは肩で笑う。ガリバーは一歩前に出て、崩れたドライブを見下ろし、ゆっくり首を振った。
ジンキは刺さったままの刃を見下ろす。血が袖を重く濡らす。
駆け寄ろうとするコウスケを、ガリバーが低く止めた。
「触るな。出血が増える」
壁際のゴウキが立ち上がり、かすれ声で呼ぶ。
「……相棒」
ジンキは片目を細め、わずかに笑った。
「座ってろって言ったろ。……片付いた」
ひとみはその場に崩れ落ち、両手で顔を覆い泣きじゃくる。
香田はちらりと視線を送り、ジンキを見やる。
彼は返さず、冷たい夜気を大きく吸い込んだ。
鉄骨の迷路に、静けさが戻る。
それは勝者が得た静寂。
敗者を沈めた冷たい月の静寂。
ジンキは腕の刃を見下ろし、低く吐き捨てた。
「……女泣かせるような奴に、負けるわけねぇだろ」
夜風が血の匂いを薄めていく。
ただ、双天鬼の名だけが鉄骨に反響し、夜へと溶けていった。
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